激情――後悔は先に立たない
やっとかと思いつつ立ち上がった。長年の鍛錬のおかげか、それとも目の前の相手に負けまいという気概からかふらつかず、自分でも驚くほどにぴんと立ち上がれた。
月は勿論、足の痺れなど全く感じさせず、その立ち方には流麗さすら感じさせる物があった。無粋な面小手胴すら美しく感じさせる。
――身なりで既に負けている
それは分かっていた。これから負けるだろう事も。一真はそれでも上級者と当たった時の為に考えていた策を実行した。
「――はぁッ!!」
一真は竹刀で半円を描くように大きく振りかぶり小手を狙った。竹刀の先がやや左上を向き、右の小手が空く。勿論それは“わざと”作った隙だ。月が狙いやすいように作った。月は微動だにしない。
しかし、竹刀が小手に触れるその瞬間、月は手首を捻り、その攻撃を避けた。次に来るはずの反撃を予想し、それよりも先に打とうと一真は竹刀を大きく振りかぶった。
「――面っ!」
鋭い衝撃が脳天に落ちた。響きのいい音と共に少女の防具が一真の防具とぶつかる。何が起きたのかわからないまま、一真は竹刀を振り上げたまま呆然と月の顔を見た。月は一真から視線をそらすように審判を見た。
「舞香、今のは? 」
「め、面あり」
舞香が月の方に旗を振ってそう知らせ、一真はようやく現実を知った。早すぎて目で追えない。一真が考えていたような上級者を遥かに上回る腕だった。
同年代の者では、いや、恐らくどんな世代の剣道家でも彼女に勝てる者はそうそういないのではないか? 元の位置で竹刀を構えなおす月は汗一つ掻いていない。その事が妙に腹が立った。
「二本目、始めー」
「はっ――面!!」
開幕早々、不意打ちのように打った。だが先程の反撃が頭に浮かんで思う様に動けない。竹刀は月の顔面のすぐ前を通過した。それが最初からわかっていたように月はじっとしていた。即座に攻撃を修正し、一真は突きに転じた。
「突――!!」
月はその攻撃を鎬しのぎの部分で軽く流し、踏み込んできた。
「小手っ!!」
慌てて下がり、一真は小手を引っ込めてどうにかそれを避けたが体捌きが崩れた。面と左小手ががら空きになる。正眼の構えに戻すよりも先に月の打ちが一真を襲う。
「――小手、面!!」
素早くリズムを刻むように打たれた。二つとも有効打突だ。完全敗北。やる前からわかっていたようなものにも関わらず、一真はその事実に短剣で刺されるような衝撃を感じ取っていた。負けた事そのものではなく。
――負けた側は勝った相手の言う事を大人しく聞く
月がほっと胸をなでおろしたような気がした。まるで厄介払いでもするように。重い荷物を放り捨てるように。
心臓で渦巻いていた怒りの炎が喉の奥まで込み上げるような思いで一真はそれを黙ってみた。
「小手あり! 勝負それま……」
「三本勝負だ」
一真の声は驚くほどに低く、落ち着いていた。舞香の肩がびくっと震え、困ったように月を見る。
「どうせ負けは確定している。最後に一本勝負させてくれ」
「それは構わないけど……」
完全なわがままだった。先に二本入れられてなお、勝負しようなど。剣道では相手をいかに負けさせるかよりも、自分の負けを実力の程を認める事が大切とする暗黙の礼儀がある。
一真の発言はそれに反する事だ。いや、それ以前に勝負事の精神からして腐ってると取られるだろう。
しかし、月は黙って頷き、その勝負を受け入れた。
「わかった。何なら気の済むまでやってもいいよ」
「一本でいい」
どうせ負けるのだ。いや、負けない。だからこそ一本で十分だ。月は一真の事を大切には思っているかもしれない。だが、実力では足元にも及ばないと考えている。だから、それを覆してみせる。
「三本目、始め!」
月が目にも止まらぬ早さで小手を打ってきた。一真がそれを受け止めると、竹刀の先が一真の持つ竹刀に絡みついて巻きつくように動き一回転した。危うく、一真は竹刀を取り落としそうになり、体を回す。
「巻き返しか」
一真は呟いた。剣道の技の一つで、相手の竹刀を奪い取る技だが、そこらの素人にできるような物ではない。
一真は月の実力の高さに改めて舌を巻く。だが、月の試みは失敗した。一真はあえて高度な技を仕掛けてきた月の心情が手に取るようにわかった。これ以上痛い思いをさせない為。ここまで舐められると苦い思いすら湧かない。思考は驚くほどに冷えきっていた。
――さあ、次はどう来る? もう、同じ手は使えないぞ。それともわざと負けるか? そんな事は許さない
月の竹刀が動いた。同時に一真も動いた。まるで自分の体ではないかのように力強い。
――突きを入れた。今度は受け流されない、防御を貫く勢いで体ごと突っ込む。
が、ここで一つ狂いが起きた。それは狙い。
竹刀は突きの有効打である喉元ではなくその少し上の面金に突っ込んだ。失敗したと思った時には既に引けない。竹刀の先が吸い込まれるように面金に当たった。
――しまった
一真の頭が恐怖で沸騰しかける。引こうと思った時にはもう遅い。勢いを乗せた体は止まらなかった。竹刀の突きあたった面金がまるで針金のように内側に折れ曲がり、竹刀の中結から先が呑み込まれ突き抜けながら竹の破片が辺りに舞い散る。
鍔止めの部分でその突きはようやく止まった。
二人の顔は面が無ければ唇を合わせられる程に近かった。驚きと恐怖に見開かれた一真の瞳が月の見開かれた瞳の中に溶け込む。
「つ、月!!」
舞香が慌てて駆け寄り二人を引き離した。
「舞香、大丈夫だから!」月は大声でそう言った。宥める為と言うより、彼女自身も気が動転しているように見えた。
幸い竹刀は月の顔を傷つけてはいなかった。最後の瞬間、彼女は自分の竹刀で目一杯、一真の剣先を自分の顔から逸らさせていたからだが、それが出来なければ彼女の白い肌には大きな痣が残ったことだろう。
その事実に一真の顔は震え、衝撃波のように体全体を伝った。これは本当に自分の仕業なのか? そうに違いない。心臓が彼には到底耐えられない打撃で押しつぶされるのを感じた。
「月……」
ごめんと言おうとして、その言葉を飲み込んだ。ごめんで済む事じゃない。見ようによっては今の試合は事故とも取れる。
だが、実際はそうではない。一真は本来なら行われる筈のない三回目の戦いを彼女に強いり、個人的な怒りをぶつけた。その結果だ。
「一真、怖かった」
その一言は、一真の潰れた心臓に突き立った。怖かった……ただ、力になれる事を証明したかっただけなのに。彼女の表情を歪めたのは紛れもなく自分のせいだ。頭の中で彼は自分を責めた。先程の虚栄心は枯れて、どこかに吹き飛んでいた。
月は一真の前で座り、竹刀が刺さったままの面を脱いだ。黒く艶を持った髪が解き放たれて宙で一瞬、舞ってから落ちた。目のすぐ横に竹刀の通った痕が薄らと残っているのを見て、一真は狼狽えた。
「大した事ない。すぐに消えるよ」月はさっきとは対照的に安心させるようにそう言って痕を滑らかな指先で触った。
「俺は、なんてことを……」
言葉が口の中で紡がれたが、何を言うつもりだったのかわからなくなった。傷つけてしまった彼女に視線を送るそのことさえ、許されないような気がして一真は地面に視線を落とした。
「ごめん。俺はお前の力になる事しか、考えてなかった。いや、お前の為になんて、恰好つけたことは言えないな。俺は俺の実力をお前に見せたかっただけだった。実際は何の助けにもならないのに……!! それどころか、俺は――」
感情が喉の奥から込み上げ、彼は咽込んだ。その両肩に月のたおやかな腕が巻きついた。耳元で月の声が優しく響く。
「ありがとう。一真は昔から優しかった。今も全然変わらない」
なんで、こいつは笑っていられるのだろう。黒い髪から漂う仄かな香りに鼻孔を刺激されながら、一真は思う。あんな怪物を相手に戦わなければいけないのに。それとも。
あんな事に自分を巻き込まずに済めたから笑っているのだろうか。もしも、一真が逆の立場だったらそう思うだろう。――しかし。
真っ黒な炎、人の形をした邪悪な物の怪たち。優しさとは無縁の、あの世界で月は戦い続けるのだろう。
一体いつまで?
竹刀の刺さったままの面を視界の端で見据えながら彼は思った。不意にそれが月の体のイメージと重なった。竹刀は物の怪の持つ爪、あるいは牙。
それが月の体を貫く――やめろ、想像するな。
一真は頭の中で命じたが、止まらなかった。物の怪と戦い続ければ、いつか彼女は死ぬという漠然としたヴィジョンがあった。
「しっかし、こんな勝負まで挑むとはさ、一真よー。事実確認の為だけって言ってたのはなんだったんだー? 嘘はいけねーなー」
怪我が無かったことで、緊張の解れたのか舞香がからかう調子で言った。その笑いで一真はようやく我に返った。
「うっさいな」
神社に来た時に陰陽師のする事など無関心だと嘯うそぶいた事を一真は後悔した。
「俺が無関心ではないって事くらいはわかってもいいだろ? 出なければ、わざわざ神社にまで来ない……結局、俺は何の力にもなれそうにない」
「ねぇ、一真……勝ったらお願い聞くって話」
「わかってる。俺はもうお前のすることに首突っ込んだりとかは――」
「また、友達になって」
月の真摯な言葉に、一真は言葉を失った。
昔とまるで変わらない無垢な感情。
分かってる。一真もまた、昔と変わっていない。彼女の頼みを断るなんてことは彼にはできない。
「あぁ。よろしくな?」
二人の幼馴染の間でようやく、穏やかな笑みが生まれた。
「うぅ、良かったなぁ、月ー」
「ちょっ、泣かないで、舞香!!」
「そうだそうだ。お前もついでに友達でいてやるよ」
「むかぁあ!! その上から目線気に食わない!! ついでってなんだよー!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ三人。「友達」とこんなに騒いだのは、いつ以来だろう……そう思った時だった。
突然、月と舞香が固まった。
「あ……」
「やばい」
ふと、廊下の向こうでスッスッスと言う摺り足のような音が聞こえて、一真もまた凍りついた。
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