スギナ

和田一郎

スギナ

 結婚すべき男と、恋愛の対象とする男は別だ、ユウコは固く信じていた。

 大学時代の友達がそれを峻別せずに次々に結婚していくのを、ユウコは危なっかしく思いながら見ていた。案の定、友達の何人かはすぐに離婚したし、結局のところあてにならない連れ合いの稼ぎに苦労を強いられている人もいた。

 ユウコが選んだのは幼なじみのコウジで、まさに結婚すべき男性の条件を満たしていた。穏やかで、慎重で、優しかった。最後まで補欠ではあったもののサッカー部に所属するかたわら、コツコツと勉強し、国立大学に現役で合格、一部上場の有名製造メーカーに入社した。

 コウジは、友達たちが夢中になるような、危険な匂い、しびれるようなオスの香りとは無縁であったし、おまけにタヌキのような風貌だったので、「一生安泰だけど退屈なアンパイ」を選んだユウコはなんて計算高いんだろうと友達たちは噂した。が、じつはもうひとつ、コウジの求婚を受け入れた理由があった。小学校六年生の時、飼育当番だったその日、ユウコはクラスで飼っていたウサギの檻を閉め忘れた。翌朝、ウサギは犬だか猫だかに殺されていた。同じくその週の当番であったコウジが、自分が檻を閉めることになっていたのに、忘れたのだと申し出たのだった。皆が大切に育てていたウサギである、ユウコはどれほど責められるかと思うと怖くて、本当は自分が最後を確認することになっていたのだとは言えなかった。いつか、ほんとうのことを言わねばと思ったのだが、結局、コウジに小さくありがとうと言っただけで、皆には言えないまま卒業となった。

 ああ見えてコウジは自分のことをきっと守ってくれる、ユウコはそんな確信を持っていたのである。

 たしかに、そのとおりであった。

 一男一女をもうけ、大企業の勤め人の妻として、ユウコは静かな人生を送っていた。退屈ではあっても、安定した家族との生活。ふと、あまりにも平凡でスリルのない人生に溜息ひとつもつきたくなることがあっても、自分の選択は正しかったのだとユウコは思うことができたのだった。

 ふたりが四〇歳を超えるまでは。


 臆病な男と、無鉄砲な男がいる。

 コウジが子供の頃に見たマカロニ・ウエスタンで言えば、世の中には農夫とガンマンがいるのだ。

 大きなリスクを取ることができる人間、無鉄砲で勇気のある人間こそが、事をなし世界を動かしていくのだ。コウジは自分の四〇年の人生を振り返って、そう思わざるをえなかった。

 もちろん、自分は農夫である。言われた場所で、言われた仕事をし、大きな賭けも、とんでもないチャレンジをしたこともない。

 気がつけば四〇才を超え、管理部門で静かな毎日を送っている。誰にも楯突かず、こつこつと期待されたことをこなしてきたはずだが、いつのまにか自分には部下がおらず、名刺の肩書には「専任」課長という言葉が印刷されている。

 このままでいいのか、コウジは忸怩たる思いである。だが、もちろん、自分から飛び出す勇気もないし、それをユウコに相談することもできない。

 静かにパソコンの数字を見ながら、結局、定年までここにいるのだ、コウジはそう思っていた。

 それが臆病な男が受け入れるべき、幸せな人生なのだ、と。


 が、会社が、社会が、激変した。

 中国や韓国のライバルにシェアを奪われた会社は、中高年層のリストラに乗り出した。四〇才以上には、退職金は大幅に割増され、コウジも数千万円の割増退職金が受け取れることとなった。

 ユウコは心配して眉をひそめた。 

「辞めないでよ。学費とか、いまからいるのよ。リョウは私立高校になるかもしれないし・・・」

「そうか。辞めてチャレンジしてみたいんだけど、だめか。応援してくれないのか」

「チャレンジって?」

「転職じゃなくて、起業するのさ」

 ユウコは大きな溜息をついて、コウジを睨んだ。

「あなたは起業家タイプじゃないわ。それに、もう、四〇才じゃない。無茶なこと言わないで」

 コウジはユウコを説得することを諦めた。とはいえ、完全に心の整理がついたわけではなかった。


 ちょうど、早期退職するかどうか迷っていた頃、コウジは中学生時代の同窓会に呼ばれた。たまたま、フェイスブックの友達つながりでコウジをみつけたかつての遊び仲間が、二十数年ぶりに呼んでくれたのだ。

 そこに、まさしくガンマンがいた。

 中学生時代から、キンちゃんは利かん気の強い勇気のある少年であった。派手な喧嘩の立ち回りをして、校舎を騒然とさせて駆けずり回ったり、内申で生徒たちの人生を左右しかねない先生に公然と楯突いたりした。

 キンちゃんは、整えさせたばかりのような髪を輝かせ、ふっくらしたシックな黒のセーターを着て、とてつもなく高そうな腕時計をしていた。レストラン開発のコンサル業と、フランチャイズのレストラン会社を経営しているという。

 とくに成績が良いわけではなく、公立の普通高校から有名とは言えない私立大学に進学したと聞いていたから、その後、きっと山あり谷ありの人生だったに違いない。

 だが、今ではこうして、立派に大きな事業を回している。持ち前の勇気で、リスクを犯して大きな挑戦してきた結果なのだろう。

 コウジにはキンちゃんのその姿が眩しかった。眩し過ぎた。

 コウジが会社名を告げると、一流企業で羨ましい限りだなとキンちゃんは言って、渡した名刺を穴のあきそうなほど見つめた。

 会社の苦境は連日のようにマスコミをにぎあわせている。キンちゃんが知らないはずもあるまい。

 コウジは覚悟を決めて白状した。

「たいして出世もできなくてね。早期退職に手を挙げるかどうか、迷ってるんだ」

 その場、一次会の割烹料理店では、話はそれで終わった。だが、キンちゃんは幹事の男性と二次会に行くといい、ぜひ一緒に来いよと誘われた。

 数千万円の割増退職金を元手に独立したいのだ、バーのカウンターでコウジは話した。

「なんだ、それなら、うちの和風レストランのフランチャイジーになれよ。何人か待ってるんだけど、先に回して着手してやるよ」

 渡りに舟であった。

 レストラン経営は頭になかった。趣味でうどんを打っていたことがあり、家族にふるまった時はすこぶる好評であった。だが、その程度であったし、様々な独立に関する本や雑誌などを読んで飲食店経営の難しさを痛感して、選択肢から外していたのだった。

 かと言って、何をすればいいのか、皆目見当がつかなかった。

 フランチャイズを選ぶなら、相手がどんな会社か、フランチャイジーを大事にしてほんとうに共に伸びていくつもりがあるのか、そういったことを慎重に見極めなければならない。しかし、相手はキンちゃんである。キンちゃんが根っからの悪人でないことは、中学校時代を知っているだけに確信できる。

 キンちゃんは大いに乗り気で、フランチャイジーになるだけでなく、一千万円ほど出資して株主になってくれとも言った。もちろん、将来の目標は上場であり、上場のあかつきには株主のコウジにも多大な利益が転がり込むのだと。


「一世一代の勝負なんだ。やらせてくれ」

 ユウコはコウジからそう言われて、言下に拒否した。

「だめよ。よりによって飲食店経営なんて、絶対にだめ。わたしもアテにしてるんでしょうけど、手伝えないわよ」

「絶対アンパイ」の夫が脱サラして飲食店経営をする、自分も手伝って店に出る。そんなことを大学の友達やママ友、親や親戚などに言えようものか。

 コウジの独立自営の夢に呼応するかのように、じつはユウコにも夢があった。

 数年前に始めた書道で、有名になり名を成すこと、それがユウコの夢であった。ユウコがついた先生は大きな流派に属する先生ではない。だが、ユウコの才能を買ってくれて、有名書道展に出品するように勧められている。すでにいくつかの県展など小さな書道展には入賞を果たしており、先生が言うとおり、ユウコが非凡なものをもっているとすれば、流派毎に入賞者が決まっていると噂される有名書道展でも、ユウコの並外れた才能は認められるはずであった。

 英文科卒で多少英語のできるユウコは小さな貿易会社にパートで事務の仕事を得ている。それで家計を支えて、子供たちを無事に大学まで卒業させる。そして、自分も書の道でいつか才能を開花させる。四十才を過ぎたばかりのユウコの望みははっきりと固まっており、飲食店経営が入る隙間はなかった。

 どんな形であれ、コウジにはいま勤めている会社に残留してもらわねばならなかった。


ユウコの説得は難しかった。

 コウジが匙を投げかけ、会社への残留もやむおえないかと思いはじめたころ、会社が牙を剥いた。

 自主退職に応ずる人員数が計画に大幅に足りなかったらしく、人事部は退職を促す標的をはっきり絞ってきた。再度、面談に呼び出されたコウジは、早期退職の選択肢を提示されて自分で選べるようにしてもらったわけではなく、会社は自分に辞めて欲しいのだ、辞めさせるために法が許す限りのことをする意図があるのだと悟った。

 ユウコを説得する自信のないコウジは、それでもなお、早期退職に応じることができなかった。

 コウジは、「新規事業調査室」、実態は「仕事をしないことが仕事である部屋」への異動を命じられた。

 毎日、事務所に出勤して、与えられた新聞や雑誌、ネット上の情報から、「新規事業のネタ」になりそうな情報を切り抜いたり、プリントアウトしたりするのである。それだけの仕事に、二〇人近い中高年が集められていた。新聞も雑誌も一部しかない。コウジが日経新聞でもと手にする頃には、新聞は切り抜きだらけで、すでに新規事業に関するネタはない。真っ先に読むのは、同輩たちの琴線に触れてラインマーカーで囲まれたところ、それは悲喜こもごもの人間模様を書いた社会面の記事や、退職にまつわる社会保険などの手続きの記事、熟年離婚の記事などばかりであった。

 コウジはそれでも、「仕事をしないことが仕事である部屋」に毎日出勤した。 

 一日を終えて、パソコンを落として席を立つ度に、コウジは自分という存在が、また少し溶けてなくなっていくのがわかった。存在そのものが、薄くなっていくのである。

 三か月そこにいたのち、コウジはユウコには了解を取らないまま、ついに辞表を提出した。

 そして、キンちゃんの携帯に電話をして、教えられた事務所に赴いたのだった。


 会社を辞めたこと、キンちゃんとフランチャイズ契約を結び、さらに出資もしたことを話せば、ユウコは怒り狂うのではないか、そのまま離婚を持ちだされるのではないかと、コウジは心配していた。

 しかし、会社にそのままいては、ほんとうに狂うか死んでしまうと思いつめていたのだ。

 死ぬぐらいなら、離婚だって、まだ、たいしたことはない。いつか、許してくれるかもしれない。あるいは、そもそも、一緒に人生を歩いて行くべき相手ではなかったのかもしれない。

 会社を辞めてからもしばらくは、コウジはスーツを着ていつものように出勤するふりをしていた。だが、いつまでも、だまし通せるわけもない。

 コウジはついに告白した。

 必ず成功させるから。今までの十倍は稼ぐから。株の上場で資産家にもなれるから。

 良い暮らしをさせてやるから。

 コウジは一生懸命に話した。

 

 ユウコはひとことも返事をせずに、寝室に入って扉をがちゃりと閉めた。ドレッサーに座って、否応なく自分の顔に刻まれた時の痕跡を見つめた。

 慎重だから、一生アンパイだからと選んだはずだったのに、夫はどうにも取り返しのつかないところで、自分勝手な博打に打って出た。

 こんな誤算があっていいものだろうか。いったい、子どもたちをちゃんと育てていくことができるのだろうか。そもそも、コウジを選んだ自分が間違っていたのだろうか。

 だが、コウジ同様、ユウコも自分の夢を見ていた。

 有名書道展に出品する作品は、春の訪れを土筆(つくし)に託して書いたやや絵画的な作品で、先生から絶賛を浴びていた。この作風でこの作品を磨き上げれば、有名書道展での入選、いや、それ以上の大きな賞は間違いなしと。

 色々なことがあったが、自分の才能はツクシ(土筆)のように野の地面を割って出て、ついに春の訪れを告げるのだ。

 自分が世に出ることは間違いあるまい。

 夫がたとえ失敗して、虎の子の退職金を溶かしてしまったとしても、なんとかなるかもしれない。

 いや、ひょっとしたら、夫の実直な性格、なにごともコツコツやり遂げる性格なら、レストラン事業もうまくいくかもしれない。

 ふたりの夢が、それぞれ同時に叶う、そして、経済的にも豊かになる。

 きっと、そうなるに違いない。

 ユウコは自分の胸に何度もそう言い聞かせた。


 コウジは物件をみつけて手付けをうった。

 ユウコは協力的とは言えないまでも、すでに走りだしたコウジにブレーキをかけるようなことはしなかった。家事と子どもたちのケア以外の時間は、熱心に書に打ち込んでいた。

 ――― 一銭にもならない書なんかやってないで、少しは、レストラン事業の方を手伝ってくれてもいいのに。

 そんな不満が口をついて出そうになったある日、勘の良いユウコが先にこう言った。

「あなたがレストランにかけているように、私も書にかけているのよ」

 妻が有名書道展への応募作品に並々ならぬ期待をかけて、それに打ち込んでいることを、ようやくコウジは知った。

 コウジは、キンちゃんの店の一軒で二か月の研修を受けた。自分より十才以上若い連中に馬鹿にされながら教えられることは、かなりの苦痛を伴ったが、それも自分の城を築くためである。どれほどのことがあろうか。

 キンちゃんに紹介された業者に内装を頼み、アルバイトを募集し、チラシの印刷を発注した。

 不安は気持ちもあるものの、きっと成功する。ただ淡々と、やるべきことをひとつひとつこなしていくのだ。

 そんな頃であった。

 ある日、キンちゃんの携帯がつながらなくなった。 

 嫌な予感がして会社にも電話をしたが、そこも不通。フランチャイズのレストランの中には電話が通じたところもあったが、相手も同様に何が起きたかわからずに戸惑っていた。

 明らかに異常事態であった。翌日、東京の事務所まで出向いていくつもりで、日経新聞の朝刊を読んでいると、キンちゃんの会社が倒産したという小さな記事が目に飛び込んできた。負債三十五億円。

 頭の中が真っ白になる。

 東京に行けば、キンちゃんに会えるのか。会ったところで、注ぎ込んだカネを回収できるのか。そもそも、キンちゃんは自分を騙すつもりで、フランチャイズや出資に誘ったのではないだろうか。

 長年会社員で、外の世界の嵐や落とし穴を知らずにきた自分である。キンちゃんにすれば、自分を金蔓に使うなど朝飯前だったに違いない。

 不安の塊をずしりと胃の腑に抱えたまま、怒りが沸々と湧いてきて首筋が熱くなる。

―――騙しやがった。なにがなんでもとっ捕まえてお金を返してもらうのだ。

 携帯の呼び出し音に我に帰った。

 スマホを見ると、なんとその通話はキンちゃんからであった。

「コウちゃん、すまない・・・」

 電話からキンちゃんが嗚咽を漏らしているのが伝わってきた。

「騙すつもりじゃなかったんだ・・・コンサルの方も、レストランチェーンのフランチャイズも、ギリギリだけど、なんとか回っていたんだ。コウちゃんに十店目の店を任せたことも、出資してもらったことも、ほんとうにお互いのためになると思っていたんだ。予定した融資が突然断られて、どうしようもなくなったんだ。こんなことになってしまって、本当に申し訳ない」

「オレの金は返してくれるのか? 早期退職してもらった退職金のほとんどをつぎ込んだんだぞ?」

「返す。でも、待ってくれ。今の事業はもうダメだ・・・だけど、いつか、また、再起する。コウちゃんには、出資してくれたお金も今回の出店でかけてしまった経費も、全部返す。お願いだ・・・オレを信じてそれまで待ってくれ」

「それまでって・・・」

―――いつまでだよ。

 コウジはスマホを地面に叩きつけた。 


 子供たちが自分の部屋に引き上げた深夜のダイニングテーブルで、ユウコはコウジと向かい合っていた。

 ユウコはスマホをテーブルの上に置いて明かりの消えた画面に目を落としていた。

 コウジがことの顛末を話したが、ユウコは上の空で聞いていた。

 夫は一部上場企業にいて、四〇才でリストラされて、その退職資金のほとんどを騙し取られた。

 そんなことは、ドラマの中か、どこか別の町で起きているに違いない話で、自分の身に起きていることなどと、どうしても納得ができなかった。

 そんな話が現実であるはずがない。四〇年という長い人生を生きてきて、そんな絵に描いたような不幸が自分を直撃するはずがない。

 だとしても、とユウコは思った。

 私には書がある。

 出品した書道展で大きな賞を得て、自分は女流書家として世に出るのだ。

 世に出ることさえできれば、「自分が本当の自分になれる」だけでなく、夫が招いた経済的な苦境も、やがては帳消しとなるだろう。

 なにも悲観することはないのだ。

 神様は与える準備をされている幸せがさらに嬉しいものがなるように、その直前に深い絶望の溝を掘っておかれたに違いない。

 私はまさに、地面を割って出ようとしているツクシ(土筆)なのだから。

 さあ、電話よ鳴ってくれ、ユウコは念じた。

 なんの皮肉か、出品した賞の発表は、夫がすべてを失ったとユウコに報告した、まさにその日であった。

 ユウコの作品がなんらかの賞を受賞したら、今夜中に先生から連絡があることになっていた。

 が、沈黙の中、また一刻、一刻と時が流れた。

 夫は知らない。自分が今夜、賞の連絡を待っていることを。夫はただ、自分の夢が弾けた顛末を、私が飲み下すことができるのを待っている。

 なにか、ぽつりぽつりと力なく呟いているが、ユウコの意識には夫の言葉は届かない。

 九時を過ぎても、一〇時を過ぎても、ユウコの電話は鳴らなかった。

 壁の長針が一一時を過ぎたことを知らせた時、ついにユウコは自分の夢も弾けたことを悟った。

 ユウコは何も言わず立ち上がってキッチンから出て行った。

 ベッドルームに入って大きな音を立ててドアを閉め、身体をベッドに投げ出した。

 涙が溢れて枕を濡らした。


 コウジは深夜の町に出た。

 とてもではないが、妻の横のベッドに身体を横たえる気にはなれなかった。

 かと言って、特に行くべきところもないのだ。

 コウジはライトを点けてクロスバイクにまたがって春の夜風の中に漕ぎだした。

 自然と、内装がほぼ終わった店舗に向かっていた。

 これからどうすればいいのか。

 支払ったカネは少しでも返ってくる望みはあるのか。フランチャイズのために三〇〇〇万円、出資に一〇〇〇万円、計四〇〇〇〇万円。

 まだ、一〇〇〇万はある・・・一〇〇〇万は。

 妻の反対を押し切って、勝手に退職を決め、なおそれでもあきたらず、大きな賭けに出てふたりの老後資金となるはずの退職金をほとんどすってしまった。

 自分の身はもうどうなっても仕方がないが、子供たちにどうやって学資を準備してやればいいのだろう。ふたりの人生を狂わせてしまったかもしれない。

 そして、妻は・・・

 あの様子では到底許してくれまい。

 いよいよ、自分を捨てて出て行くのではないだろうか。

 若いころのユウコは輝くばかりに美しかった。退屈な自分をわざわざ選んでくれたのは彼女の意志だが、退屈で慎重なままで一生いるならともかく、大事なところで無茶をして家族の生活を台無しにしてしまった。

 愛想をつかされても仕方がない。

 自分の求婚を受け入れて、今まで一緒に退屈な毎日を暮らしてくれたことを、心底申し訳なく思った。 

 自転車を漕ぐ。

 スピードをあげて。

 悔悟も、羞恥も、絶望も、すべて風となって飛び去れとばかりに。

 長い坂道を猛然と駆け下りている時、ふと、衝撃が走った。

 何かを踏んだのか、ハンドルが激しく震え、気がついたら、自転車ごと顔から道路に叩きつけられていた。

 コウジはゆっくりと起き上がって、自転車を立てて、道のそばの植え込みに立てかけた。右の頬と目のあたりに手を触れると、血がべっとりついた。血が、手の上に、次から次へと、ぼたぼたと落ちた。

救急車を呼んでもよかろう、コウジはポケットをまさぐりスマホを取り出すと、119番を押した。

 

 右目の周囲を激しく挫傷して、頬を大きく切っていた。

 当直医はコウジをCTにかけて頭部に異常がないことを確認すると、ロクに傷を洗いもせず、ホッチキスのようなもので右目の回りの裂傷をパチンパチンと繋いでいった。麻酔をかけてくれたのか、かけないままにやっているのか、針を通される一回一回に痛みが走った。

 それが二〇回以上繰り返された。

「はでに転びましたな」

 医師は不機嫌そうな声で言った。

「脳波にも異常はないし、目も骨も大丈夫だ。けど、傷跡は残りますよ」

 そうか、顔に大きな傷が残るのか。

 これから営業職の就職でも探さなければならない身なのに。四十歳を超えた、元大手企業の、なんの専門性もない自分が、起業の夢やぶれて、就職先を探さなければならないのに、顔にひどい傷ときた。

 処置が終わって病院の外に出た時、夜はすでに完全に明けていた。

 玄関のそばにあったベンチに座り思案した。

 結局、スマホを取り出して、ユウコの携帯に電話をかけた。

 長い時間待たされてようやく妻が出た。まだ寝ぼけているのか、無言である。

――― 自転車で転んで、顔に怪我した。いま、救急車で運ばれてきて、十針か、たぶんそれ以上、縫ってもらったところだ。

――― なに!?

――― 自分で自転車で転んだだけだ。裂傷だけだから、たいしたことはない。眼鏡をふっ飛ばしたままにしてきたし、自転車も拾いに行かなきゃならない。車で迎えに来てくれないか。

――― 十針って・・・あなた、大丈夫なのね? ほんとうに、頭とか大丈夫なのね?

――― ああ。フランケンシュタインみたいな傷が残るかもしれないってことを除けばな。

 すぐ行く、妻はそう言って電話を切った。


 ユウコの顔を見たコウジは、力なく笑った。

 ユウコはコウジに近づいて、まじまじと顔を見た。

「顔が半分だけ、ドッジボールみたいに腫れてるわ。血が・・・」

 かばんからテッシュを取り出すと、ガーゼで覆われている部分の下の頬にあてた。

「ガーゼではもう吸えないのかしら。下から流れだしてるわ・・・痛そう。本当に大丈夫なの?」 

 偽りのない同情心と心配に満ちた妻の表情であった。いったい、最後に、妻のこんな顔を見たのはいつだっただろう。

「もう、たいして痛くはないよ。でも、ついてないわ」

「いいえ、ついてるわよ。そんなひどい怪我をして、頭も打ってない、目も骨も大丈夫なんだもの。ほんとうに良かったわ」

―――そうかな。いっそ、死んじまえば、よかったんだ。もう、無理に生きていかなくてすむ。だが、こんな中途半端な怪我を負って、さらに先の就職が難しくなってしまった。本当に、これをついていると言うのか? 

 助手席に座ってやっと人心地ついたコウジに、運転席のユウコが尋ねた。

「どこなの? 転んだところ」

「町井小学校って知ってるかい? あそこから国道に出る長い坂道にトンネルがあるだろ。あのトンネルの出口だよ」

 車をゆっくり発進させながらユウコは言った。

「あなたが店をつくろうとして借りたところの近く?」

「ああ」

―――おまえは一回も来てくれなかったけどな。

 妻が店になる場所を一度も見にきてくれなかったことを、コウジはぼんやりと思い出していた。もう、怒りも悲しみも湧かなかった。すでに、はるか遠くに過ぎ去った過去のように思えた。

「眼鏡は、もう、だめでしょうね」とユウコ。

「そうだな、地面に激突する前に飛んでくれてたら、大丈夫かもしれんが・・・もう、自動車にひかれちまっただろうな」

「ものいりだね。仕方ないけど」

―――そう、ものいりだ。これから、もっと、ものいりだ。

 事故はこの程度で終わったとしても、現実がその真綿のような厳しい状況をさらに狭めてきていることにかわりはないのだ。コウジは暗澹たる気分になった。

「ねえ」 

 フロントガラスの向こうに見える変わらない朝の風景に目をやったまま、コウジは返事ができない。

―――なにがあっても、こうやって世間様はなにごともなく進んでいく。で、俺は、離婚を申し渡されるのか?

「私もダメだったのよ」

「なにが?」

「書。展覧会に出した自信作。先生も入選ぐらいではすまないって、激賞してくれてた『ツクシ(土筆)』っていうタイトルの書。昨日までに連絡があるはずだったんだけど、なんの連絡もなかった。朝刊で確かめたけど、たしかに、入選にも、私の名前はなかった・・・」

「そうか・・・残念だったな。けど、次があるじゃないか。それがだめでも、その次が」

「気休みは言わないで。もう、何年も精魂こめてがんばってきたのよ。私の夢、終わったわ」

 それ以上かける言葉がなかった。妻の作品を何度も見たことがあったが、その書に特別な才能がきらめいているのかどうか、コウジには皆目わからなかった。

 妻がそう言うなら、審査員たちが揃ってそう言うなら、そうなのかもしれない。

 それぞれのふたりの夢、それはひょっとしたら若い人が抱くような青臭いものだったのかもしれない。

 が、ともかくふたりのその夢は、同時に砕け散ってしまったのだ。


 事故の場所に戻って、チェーンが外れてペダルがゆがんでしまった自転車を後部座席に積み込んだ。眼鏡はまだ路上に落ちていたが、右側がぐにゃりとゆがんでレンズがなくなっていた。

 車に乗り込むと、店に行ってみたいとユウコが言い出した。

 意外であった。いまや、夢の残骸となったそこにふたりで行ってみたところで、何になると言うのか。

 コウジは抗おうとしたが、ユウコは家とは反対方向に車を進めた。

 信号待ちで、突然、ユウコが懐かしそうに言った。

「ねえ、小学校六年の時、ウサギの当番で、ふたりでエサのスギナ(杉菜)を取りに行ったこと覚えてる?」

「そうだっけな」

 何十年かぶりにコウジは「スギナ(杉菜)」という言葉を思い出した。ツクシが春の訪れを告げた後、同じ根っこから田んぼや畑の畦道などに生えてきて、農作物の栄養を奪う生命力の強靭な雑草である。杉の樹のような形をした小さな草で、節のあるその茎を抜いて元に戻し、どこで抜いたのかあてる遊びをしたものであった。 

 まだ小学生の妻とふたりでをスギナ(杉菜)を取りに行ったらしい。

 だが、そんな淡い思い出に、今、どんな価値や慰めを見出したら良いのか、コウジにはまったくわからないのだった。

 店は十車分の駐車場を備えた和食レストランだった物件であった。

 そこをキンちゃんが指定した内装業者に素朴な田舎家の雰囲気に改装させているところで、八割方完成していた。

 鍵を開けて薄暗い店内に入ると、塗りたてのペンキの匂いがツンと鼻をついた。手探りでライトをつける。ユウコがコウジのあとをついて店に踏み入れる。

 田舎家らしくと選ぶのに苦労した素朴なデザインのテーブルと椅子がホールの中央部分に寄せ集められ、重ねられて足を天井に向けていた。

 壁のそばにはペンキ缶がいくつかと刷毛が、青いビニールシートの上に置いてあった

 

 ふと振り向くと、ユウコが壁に向かっていた。

 手に刷毛を持っている。

 ユウコは、大きく振りかぶって刷毛を壁に叩きつけた。

 ユウコはコウジが聞いたこともないような低い唸り声を発していた。 

 一本のかすれた焦茶色の線が塗りたての白い壁に走った。

 ユウコはペンキ缶の蓋を開け刷毛を浸すと、刷毛先から滴るペンキを気にもとめず、また刷毛で壁を殴った。

 ペンキをたっぷりと含んだ刷毛は、夜空を飛ぶ巨大な彗星のような一筋の線を壁に残した。星屑のような大小の飛沫がその周囲に散っている。

 コウジは肩で息をしているユウコの右腕を後から握った。

「なにをするんだ!」

 ユウコはその手を振りほどいて、また、壁に刷毛を叩きつけた。

「好きにさせて!」

 コウジは諦めてその場にあぐらを組んで座り込んだ。

 ユウコは再び刷毛を浸すと、叩きつける勢いをやや緩めて、つぎつぎに壁に何かを描いていった。

 やがて、それがなにかを表現していることに、コウジは気づいた。

 何本もの杉の樹が立ち上がり天に向かって伸びているように見えた。

『期待したって、杉菜は杉菜。花なんて咲かない』

 ユウコが書いたその言葉に、一面に描かれたそれがスギナ(杉菜)であることに気がついた。

――― そうだな、スギナ(杉菜)の花なんてみたことないな。

 コウジはすっかり忘れていたが、スギナ(杉菜)はシダの一種で、花をつけない。冬には枯れるが地下茎で生きており、春にはツクシとなって地面を割って出てくる。ツクシから出る胞子を風に乗せて、その生命を広げていくのだ。

 ユウコは一心に刷毛を振るっていた。

 白かった壁は巨大なキャンバスとなり、縦横無尽にユウコの刷毛が走った。

 スギナ(杉菜)とツクシ(土筆)の絵の合間に、心に浮かんだ言葉を書いた。

 そうだ、私たちはスギナ(杉菜)なんだ。

 ユウコは書いた。

『私たちは杉菜。ただの雑草』

 花が咲かないことを、なぜ恥ずかしく思うことがあろう。

 ユウコは書いた。

『花が咲かなくてなにが悪い』

 でも、地獄にまで届く深い根を張って生きてやる。

 ユウコは書いた。

『地獄草と言われ、傷めつけられても、深い根を張って生きる』

 コウジとの結婚を決めたのは、コウジが一生をかけて自分を守ってくれると確信したからだった。

 コウジが社会的に成功するか、お金持ちになるか、どんな花が咲くか、そんなことは、外野がピーチク言っていただけのことだ。

 ウサギが死んだ時、コウジは私を守ってくれた。コウジは夫として満点じゃない、泣かされたことだってある。

 だけど、コウジと結婚を決めた時、私が信じたものはまだ生きている。

 なにも変わっていない。

 私が、それを変わらずに信じてさえいれば、なにも変わらない。

 夫はいまでも私を愛してくれている。

 そして、夫が打ってくれたうどんの味を突然思い出した。

 美味しかった。

 ほんとうに美味しかった。

 平凡だけど、力強い命の味がした。

 ユウコは書いた。

『花は咲かない。でも、土筆で春の訪れを告げるのが私の役目』

 店の内部の壁全面にユウコはスギナ(杉菜)とツクシ(土筆)を描いた。

 それは、ユウコがいままで書いた作品のなかで、まさに最高の傑作であった。

 壁を切り取って、賞に応募できるものなら、芸術のなんたるかをよくご存知だけど、すこし気まぐれな審査員方の先生が、最高の賞に値すると激賞してくれたかもしれない。

 が、そんなことはもうユウコの頭にはなかった。


 やがて、ユウコは満足そうに刷毛を置いた。

 そして、コウジに向き直って言った。

「ねえ、ふたりで力を合わせて、ここで生きて行こうよ。あなたのうどんで、食べていこうよ。一緒に、『うどん処 スギナ(杉菜)』をやろうよ。ほら、最高の内装もできたわ」

 ユウコの笑顔にはとてつもない力が宿っていた。

 それは地獄の底からでも伸びているかのような、屈しない根を伴った笑顔であった。

 コウジは血の滲んだガーゼを貼り付けた顔で、何度も何度も頷いた。



 

 

 

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