愚行――剣術対決
この怪訝が一真の顔に書いてあったのか、月はこの質問の裏にある疑問にも答えた。
「一真がいたあの陰の界は物の怪の世界であって、負の気が集まる場所なんだけれども、物の怪の勢力が強くなるとその影響力が表の陽の界――つまりは、私達のいる世界に物の怪や物の怪が起こす怪異が具現するようになってしまうの」
あの恐怖が現実の世界にも運ばれてくる?
消えた筈の冷血な視線が、不吉の権化のようなあの影とそれを照らす暗黒の炎が、一真の脳裏に亡霊のようにとり憑く。
一真はそれを振り払うように頭を振った。あれはそんな単純に邪悪だとか、おぞましい物に分類すべき物ではない。むしろその方が恐ろしい事、冷酷な事ではないか?
そもそも、あの少女がどういう経緯であのような憎しみと悲しみを抱いたのか、一真は具体的に知らないのだからあの少女に邪悪という表現が適切なのかもわからない。
「勿論、普通はそうなる前に、陰陽師が解決するのだけどね。陰陽師の手の行き届かない所も……沢山、あるし」
月の喋りは急に歯切れが悪くなった。顔に影が差しぼんやりとしていた瞳が苦悶で細まる。
舞香が慌てて――いるように一真には見えた――彼女の話を引き継いで言う。
「いわゆる神隠しだとか、妖怪、置物の人形の首が何もしていないのに落っこちるだとか、そーゆー怪異は物の怪の仕業で引き起こされるのが殆どなんだ」
いまいちそれの具体的なイメージがつかず一真は首を傾げた。ピンと張りつめていた背が緩む。テレビでよく見るような神隠し、幽霊、怪奇現象。そう言った類の物は所詮、人の恐怖によって生み出された虚実に過ぎない。そんな感覚が一真の中にある。あったのだが。
「神隠しってのは、物の怪が陽の世界の人間を陰の界に引きずり込む行為で、ホラー番組とかでよくある、何もしてないのに置物が落ちたり壊れたりすんのは、物の怪がこっちの世界に来る予兆みたいなもんだな。もっと具体的な所業となると、体や精神に危害を加えられたりするのだが、それは物の怪が深くこの界に入り浸っている証拠でかなり稀なケースだな。昔流行った口裂け女だとかはこのケースの物の怪だね」
舞香が法螺話や冗談っ気のまるでない、世間話でもするかのように話しているのを見ると人の命は無限ではなくいつか費える時が来るのだと改めて聞かされるようなそんな静かな恐怖がある。
「勿論、そんな事はさせない」
月が再び口を開いた。実際に一真を物の怪の死の手から救い出してくれた少女。その声は清らかで澄んだ黒い目は鬱蒼と茂った森林のようにどこまでも深い。
威厳とも違う言葉には出来ない安心感を与えてくれた。この少女と共にあればどんな事が起きても助かるという根拠のない安心感だ。
「それに一真と一真の周りの世界は私が守って見せる。この思い出の場所を」
そう言うと月はこの十年間のどこかに置き忘れていた無邪気さを思い出したように瞳と口を和らげて笑った。
不意打ちのように向けられたその笑顔に、一真の顔は鬼灯のように橙赤色に燃え上がった。同時にこの笑顔を壊させたくないという激情に駆られる。ふと横を見ると舞香が気持ちの悪い笑顔を浮かべて、口元を袖で覆っている。一真は慌てて、居ずまいを正した。
「俺はどうしたらいいんだ?」
――だから、これを聞いたところで、お前に何が出来るんだ?
心の中の声が再び問いかける。それを振り払うように、一真は月の瞳をじっと見た。
「何も」
月は、またあの落着きはらった静かな口調にいつの間にか戻って言った。
「一真は自分と自分の周りの人の身が危険になったら、そこから逃げ出せばいい。私が助けるから」
「いや、それは分かってるけど……俺はお前の助けになるような事をしたいんだ」
それこそ、何の考えもない無意味で、無責任、無才な人間の言う現実味のない言葉だと一真は言葉に出してから思い後悔した。
――ありがとう、でも何もしなくてもいいよ。あなたは守られる側なんだから
そんな言葉が今にも飛び出してくる気がして、顔をそらし畳の床に視線を逃がした。
「じゃあ、一真も物の怪と戦う?」
意外な一言に一真は頭を上げた。がその誘いは本気ではない。そこにあった表情を見て一真は、思わず息を呑んだ。
黒い瞳にはこの世の千辛万苦、四苦八苦が凝縮されて詰め込まれているようだった。重圧のような沈黙が二人の間の空気で留まる。安易な同情や共感で言葉を撥ね付ける見えない結界がそこにはあった。
「物の怪は身体よりも精神の傷を抉ってくる。心に少しでも付け入る隙があれば、あっという間に憑かれてしまう。そして、精神の根幹まで食い尽くされてしまう……その恐ろしさを一真は知らない」
「知っているさ。覚えてもいる」一真は反発するように返した。月は黙ったまま、その言葉の続きを待った。
「いや、具体的に何があったか覚えているわけじゃない。だけど、お前と一緒に物の怪に立ち向かった。それだけは覚えている……てか、思い出しつつある」
「そのせいで、大変なことになったのに」
「え?」
怪訝に眉を寄せる一真に、月は何でもないというように首を振った。長く艶のある漆黒の髪が動きに合わせて揺れる。
「ともかく、私はあなたの助けは要らない。それよりも話を戻すけど、今この町で怪異を起こしている物の怪には一つ大きな特徴があるの」
「物の怪は既に現実の世界まで出てきてるのか?」
月は小さく顎を引いてうなづいた。
「その物の怪は特定の実体を伴わない煙のような存在で、人間の心の負の領域を突いてくるの」
「自分が一番怖いと思っている物にこの物の怪は変化するんだ」よくわからないという顔をしている一真に舞香が補足するように言った。
「名前みたいなのはないのか? そいつ」
物の怪という呼称だけでは不便なような気がして、一真は聞いた。
「まあ、今の所私達は『影』という呼称で呼んでるけどね」舞香が言った。
「で、俺はそれで、どうしろと? それを一方的に聞かせておいて」
風もないのに部屋の温度が一気に下がった。夜の冷えとも花冷えとも違う。月の表情もまるで変わらず、冷然としていた。それが何故だか自分でも分からないが、一真を苛立たせた。心臓の中で炎が燃え上がっているようだった。燃えれば燃える程心を冷やす怒りの業火。
こんな感覚になったのはこれが初めて……ではない。これまでの人生で何度か感じて来た物だ。初めに感じたのはいつだったか。そう、まだ幼い小学生の頃。大好きだった父親が仕事で何日も家に帰ってこなかった時。帰ってきた時。剣道の稽古を付けてくれる筈だったのに、仕事が再びある日までほったらかしにされた時。仕事の疲労のせいだと、幼いながらにわかっていながらも、どこか父親が自分を避けているような気がしてならなかった。
剣道の稽古の時、怒りは一真の血管を駆け巡り竹刀へと宿った。そんな時はいつもとはまるで違うとてつもない力を発揮出来、普段は勝てないような練習相手を打ち破る事が出来た。
小学生の高学年から中学生に入ると頻繁にそれは嚇灼し、時に爆発した。
友人だと思っていた部活の仲間に嘘をつかれ裏切られた時。
自分よりも年下の後輩に見下された時。
支えて欲しい時に傍に誰もいなかった時。
相談したカウンセラー教師に「それは思春期にはよくある一時的な感情。勉強に集中しさえすればそんな感情はおのずと抑えられる」と独り善がりのアドバイスを受けた時。
高校に入ってからはそれが自分勝手な怒りだと――完全には納得できないが――直すべき欠点だと自分に言い聞かせて、怒りを抑えるように努めた。無理に友人を作ろうとしなかった理由の一つでもある。
一真は恐ろしかった。何か、衝動に任せてとんでもない事を起こすのでは、と。が、今は違う。むしろこの感情に乗っかって自身の限界を見せ付けてやろうという気持ちがあった。
「その事実をただ聞かされて? その化け物どもの影に怯えながら暮らして行けと。そういうわけか? 後は任せろ。強い強いお前が守ってくれるってか?」
「か、一真―! 誰もそんな事は……」
舞香が慌てて諌めるように言い、月の顔をちらっと伺った。月は狼狽える事も無ければ、声を詰まらせることも、まして表情を一ミリたりとも変えることは無かった。
「わかった」
「何?」
「一真、剣道できたよね? 確か。今でも続いてる?」
その問いが何を意味しているのか、一真には一瞬で分かった。アドレナリンが沸騰し、抑えても噴き出るその興奮が彼に囁きかける。
――これこそ、待ち望んでいたチャンスじゃないか? 月に俺自身の力を見せて、認めてもらう絶好の……
その挑戦に舞香は慌てた。畳を踏み抜きかねない程の勢いで立ち上がり、間に立ち、二人の間に留まった緊張の気を払いのけるように手をぶんぶんと鳥の羽ばたきのように振った。
「あのね、一真よ! 言っておくが、月は関西でも有名な示現道場で大人と混じって壮絶な修練を積んだ本物の……戦国や幕末にいるような剣豪と言ってもさしつかえない位の凄腕なんよ!?」
「え?」
冷水を顔にぶっ掛けられたように一真はあんぐり口と目を開いた。示現道場。その発端は、戦国時代にまで遡る。
ふつうの剣道は勿論、古流剣術、居合、
剣道の稽古では、竹刀を三本まとめて百素振りという古流剣術の訓練に基づいた独特の――異常と言ってもいい――鍛錬を行っている。
中学時代にその道場の鍛錬法の噂を聞いた一真は、安直な気持ちでそれを実践しようとしたが、素振りする事二十回目でくたびれ、持っていた竹刀を全部床にぶちまけてしまった。なんの運動もしていない人間だったら、五回ともたないだろう、二十回でもたいしたもんだと、そんな都合のいい事は考えなかった。
百回等、常軌を逸しているとしか思えなかった思い出がある。
「三本勝負」
月の言葉が凍りついた心を穿った。我に返った一真は、一瞬でも怯えた自分自身に腹が立った。相変わらず涼しい月の表情はどこか余裕ある実力者の嘲笑にすら見えてくる。
「いいだろう。受けて立つ」
「先に二本入れた方の勝ち。負けた側は勝った側の言う事を大人しく聞く。それで、いい?」
「あぁ」
一真は言うと同時に立ち上がった。月はその戦意溢れる顔に初めて顔を背けた。
「私は戦いたくないけど」
その言葉は酷く一真の心を揺さぶった。
――一体、どうして俺はこんなに……何に怒っているのだろう? 大人しく月の言うとおりにするべきではないのか?
自分の発した言葉とこれからしようとしている無謀な事を考えると、一真は満足に月の顔を見つめられなくなっていた。
「道場が宿坊の横にあるから。胴着は持ってる? 持ってなかったら……」
「ある。今日は部活だったからな」
燐光の費えた鬼火のように、一真の口調は勢いを失くしていた。止めるべきかどうかと悩む舞香の肩を後ろで立ち上がった月が掴んだ。
「大丈夫だから。審判できる?」
小柄な巫女は最後まで止めるべきかと悩んだが、結局は折れた。諦めを溜息にしてその空気に向かって吐き出す。
「いいよー。だけどどうなっても知らないよ。私は」
口を尖らせる舞香に月は儚い微笑みで返した。その光景に一真は戸惑いを感じた。確かに実力では雲泥の差がある。まあ、少なくとも月が話通りの猛者ならば。たかがと言ってしまうと、戦いを受けて立った身として情けないが、剣道の試合だ。余程の事がない限りは大怪我等負わない筈。
「確認するが」なるべく怯えは出さないように悟られないよう、一真は聞いた。
「得物は竹刀。私は陰陽師としての力は一切使わない。生の力のみで真っ向勝負。一真が心配しているような事はしない」
ホッと安堵すべきなのだろうか。手心を加えられているという事実に一真は、ぐっと拳を握った。万に一つ勝てたとしても、彼女にはまだ、届かない。そこまで考えて一真は奇妙な気持ちになった。深くは踏み入るまいと先刻まで考えていたのが、嘘のようではないか。
三人は宿坊の隣にある小さな道場へと向かった。一本の廊下を渡ったすぐ向こう、神社の丁度裏側に当たる。戦っている最中に神主や他の人に気付かれないかと一真は危惧したが、元々この時間帯は月の独自の稽古時間との事で、多少騒いでも誰も来はしないという。
学校に備えられている物よりも小さな更衣室で未だ汗の匂いの張り付いた胴着に着替え、借りた面小手胴を手際よく付けていく。
学校での先輩達との打ち合いで出来た打身とたこの出来た指が小手を通した時に傷みの悲鳴をあげた。これでは竹刀を満足に振るえるかも怪しい。
一真はその事に顔をしかめた。全く俺は何をしているのだろう。
それから彼は長い溜息をつき、手術台にでも向うかのような気持ちで更衣室を後にする。
道場に一礼してから、日の差し込む窓際とは逆の入り口側の端にすっと流れ込むように座った。その足さばきと身のこなしは一目で武道経験者と分かるものだが、だからどうしたと一真は思う。そんな物は一度身で覚えてしまえば誰にでも出来る。重要なのはその先だ。相手を打てるかどうか。勝つか負けるか。
相手に見下されぬよう、竹刀の振り方を一から教えてくれた先生の前では特にだが、一真は少しでも上手くなろうと必死に練習を続けてきた。
どれ程練習しても未来や先輩に届きはしないという恐れと戦いながら。時にはその恐れの感情をも糧に変えて打ちかかった事がある。
稽古前に稽古者達が礼を捧げる神棚には一枚の掛け軸があった。あみだのような図に臨兵闘者 皆陳列在前の文字がそれぞれの線の先に書かれており、その横に奇妙な恰好の手の形が描かれていた。
陰陽師が切る九字護身法だ。これを覚えれば自分でも物の怪と戦えるだろうか? そんな安直な事を思う一真の心を暗いもう一つの影が水を差す。
――見よう見まねで出来るなら、今まで苦労することなどなかっただろうに
肉刺まめの上に肉刺の出来た拳が竹刀を砕きかねない程の強さでその刀身を握った。あまり握り続けていると本当に折れかねない。仕方なく一真は茶色いその哀れな相棒を床に置いた。
竹刀は学校の授業で使われるような緑色のカーボン製ではなく、本当の竹を使った物だ。カーボン製と比べて折れやすい。
一真の竹刀は長い間酷使しすぎたせいか、あちらこちらに傷やへこみが目立つ。そろそろ買い替え時だろうと何度も思ったがしなかった。両親に言えばそれだけの金は出してもらえる。これは聞いてみるまでもなく、わかる。父も母もあまり家にいない事を気にかけてか、金銭面においてはかなり甘い所があるからだ。
その事が余計に一真の心を苛立たせた。ただただ機械的に渡される紙屑を破り捨てたい衝動と何度と戦ったことか。更衣室の木造りの扉が音もなく静かに開いた。中から現れた月は髪を頭の天辺まで結い上げて手拭で覆っていた。
その身には雪のように白く汚れ一つない道着と袴を折り目も崩さずに穿いている。その身なりが狩衣と同じ神秘的な雰囲気をかもしだしていた。
その上に黒漆の胴と腰よりも少し上の位置に胴垂れを着込んでいた。両手に抱えた面の面鉄には青漆が塗られている。京都では激しい稽古をしていただろうにも関わらず汚れひとつがなく、見事な着付けである事に一真は軽く嫉妬した。一体どういう工夫をすればそうなるのか。涼しい顔をした月の表情は少しも奢るふうでもなく、気取っている風でもなかった。
「準備は出来たみたいだな」
てきぱきと流れるような挙措で面と小手を装着した月に一真は、心で思ったことは億尾にも出さずにそう告げて、竹刀を手に立ち上がった。
「うん。舞香お願い」
「うーん、どうなっても知らないからなぁ。私は判定するだけ。判定するだけだ」
舞香は手の中で赤と白の旗を手品師のように回しながら言った。彼女は一体何を恐れているのだろう? 月が力一杯殴って一真の頭を粉砕してしまうことをか?
「はーい、じゃあ礼して三歩前でろー」
気合の入らない掛け声に合わせて一真は視線を月の瞳から離さないまま礼をした。面の奥底から少女も見返す。そのまま摺り足の大股で三歩近づき、竹刀が触れるか触れない位置で
一真はちらっと舞華を見た。舞華も完全に忘れているのか、ぽかんとしたまま二人の様子を眺めている。脚が痺れてきて、踵の位置がずれ、倒れそうになるのを必死に持ち直す。
月はというと、まるで苦も無くその姿勢を維持し、竹刀をピンと伸ばしていた。
「舞華」月が小さく呟いた。
「へ? あぁ、合図か! じゃ、はじめー」
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