第10話 思わぬ後転、あるいは、好転
奏のお別れ会が開かれてから、もう数週間が経つ。
まだ蝉がわんわんと鳴き叫んでいる頃、お隣さんの家にやってきていたお嬢さんは関西に帰っていった。
せっかくだからとお呼ばれしたお別れ会は、夏だというのにぐつぐつと煮えた鍋を囲むという、なんともいえないものだった。
クーラーをこれでもかと効かせた部屋で、それでも汗だくになりながら三人でつつく鍋は、文句なしに美味かった。
時折、奏は夏之を見て、わざとらしく「夏さん」と呼んだ。そのたびに、明里は少しだけむくれて――本人は気づいていないのだろうけれど――、それが腹が立つほどにかわいいと思ってしまった。
それは奏も一緒だったのだろう。友人に小さな意地悪を仕掛けた彼女は、けれど帰り際に、とんでもない爆弾を落として去って行った。
「夏さん、明里をよろしくお願いしまーす。結婚式には呼んでな~」
「奏ッ!!」
顔を真っ赤にした明里が奏の背を叩き、泣きそうになりながら駅まで送っていくのを、夏之はだらしない表情を隠しながら見守っていた。
最後くらい気の置けない友人二人がいいだろうとの配慮だったが、これが二人きりで駅から帰ってくることになっていたらと思うと、よかったような惜しいことをしてしまったような、複雑な気分になる。
奏が帰ってからは、いつも通りの日常が戻ってきた。ひっきりなしに聞こえていた笑い声はなくなり、たまにテレビの音に混じって隣から小さな笑声が聞こえてくる。ベランダに出て一服していると、洗濯物を取り込む音が聞こえて、「こんばんは」と声をかけられる。
穏やかで優しい日々が過ぎた。
風は夏に比べるとかなり冷たくなり、長袖のTシャツ一枚だけでは肌寒い。もうすぐ紅葉の季節だ。せっかくだからと休みを確認して明里を誘ってみると、案の定、すぐに返事が返ってきた。絵文字と顔文字で品よく飾られたメールの文面には、「喜んで」と書かれている。
何度も重ねてきたデートで、お互いの距離はかなり近づいているような気がする。
あのバーにも何度か二人で足を運んだ。ほろ酔いで上機嫌の明里を連れ帰る道中、疲れ切ったサラリーマン達の羨ましげな視線を浴びたことは記憶に新しい。
ここまでくれば、付き合っているも同然だろう。子供ではないのだから、お互いに分かるはずだ。それでもまだ、夏之は明里の名前を呼べずにいた。気恥ずかしいとか、そういう問題じゃない。単純にタイミングを逃しただけだ。
明里も「影山さん」と呼び続けているし、突然「明里」と呼ぶのもなんだか気が引ける。
肝心なところでヘタレだと同級生に揶揄されたことがあるが、こういうところを言うんだろう。
ベッドに仰向けになって寝転がれば、テレビからは映画のコマーシャルが流れてきた。明里が見たいと言っていた映画だ。見るからに王道のラブストーリーだが、あの子はきっと目を輝かせるのだろう。紅葉狩りのあとに行ってみるのもいいかもしれない。
そんなデートプランを組み立てながら、夏之は静かに眠りについた。
* * *
「はぁ? 歓迎会? この時期に?」
「そうなんすよ、せんぱーい。なんか来週、アメリカ帰りのエリートがうちに帰ってくるらしくって。だから、その歓迎会のね」
「断る」
「まだなんも言ってないっす!」
後輩の
アメリカ帰りのエリートだかなんだか知らないが、歓迎したいのなら勝手にすればいい。参加してくれと頼まれれば参加するが、幹事なんていう楽しくもなんともない役目を負わされるのは死んでもごめんだ。
小鳥のようにピィピィ鳴く後輩の言うことには、幹事を任されたはいいが、勝手が分からずストレスで今にもハゲそうな気がするらしい。ハゲろ。癖の強い髪を引っ張って、冷たく言い放つ。
「影山先輩、それひどくないっすかー? ちょーっと手伝ってくれたらいいんすよーお。エリートさんでも楽しめるような、そーゆーオシャレな店知りません? チェーン店じゃさすがにまずいって、部長が」
「だからってなんで俺に聞くんだよ。俺もあんま知らねーし」
「でもこないだ、波多野さんが、先輩がかわいい女の子連れて歩いてるの見たって」
啜っていたそばを吹き出しかけて、慌てて咀嚼した。職場近くのそば屋は相変わらずの喧騒だ。周りには同じ部署の人間はいない。
「それで、なんで俺」
「デートでいろんなとこ行くっしょー? 相当な美人だって聞きましたよ? ね、ね、どんな子なんですか? 何カップ?」
そんなものは俺が知りたい。
そう言いそうになるのを呑み込んで、夏之は「オシャレな店」を一つ思い浮かべた。確かにあそこはアメリカ帰りのエリート様も気に入りそうな雰囲気ではあるが、職場の人間を連れて行きたいかと言われれば、思わず眉間にしわが寄る。
教えたくない。一言で言えば、それだ。別に秘密の場所でもなんでもないが、あの場所をひけらかしたくはなかった。
子供のようにはしゃぐ明里と、美しい歌姫。柔らかいオレンジの光。白い歯が印象的なピアニスト。優しいマスター。自分のために奏でられた、思い出の曲。
「先輩?」
「……あ?」
「あ? じゃなくて。ぼーっとしてるから。で、手伝ってくれるんすよね!」
「無理に決まってんだろ、自力で探せ」
「ええ~、そんなぁ」
項垂れる花隈に、せめてもの情けで伝票を預かってやった。一食分奢ってやるから見逃せ。子犬系男子の名を欲しいままにしている彼は、ぱっと顔を輝かせたあと、「あーっ、誤魔化したー!」と叫びやがった。まったく、騒がしい奴だ。
花隈には可哀想だが、自力で頑張ってもらうより他にない。
あそこは、夏之にとっても特別な場所になってしまった。
外に出ると、冷えた空気が全身を包み込む。ふいに柔らかな髪の感触を思い出して、今日は定時で上がれるだろうかと腕時計を見下ろした。
* * *
無事にエリート様の歓迎会も終え――結局、場所はアジアンテイストの居酒屋チェーンになった――、明里との約束の日が近づいてきた。
それにしても、最近彼女の顔を見ていない。ベランダに出ても、お隣さんの気配を感じない。仕事でバタバタしていたし、向こうも向こうで忙しく、時間が合わなかったのだろう。こんなことは今までにも何度かあったが、まったく気配を感じないというのは珍しかった。
この三日ほど、ベランダの戸が開けられた音も聞かない。覗き込んで確認するほどの礼儀知らずになった覚えはないので、メールを送って様子を訊ねてみたが、どれだけ待っても返信はなかった。電話を一度だけしてみたが、留守番電話サービスに繋がってそれきりだ。
どこかに泊りがけで出かけているのかとも思ったが、いつものようにベランダで一服していると、部屋の明かりが灯されたのが分かった。どうやら家にはいるらしい。
ざわり。言葉にできない妙な感情が腹に溜まる。いつもの煙がやけに苦い。
気がつけば、タバコの本数がいつもよりも増えていた。たった数日連絡が取れないだけで、どうしてこうも落ち着かない。ふとした瞬間に隣の気配を伺ってしまう。これではまるでストーカーだ。
――ただ、心配してるだけだ。ただ、それだけ。
これ以上訳の分からない言い訳が浮かぶ前に、夏之は携帯の電話帳を開いた。しばらく逡巡して、覚悟を決めたようにボタンを押す。数コール目で、相手は電話に出た。
「あ、もしもし、奏ちゃん? 今って大丈夫?」
『はーい、大丈夫ですよー。どうしたんですか?』
「んー、いや、あのさ。山城さんのことでちょっと聞きたくって」
『明里の?』
一瞬にして、奏の声のトーンが高くなった。夏之の気持ちにいち早く気がついた奏だ。この話題は楽しい以外の何物でもないのだろう。「それで、なんなんですか?」とはしゃぐ彼女には申し訳ないけれど、今の夏之には同じだけテンションを上げることは難しい。
少し言いよどんだあと、正直に、明里と連絡がつかないことを告げた。携帯の向こうから、予想通り間の抜けた声が返ってくる。
『え、ええ? 明里に限ってそんな……。夏さんなんかしました?』
「してないって! 原因が分からないから聞いてるんだよ、こっちは」
年下の女の子に恋愛相談なんてする年でもないのに、だ。
『んー……、なんでやろ。あっ! そういえば、三、四日前に、フェイスアルバムで風邪引いたかもーとか書いてたかも。もしかしたらそれちゃいます?』
「げ。もしかして、寝込んでるってことか……?」
『かもしれへん。夏さん、様子見てきてもらっていいですか? あの子、結構限界まで無茶するタイプやから』
「でもチャイム押しても出てきそうにないしなぁ」
『夏さん、なんのためにベランダがあるんですか?』
呆れかえった奏の声は、それでいてどこか優しい。電話が切れた後も、夏之はしばらく動けずにいた。ベランダでタバコの先が明滅する。
視線を落とした先にある、大きな穴。その穴から覗くピンク色のスリッパと観葉植物の鉢植え、それから室外機。
――もし。もし、奏の言うように、体調不良で寝込んでいるのだとしたら。大事になる前に、なんとかしなければならない。浮かび上がりそうになる他の考えを奥底へと押し込んで、夏之はそうっと穴をくぐった。
部屋の電気はすでに消えている。僅かにカーテンの隙間があったが、それを覗く気にはなれなかった。コンコン。控えめにノックをしてみるが、反応はない。やはり寝ているのか、それとも出かけているだけなのか。
なんとはなしにガラス戸に手をかけて力を入れてみると、思いのほかあっさりとスライドして目を瞠った。
「ちょ、おいおい、嘘だろ……」
ふざけるな、一人暮らしの女の家で鍵がかかっていないってどういうことだ。半開きにしてしまった戸を前に、夏之は嫌な汗が噴き出すのを自覚した。
焦りや怒りが込み上げてきて、妙に心臓が騒がしい。開いたところで入る気にはなれない。
説明のつかない苛立ちのまま、夏之は明里の携帯に電話をかけた。すると、案外近くから着信音が鳴り響いてくる。しつこくコールが鳴り響くが、留守番電話サービスに切り替わる気配はない。それでもそろそろ諦めようかと耳から離した頃、ドタンッとなにか重たいものが落ちる嫌な音がした。
「山城さん!? ごめん、入る!」
ガラッと間抜けな音を立てて開けたベランダの戸から、靴を脱ぎ散らかして部屋の中に上がり込む。籠もった空気が重苦しい。なんとか暖房は効かせているようだが、乾燥した空気が気になった。
同じ間取りの部屋だ。勝手は分かる。クリーム色のラグが敷かれたリビングを見回すと、二人掛けのソファの下で赤いジャージが蠢いていた。ぎょっとして駆け寄る。
小さな手の先には携帯電話が落ちていて、これを取ろうとしてソファから落ちたのだろうことが見て取れた。
慌てて抱き起した身体は、驚くほどに熱い。顔にかかったぼさぼさの髪を払ってやると、暗闇の中でも分かる青白い頬が覗く。苦しそうな荒い呼吸といい、高熱が出ていることには間違いなさそうだ。
「おい、おいっ! しっかりしろ! 救急車呼ぶか? おい!」
「……え、あ……?」
うっすらと目を開けた明里が、何度か視線を彷徨わせて夏之を見上げる。彼女はなにかを声もなく呟いて、ぐったりと四肢の力を抜いた。
ここだろうとあたりをつけて寝室まで運んでベッドへ寝かしつけ、リビングのローテーブルに置いてあった冷却シートを額に貼ってやったところで、夏之はふうと一息ついた。
寝室の暖房もそろそろ効き始めている。口元までしっかりと毛布をかけてやり、小さな頭をそっと撫でた。
さらさらと流れる髪は軋み、頭皮は少しべたついている。風呂に入る体力もなかったのだろう。キッチンには袋のままレトルトのお粥が散乱していたから、この状況になる前に買い込んでいたらしい。流し台に置きっぱなしになっていた食器から見るに、まともに食べたのは二食ほどらしかった。
一言連絡を入れてくれれば、いくらでも看病しに来たのに。
距離は近づいたと思っていたが、気のせいだったのだろうか。それだけの信頼に値する男ではなかったということか。頼られていないという事実に、思わず眉が寄る。
かさついた頬を指の背で撫でたとき、明里の睫毛が小刻みに震えた。熱で潤み、充血した瞳が夏之を捉える。
「気ぃついた?」
「……なん、で……?」
「ベランダ開いてたから勝手に入った。ごめん。でもそんな状態で、鍵もかけずに倒れてるとかふざけんな。どんだけ危機感ないんだよ、お前」
「ごめ……」
普段よりもきつくなる言葉尻に、明里が弱々しく肩を竦ませる。半分は夢の中なのだろうが、どうやら怒気は感じているらしい。
怯えさせたいわけじゃない。叱りつけるなら、回復してからでも十分だ。
「病院は? 行った?」
かろうじて頷き、明里は「インフルエンザ」とだけ呟いた。
――ああ、なるほど。それでこの有り様か。夏之自身はインフルエンザに罹ったことがないので苦しみが分からないが、ひどい人は一週間近く寝込むと聞く。
布団に潜り込もうと必死の明里の様子を訝って理由を問うてみると、彼女は「うつるから」と泣きそうな声で言った。
「予防接種してるから平気だと思うけど。それより、まだ寝るなって。汗かいてるから、着替えた方がいい。……さすがにそれは手伝えないから、俺。着替えくらいなら持ってきてやれるから、自力で起きて着替えて。できる?」
こくり。
指と視線だけで誘導され、なんとか着替えを持ってきてベッドの上に置いてやる。指定された引き出しを開けた瞬間、下着畑が広がっていたときには頭痛がした。彼女はどうやら、相当熱でやられているらしい。
一度部屋を出ようとしたところで、背中に声がかけられる。
「いかんで」
「え?」
一瞬なにを言われているのか理解できなかった。聞き返したところで、もう一度同じ台詞を投げられる。
――いかんで。
それが「行かないで」だということに気がついた瞬間、心臓が自分のものではないかのように感じた。
「いや、でも、着替え……」
「いやや、いかんで」
「――分かった、いるから。後ろ向いてるから、終わったら声かけて」
俯きがちに零された声に、どうやって抗えばいい?
いっそ耳を塞いでしまいたい。後方で聞こえる衣擦れの音がリアルで――当たり前の話だが――、時折激しくなる咳さえなければ、すぐさま振り向いて、華奢な身体を抱いていたことだろう。
ばさり、ばさり。
ベッドの下に服が落とされる音が聞こえる。落ち着かない数分が経過し、やっと声がかけられて、拷問のような時間が終わった。
ベッドまで戻れば、赤ジャージに飲まれるようにピンク色の下着が見えて、それはそれで落ち着かない気持ちにさせられたのだけれど。
「メシは? 食える? ……無理か。薬って食べないと飲めないよなー。しゃーない、明日の朝だな。だから今日はもう寝な」
「……る、の?」
「え? なんて?」
「かえ、る、の?」
弱り切ったボロボロの姿で縋られるようにそんなことを言われて、「はい帰ります」と言えるほど意志は固くない。
それに、ベランダの鍵は外からはかけられないのだ。こんな状態の明里を一人、鍵のかかっていない部屋に放置するのは怖すぎる。その旨を伝えると、明里はほっとしたように唇を緩めた。
――ああもう、だからどうして。思わず頭を掻き毟りたくなる。
「ああそうだ、奏ちゃんにも連絡しとかないと。ちょっと電話してくる。――大丈夫、すぐ戻ってくるから」
「……どう、して?」
「あの子も山城さんのこと心配してたから。体調悪そうだって教えてくれたの、あの子だし」
「ちがう。――ど、して、かなで、だけ」
途切れ途切れの言葉を繋ぎ合わせて、夏之はこれでもかと目を見開いた。夢うつつの瞳が、それでも懸命に睨みつけてくる。「どうして奏だけ名前で呼ぶの」確かに彼女は、そう言った。
熱に侵された頭は、きっといつものそれではない。幼い口調も、普段なら口にしないだろう我儘も、今はするすると彼女の唇から零れてくる。
吸い寄せられるようにベッドの端に腰かけて、毛布を掴む明里の指に触れた。水分を失った頬を撫で、唇の脇を通って、また頬へ。
虚ろな目が夏之を見る。弱っていなければ、このまま奪ってしまえたのに。そんなことを考えることくらいは、誰も責めないだろう。
求められるままに手を繋いで、夏之は軽く頬にキスを落とした。
「いいから寝ろって。ちゃんとここにいるから。……おやすみ、明里」
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