第13話 ガラス越しの恋

「せんぱーい、お誕生日おめでとっすー」

「おう」

「デートですか? デートですよね? いいなー、羨ましい」

「くだらないこと言ってないで仕事しろ」

「はーい。……ね、ね、先輩。やっぱり彼女が若いと、『私がプレゼント!』とかやってくれるんすか?」

「花隈!!」



 仕事だけはミスなく終わらせ、逃げるように定時で退社した。二週間前から浮かれていた姿を見られていたせいか、花隈は「デート楽しんでくださいねー」とご丁寧に叫んでくれやがった。余計なお世話だ。

 ――デートどころか、会えるかどうかすら分からないのに。

 雑踏に紛れて携帯を操作する。駅に向かう途中の交差点で派手な化粧の女とぶつかって、口汚く罵られて思わず睨み返してしまった。

 ああ駄目だ、あまりにも余裕がなさすぎる。


 日が落ちる。針で刺すような冷たい風が頬を撫で、かじかむ指先が操作をぎこちなくさせた。約束の時間まであと一時間ある。このまま待ち合わせ場所まで向かおうかどうか悩んだところで、手元の携帯が震えた。

 送信者は明里だ。

 頭蓋の中で鼓動が響く。頭の中に直接心臓が埋め込まれたような感覚だ。即座にメールを確認して、駅の階段を上っている途中で足が止まった。真後ろにいた女子高生の舌打ちが耳朶を打つ。


「はぁ……?」


 ――急用ができて行けなくなりました。ごめんなさい。

 シンプルな文面に、余計に訳が分からなくなる。昨日、真帆が言っていた。驚くと日本語でも理解できなくなるというのは、どうやら本当のことらしい。

 すぐに電話をかけてみたが、今しがたメールを送ったところだろうに、明里は出る気配を見せない。機械的な女性の声が、淡々とした口調で「留守番電話サービスに接続します」と告げてくる。違う、聞きたいのはあんたの声じゃない。半ば八つ当たり気味に内心で掃き捨てた。

 自分が抱いている感情が分からなくなって、とにかく急ぎ早に夏之はマンションに戻った。なんとか走り出すことはしなかったが、気持ちではすでに駆け出している。


 自分の部屋に戻るよりも先にお隣のインターホンを鳴らしたが、三回鳴らしても返事はなかったので、苛立ちと焦燥を抱えたまま部屋に帰った。脱ぎ散らかした靴が三和土を飛び越えて廊下に上がってきたが、それを直す気にもならない。

 乱暴に電気をつけて、コートを着たままベランダに飛び出した。出ると同時にタバコに火をつける。断末魔のように口の端から紫煙が立ち昇り、有害物質が血流に乗って全身を駆け巡っていく。

 一本吸い終えたところで、ようやく気持ちが落ち着いた。唇にタバコを挟んだまま、もう一度明里に電話をかける。リビングの電気は消えている。

 どうせまた出ないかと思っていたが、意外なことに数コール目で電話が繋がった。


「もしもし、明里? 急用って――」

『お家にいていいんですか?』

「は?」


 開口一番そう言われ、なにを言われたのかまったく理解できずにタバコを取り落とす。

 幸い、ベランダの排水溝に落ちてくれたので、管理人にどやされずに済みそうだった。ただでさえ喫煙者への風当たりは強い。ベランダを飛び越えて下の植え込みにでも落下していたら、「火事にでもなったらどう責任を取るつもりですか」と怒鳴り込みに来られるだろう。

 冷たい口調に、苛立ちで言葉が尖りそうになるのを理性で押さえ込み、夏之は突き刺す風で頭を冷やした。


「どういう意味?」

『そのまんまの意味です。今日、お家にいてもいいんですか? せっかくのお誕生日なのに』


 お前と出かける予定だっただろ。

 油断すればそう冷たく告げてしまいそうで、二本目のタバコに火をつける。ライターの音を聞き取ったのか――そしてそれがさらに機嫌を悪くさせる要因となったのか――、明里は軽く鼻を鳴らした。

 冷え切った声だ。ただ拗ねているだけではないと直感する。わざとこちらを煽るような刺々しい言葉は、狙い通り夏之を苛立たせている。


「家にいるなら会って話したい。そっち行っていい?」

『……嫌です』

「なんで」

『なんだっていいじゃないですか。影山さんには関係ありません』

「じゃあそれでいいから、今日会えなくなった理由を教えてくれ。急用ってなに」


 だんまりを決め込む明里に、さしもの夏之も苛立ちが勝った。理屈じゃない。理屈なんて一切なく、ただ腹が立つ。


「分かった。そっち行く」

『通報しますよ』

「好きにしたらいい。それくらいの覚悟はできてる」


 嘘だ。そんなことになったらまず首が飛ぶ。そんな覚悟は微塵もない。あるのは、彼女がそんなことはしないという、希望にも似た核心だった。

 ベランダに空いた穴から隣に移り、固く閉ざされたカーテンの裏地を見た。電気はついていない。そこにいるのかも分からない。ベランダのガラス戸にもたれ、悪いと思いつつも灰を足元に落とした。携帯灰皿はコートのポケットに入れているが、今わざわざそれを取り出してお行儀よくする気にはなれない。

 赤く明滅する炎が口元に近づいてくると、夏之はその場に吐き出して吸殻を踏み躙った。あとで怒られるかな。そんな風にぼんやりと考える。

 僅かにカーテンが揺れ、少しだけ明里の姿が見えた。それでも彼女は窓を開ける気はないらしい。あくまでも電話越しのやり取りだ。聞こえてきた小さな声に、胸が引き絞られる。


「なにがあった?」


 ガラス戸越しに背中を合わせて、静かに問うた。


『……もうやだ、穴塞ぐ』

「急になんで」

『もう嫌や』


 すすり泣く声が聞こえて、ますますもって訳が分からなくなった。

 やはり昨日の――日付的には今日だが――やり取りを見ていたのだろうか。

 いても立ってもいられずに駄目元でガラス戸を引いてみると、驚いたことにそれは簡単に横に滑った。あのときと同じだ。

 それを咎める声はない。スリッパを脱いで部屋に上がると、すでに携帯を床に転がした明里が膝を抱えて泣いていた。

 見慣れた赤ジャージに、もこもこのフリースジャケット。か細い肩に栗色の髪が流れているが、電気のついていないこの部屋ではその色までは分からなかった。きっと頭のてっぺんには天使の輪ができている。


 思わず、小さな背中を抱き締めていた。

 途端に抵抗とも呼べない力で暴れ出したが、押さえ込むのはあまりにも容易く、それはますます抱き締める力を強くさせるだけだった。

 ――ほら見ろ。彼女があれだけ自慢していた護身術なんて、いざというときには役に立たないじゃないか。言葉にすれば烈火のごとく怒られそうなことを思った。

 嫌だ嫌だと明里は言う。その理由も教えてくれないで。

 正気をなくした女を宥めるのは、二十四時間の間にこれで二人目だ。なかなか貴重な体験じゃないだろうかと現実逃避に考えて、耳に直接流し込むように囁いた。


「落ち着け、明里。どうした、なにがあった?」

「っ、彼女おるなら、もうこんなコトせんといてよ!」


 矢のように放たれた言葉に、言葉が詰まって一瞬頭が白くなる。ああそうか。やっぱり見ていたのか。それでここまで取り乱しているのか、この子は。

 浮かれている暇などない。必死に誤解を解こうと説明を重ねてみたが、嫌だ嫌だと首を振るばかりで明里はまったく聞く耳を持たない。

 苛立ちは伝染する。だから落ち着かなくてはと思うのに、お互いに鋭くなっていく語気は収まる気配を見せなかった。


「聞けって! 誤解だって言ってるだろ。昨日のは元カノで、向こうだって俺とどうにかなるつもりなんてまったく、」

「聞きたくない! もうなんも信じられへん!」


 『明里って面倒ですよ』と奏は言っていたけれど、本当にその通りだ。勝手に勘違いして、その弁解すらさせてくれないなんて。どれだけ男に夢を見ていたのか。どれだけ自分に夢を見ていたのか。

 呆れと苛立ちがない交ぜになって、気がつけばその小さな顔を乱暴に引き寄せていた。柔らかい唇の感触は久しぶりだった。甘い香りは香水ではなく、シャンプーとも違う。

 ――これはチョコレートケーキの匂いだ。

 抉じ開けた唇の奥で舌に逃げられて、はっとする。正気を失っていたのは、はたしてどちらだったのか。もつれる舌で謝罪を紡ごうとしたが、それよりも遥かに早く平手が飛んできた。

 頬を打たれ、乾いた音がリビングに響く。予想以上に痛かった。頬の内側を切ったのか、血の味が滲んでいく。唐突に足裏の痛みまで思い出して、踏んだり蹴ったりな一日だ。


「――帰って」


 震える声に否と言えるほど、面の皮は熱くなかった。

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