第8話 音の渦、君の音


 ねっとりとした嫌な夜だった。

 風は重く、駅の近くに行けば酔っ払いの喧騒が身体を包み、足元をゴキブリが掠めていく。普段なら気にならない繁華街の陰にやたらと目が向くのは、自分の気持ちが沈んでいるからだろうと、夏之は嘆息した。


 明里と奏に連れられて辿り着いたのは、駅前のとあるビルの地下だった。

 行き慣れていないと、こういうところには足を踏み入れにくい。最初はどこか気まずそうにしていた明里だったが、ビルが近付くにつれて足取りは軽くなり、今では微笑みを浮かべながら階段を駆け足で降りる始末だ。

 コンコンコン。軽快な足取りで、ヒールがコンクリートを叩く。地下には店があった。店までの階段は両脇の壁が打ちっぱなしの鉄筋コンクリートで、随分と冷たい印象を受ける。そこに吸い込まれるようにして入っていく明里は、今まで抱いていた印象と少し違って見えた。


 どうやら店はバーらしい。openの札がドアにはかかっていて、明里は迷わずその扉を押し開けた。カラン。ドアベルが三人を迎え入れる。

 薄暗い店内には、耳ざわりのいいジャズが流れていた。入った途端に、全身がオレンジ色の光に優しく包み込まれる。木材で統一された内装はその照明と音楽を絶妙に吸収していて、初めて来たというのに緊張感を解きほぐす居心地の良さがあった。

 天井からは、照明を囲むようにして流線型の紙のオブジェが吊るされている。客はそれなりに、といったところだろうか。隠れ家的な場所なのかもしれない。


 明里は夏之の存在などすっかり忘れたかのように、丸テーブルの隙間を縫ってまっすぐにカウンターへと向かった。代わりに、奏にエスコートされるような形になってしまい、情けないと苦笑が漏れる。

 色とりどりの酒瓶を背に、眼鏡をかけた若い男性がグラスを磨いていた。バーテンダーの一人だろうか。年は自分とそう変わらぬほどか、少し上あたりか。三十は過ぎていないだろうが、いかんせん年齢不詳の顔立ちだ。

 もうすでに席が決まっているかのように、明里は彼の前に座った。


「いらっしゃい」


 ふわりとした笑顔と共に迎えられ、彼女は幸せそうに頷く。


「奏ちゃんも座りなよ。……あれ、そちらは……?」

「あっ、えっと、あちら影山さんです。それで、こちらがこのバーのマスターの、佐野さん」

「……どうも」


 軽く会釈をすると、佐野は「ああ、あの……」となにか含んだ微笑を零して、おしぼりを三つ用意した。柔らかな雰囲気が人を惹きつける。だからこんなに若いのにマスターが務まるんだろうなと、声に出さずに呟いた。

 席は自然と明里を挟む形になった。適当に注文して、出されたカクテルでグラスを鳴らす。青い液体が喉の奥に消えた。女性二人は、オレンジ色だったりピンク色だったりと、愛らしい色のカクテルを楽しんでいる。

 ここまで来たのはいいが、肝心な「ニック」が見当たらない。夏之一人をそっちのけにして女性二人は積もる話で盛り上がっているし、佐野も他の客の注文を受けていて、しばらくはこちらに戻ってきそうにない。

 それでもたまに思い出すのか、明里は振り向いて夏之にも話題を振ってきた。他愛のない会話だが、十分に面白い。奏も話がうまく、退屈するようなことはない。

 とはいえ、関西と関東に分かれてしまった二人には、話し足りないことがたくさんあるのだろう。きゃっきゃと盛り上がるところに水を差せるわけもなく、夏之はちびりちびりと色鮮やかなカクテルを舐めていた。


 全員が二杯目に口をつけ始めたところで、明里がなにやら奏に必死に頼み込んでいるのが見えた。小声なので会話は聞き取れないし、聞き取ろうとも思わない。

 ぼんやりと店の奥にあるグランドピアノを眺める。闇に溶けるように置いてある、黒い光沢が見えたのだ。

 音楽は好きだ。得意というほどでもないが、昔ピアノをかじっていたことがあった。今でもたまに、実家に帰れば弾いたりしている。最近では甥や姪にねだられて、アニメソングばかりを弾いている。


「気になりますか?」


 戻ってきた佐野が、静かに声をかけてきた。


「ピアノ、立派でしょう」


 我が子でも見るかのような優しい眼差しが、店の奥に向けられる。彼は時計を確認し、カウンターから乗り出して明里にそっと耳打ちした。その距離の近さに、もやっとしたものが胸を覆う。

 なにしろ、佐野になにかを囁かれたときの明里の顔といったら、白い頬を薄紅色に染め、目を潤ませて、悩ましげな吐息を零さんばかりのものだったのだ。あれはアルコールのせいだけではないだろう。

 落ち着かない。しかしそれを態度に出すわけにもいかず、夏之は黙ってグラスを傾けた。

 突然、それまで流れていたジャズがふつりと途切れた。そして店の隅――ちょうど、グランドピアノの辺りが明るく照らし出される。光の中にピアノが浮かび上がり、ある男性の手によって、それは静かに歌い始めた。


「ニックー!」


 ぴょんっと飛び降りるようにして明里が席を立ち、ピアノの方に向かって大きく手を振った。ぎょっとして振り返ったのは夏之だけで、このバーにいるほとんどの客が微笑を零している。静かなバーで突如として大声を上げる客など、相当目立つだろうに。どうやらいつものことらしい。

 最初の衝撃が落ち着いた頃、ようやっと夏之は気がついた。あのピアノの前にいる男こそ、「明里の大好きなニック」なのだ。目を凝らす。そこにいたのは、白い歯が印象的な黒人の中年男性だった。彼はけらけらと笑い、明里の声に応えるように鍵盤をなぞる。

 明里はひどく嬉しそうに笑い、ちぎれんばかりの勢いで手を振った。


「そんなにはしゃいでたら、あっというまに酒が回るよ」


 ふわり。涼やかな風が通り過ぎた。「え?」と、口の形だけがそう呟く。

 ぽんっと明里の肩を叩いて過ぎ去っていった人物を見て、夏之はついに言葉を失った。

 薄暗い照明でも分かる。茶色っぽい髪は、染めているというより天然の色合いだ。ふわふわと柔らかそうに肩の辺りで波打ち、抜けるような肌がちらちらと覗いている。彼女は明里と奏を流し見、唇だけで微笑んだ。

 美人。その言葉はテレビや雑誌の向こう側では当たり前のように使われているが、こちら側の世界でなら、明里に当てはめるのが正しいと思っていた。けれど明里以上に、彼女にはその言葉がよく似合う。

 彼女がピアノの傍らに立つと、店内には拍手が沸き起こった。明里も奏も、興奮を隠しきれない様子で手を叩いている。目を瞠るほどの美女がニックといくつか言葉を交わすと、店内はしんと静まり返った。

 そして、そこは楽園に変えられる。流れ出る柔らかな歌声は限りなく広がり、足元から心に沁み込んでくる。追いかけるピアノの音は美しく、歌声に溶け、身体を優しく抱いた。これはなんの曲だろう。分からない。だが、分からないままでいいような気がした。

 言い知れない高揚感。――すごい。そんな陳腐な感想しか浮かんでこない。


「……明里ちゃん、すっかり夢中でしょう」


 演奏と歌声にすっかり囚われていた夏之を、店主の佐野が現実に引き戻した。歌声を邪魔しない小声は、夏之の耳にだけ届くように配慮されている。

 ちらと見た明里は、うっとりと聞き入っているようだった。


「明里ちゃん、初めてうちに来たときに、ニックのピアノに惚れちゃって。今ではすっかり常連さんなんですよ。たまに連弾なんかもしてる」

「はあ……」

「歌ってるのは真凛まりん。真凛には奏ちゃんが一目惚れ……一聴き惚れしたみたいで、仲良くなったみたいですよ」

「綺麗な人ですね」


 それはぽろりと零れた、自然な感想だった。灰色の双眸にはくっきりと虹彩が刻まれていて、精巧に作られた人形のようにも見える。けれど歌っている彼女は、人形などとは思えない。血と肉を持ち、溢れんばかりの生を感じさせる存在だ。

 讃美歌のような歌が収束したかと思えば、次はアップテンポの音楽に変わった。明里も奏も、いつの間にかステージ近くで身体を揺らしている。


「ところで、あなたが噂のお隣さんですか?」

「へ? 噂の、って……。俺、噂になってるんですか?」

「明里ちゃんの話によく出てくるんですよ」


 カクテルを作りながらのその一言に、どきりと心臓が跳ねた。渇く唇を舐めて潤し、なんの気なしに尋ねる。


「たとえば、どんな話を?」

「他愛のないお話ですよ。くだんのベランダ開通事件の話だとか、実は梅干しが苦手そう、だとか」


 くすくす笑いながら放たれた一言に、口に含んでいたカクテルを吹きそうになった。そんな動揺を悟ってか、佐野は穏やかな表情のまま一度言葉を飲み込んだようだった。

 実は梅干しが苦手。そんなことは、明里に一度も言った覚えがなかった。

 何度も食事を用意してもらった中で、梅干しが出てきたことはあった。確かに自分は梅干しが苦手だが、そんなそぶりは見せないで食べて見せたはずだ。だのに、彼女は気づいていたというのか。

 ――それはなんというか、その、さすがに。

 アルコールも手伝って、かぁっと頬に熱が籠る。どこまで見てくれているんだろう、彼女は。期待してもいいのだろうか。これ以上は勘違いしそうになる。薄暗い照明に感謝した。口元を手で覆った状態では、赤く染まった頬などあまりよく見えないだろう。


「またどうぞ、今度はお二人で遊びに来て下さい。……明里ちゃんは、ニックがいるとああなっちゃいますけど」

「……なんだか子供みたいですね」

「子供だと思いますよ。……あの子は、きっと」


 慈しむような声音が、ポロンと、ピアノの音のように落ちた。

 演奏が一息ついたのか、明里ははしゃぎながらニックの首に抱きついている。ニックも笑顔で彼女を受け止め、わしゃわしゃと頭を撫でて頬にキスを送っていた。不思議と嫉妬心は芽生えなかった。穏やかなものに胸が満たされている。

 明里が夏之を見つけ、高揚した顔のまま手を振ってきた。気恥かしさを覚えながらも、手を振って応えてやる。すると彼女は慌てて俯き、ニックと真凛に耳打ちしてはにかんだ。

 なにをする気なのだろう。ニックが場所をずらし、その隣に明里が腰掛ける。「ああ、」と佐野が笑った。ここは笑顔で溢れている。


「当店自慢の、最高のおもてなしですよ」


 そこからは、おもちゃ箱をひっくり返したかのようだった。

 音が溢れる。笑顔が弾ける。

 ラヴェルやドヴォルザークを弾いていたかと思えば、誰もが知っているアニメソングや最近の洋楽、J-POPに移行していく。次々と曲が入れ替わり、しかしそれはとても自然で、一つの枠に囚われない不思議なメドレーだった。

 そこにあの歌声が重なる。歌詞があってないような曲も、アドリブで歌が乗る。誰もが楽しそうだった。客も大いに盛り上がっている。

 そして、またしても曲が切り替わった。


「え、これって……」


 聞き覚えがある。以前好きだと零した、ルパン三世のテーマだ。

 声を上げて笑いだしそうで、今度は違う意味で口元を覆った。それでも漏れ出る笑声に、佐野が「おしぼり使いますか?」と尋ねてくる。ありがたく新しいおしぼりを受け取って口を覆い、楽しそうに身体を揺らす明里を見た。


 美人で、明るくて、頑固で、少しおっかない。そのくせ気が利いて、料理が上手くて、――細かいところまで見てくれている女の子。

 これを好きにならずにどうしろっていうんだ?

 涙が滲むほど笑ったあと、ようやく終わったピアノジャックに店内がどっと湧いた。歓声と拍手が彼らに降りそそぐ。ニックと真凛の頬にキスをした明里は、うっすらと額に汗を浮かべて小走りで戻ってきた。


「影山さん! どうでしたか!? ニックのピアノと真凛の歌声、すごいでしょう!?」

「うん、すごかった。びっくりした」

「でしょう!? もうほんっと、あの二人ってすごくて、私めっちゃ憧れてて、たまにこうやって一緒に演奏させてもらうんですよ!」


 興奮したまま話し続ける明里に、うん、うん、と相槌を打つ。その髪に触れたくなった。アルコールとシャンプーの匂いを隠したその髪に、気がつけば手を伸ばしていた。「……え?」明里が目を丸くさせる。じわじわと目元が赤く染まっていった気がしたが、薄暗い照明のせいでよく分からない。

 固まってしまった彼女に構うことなく、夏之はさらさらと指通りのいい髪に手を滑らせ続けた。


「覚えてくれてたんだ?」

「え? あ、えっと……?」

「あの曲。思い出の曲だって言ったの、覚えててくれたんだ?」


 高校時代、サッカーをやっていた。最後の試合で応援に来ていた吹奏楽部が演奏し、流れていたのが、あのルパン三世のテーマだ。

 優勝こそ逃したものの、あの曲は思い出の一部となって深く夏之の中に根付いている。それを話したのは、もう随分と前のことだ。

 くっきりとアイラインの引かれた目が、ふよふよと頼りなく泳いだ。白い頬が色を変えている。カウンターの向こうに佐野はいない。他の客に酒を出しに行ったらしい。

 静かなピアノバラードが店内に流れた。そこに歌はない。歌姫は奏と語らっている最中だ。


「覚えてて、っていうか……あの、弾いてて楽しそうだな、って思って、それで……」


 自分は酔っているのかもしれない。

 俯いた明里の目元を親指で撫で、震える睫毛をじっと見つめた。熱を持った耳元に、そっと唇を落とす。


「嬉しかった。――ありがとう」


 震えた薄い肩を、この場で思い切り抱き締めたくなった。

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