第12話 邂逅
こんなに長い二週間は初めてだった。
仕事中にカレンダーを見ることが多くなり――ほとんど無意識だった――、後輩の花隈に「先輩、最近浮かれてますねー」と言われたほどだ。仕事に支障はないが、他人からそんな風に見えていたことに衝撃を受けた。
あれから明里と何度かやり取りをして、十八日の夜は彼女のオススメのレストランで食事をし、それから佐野のバーを訪れる予定が立った。
そのあとはもちろん、言うまでもない。
ありえないほど長かった二週間が、やっと終わる。明日仕事を終わらせれば、あとはもう、待ちに待った「誕生日」だ。
今日の夕方受信したメールで、明里は「夜にベランダ出るの禁止!」と言っていた。理由はといえば、焼いているケーキの匂いが漂うから、らしい。
当日まで秘密にしたいと言っていたが、秘密もなにもないのではと思う。そんなことを言えば不機嫌になるのは目に見えていたから、下っ端兵士よろしく「了解」とだけ返し、大人しくそれに従っている。
基本的に、自分は相手に合わせる性質らしい。ベランダでの喫煙だって、真帆に言われるがままに染みついた習慣だ。
こりゃ結婚したら尻に敷かれそうだなと考えて、当たり前のようにお隣さんの姿を思い浮かべてしまったことに苦笑した。いくらなんでも気が早すぎる。まだ付き合ってもいないのに。
時刻は午後十一時を回ったところだ。あと一時間足らずで十八日になる。そわそわしてしまう自分を「幼稚園児か」と嘲る自分がいたが、逸って悪いかと開き直る。
飲み干したビールの空き缶を流しに持って行ったところで、玄関チャイムが鳴った。こんな時間に訪ねてくるなんて、最近では一人しかいない。でもその一人も大抵連絡を寄越してからの訪問なので、夏之は不思議に思いながらモニターを覗き込んだ。
白黒の小さな画面に映った姿に、言葉を失う。
走ったのは衝撃だけで、痛みはない。だが、もしも今空き缶を持っていたら、落としてしまっていただろう。それくらいの驚きだった。
所在なげにカメラを見つめる姿は、二年半経った今でもそう変わらないように見えた。
「真帆……?」
* * *
「あ、意外。散らかってない。昔はちょっと目を離したら、はぐれ靴下があっちこっちに転がってたのに」
「まあ、その……」
「この冷蔵庫まだ使ってたの? 古いから変え時だって言ったのに」
「……真帆」
勝手知ったるなんとやら。迷いなくリビングに進んだ真帆は、キッチンに鎮座している冷蔵庫を見てけらけらと笑った。同棲を始めた頃に中古で買ったものだから、最近の家電の中では年代物になるのだろう。
ほんの数分前、「上がっていい?」と、真帆は夏之が答えを出す前に「お願い」と言って玄関に身を滑り込ませてきた。終電もなくなりそうなこの時間にどうして来たのかだとか、そんな疑問を投げる暇は与えられなかった。
二年半経っても、愛用の香水は変わっていないらしい。真帆の香りを覚えていることに、重ねて驚いた。我が物顔でソファに座り、ぺらぺらと他愛もないことを話して傍若無人に振る舞おうとする真帆に、夏之は座ることもできずに立ち尽くしていた。
真帆。何度目かの呼びかけで、真帆は溜息と共に夏之を見上げる。
「……急にごめん。たまたま近くにいて、それで。酔っ払っちゃってるし、駅まで辿り着く頃には終電逃しちゃってそうだし、この辺りに友達いないし、タクシーも捕まらなくて。だからね」
尻すぼみになっていく真帆の言葉を、夏之は黙って聞いていた。問うことも責めることもしない。沈黙を貫いていると、真帆の方が先に折れた。
ふるふると横に振られた頭は、もともとは綺麗に整えられていたのだろう。気合いを入れていたらしい痕跡は、髪型だけではなかった。疲れた顔を飾る化粧も、爪も、言うまでもなく服装も、すべてが「よそゆき」仕様だ。
赤く染まった目元は、眠気や酒のせいだけではないだろう。なにかあったらしいことは、誰が見ても明白だった。
「ごめん。たまたまなんて嘘。明日、夏之の誕生日だって思い出して、それで来ちゃった」
「それだけじゃないだろ」
「……あは、分かる?」
真帆は取れかけたつけまつげを鏡も見ずにそっと外し、そのままゴミ箱へ捨てた。少しだけ印象の薄くなった瞳が、困ったように細められる。
紅茶でも淹れようか。そう言うと、すぐさま「水がいい」と返された。ミネラルウォーターをグラスに注いで差し出せば、淡いピンク色に塗られた爪が目に入る。
隣に座ることはせず、夏之はテレビのすぐ前で床に直接胡坐を掻いた。真帆とは十分な距離がある。彼女はなにかを言いたそうに口を開いては、そのたびに水を飲んでいた。言葉も一緒に飲み込むつもりらしい。
「なにかあったのか?」
「うん、まあ、あったと言えばあったんだけど。……あ、夏之、彼女できた?」
誤魔化そうとしているのは明白だったが、あえて夏之はそれに乗っかった。
「あー……、いや。真帆は?」
「あたし? うん。まあ。というか、タバコ、まだ外で吸ってるんだ? エライね」
「どうして分かるんだ?」
「だって、夏之からはタバコの臭いするけど、お部屋は黄ばんでないもん。灰皿だって綺麗。どうせビールの空き缶を灰皿代わりにしてるんでしょ」
「ははっ、ご名答。さすがにね、染みついた習慣は変わりません」
「そっか。そうだよね。……変わらないね、夏之は」
「お前もだろ」
「そうかなぁ? あたしは結構変わったよ? まつエクだってやめたし」
「ああ、あのサイボーグ化計画か」
「またそんなこと言う」
夏之にしてみれば、真帆がまつげエクステなる施術に金を注ぐことが理解できなかった。当時はそれで何度も口喧嘩をしたものだ。思い返せばくだらないけれど。
他愛もない話に、それまで緊張していた空気が若干ゆるんだ。脱いだコートを一瞥し、真帆が軽く肩を竦める。
「……あたしね、婚約してたの」
すぐには言葉が出てこず、ようやっと繋ぎ合わせた思考回路が選んだ言葉はありきたりな「おめでとう」というものだったが、声になる前にそれは喉の奥で消滅した。
真帆の表情と、過去形で紡がれた言葉の意味に気がついたからだ。結局なにも言えずに黙り込む。
それで正解だったらしい。真帆は軽く微笑んで、グラスの水面を見つめていた。
「それで、大事な話があるって言われてね。高級レストラン。もうこれは決まった、人生の勝ち組決定! ――なんて思ってたの。まあ普通はそう思うじゃない? 朝から美容院行って、ネイルして、これでもかっていうくらいに気合い入れて行ったんだけど」
話の落ちは大体予想がつく。
期待に胸を弾ませていた真帆は、さぞかし愛らしく見えたことだろう。
「向こうもぴしっとした格好してて、ちょっと緊張した顔でね。ああもうこれは間違いない、って。いつ言ってくれるんだろうって思いながら、おいしいフランス料理食べてたの。もうすぐデザートっていうときに、宏樹さんが――彼がね、切り出したのよ」
その言葉に、真帆は目を輝かせたのだろうか。
遠くを見つめて、彼女は不器用な笑みを浮かべた。
「『海外に転勤が決まった』って。あれ、って思ったけど、これを機にってことなのかなって。あたしもほら、仕事してるけど、でも、寿退社にも憧れてたし、勤務地によってはちょっと迷うけど、海外で新婚生活もいいなぁって。一瞬でそこまで考えちゃってね。バカみたいでしょ、でもね、そんな風に考えちゃうものなんだよ」
「……それで?」
「うん。『おめでとう、どこに?』って聞いたら、スイスだって。それならまったく問題ないって、またしても一瞬で大喜び。だってオシャレじゃない? あとはもう、『結婚してくれ。ついて来い』っていう台詞を聞くだけだって思って、待ち構えてたんだけど」
真帆はミーハーな節があったから、イメージ的にスイスは申し分なかったのだろう。
一度言葉を区切って、彼女は大きく息を吐いた。声にはなっていないのに、こんなにも震える溜息は初めて聞いた。
「…………『別れてくれ』って、言われちゃった」
「……そう」
「うん。もうね、人間、びっくりすると日本語でも理解できないんだね。彼がどこの言葉喋ってるのか分からなくなっちゃって、でも、よくないことだっていうのは分かって、ぶっさいくな笑顔のまんま固まっちゃって。聞き返したら、頭下げられたの。『慰謝料は払う。婚約破棄してくれ』って。宏樹さんね、もうほんっとプライドの高い人で、夏之とは比べ物にならないくらい。ケンカしてもぜーったいに折れないの。そんな人がだよ? 人前で、それも高級レストランで、ケンカもしてないのにあたしに頭下げたの。信じられる? もうね、写メ撮りたかったくらい」
実際はそんなこと微塵も思わなかったくせに、真帆は携帯を操作するジェスチャーをして一人で笑った。生憎だが笑えない。痛ましい表情になっていたのだろう。一瞬だけ目が合うと、真帆は逃げるように視線を逸らした。
「……同じ部署の子のコト、好きになっちゃったんだって」
「え……」
「その子について来てくれって言ったんだって」
「真帆は、その男とどれくらい付き合ってたんだ?」
慰めの言葉が見つからず、そんなことを聞いていた。もっと気の利いたことを言えないものかと、自分の情けなさに舌打ちしたくなる。
「もうすぐ二年。夏之と別れて半年後に付き合って、ちょうど一年くらい前に婚約したの。同棲はしてなかったけど。それでね、聞いてくれる? その同じ部署の女の子なんだけど、付き合ったのが三ヶ月くらい前なんだって。笑っちゃうよね。三ヶ月だよ、三ヶ月。――たった三ヶ月! あたしなんか、二年も付き合ってたのに!」
声を荒げた真帆は、アイラインの崩れた瞳からぼろぼろと涙を流して立ち上がった。
怒りに任せて床に叩きつけられたグラスが割れる。けたたましい音に、真帆はさらにいきり立った。
泣いて喚いて、二週間前に明里がそうしたのと同じように、青いビーズクッションを夏之に叩きつける。避けた拍子にクッションはベランダの窓にあたり、カーテンを揺らした。カーテンレールが悲鳴を上げる。
真帆とは六年間付き合っていたけれど、彼女がここまで感情を露わに憤ったことはあっただろうか。ケンカは人並みによくしたと思っているけれど、こんな風に泣き怒る姿を見た記憶は残っていない。
真帆の言葉は、もう夏之に聞かせるためのものではなくなっていた。彼女が彼女であるために、吐き出さなければいけないものなのだろう。
強いて言うなら、宏樹という男に聞かせるべきものなのだろう。
「なんで、なんでよ! だったらなんで最後に優しくするの、なんであんなっ……、大事な話なんて、言うの! 一人で浮かれてバカみたい! 『本当に好きだった』なんて、そんな言葉いらなかったのに!!」
「――真帆、少し落ち着け。怒鳴ってていいから、とりあえず座れ。ガラス踏んだら危ないから」
「命令しないで! もううんざりなの! なんでっ……、なんで、いっつも、命令口調で言ってきたくせに……、なんで、最後は『別れてくれ』なのよ! なんで、そんなお願いするの。なんで最後だけ、あたしに決めさせるのよぉっ……!」
「あぶなっ――、真帆!」
感情に任せて一歩踏み込んだ真帆の足元に、割れたグラスの破片があった。慌てて、半ば突き飛ばすように真帆の身体を押しとどめる。
足裏に走った痛みで、破片を踏んだのだと自覚した。ああくそ、あとは寝るだけだと思って靴下を履いていない今の自分を呪った。
ソファに座った真帆が、やっと正気に返ったように夏之の名を呼んだ。左足が痛い。真帆の肩を掴んだまま、彼女を支えにして左足を上げて確認してみると、土踏まずのあたりに親指の先ほどの破片が刺さって赤く光っていた。
痛みはひどいが、深さはないようだ。怖々抜いても、血が噴き出すことはなかった。
「あ……、ご、ごめん、あたしっ……」
「いーって。それより悪い、包帯取ってきてくれるか? 前と場所変わってないから」
「う、うん。待ってて」
顔面蒼白になりながら救急箱を取りに行った真帆が戻って来る一、二分の間が、夏之にはとても長く感じた。じくじくと傷が痛む。戻ってきた真帆が消毒まできっちりと済ませ、丁寧に包帯を巻いてくれた。大きな怪我ではないから、病院に行くほどでもないし、軽く踏みしめた限りでは歩くのにも問題はなさそうだ。
ちょこんと隣に座った真帆が、唇を真っ青にさせて震えていた。硬く握られた手を上から包んでやる。そうすれば落ち着くことを覚えていた。
「……ごめんね。取り乱した」
「気にすんな」
「夏之はほんと、慰めるの下手だよね。付き合ってるときも、たまにそれでイライラしてた。『どうしてもっと声かけてくれないの』って。……でも、そういうところが夏之の優しさだったんだって、別れてから気づいた」
「……そりゃ、どうも」
フラれた身としては、なんと答えていいか分からない。
肩に重みを感じて首を巡らせれば、懐かしい香水の香りが漂ってきた。一年前の自分なら、こうしてもう一度真帆に頭を預けられることを喜んだのだろうが、今ではあのとき感じていた感情はない。代わりに、もっと別の――たとえるなら、妹を思うような愛情が、静かに胸を満たしていく。
額を肩に押し付けて、真帆はまた泣いているのだろう。震える肩を抱くことはできないけれど、代わりに強く握った手の甲を親指で撫でてやった。
「……フラれて、ショックで、それでふと思い出して夏之のトコ来たけど。でも、ヨリ戻したいとか、そういうんじゃないから、安心してね」
その言葉に少しも傷つかないのは、心の向ける方向が変わったからなのだろう。
「少しだけ、こうさせて」
「おー、泣け泣け。全自動涙吸い取り機に徹してやる」
「……バッカじゃないの?」
少しだけ笑った声はまだ泣いていて、それでも笑ったことに安堵した。嫌い別れしたわけではないから、真帆が傷ついていると心が痛む。特別な意味での未練はもうないが、彼女には笑っていてほしい。
しばらく真帆の小さな嗚咽を聞きながら、ぼんやりしていたときだった。
ガタンッとなにかが倒れるような物音がして、夏之と真帆は同時に視線をベランダへと向けた。「風?」呟くように真帆は言った。夏之も、一年前ならそう思って気にしなかっただろう。
だが、今は。
――まさか。急激に指先が冷えていく。反射的に壁にかけた時計を見た。長針と短針がほぼ同じ位置に重なり――、天辺を示している。
真帆の静止も聞かずに、足の痛みも忘れてベランダへ駆け寄って、窓を開け放った。半身を乗り出すようにして覗き込んだベランダには、当たり前のように人影はない。非常用扉の向こう側から漏れ出る明かりもない。
ただ、お隣さんのベランダにいつもは行儀よく揃えられていたピンク色のスリッパは乱雑に脱ぎ散らかされ、鉢植えが無残にも倒れていた。
風はない。――日付が変わった。今日は夏之の誕生日だ。思い上がりでないなら、彼女がここに来ない可能性はゼロではない。
「夏之? どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
もし、日付が変わると同時に「おめでとう」と言ってくれるつもりだったのだとしたら。
一番最初に、祝ってくれる気でいたのだとしたら。
明かりがついているのを見て、ベランダに来て、それで。
それで、――夏之に寄り添う真帆と、真帆の手を握る夏之の姿を、見たのだとしたら。
「夏之、あのね、今日泊まっていってもいい? 終電なくなっちゃったし、あ、さっきも言ったけど変な気はないから」
「……悪い、真帆。タク代出すから今日は帰って」
今の自分はどんな顔をしているのだろうか。
一瞬きょとんとした真帆が、途端に弾かれたようにけらけらと笑いだした。
「なんだ、夏之ってば。やっぱり彼女いるんじゃない!」
その言葉がひどく痛い。
なにをどうしたのか、気がつけばタクシーを呼んで、真帆に万札を握らせて送り出していた。マンションのエレベーターに乗り込んで電話をかける。
この時間だ。迷惑だろうという考えは、どこかに消えていた。
何度コールしても相手は出ない。メールを送ろうとして打ち込む言葉が出てこず、結局送らなかった。
深夜一時。
あれほど楽しみだった今日という日が、突如として不安に変わった。
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