第15話 愛の夢


 すっかり冷え切った夜だった。

 月は細い三日月で、都会の明かりに負けた星は数えるほどしか見えない。それでも冬の澄んだ空気のおかげか、夏に見上げたときよりも星明かりが強く感じた。

 流れてくる独特の臭いに気づいて、眉を寄せながら少しだけ身を乗り出して隣を覗いてみると、面白いものが見えた。

 強く、弱く、ぼんやりと明滅する赤みがかったオレンジ色の光。それはスイッチのオンオフとは違って、徐々に強くなったり弱くなったりを繰り返す。吐き出す息は白い。龍のように夜の闇に立ち昇る紫煙も白い。

 ポケットから携帯を取り出して、スピーカーを指で押さえながらそっと写真を撮った。マナー違反だとは分かっていたので、あくまでもそっと。もちろんフラッシュは切った。

 幸いにもお隣さんは気がつかなかったらしい。

 思わず浮かんでしまう笑みを抑えきれないまま、写真を確認した。ほとんどが真っ暗の画像の中に、オレンジ色の光だけが映っている。顔や場所が分かるようなものが一切映り込んでいないことをしっかりと確かめてから、明里はその画像をSNSサイトにアップロードした。



 画像につけたコメントは、『真冬のホタル、発見!』。



* * *



 一般的に考えて迷惑にならない時間帯に、電話を三回、メールを一通。留守番電話にも、謝罪と、「会って話したい」という内容を残して、夏之は明里からの連絡を待った。

 今朝見たベランダの非常用扉の穴は塞がってはおらず、相変わらずピンク色のスリッパと、きちんと元に戻された鉢植えが覗いていた。

 まだ繋がっている。そう思ってもいいのだろうか。あれからいくらでも穴は塞げたはずだ。それをしなかったのはまだチャンスがあるからだと、そう自惚れてもいいのだろうか。

 部屋で腐っていても事態が好転するわけもないので、夏之は町を適当にぶらついていた。日曜ともなれば繁華街には人が溢れていて、学生やら家族連れやらで賑わっている。

 日曜日のお父さんというものは、往々にして運転手と荷物持ちの役割を課せられるらしい。中には不機嫌を絵に描いたような男性もいて、なんのために休みなのかが分からないと言いたげだった。


 商店街をあてもなく歩きながら、今日の夕飯を考える。商店街と言っても、規模は大きく若者向けの流行の店も入っているため、寂れたような、どこか昔懐かしの「商店街」といった雰囲気はない。

 若い店主が花を入れ替えるオシャレな花屋の隣には、恰幅のいい中年女性の営む八百屋があってどこかちぐはぐだ。

 ――夕飯。夕飯はなににしよう。気が乗らなくても、食事を抜くと胃痛がひどくなる体質なのでこればかりは譲れない。スーパーで適当に惣菜でも買って帰ろうか。

 そう思っていた矢先、前方から見覚えのある顔が近づいてきた。向こうはまだ夏之に気づいていないのか、手元の紙とにらめっこをしている。


「――佐野さん」

「え? ああ、影山さん。お買い物ですか?」


 駅前のビルの地下にある、あのバーのマスターの佐野だった。二十代半ば過ぎか、それとももう三十手前か。半ば過ぎなら同じ年頃だが、落ち着いた雰囲気がどことなく夏之よりも「大人」を感じさせる。職業柄かもしれないが、とかく、彼は年齢不詳だった。眼鏡の奥にある細い瞳は穏やかで、人好きのする顔立ちが途端に笑みを形作って、丁寧に会釈した。

 佐野は片手にスーパーのビニール袋を提げており、同じ用向きだとでも思ったのか夏之にそう訊ねてきた。苦笑交じりに首を振る。ついでに、昨日はごちそうさまでしたと言うのも忘れない。


「桃を食べたいって急にごねられまして。それで急遽買出しに来ました」


 誰にとは言わなかったが、夏之の脳裏に浮かんだのはあの美人な歌姫の姿だった。あるいは、奥さんか彼女でもいるのだろう。もしかするとあの歌姫が恋人なのかもしれない。困ったように眉を下げているが、佐野の目はとても優しく、慈愛に満ちていたからだ。

 見せられたビニール袋の中には缶詰の桃缶が二つと、それからヨーグルトやイチゴなどが入っていた。店用の買い出しにしては量が少ないから、個人用には間違いがなさそうだ。

 特に用もなく声をかけたため、話題はすぐに尽きていく。それじゃあまた、と言いかけたところで、背後で女性の悲鳴が聞こえた。反射的に二人の目が声の方を追う。自転車が倒れるけたたましい音。わっとざわめく人々の声。人波の向こうに見えた蹲る人影から垂れる、長い栗色の髪。

 音にすれば、ぞわっ、とでもいったのかもしれない。全身に鳥肌が立ち、「ひったくりだ!」「捕まえろ!」などという三文芝居のような台詞も、ただの雑音にしか聞こえない。マウンテンバイクに跨ったマスクの男が、似合いもしないハンドバッグを片手にこちらへ向かってくる。

 思わず駆け出した夏之の背中に、焦ったような佐野の声が届いた。




「……大丈夫ですか?」


 冬だというのに汗を流して座り込む夏之にハンカチを差し出しながら、佐野は控えめに笑った。

 結局、くだんのひったくり犯は、夏之ではなく大学のラグビー部の部員五人が取り押さえた。必死で走ったが、相手は慣れたマウンテンバイクだ。いくら昔サッカー部に所属していたと言っても、現役ではないから限界はある。そろそろ諦めようかと思ったところで、たまたまコロッケを買い食いしていた彼らが束になって捕まえたと、そういう顛末である。

 ひったくり犯は高校三年生の男の子だった。受験のストレスがどうたらと警察に引き渡される直前に言っていたが、真昼間から商店街でひったくりを実行する頭の軽さでは、受験できる大学もたかが知れていると、夏之は正直な感想を漏らした。

 全力で走ったせいか、足の筋肉が震えている。交番で聴取を受けていた被害者の女性は、背格好こそあの子に似ていたものの、まったくの別人だった。

 真っ先に追いかけていった夏之の姿を覚えていたのか、交番に入るなり潤んだ瞳で見つめられ、深々と頭を下げられた。素直に感謝の気持ちを受け取れないのは、自分の中に疾しさがあったからに他ならない。


 もしも、あれが明里だったら。

 もしも、ひったくり犯を捕まえたのが自分だったら。


 そんな漫画やドラマのような展開はなかなか訪れない。これが現実だ。

 汗を吸ったハンカチは、次回店に行ったときに返すことを約束した。気を遣わなくていいと佐野は言ってくれたが、自分達は友達と呼べるほどの間柄でもないのでそういうわけにもいかない。

 予想外のことに時間と体力を消費してしまった。そろそろ戻ろうかと腰を上げると、佐野は少し考え込むようにビニール袋の中にある桃缶を見て、言った。


「今から店に来ませんか?」

「え、今から?」

「はい。今、ちょっとしたお客さんが来てまして。ニックが付き合わされて、時間外労働だってふてくされてる。俺も開店の準備があるし、影山さんが手伝ってくれたら助かるんですが」


 どうしてと訊ねたくなる部分は山ほどあったが、佐野のお願いは「お願い」というよりは、「決定事項」に近かった。断る理由を探している合間にあれよあれよと駅前のビルまで連れてこられて、気がつけば地下に続く階段を下りていた。扉にはもちろん、「closed」の看板が掛けられている。

 帰るタイミングをすっかり逃してしまい、夏之は子供のように佐野の後ろに張り付いて店内へと足を踏み入れた。いつもの耳触りのいいBGMはない。真っ暗だと思っていた店内にはぼんやりとランプが照らされ、中に人がいることを知らせてくれた。


「遅い。子供のおつかいじゃあるまいし、どれだけ時間かけてんの」

「お前ね、たまには『おかえり』とか笑顔で言ったらどうなんだ」

「お生憎さま。私は無駄なことはしない主義なんだ」

「抱き締めたくなるくらい憎たらしいね、お前は」

「いいけど高くつくよ」


 入るなりそんな応酬が始まって、夏之は完全に蚊帳の外に追いやられていた。深く詮索したことはないが、佐野とこの歌姫――真凛といったか――は付き合っているのだろうか。それにしては会話の中に色気がない。

 ちょうど陰になっていて見えなかったのだろう。やっと真凛が背後の夏之に気がつき、澄んだ灰色の瞳を丸くさせた。「あんた……」夏之になにか言いかけて、呆れたように佐野を見る。


「どこで拾ってきたの」

「商店街。大事なピアニストと、それに惚れ込んだお姫様の救世主を拾ってきた俺を褒めてほしいね」

「抱き締めたくなるくらい減らず口だね、ほんと」

「遠慮しとくよ」


 まるで夏之を犬猫にでも見立てたかのような真凛の言いぐさに少々むっとしたが、ちらと見てくる双眸の綺麗さにそれは根こそぎ削ぎ取られていく。美人は得だ。心からそう思った。

 真凛はどこか男っぽい仕草で後ろ頭を掻き、佐野を追いやるようにして店の奥に押しやった。普段ならテレビや雑誌の中でしかお目にかかれないような美女が、夏之の目と鼻の先で欠伸を噛み殺している。


「あんたさ、明里とどういう関係なの」


 唐突に聞かれて、夏之は口籠った。

 マンションの隣人。友人。――恋人。

 どれもそのようでいて、どれでもない。名前のつかない曖昧な関係は、二日前に終止符が打たれるはずだった。

 口を開きかけた夏之を、真凛が目の前で手を振って制した。雑なその所作でさえ様になって見えるのだから不思議だ。


「いい、いい。別に答えが聞きたかったわけじゃないし。私にレンアイ相談とかしたって無意味だから。あんたらがどうなろうと私には関係ないし。けど、あまりにも目に余ったから一つだけ言っていい?」

「……どうぞ」

「ばっかじゃない?」


 美女からの痛烈な一言に凍りつく夏之に構わず、真凛はバックヤードへと消えていった。

 いったいなんだというんだ。下から射抜くような視線。恐怖とは異なる感情に身体が竦んだ。案山子のように戸口で棒立ちになっている夏之に、顔だけ覗かせた真凛がぶっきらぼうに「カウンターにでも座っておけば」と言い残して、再び姿を消す。

 よろめくようにカウンターに腰かけて、肺が空になるまで息を吐いた。

 真凛がどこまでこちらの事情を知っているのか分からない。けれど明里は随分とこの店に馴染んでいるようだったし、真凛とも親しいように見えた。話が伝わっていてもおかしくはなさそうだ。

 ガラスの器に綺麗に盛りつけられた缶詰の桃を片手に、佐野が戻ってきた。「どうぞ」と目の前に差し出されたが、どうにも食べる気にはなれない。


「あの、ところで先ほど仰っていた“手伝い”って……?」

「すぐに分かりますよ」


 店内には佐野が言っていたような客の姿は見えず、開店前というだけあって静寂を守っているように見えた。ニックの姿もない。いったいなにを手伝えばいいのだろう。真凛の言葉を頭の片隅に追いやってそんなことを考えていると、バックヤードから大きな黒い影が飛び出してきた。

 それに思い切り飛びつかれてぎょっとしたが、薄明るいオレンジ色の明かりの下でよく見てみるとなんてことはない。この店の自慢のピアニスト、黒人のニックだ。

 流暢な英語でなにかをぺらぺらと捲くし立てられたが半分も理解できず、曖昧に「ハロー」などと言って誤魔化した。ぎゅうっとハグの力を強められ、蛙が潰れたような声が出る。

 「ごめんごめん」これまた流暢な日本語で謝られ、夏之は訳が分からなくなった。彼は日本語も達者だが、英語の方が楽だということで通常は英語で会話しているらしい。「助かった!」そんな風に言って笑ったニックに肩を叩かれた直後、夏之は自分の耳を疑った。

 淀みもなにもない綺麗な英語の叱責が、ニックと同じようにバックヤードから飛び出してきたからだ。


「Wait! Listen, Nick!! Please listen to――、え……」


 ニックを追いかけてきた小柄な影は、夏之と目が合うなり回れ右をした。だが、佐野と真凛の腕に両肩を掴まれ、あげくの果てには宇宙人のように両手を拘束されて連行されてきた。あまりにも間抜けな姿に唖然とする。

 顔を赤くして身を捩る明里に構わず、真凛はにっと唇の端を吊り上げ、乱暴とも思える手つきで明里を夏之の隣のスツールに押し付けた。


「さっき散々喚いてた台詞、直接言ってやったら?」


 助けを求めるように明里は首を巡らせて佐野を見たが、彼は素知らぬ顔でニックと話を弾ませている。

 漫画やドラマのような展開は早々簡単に起こりえない――そう思い知ってから一時間も経たないうちに、この状況だ。頭は錆びついて上手く働かない。

 佐野は「それじゃあ準備があるから」とどこかへ行ってしまったし、真凛とニックは「今夜の打ち合わせ」と言って奥のピアノへと向かっていった。ぽろん、ぽろん。戯れとしか思えない旋律を、ニックの指が奏でていく。この距離では、真凛達に声は届かないだろう。

 思いがけず向き合った明里と夏之は、互いに言葉が見つからずに沈黙を守っていた。落ち着かなさに無意識にタバコを取り出しかけ、咥える直前で思いとどまった。明里の視線が、仕舞われていくタバコを追いかけている。

 細い首、形のいい顎、あの夜奪った唇。「帰って」冷たい声音を思い出し、なにから言うべきかと思考の迷路にはまり込んでいた夏之の鼓膜を、か細い声が震わせた。


「……どうして、ここに」

「マスターに連れられて、かな。手伝ってほしいって、言われて」

「なにを?」

「さあ……、なんだろう」


 嘘ではない。佐野はなにを手伝えとも言わなかった。

 時間外労働に悩むニックを助けてくれということならば、自分がやらなければならないことは自ずと見えてくるのだが。

 ぎこちないやり取りはそれだけで逃げ出したくなるが、逃げる気はないし、逃がす気もなかった。真凛とニックに視線を滑らせてみたが、彼らはこちらのことなど微塵も気にした風もなく譜面と向き合っている。これなら、気を遣う必要もなさそうだ。

 たった一日。されど一日。

 こうして姿を見るのは随分と久しぶりの気がした。


「……この前は、ごめん」


 返答はない。明里は俯いたままだ。


「あのタイミングでしたことは、本当に俺が悪かったと思ってる。ごめん。でも、これだけは言わせてほしい。俺の話もちゃんと聞いてほしかった。真帆とは本当になにもなかったし」

「……話を聞かせるためなら、なにしたっていいんですか」

「いや、だから、それは本当にごめんって。……ごめんって言う以外に、なにすればいい? あ、いや、これは別に開き直ってるわけじゃなくて」

「――……して」

「え?」

「説明して。全部。聞かせて」


 聞きたくないとあれほど癇癪を起こしていたくせに、親の仇のようにカウンターを睨みつけて明里はそう言った。


「全部ってどこから」


 真帆が聞いていればまた「デリカシーないよね」と呆れそうな発言に、明里は苛立ったように「最初から!」と叫ぶ。ほんの一瞬だけピアノが途切れ、またすぐにそれは再開した。

 最初から全部。どうしたものかと迷いながら、夏之は真帆が部屋に訪れた経緯を説明しようとしたが、途端にストップがかけられた。


「そこからじゃない。最初からです。……その人と、付き合ってたところから」

「……はぁ?」


 まさかそんなところから。

 これが明里相手でなければ、面倒くさいやってられるかと席を立っていることだろう。しかしそんなことができるはずもなく、夏之は静かに、差し障りのない範囲で真帆との思い出を語った。

 学生時代に知り合ったこと。告白は真帆からだったこと。六年間付き合っていたこと。別れを告げたのは、真帆からだったこと。

 先日真帆がやってきたのは、婚約者に浮気をされたあげくフラれたからだということ。ただし彼女に夏之とヨリを戻す気はまったくなく、――明里のことを相談すると、「早く言ってあげなよ」と背を押されたこと。

 それを聞いた明里が、思わずといった風体で顔を上げた。引き結ばれた真一文字の唇の柔らかさを思い出す。

 どうしてこんなにも面倒くさい相手に惚れてしまったのだろう。沈黙の中、そんなことを考えた。見た目? 確かに美人だけれど、正直に言えば夏之の好みではない。ならば料理の腕か。彼女の作る卵焼きは絶品だ。あるいは――。


「……なんで、私より先に、その人に言うんですか」


 この、面倒くさい性格か。

 巡る季節の中で見てきた様々な一面は、夏之の心を少しずつ、けれど確実に動かしていった。自信ありげな涼しい顔で振る舞っていたかと思えば、小学生のように無邪気にはしゃぐ。笑って、拗ねて、怒って、泣いて。

 一匹の犬が開けた、非常用扉の穴。どこにでも転がっているわけではないけれど、今この瞬間も世界のどこかで起きていそうな些細なトラブル。

 高嶺の花を体現したような風貌のくせに、人懐っこくて隙が多い。

 いつ好きになったのか、明確には分からない。修理費の折半について、上等な頭の持ち主とは思えないトンデモ理屈を提案してきたあのときか。――きっと違う。あのときは、思いがけない頑固さと彼女の「特技」に度肝を抜かれて印象は強かったが、落ちたわけではなかった。

 だとしたらきっと、あのときだ。


「桜、覚えてる?」

「え?」


 キャッチボールにならない話題に、明里は眉を寄せた。


「花見しただろ。シュウの散歩も兼ねてって言いながら、体調がどうとかで結局二人だけで行ったやつ。覚えてる?」

「覚えてますけど、それが……?」

「あのとき、好きになった」


 明里の表情が変化するまで、二秒ほどかかった。ぽかんとしてなにを言われているのか分からないという表情から、それは照れと驚愕が入り混じったものに移り変わっていった。

 視線が逃げる。けれど、身体までは逃がさない。――逃がしてたまるか。

 雪のように舞い散る幻想的な桜吹雪の中で、明里は花びらを捕まえて笑ったのだ。「春、捕まえましたよ!」はっきりとした恋に落ちた瞬間というものがあるのなら、多分、きっと、そのときだ。

 単純だと笑われてもいい。計算のない無邪気さが、愛おしいと思った。


「――好きだ、明里。遅くなってごめん。付き合ってほしい」


 一昨日の夜に告げるはずだった言葉が、すんなりと唇を割った。

 明里の大きな瞳が、限界まで見開かれる。見る見るうちに涙の膜が瞳を覆って、マスカラの繊維をこそぎ落としながら頬を滑り落ちていった。

 ぱたぱたと零れていく涙を拭う許可は下りるだろうか。その髪に触れる許可は。

 もう一度、キスすることは。

 口元を覆って俯いた明里は、何度も大きくしゃくりあげながら、あの日真帆が頭を預けてきた肩を一度だけ強く叩いた。そのままぎゅっと強くジャケットが掴まれる。

 至近距離で見上げてきた瞳は目の淵が真っ赤に染まっていて、それがとても扇情的だった。


「……いやや」


 予想だにしていなかった言葉に、心が凍る。擦れ違っても繋がっていると思っていたのは自分だけだったのだろうか。さっと血の引いていく音を聞きながら、夏之は下顎に貼りついて動かない舌を懸命に動かそうと力を込めた。


「……もっと、ロマンチックに言ってくれやな、嫌や」


 ぽろり。さらに溢れた涙が、そのまま肩口に押し付けられる。

 腕に抱き着かれ、可哀想なくらいに早鐘を打つ鼓動を聞いた。停止していた思考が、ぎこちなく活動を再開させる。もっとロマンチックにと来たか。これはつまり、そういうことか。

 どこまでも面倒くさい夢見る乙女に、今はただただ、愛おしさが勝った。

 しがみつかれた腕から引き離し、不安に揺れる身体を強く抱き締める。この店自慢のピアニストが空気を読んだ。これも時間外労働だと言われるのだろうか。

 昨日聞いたばかりの曲に、真凛の歌声が乗る。どこまでも響く、心地よいハスキーボイス。夏之にドイツ語は分からない。薬学部に籍を置く明里は、この歌詞を理解できるのだろうか。


 ――愛しうる限り愛せ。


 望むところだ。

 ロマンチックな曲に乗せて、さてなにを紡ごうか。

 イタリア人でもフランス人でも、ましてや言葉巧みなホストでもない夏之には、気の利いた台詞が浮かぶはずもない。

 なので結局、台詞はこれに落ち着いた。


「今日、泊まってく?」

「――ばかっ!!」


 耳と言わず首まで赤くなった小さな顔は、怒っているけれどまんざらでもない様子で唇をへの字に曲げていた。上目で見上げてくる目尻に、キスを落とす。今度は平手は飛んでこなかった。

 穴の開いたベランダを思い出す。今日はあの通路が活躍するだろうか。それとも、玄関から?

 どちらにせよ、ベランダに開通した秘密の通路はもうしばらく塞がりそうもない。

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