第9話 夏の終わり、次の季節へ

「そういえば、夏さんの誕生日ってもうすぐなんですか?」


 明里の部屋でそうめんを囲んだ昼食時、奏は思い出したように聞いてきた。

 三人でバーに行って以来、時間が合えば奏を交えて三人で食事を取ることが二度ほどあった。明るく快活な性格の彼女は接しやすく、夏之としても気を遣わなくていい。それになにより、彼女は夏之が抱いている思いに感づいているらしく、なにかと気を回してくれていた。

 奏は長期休暇を利用して、一週間ほど明里の家に泊まり込む予定らしい。若くて綺麗な女の子が傍にいるというのは、やはり気分がいいものだ。まさしく両手に花の状態だ。同僚にバレでもしたらさぞかし羨ましがられるだろうと、夏之は内心ほくそ笑む。

 氷を取りに行っていた明里が戻ってきたタイミングで放たれた「誕生日ってもうすぐなんですか?」の一言に、彼はちらりと明里を盗み見た。

 ほんの一瞬、彼女の肩が跳ねる。胸の内でガッツポーズを取ったのは内緒だ。


「いつだと思う?」

「うわ、質問に質問で返すんとかめんどくさ! もったいつけんと教えて下さいよ」

「ちょっと奏、失礼でしょ!」

「いいっていいって。奏ちゃんとはこのテンポの方がやりやすいし。あ、それとも山城さんも面倒だとか思った?」


 真帆にも「夏之ってたまにめんどくさい」と言われたことがあるのを思い出し、じんわりと冷や汗が浮き出てきた。

 綺麗な動作でスカートの裾を払い、すとんと席についた明里は、小さな頭をふるふると横に動かす。

 カラン。グラスに落とされた氷が、涼やかな音を立てた。


「いいえ。でも、いつなのかは気になります。夏ですよね? あ、もしかしてもう過ぎちゃいましたか?」


 これ以上もったいつけると奏にまたしても面倒くさいと言われてしまいそうなので、大人しく白状することにした。

 梅肉を入れていないめんつゆにそうめんをくぐらせ、一息にすする。どこで食べても同じ味だろうに、特別おいしく感じるのが不思議だった。


「過ぎたっていうか、むしろまだまだ。十一月生まれだから、俺」

「えっ、十一月ぅ!? やのに!?」

「冬生まれなんですか?」

「そ。十一月十八日のさそり座。雪の降る日に生まれたらしいよ」


 予想通り、二人は目を白黒させて驚いていた。これがいわゆる、鳩が豆鉄砲を食らったような顔なのだろう。夏之の方はとっくに慣れている反応だったので、どこか悪戯が成功したときのような得意げな気分になった。

 雪の降る日に生まれた、夏之。

 奏がきらきらと目を輝かせて、どうしてなんでと聞いてくる。素直な反応が微笑ましかった。両親ののんびりとした名づけエピソードを話すと、二人はけらけらと声を上げて笑った。楽しんでくれたならなによりだ。夏之も気分がいい。


「じゃあ、お誕生日にはケーキ焼きますね」

「そんならあたしは、明里のケーキ食べにまた来るわ」

「え、俺は祝ってくれないの?」

「カードくらいは書いて上げますよー」


 会話はピンポン玉のようにぽんぽんと弾み、軽快に進んでいく。くだらないことで馬鹿みたいに笑いながら複数人で食事を取るのがこんなにも楽しいだなんて、学生時代以来の経験だった。

 少し真面目な話から、本当にくだらない話まで幅広く話題に上った。いつまで経っても沈黙が訪れることはなく、たまに全員が黙り込んでしまっても、それはけっして気まずいものではない。どこかほっとする静寂だった。

 まるで兄弟が集まったみたいだとさえ思う。よく考えてみれば、若い女性二人の間に男――それもただの隣人だ――が一人混ざっているのは妙かもしれないが、この三人で過ごす時間はとても有意義なように感じた。

 今日は遅出だ。昼食を終えてベランダからそそくさと部屋に戻り、出社の仕度をしていると、コンコンとガラス戸が控えめにノックされた。

 最近新調した藍色のカーテンを開けると、明里のピンク色のスリッパを履いた奏が、したり顔で手を振っている。


「どうしたの?」

「夏さん、今夜ちょっと時間あります?」

「残業さえなければ、まあそれなりに。なんで?」

「今日ね、明里が遅くなるみたいなんです。やから、一緒に飲みに行きません? 例のバーに。――明里の話、いっぱいしますよ?」


 自分の知らない学生時代の話をちらつかされて、それであっさりと陥落されたわけではなかった。例のバーに行きたかったという思いもある。

 明里の話題だけに飛びついたのではないという意思を示したかったのだが、それをアピールするよりも先に頷いてしまっていた。あれよあれよと言う間に手慣れた奏によってメールアドレスが交換され、携帯には新しいメモリが一件増えた。

 奏は少し強引で、けれど嫌味がない。子供のような素直さがある。「それじゃあ、またメールしますね」穴から向こう側に戻っていった彼女の背を見送り、今度こそシャツに袖を通した。


 片足ずつ、腿を上げて付け根からぐるりと大きく回す。こうして関節をほぐせと、学生時代にコーチから何度も言われた。可動域を広げろ。そうすればよく動く。速くなる。今でも無意識に行うストレッチは、その頃の名残でもある。

 久しぶりにサッカーがしたくなった。試合じゃなくてもいい。草サッカーでもいい。いや、誰かと一対一でボールを蹴り合うだけの、そんな単純なものでもいい。

 同僚でも誘ってみようか。暑い日になにを、と、言われるかもしれない。それでもよかった。ただ、思いっきり誰かとはしゃいでみたい気分だった。





 奏と二人で訪れたバーで、佐野は暖かく迎え入れてくれた。甘い香りを喉に流し込み、彼女が語る高校時代の話に耳を傾ける。

 明里は今よりももう少し気が強くて、ケンカを売ってきた男子を投げ飛ばしたこともあるそうだ。格闘技にハマったのは、父親の影響以外に、昔からその見た目で苦労してきたという理由もあるらしい。学生時代は相当モテたようだが、付き合ったことはないと奏は言った。

 信じられない。素直にそう零せば、アーモンド形の瞳がチェシャ猫のように細められる。


「男慣れぜんっぜんしてませんよ、あの子。好きな人とは、ちゅーもしたことないんちゃうかな」


 少し引っかかる言い方だった。本人がいないところでする話でもないため、黙って聞き流す。


「男嫌いだったとか?」

「いいえー。慣れてるって思われて、即手を出そうとするアホばっかりやったんですよね、周りは。あの子、夢見がちやから、一歩一歩進んでいく恋愛がいいみたいで。まるで少女マンガの女の子。……めんどくさいですよー?」


 ナッツをかじった奏は、昔を思い出すかのように喉を鳴らした。

 告白されて、付き合って、手を繋いで、名前を呼び合って、抱き締めて、キスをして、それから身も心も愛し合う。順を追って恋愛をしたいと望む女の子。

 確かに少し面倒だけれど、嫌いではない。


「あ、そろそろ明里帰ってきそう。あたし戻りますね。バレたらまたいじけるやろうし」

「ならお代は俺が持つよ。――てか、また?」

「はい、。自分はいつまで経っても『山城さん』やのに、あたしのことは『奏ちゃん』なんがずるいって、こないだ絡まれました」


 なんだそれ。思わずにやけそうになって頬の内側を噛んでいたら、奏が白けたように目を細めて溜息をついた。


「バレバレですよ、夏さん」


 にやけすぎ。それだけ言い置いて、奏が店を出る。途中で擦れ違った歌姫に思い切り抱きついていたが、歌姫の方は面倒くさそうに流しただけで終わっていた。

 ――ずるい、ね。

 どっちがだと言ってやりたい。ずるいのは明里の方だろう。つやつやとした髪が、すぐ目の前で揺れていたときのことを思い出した。このバーで、この席で、彼女の髪に初めて触れた。頬に触れて、耳元で確かに囁いた。

 もう勝率は、ほぼ八割以上あるのだろう。それなのに動けないのは、大人のずるさか、それとも深手を恐れる情けなさか。とびきりきつい酒を注文して、一気に胃まで流し込む。店主の佐野が苦笑したが、それでも胃に落ちるアルコールを止めるすべはなかった。


 もうすぐ夏が終わる。

 奏は実家に帰るだろう。秋になって肌寒くなれば、夜の一服がつらくなる。それでも不思議と嫌な気分にならないのは、もうベランダに出る理由が、喫煙のためだけではなくなっていたからだろう。

 酒の味が分からなくなってきた頃、ニックの演奏するピアノの音が鼓膜を震わせた。

 ふと、気がつく。


 真帆の作った卵焼きの味は、どんなだったろうか。 

 どんなに思い出そうとしても、よみがえってくるのは甘く味付けされた明里の卵焼きだ。「おいしいですか?」恐る恐る聞いてくるその声が、耳の奥に残っている。

 薄れていく記憶の代わりに、どんどんと新しい記憶が積み重なっていく。


 男の恋は保存式、女の恋は上書き式。そんな風によく言うけれど、不思議なもので、男の恋にもどうやら上書きされていく部分もあるらしい。

 そこまで考えて、夏之はカウンターに突っ伏して笑った。

 恋。もう完全に認めてしまった感情に、思いのほか胸がすっとする。

 ああそうだ、恋だ。



 ――俺はあの子に、恋をした。


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