怪異――下校途中にて
授業は全て終わり、今すぐにでも霧乃の所へと向かった一真だが、隣のクラスは既にホームルームも終わり、下校していた。霧乃は他の誰よりも早く帰ったとのこと。
――ぜってー、なんか知ってやがる、あいつ。
追いかけたいところだが、放課後には剣道場での部活がある。一真が剣道部に入ったのは、四月。元々、5才の頃からちょくちょくやっていたのと、最低でも一人は友人を作らなければという入学時にありがちな焦りから入部したのだ。
その願望自体はかなったと言えるだろう。同じ部活に入っているのは一真を除けば三人。先輩が二人に同級生の女子、永田未来のみ。
黒い髪のポニーテールと細くしなやかな体が魅力の未来はクラスの中でも皆より少し距離の離れた所から騒がしい連中を眺めているというクールな――悪く言えば腹黒な――性格だった。稽古の時も必要以上の言葉は掛けないし、こちらからも話し掛け辛い雰囲気をまとっている。
まだ、よちよち歩きの頃から竹刀を持っていたという経歴以外は一切不明だが、決して冷たいわけでもなく挨拶をすれば必ず返す。ただ、迫力が一般的な女の子に比べて、凄すぎるというだけで……。
「一真、さぼったら面なしで竹刀で面の刑だからね!」
未来は鞄に教科書を放り込んでいる一真の横を通り過ぎる時、釘を刺すように言った。人付き合いが悪いかと思えば、意外に真面目な所もある。なんとも掴み所が無い。
「あぁ、わかってるよ。今日こそは勝つからな」 一真のいつもの決まり文句を未来はフっと笑って流した。その顔には「できるかな?」というつわものの笑みが浮かんでいた。
「……勝てるわけないよな」
一真はふうっとため息をついた。それから鞄を肩に掛けて後に続く。剣道場と校舎までは無駄に離れていて、行く途中には道路まで通っている。今はいいが、これが体育の授業となると、生徒達はまるでマラソンのように走って渡らなければならない。
マラソン選手は時間までに走りきらないとゴールさせて貰えないが、俺達は走りきらないと成績が貰えない。そんなジョークが先輩から後輩に伝承される程だった。
「あー、しんどい。俺高校変えようかな」
一真がそうぼやいた時、肩にビシっと言う鋭く重い痛みが走った。
「へえ、やめるのかい? 沖一真?」
「げ、愛沙さん」
一真が振り向いたそこには自分とどこか似た雰囲気のある長く艶やかな黒髪をポニーテールに結んだ長身の先輩が立っていた。沖愛沙。一真の従姉にあたる人であり、この学校では先輩にあたる人でもある。長身で、肩幅が広く、黒色の長い髪は頭の天辺で団子のように丸められているが、それでも余った髪が肩にまで垂れていた。
一真が剣術で適わない人の一人でもある。というよりも、部活の中で一真は一番弱い。
「大丈夫です。一割方は冗談ですから」
「ふーん、じゃあ良かったけど」
一真の冗談を軽く受け流しつつ、愛沙は体育館へと入って行った。バスケ部等が使う体育館場が一階、その上の二階は体育教師が詰める部屋や、保健の授業を行う為の教室があった。剣道場自体は地下一階にある。
更衣室で胴着と袴を着付け、道場の出入り口の所で一礼してから、中へと入る。隅の方で正座しながら、胴と面小手を着付けているとすぐ傍に愛沙が座った。
「でさ、聞いた? 謎の転校生がうちの所に来るって話は」
「その正体に関しては、ほぼ全部の生徒が知っているのですから、別に謎でもなんでもないんじゃないですか?」
面紐を頭の後ろでしっかりと結び、引っ張る。固定されたことを確認して一真は立ち上がった。愛沙は既に完了していたが、振った話題についてまだ考えているようだった。
と言っても別に何か深刻な事を考えているわけでもない。この従姉は一真と、とある少女の淡い過去話を知る数少ない人間の一人だ。
「またまた、とぼけっちゃって。ま、未来ちゃんもいるからねぇ、君の為に黙っておくけどさ」
傍で着付けを行う未来には聞こえないよう小声で一真に言い、ウィンクした。直後、未来がこちらを見た。
「聞こえてますよ。一真は、転校生についてなんか知ってんの?」
「部長は今日休みですか?」
逃れるように話題をそらす一真。だが、愛沙も意地が悪い。
「あー、そうなんだよ。ガールフレンドってやつでね? ちょっと面白い話なんだなぁ、これが!」
「え!? 聞きたいですね、是非」
「おい、こら。やめろい! てか、活動時間はもう始まってますよ?」
まず最初に二人一組――結局、もう一人の先輩は欠席した為、一人余るが――となって、切り返しと呼ばれる練習と様々な技の打ち込み練習。
体が慣れてきた頃合に自稽古と呼ばれるひたすらに相手と打ち合う練習を行った。
一真は愛沙と当たった。
二本の竹刀と二人の体はぶつかっては離れ、離れてはぶつかった。愛沙の竹刀は素早い動きで一真の守りの薄い箇所へ磁石で吸い寄せられるように打つ。
出鼻を挫く戦い方が得意な藍沙に対して、一真は、相手の攻撃を防御してから打つカウンター的な戦いを好んでいた。
風を切り、唸りを発しながら飛んでくる竹刀は常に一真の一手先をいっている。
力強く、ぶれもないしっかりとした動線。打たれるかもしれない事への躊躇はまるでない。仕合中であるにも関わらず、一真はこの先輩に対する尊敬を改めて感じた。
一層熾烈な感情に身を委ねて攻撃を掛ける。アドレナリンを含んだ気合の叫びが喉から迸る。
そのおかげか、愛沙の面を一度、小手を二度、胴を一度打つことが出来た。だが、そこまでだった。勢いよく打ち込んだ面を防がれ、気勢を削がれる。
一歩下がろうと思ったその時にはもう全てが遅い。数合戦っただけで、一真は彼女の方が自分よりも腕が立つ事を、まだ彼女には適わないことを悟った。
面を防いだと思ったら小手を打たれ、小手を防いだと思ったら逆小手を打たれる。何度か攻撃を完全に防ぐ事も出来たが半分が幸運か、今までの彼女の癖から学んだに過ぎない。
弧を描いた竹刀が頭に思いっきり振り下ろした後、ようやく藍沙は止めの合図を出した。
一真が下がり、未来が竹刀を抜きながら勢いよく踊り込んでいく。全身から気魄を感じられる。彼女は相手が男性だろうが、どれだけ年上だろうが、怯まない。相手が優れていれば優れている程、気魄を高めるという驚嘆に値する胆力を持っていた。しかも、それは単なる蛮勇には終わらない。
愛沙がすっと進み出て未来に迫った。すかさず未来も前に出ると同時に、その空いている小手を打った。が、竹刀の峰で防がれる。すかさず攻撃に転じた愛沙の突きを避け、未来は面を打とうとしたが、よけられる。一旦通り過ぎた愛沙はぱっと回転し、未来の胴を狙った。
乾いた音が道場に響く。途端、未来の動きが止まった。
「ほらほら!」
「はぁあああっ!!」
愛沙の掛け声に我に返った未来が再び打ちかかっていく。戦いはその後、しばらく続いた。一真の事なんて忘れて……ではなく、一真が時間を見ず「止め」の合図を出さなかったためだった。華麗で、互いを認め合う素晴らしい戦いに嫉妬し、また見惚れたせいだった。
「うーん、今日はあれだね。三人しかいないし、早めに終わろうか」
「自分が飽きただけじゃないですか?」
ぼそっと独り言のように一真は尋ねた。
「顧問の先生は今日いないしさ。それとも、後三時間休みなしの鬼畜訓練やる?」
「あんなのは寒稽古の時だけで十分。お腹いっぱいですよ」
雪が舞い散る極寒の冬に行ったあの訓練は今でも体が覚えている。余りの疲労に体のバランス感覚が狂い、関節のあらゆる部分は砂塵が詰まったかのように動くなり――。
思い出して、一真はぶるりと体を震わせた。
「ま、いいんじゃないですか? 俺も友達に用があるんで」
「へえ、それは一大事だね」
こちらが用あるだけで、かなり一方的な押しかけになってしまうでしょうが――という言葉は呑みこんだ。
「んじゃ、早いところ黙想して帰ろうっか! 全員集合!」大声を出すまでもなく残り二人は集まった。正座し、短い黙想を捧げた後、三人はあっという間に道場から出て行った。
愛沙は全く別の方向に家がある為、校門で別れたが、未来は途中までは一緒だ。
霧乃には携帯を使って連絡したのだが、まるで反応が無かった。留守番サービスにすら繋がらない。校門と裏門――この間がまた、とんでも無く長いのだが――を調べたが誰もおらず、一真は帰ることにした。あの陰陽師絡みの話なら、どうせ明日転校してくるだし、いいやと思った。
二人並んで歩くとカップルみたいに見えるのだろうかなどと馬鹿馬鹿しい事を、一真は思った。思春期の青年の一人として、表面上は「恋なんざさらさら興味ないね」というクールな態度を持ちつつも、それは正直な気持ちではない。
恋人とデートしてみたいというのは一度は考えてみたことがある。だが、それはいつも願望止まりで終わる。実際、恋人が出来たとしてどう接していけばいいのかなんて、一真には考えもつかなかった。
一緒にどこか楽しい所に行って、はしゃいで、話して、それから……? その後は一体どうなるのだろう。何事も変に考え込む癖のある一真の脳裏はそんな事が浮かんでは消えていく。
「でさ」
突然、未来が話しかけてきて、一真はびくっと肩を震わせた。
「え? 何?」
「おいおい、何を考えていたの? あ、まさか変な妄想を膨らませてたんじゃないでしょうね?」
その予想は大体合っている。ただ、未来の不快そうな――と見せかけてからかってるだけだろうが――表情を見るに、妙な誤解を与えている感じがした。
「授業中もいっつも上の空だしさ。何考えてるの? あんた」
「授業中はちゃんと聞いているよ。数学と物理と化学と古典の授業以外なら」
なんだか、壊れたクラリネットの歌詞みたいだ、と一真は思い、そして自分のジョークで笑った。ますます怪訝そうな顔になる未来だが、どうでも良さそうに話題を戻した。
「そうそう、あんたの彼女の話」
「そもそも、彼女彼氏の概念も無いような幼き記憶なんだけどな」
「で、何があったのさ?」
人の話を聞かないやつだ。一真はふうっとため息をついた。大体話したところで面白くもなんともない事なのに。
「あの神社に住んでいた娘と五、六才の頃に出会って遊んだ事があるんだ。ただ、それだけさ」
「それだけ?」
「それだけ」
未来の少しがっかりした顔を見て、一真は首を振った。揺すろうが、叩こうがこれ以上面白い話は出てこない。
胸ポケットにある折紙の鶴の事を思い出したが、それを明かす気は無かった。未来は人前でからかうような趣味は持っていないが、二人きりか、もしくは藍沙と一緒にいる時は……。
「ともかく、その話はなし」
更にしつこく聞くかと思ったが、未来はさっと話題を変えた。
「来週は球技大会だっけ?」
「あぁ、そうだったな。俺はボール使うの苦手だから出来れば、辞退したいけど」
「私も」
未来の言葉に一真は軽く驚いて、顔を向けた。未来はあっと小さく叫んでから言い直す。
「違う違う。球技は得意だけど、あの騒がしい空間に入るのがねー。うちのクラス学年で一番うるさいでしょ?」
なんだ、そうかと一真は思うと同時に頷いた。学年で一番うるさいクラス、3組。勿論うわさの大元は彼らに授業をする教師達からだ。静かになるのは居眠りをする時だけだな、お前たちは。
そんな事を授業中にこぼす教師もいる。未来が彼らと同じ事を思っているとは少し意外だった。
「私ね、自分で言うのも変だけど、相談しやすい人柄らしいのよね」
「相談しやすい?」
「そ。よく女子の愚痴を聞かされるのよ。で、その女子の愚痴話に出てきた別の女子からも愚痴を聞いたり」
対立している二人の女子両方から互いの愚痴を聞かされるのだろう。確かにそれは憂鬱だ。一真も大人しそうな印象の顔立ちのせいか、中学の頃はよく愚痴の吐け口にされたもので、未来の気持ちはよくわかる。
「まあ、言いたくなってしまう気持ちもわかるんだけどね。現に私もこうしてあんたに愚痴を吐いてるし」
一真は曖昧に頷いてみせた。道路の左右からは様々な料理や食材の香りが漂ってくる。夕飯時とあって商店街はにわかに活気づいているようだった。客寄せの為に大声を張る肉屋の店長。試食を勧めてくるレストランのシェフなど。
「和食にフランス料理、イタリアンにインド、中華、韓国料理。世の中もグローバルになってきたものね」
「なぜか食材方面ばっかりが国際化してるけどな、この辺りは」
呆れるように一真は辺りを見回したが別に嫌な気はしない。川の濁流のように言葉が飛び込んでくるクラスと違い、ここの活気は妙に居心地がいいと一真はいつも思っていた。どの人もまるで遠慮がないし、心の内で何か企んでいるという感じもしない。つまりはさっぱりとした性格の人達ばかりだった。
商店街を過ぎる頃にはすっかり辺りは暗くなり、雲の合間から月が覗いていた。それを見て一真はふと言った。
「さっきの話なんだが」
「さっきっていつよ?」
中華店のお兄さんから只で貰った栗を頬張りながら未来が聞いた。
「ガキの時に会った女の子の話」
「お、ようやく白状する気になりましたか」
むっと一真は睨んだが、その程度で怯むような未来ではない。話さなければ良かったと思いつつ、一真は月をじっと見つめる。
「俺の記憶の中ではその女の子と初めて会ったのは、月の出る晩だったんだ。だけど、親父や母さんが言うには、俺が神社に行ったのは真昼間の時で夜じゃないんだそうな」
「何それ怖いね。ちょっとしたホラーじゃん。」
「単なる記憶違いだと思うけどな」
親に言われた事をそのまま言いつつも、一真はそれをまるっきり信じていなかった。あれは確かに夜だった。まあ、彼女と再会すればそれも明らかになる。
「あれは昼間だった」とでも言われれば、大人しく引き下がれる。
未来はくっくくと笑っていた。一真が問いかけるようにその顔をじっと見ると未来は一真の肩をたたいた。竹刀が当たった時みたいに容赦ない。
「いやさ、もしかしたらそれ夢なんじゃない? 夢の中でも思ってしまうほどに恋してたとか」
そういう純愛ならもっと、目を輝かせてもいいものだが、未来は普通の女子と違っていた。一真の話を完全に茶化している。
「俺はお前が思っているよりもずっとロマンチズムだからな」
一真もその冗談に悪乗りすることで、力を抜いた。どうせ彼女は帰ってきても何事も無かったかのような顔をしているに違いない。あんな思い出があった事も忘れているかもしれないではないか。一真が一人勝手に強くあの思い出を後生大事に抱えていても後が虚しくなるだけだ。過去の事は過去の事。
――もうきっぱり忘れよう
「まあ、それはさておき。陰陽師って何をする人だっけ?」
未来が突然首を傾げて聞いた。一真も前に興味本位で調べたことがあるが、一言に陰陽師と聞かれても答えづらい。
悪霊を退散させて、式神を使役して、後は吉凶を占ったり、暦を作ったりもする……と説明した所でピンとは来ないだろう。
「前、テレビで特集やってたじゃん。呪文唱えて悪霊を退散させるんだっけ? えーと、へんたいじゃなくて……」
「もしかして反閉へんばい?」
「そう、それ」
同じ間違えるにしても“へんたい”は無いだろう。反閉。呪文を唱えながら歩いて物の怪を退散させる術だった気がする。
「うわぁ、オタク……それとも知り合いに陰陽師でもいるの?」
そんな人はいない。単に自分で調べただけだ。そのきっかけにしても、幼馴染が住んでいた神社が、陰陽師に縁ある場所と聞いていたから興味がわいたに過ぎない。それにしてもオタクはないだろう。
「ん? 妙に静かだな」
二人は公園を横切っている所だった。傍にはマンションが並んでいる。腕時計を見ると時刻は六時。商店街で寄り道をし過ぎたせいだが、それにしても静寂すぎる。人の話し声も車の音も無い。その事に気づいた途端、一真は寒気を感じた。昔、経験したことのあるような、どこか懐かしさすらある感覚だ。
明かりは無かった。街路灯がついていないのだ。それも電池が切れ掛かっているという感じではなく、電源を切られたかのように。
「なんかあったのかな?」
未来は不安そうに空を見上げた。星ひとつ見えない程に暗いのに雨粒ひとつ落ちてこない。この暗さは天気のせいじゃない。一真は直感的にそう思った。冷静になれと頭に言い聞かせ、空から未来に視線を移した。
「ともかく、さっさと帰ろう。こんな不気味な所で――」
未来は話を聞いていなかった。しなやかな指が震えながらまっすぐ前に突き出る。一真の視線は吸い寄せられるようにそこに向かった。
「あそこ」
そこには何もいなかった。
いや、そこにいる物が「何」であるかと認識できなかった。
未来の指差した所では二メートルくらいある黒い炎が地面から数センチの所で浮かんでいた。一体何なのか見当もつかなかったが、それはとても不気味で人を酷く不安にさせた。
一真は瞬きした。これは幻覚なのか?
未来が掠れた声を喉から搾り出した。
「あ、あれ」
「見えてる。なんだろうな? 陽炎の一種?」
「あんたは一体どこをみてるの?」
え? と一真は黒い炎に目を戻した。その顔を未来はものすごい勢いで掴んで斜め下に向かせた。火の燃えている元の所というのか。そこに何かがいた。焦げて髪の無くなった頭と地面を這うように伸ばされた二本の手。
その顔にある二つの眼窩が一真を見た。そこにはある筈の瞳が無い。
その光景が、『本能的に刻まれていた恐怖』を呼び覚ます。
古いビデオテープの荒い動画のように、脳裏でカタカタと音を立てながら――だが、それが一体どんな記憶だったかを彼は思い出せない。
「一真!!」
「あ……」
人が燃えている。にも関わらず、一真の頭に浮かんだのは助けなくてはではなく、逃げなくてはという言葉だった。もう少しで口から出る所だったが、一真は呑み込み着ていたブレザーを脱いだ。
「未来、救急車を! 急げ!!」
呼んだ所で助からないという気はしたが、一真はそう叫ぶしかなかった。黒い炎はオイルか何かか。倒れている人間――恐らく子供だ――の意識はまだ微かにあるようだった。
「大丈夫か!?くそ! 今、消すから!!」
一真が呼びかけると、その人間がすっと立ち上がった。一真の手からブレザーが落ちた。
今度こそ間違いない。あれは人間じゃない。何も考えられず、一真は来た道を助けようと駆け寄った時よりも素早い動きで逃げた。呆然とする未来の腕を掴み、走る。ともかく人のいる場所に逃げて助けを求めよう。あれが何なのかは知りたくもない。
「あ、あれ、何なの?!」
「後ろのやつに聞いてやれよ!!」
恐怖を紛らわす為に叫んだつもりだが、声はかすれていて自分で何を言っているのかも理解がつかなかった。二人とも後ろなど振り向ける筈が無かった。しかし、道路の角のバックミラーにはちゃんと写っていた。
黒い炎に焼かれながら宙を這うように近づいてくる子供の姿が。一真の肩のすぐ上に焼け焦げて墨のように真っ黒となった手を伸ばす。
「ひっ」
一真は足をもつれさせて転んだ。道路が落ちてくる。が、実際には違う。ただ、一真が顔を道路に打ち付けただけだ。手を繋いでいた未来も連鎖的に転んだ。一真は頭を起こした。あの人間はすぐ横に立っていた。表情の無い上下の瞼が焼け爛れて張りついた目がはっきりと見えた。
「置いていったな」
潰れた喉から出たのは、酷くしゃがれた、異物が混じっているような声だった。
「一真!」
声のした方を見ると未来が道路とマンションを分断している塀に上がって手を伸ばしていた。一真は自分でも驚くほどの反射神経で立ち上がり、その手を掴んだ。足元に何か熱い物を感じた。次の瞬間、一真と未来の二人は宙に放り出されていた。
一瞬、塀が黒い炎に包まれているのが見えた。
地面に叩きつけられ、肺から一気に空気が吐き出される。だが、ゆっくりと呼吸を整える間はない。未来の腕を引っ張り、一真は再び走った。
そこは駐車場のようだった。階段を駆け上がり、廊下の真ん中まで行き、振り向くとそこには何もいなかった。
「もう、わけがわからない……」
未来は止めていた息を吐き出した。一真は誰も追ってこないのを確認し、ほっと落ち着いた。自分の心臓がたった今動き始めたかのような感覚に囚われる。
「こんだけ大騒ぎしているんだから誰か来るだろ。それとも電話するか?」
「そうする……消防の電話番号ってなんだっけ?」
「この場合、警察を呼んだ方がいいんじゃないか?」
未来は携帯を取り出して、おぼつかない手つきでボタンを押していく。果たして、警察が出たところでこの状況を説明できるのだろうか?
一真は状況を整理して、未来が動揺のあまり何も言えなかった場合に備えた。だが、なんと言えばいい? そもそも、あれが何なのか一真にはわからない。
化け物が現れたの一言で警察が動くのか? 電話は中々掛からない。もしかしたら、ここは電話が通じない場所なのではないか? 自分達はどこか恐ろしい世界に入り込んだのではないか?
マンションの怖気すら感じさせる静寂ぶりに一真はそう思った。その恐怖を未来が破った。
「掛かった!」
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