第14話 迷子の真意
もしも今日世界が滅亡するのだと言われたら、寝転がって鼻でもほじりながら「ああそう、どーぞ」と答えてしまうくらいには、夏之は心が荒んでいた。こんな日に限って仕事もない。
昨日の失態を思い出すには十分すぎる時間の余りように、今すぐ部屋にある時計という時計を叩き割ってやりたくなった。
抱き締めた身体は華奢で、重ねた唇はとても柔らかかった。やっと触れ合ったのに、それはあろうことか同意のものではなく、一方的なものでしかなかった。
なにをやっているんだろう。
なにもすることがない休日は久しぶりで、なにも考えたくなくて寝て過ごした。目が覚めたときにはすでに日はとっぷりと暮れていて、朝からろくに飲み食いしていなかった身体が重怠い。腹の虫に急かされてキッチンに立ったのはいいが、何もする気になれない。
仕方なく着替えてコートを羽織り、本来ならば昨晩訪ねる予定だったバーへと足を向けた。まばらに入った客はほどほどに品がよく、ニックのピアノが耳を楽しませてくれる。カウンターに座った夏之を笑顔で迎えた佐野は、悪気など微塵もなく「今日はおひとりですか?」と聞いてきた。
答えあぐねている夏之に、佐野はなにかを察したらしい。しかしそれ以上を詮索することなく、彼は注文を受けてカウンターの向こうにそっと下がっていった。
相談すれば聞いてくれるだろう。そして、なにかしら的確な意見を聞かせてくれるだろう。
オレンジ色の優しい光に包まれて、ただただ濃い酒を一息に煽った。作ってくれた佐野には申し訳ないが、味を楽しむ余裕はない。くらり。きついアルコールが喉を焼く。
ニックのピアノが盛り上がりを見せ、客の一人が盛大に拍手を送った。
「……あれ、夏之?」
二杯ほどもったいない飲み方をしたところで、後ろから声をかけられた。迷うことなく隣に座った女性の、黒いタイトスカートが目に入る。徐々に視線を上げていくと、先日顔を合わせたばかりの真帆がそこにいた。
苦い思いが渦を巻く。「このあいだはごめんね」謝罪と共にグラスが鳴らされたが、夏之の頭には入ってこない。
仕事の関係で近くに来ていただとか、元婚約者の愚痴だとか、謝罪だとか、そういったいろいろな話をしていたのだと思うが、真帆の話はそのほとんどが耳を通り抜けてしまっていた。
「誕生日、ちゃんと彼女と過ごせた?」
やっと意味を理解できる言葉が出てきたと思ったらそれだ。悪戯に笑う真帆の顔をまともに見たのは、今日はこれが初めてだった。柔らかい照明の光の下、彼女の顔はもう泣き濡れてはいない。
ろくでもない飲み方をしたせいか、たった二杯なのに頭はアルコールに侵されていた。異変を感じ取った真帆の質問に促されるまま、夏之はすべてをぽつりぽつりと話してしまっていた。
ああまったく情けない。冷静な部分がそう判断を下しているのに、アルコールでふやけた舌は勝手に言葉を紡いでいく。
「ねえ、それって、あたしのせいだよね? どうしよう、ちゃんと説明しに行こうか?」
「……いや、いい。多分アレは聞かないし。余計に意固地になりそう。めんどくせぇ」
取り繕う気などまったくない本心だった。少し雑になる言葉遣いは、真帆の前だからだろう。明里の前ではあまり出したことがない気がする。
六年という月日は長かった。良くも悪くも。
真帆は少しだけ面食らったような顔をして、綺麗に磨かれたグラスにそそがれたカクテルを舐めて微笑んだ。
「そんなに面倒な子なのに、好きなんだ?」
「……まあ」
「女のあたしから見ても、その子絶対にめんどくさいよ。やめといたら? 恋愛に夢見すぎ。美人なんでしょ? 理想とかプライドとか、高すぎるんじゃないかな。お高く留まっててやな感じ」
「いや、お高く留まってるってわけじゃない。確かに夢見がちではあるけど、それだって今まで苦労してきたかららしいし」
少しむっとして反射的に言い返す。昔からフォローは上手くない。案の定曖昧なものになって、結局中途半端なところで押し黙る結果になった。
明里は確かに顔の造りも頭の造りも上等だけれど、それを鼻にかけた節はない。だからこそ夏之もここまで親しくなれたのだ。お高く留まった美女など、おっかなくて近づけない。
あの子は夢見がちだし、変なところで鈍いし、とてつもなく面倒だ。だが、それが嫌ではない。
じっとこちらを見つめてきた真帆がいきなり吹き出して、ばしばしと二の腕を叩いてきた。屈託のない笑みに毒気を抜かれ、唖然とする。
「もうっ、夏之ったら! ……ねえ、あたしが夏之と別れた理由、覚えてる?」
「え? ……『本当に好きかどうか分からなくなったから』?」
「うん、そう。ちゃんと覚えてるんだ、エライね。あのね、それってね、なんて言えばいいのかな。夏之ってさ、なんでも合わせてくれてたじゃない? タバコは外で吸ってって言ったら、真冬でも外で吸ってくれてたし。それ以外にも、いろいろ。あたしの我儘ばっかりきいてくれて、あたしは夏之の我儘、あんまり聞いたことなかったんだよね」
「そうだっけ」
「そうだよ。だからね、だんだんさ、『この人は本当にあたしのこと好きなのかな? 優しいだけなんじゃないの?』って思っちゃって。なんでもあたしの言うこと聞いてくれるから、あたしが傍にいてほしいって言うから、そうしてくれてるだけなんじゃないかって。別れたいって言っても、その通りにして後悔なんかしてくれないんじゃないかって。そう思ったら、一緒にいるのつらくなっちゃった」
綺麗に丸くカットされた氷が、グラスの中でひび割れた。
「結局、あたしもめんどくさい女だったんだよね。別に引き止めてくれるか試したとか、そういうんじゃなかったんだけど。でも、夏之が『分かった』って言ったとき、やっぱりかーとは思ったよね」
「そういうわけじゃ……!」
「ほんと? 少しは悲しんでくれた?」
少しどころか、一年以上も引きずっていたし、なにしろ今でもベランダで喫煙する習慣は抜けていない。
上手く伝える術を持たない自分が不甲斐なかった。まだ傷を癒しきれていないだろう真帆を励ますどころか、相談に乗ってもらっている現状がより座りを悪くさせるが、そんな情けないところもすでに晒しきった仲だ。今更それを嘆くのもおかしな話だろう。
「ありえないほどへこんだ。五キロは痩せた」
「うそ」
「嘘。本当は二キロ。……まあでも、本気でへこんだよ。俺、お前と結婚するんだろうなって思ってたし」
平凡だけれど幸せな家庭というものを築けると漠然と思っていたあの頃の自分は、まだ若かったのだろうか。
憧れのマイホーム。庭は小さくてもいいから欲しい。子供は二人か三人。犬か猫を飼って、子供の運動会では転ばないように注意する。
そんな日がいつか来るのだと、ぼんやりと考えてみたことがあった。それはすべて、いつぞや真帆が望んだ夢だった。――結局、それは叶わなかったけれど。
あんぐりと口を開けた真帆の顔が滑稽で、こんなときだというのに思わず笑ってしまった。間抜けな顔だ。明里も時折、こんな顔をする。
「――惜しいことした」
「は?」
「ね、付け込んでいい? あたしともう一回やり直さない? タバコはベランダで、だけど」
「いや、それは」
ニックのピアノが、それまでのジャズと違ってしっとりした曲に変わった。
真帆が本気で言っているわけでないことはすぐに分かったが、それにしたって微塵も揺るがない自分に驚いた。そんな内心を知ってか知らずか、それ以上言及することなく真帆が話題を変える。やはり彼女にとっても、本気の話ではなかったらしい。
「“愛の夢”だ。あたしこれ好き」
「昔も言ってたよな。あー……、誰の曲だっけ」
「フランツ・リストだよ。なんかね、ドイツの詩から引用した歌詞もついてるの。『愛しうる限り愛せ』って。『汝に心開く者あらば、愛のために尽くせ』だったかな」
そういえば真帆はドイツ文学をかじっていた。うっとりした眼差しで滑らかに滑る指先を見つめて戯れる音に耳を委ねている横顔に、昔の影が重なった。
彼女はなにか夢中になることがあるとこうやって夏之を意識の外に追いやって、そうして突然戻ってきたかと思うと、驚くほど綺麗に笑うのだ。
たとえば、こんな風に。
「今の夏之にはぴったりだね」
「え……」
「夢見がちな女の子って相当めんどくさいけどさ。でも、なんて言うのかな。……その子、きっと待ってると思うんだよね。なんでもっと早く告白してあげなかったの?」
「それは……」
詰まった言葉を、酒のせいということで片付けてくれるような真帆ではなかった。きらりと光った目が夏之を責める。
「あたしのときもそうだった。夏之、なっかなか告白してくれないし。痺れ切らしてあたしが告白して、やっと付き合えたかと思ったらぜんっぜん手を出してこないし。一言多いくせに、肝心なトコが足りてないんだよ、夏之は」
「そうは言うけどな、俺だっていろいろ考えて、」
「意地悪されたくなかったら、早く言ってあげなよ。でないと、邪魔しちゃうから。毎日ヨリ戻そうって部屋に押しかけるよ」
「それは困る」
「あははっ、知ってる!」
それから他愛もない話で一時間ほど酒を飲み、悪酔いせずにほどよく酔いが回って解散となった。さっさと帰って明里と話し合うべきだったのだろうが、今はもう少しだけ、懐かしさに浸っていたかったのだ。
今度は終電を逃すこともなく、「飲んだ飲んだー!」とけらけら笑う真帆を駅まで送っていったときのことだ。改札に切符を通す直前で、彼女はくるりと振り向いた。アルコールの匂いを纏わせた髪が翻る。
「あのね、夏之。本当はもうちょっと意地悪して困らせてやろうと思ってたんだけど、思ったよりも苦労してるみたいだったから、許してあげる。年下の女の子に振り回されてるなんて、なっさけない姿をどうもありがとう! 幸せの絶頂期でなくてよかったね。――でなきゃ今頃、あたし達ベッドの上だよ」
笑顔と泣き顔のちょうど中間あたりの顔で早口にそう言った真帆は、夏之の反応を待たずに改札の向こうへと消えていき、颯爽とヒールを鳴らして階段を下りて行った。
六年間、真帆と付き合った。学生の頃からの付き合いだったし、たとえそうでなくても六年という月日はとても長い。その六年間で、彼女のすべてを見てきたつもりでいた。すべてを知っているつもりになっていた。
だが、どうだ。あの六年の間で、彼女は今のような表情をして、今のような発言をしたことがあっただろうか。
真帆が家に来た夜、言っていた。「たった三ヶ月! あたしなんか、二年も付き合ってたのに!」それを言うなら、自分達は六年付き合った。けれど、駄目だった。六年付き合った相手に別れを告げ、二年付き合った相手に結婚を期待した真帆。そして、二年よりも三ヶ月付き合った相手を選んだ男。
一年経っても平行線の、夏之と明里。
月日が経てば人は変わる。けれどそれは、時間以外のものも大きく影響しているのだと、真帆の姿を見て実感した。その変化に嫌悪感を感じたわけではない。けれど少しだけ、置いていかれるような寂寥感を感じたのも事実だ。
早く言ってあげなよと言いつつ、この時間まで夏之を引き止めていた真帆の真意はどこにあったのだろうか。
咥えたタバコに火をつけて、自宅までの道程をゆっくりと歩いた。
コートのボタンが取れかかっている。擦れ違う人達が寒そうにコートの前を掻き合わせているが、酔って火照った身体にはこれくらいの風が心地よかった。
――あたしともう一回やり直さない?
真意は、どこに。
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