あなたとなとわたし
どういう顔をして会えばいいのか分らなかった。基本他人事なのだから、何もなかったようにしていればいいのかもしれない。そもそも無意味な心配という可能性だってある。清真が今日学校に来るのかどうか、それどころか今後顔を合わせる機会があるのかさえ定かでないのだ。
──皆様、大変申し訳ありませんが、本日のところはお引き取りくださいませ。わたくしは白石様とお話をせねばなりません。
白石とかいう強面の男が婚約者を自称したことに、清真はさしたる反応は見せなかった。そうですか、と軽く頷いた後、穏やかに、だが明確な意思を込めて流一達が辞去するように促した。
それからどうなったのかは知る由もない。
いつもと比べて遅くも早くもない時間、始業の二十分ほど前に流一は1―Eの教室に入った。席の埋まり具合も普段と同じぐらいだ。まだ登校していない生徒と、来てはいるが立ち歩いている生徒の分を合わせて三割ほどが空いている。
教室の中央やや後ろ寄りの席に、流一は鈍い動きで腰を落とした。左隣を見やって小さく息をつく。
そこに清真蘭子の姿はない。半ば予期してはいたものの、実際に目の当りにするとやはり無心ではいられない。
「おはよう、織名く……りゅ、流一くん。昨日は一緒に行ってくれてありがとう。何か色々あって、まだちょっと混乱してるんですけど」
流一が答えを返さずにいると、秋津は少しためらった後に、核心に近いところへ踏み入ろうとした。
「清真さんって、やっぱりこのまま」
「秋津」
「は、はい!?」
「永野にはもう報告したのか?」
流一にとってはわりとどうでもいい事柄だった。しかし秋津はそれなりに気になっていたらしく、簡単に誘導に乗ってきた。
「いえ、まだなんです。実はどうしようかなって思ってて。クラスのみんなの前では話しにくいし、だけどホームルームとかで先生に訊かれるかもしれないから」
「後で昼休みにでも説明しに行くってことにすればいいだろ。永野には俺が答えるから。秋津は何もしなくていい」
「え、駄目ですそんなの! もともと私が引き受けたことですし、流一くんに全部押し付けちゃうわけにはいかないです」
「だったら報告はお前からするってことでいいか? 永野のとこには俺も一緒に行くけど」
「はい、それなら。よろしくお願いします」
秋津は嬉しそうに答えたが、流一はもう秋津を見ていなかった。
「清真……」
その名が自然とこぼれ出る。
「え?」
流一につられて振り返った秋津が小さく声を上げた。
ほぼ一週間振りに登校した清真は、その時教室にいた全ての生徒の視線を集めていた。他の女子達と同じ制服を着ていても、身を取り巻く気品は明らかに別格だった。ただ姿を現すだけで場の空気を変えてしまう。だがそれは逆に言えば、本来ここにいるような人間ではないということなのかもしれなかった。
清真は周囲の反応など意識したふうもなく、常と変わらぬ淑やかな足取りで席に来ると、ふわりと流一達へ頭を下げた。
「おはようございます、秋津さん、流一」
「お……おはようございます、清真さん」
秋津がたどたどしく挨拶を返して、流一はいつの間にか浮かせていた腰を落とした。たとえどれほどの美人だろうと、いくら家が特殊だろうと、今ここにいる清真はただの同級生である。大袈裟に騒ぎ立てるべき理由などないはずだった。
「昨日は大変失礼致しました。皆様のご厚意にはいずれ必ず何かの形でお返しをさせていただきますから」
「べ、別に私なんにもしてないですし! ごめんなさい、ちょっと」
秋津は清真と入れ替わるようにして席を立った。そしてそそくさと廊下に出て行ってしまう。たぶんずっとトイレを我慢していたんだろう、とは流一も思わない。どう接するべきか分らなかったのに違いない。
「来れたんだな」
流一は低い声で言った。
「ええ、お蔭様で」
清真は学生鞄から教科書やノートを取り出す手を止めて答える。
「ずいぶん寝過ごしてしまったのですが、どうにか遅刻はせずに済みました」
そういう意味じゃねえよ。思わずこめかみに力が入る。
「なんですか?」
流一の表情の変化を察して清真が問う。ずれたところはあっても、やはり決して鈍くはない。
「そのうち礼はするって、秋津に言ったよな」
「もちろん流一とあとお二方にもですよ。本当に心ばかりのことになりますけれど」
「それなら今日これっきりってことはないんだな? 学校にもまだ暫くは通うってことでいいのか?」
「そうですね。おそらく卒業まではいられると思います」
そこから先の事情は、昼休みに二人だけになってから聞いた。
#
「要は政略結婚みたいなものね」
流一が話を終えると、穂月は背後のベッドに凭れ掛かった。もし煙草を吸う習慣があったなら、濁った吐息を天井に吹き上げる場面かもしれない。
「なんとかしないと」
流一はジーンズの太腿の辺りを握り締めた。まだお風呂には入っていないらしい。夕食の間もほとんど口をきかなかったし、ずっと考え詰めていたのだろうか。その挙句、夜も遅くになってから穂月の部屋まで押し掛けてきたわけだ。
「なんとかって? どうするつもりなの」
穂月は身を起こして、パジャマの上に羽織ったパーカーのジッパーを引き上げた。両腕で膝を抱きかかえるようにしてその上に顎を乗せる。
「流一が代わりに借金返済するわけ? 幾らだか知らないけど、何千万とか、たぶん億まで行くんじゃないの。絶対無理でしょ」
「だからって会ったこともなかった男と結婚なんて許せるかよ。もしお前があいつだったら平気なのか?」
「知らないわよ。あたしは清真さんじゃないもの」
突き放して返す。それでも状況については一通り理解できた。
現在清真家は一文無しを通り越して多額の借金を抱えており、実質的に破産状態にある。屋敷も抵当に取られていて、追い出されたら行く当てもない。
ここまでは昨日清真の家で本人から聞いた通りだが、そこで救済策(と言っていいのかは疑問だが)を出してきたのが、清真邸の抵当権者でもある白石エンタープライズだった。
清真家の人達(父と子の二人暮らしらしい)が現状通り屋敷に住むことを認め、地代等も請求しない。さらに他の負債についても白石エンタープライズが肩代りする。
その条件として提示されたのが、創業者にして社長である白石
なぜ立場の強い白石の方から婿入りする形になるのかといえば、清真曰く「清真の家から“実”は既に失われていても、“名”には未だ価値が有るということなのかもしれません」。
即ち、白石エンタープライズが今後事業を展開していくうえで、“清真家”というブランドが役に立つという目論見であるらしい。
清真家は実と結合することで名の存続を安泰ならしめ、白石の側は名を得ることで実の拡大を期待できる。互いにとって文字通り名実共に利のある、まことに結構な内容だった。
どこかの知らない人達についての話であれば。
穂月の反応の薄さが流一は気に入らなかったらしい。
「清真はゲームのコマでも道具でもない。家も会社も関係あるか。肝心なのは本人の意思だろう?」
「うん、それは同意。清真さんはやっぱり嫌がってるのよね」
当り前だ、と即答されるのかと思いきや、流一は曖昧に視線を逸らした。
「嬉しいとは言ってなかった」
「……ふうん。つまり、はっきり嫌とも言ってなかったってこと。確かに学校では別に悩んでるとか落ち込んでるってふうでもなかったけどね」
「あいつは変人だから。普段の態度から内心なんて分らないだろ」
「要するに、流一はどうしたいわけ? ただ愚痴りたいだけっていうなら、気が済むまでつき合ってあげるけど」
「頼みがある」
流一は穂月の間近へ身を寄せた。
「な、なによ?」
穂月は思わず仰け反りそうになった。すぐ後ろはベッドだ。九十九パーセントないだろうとは思っていても、健全な思春期女子としては残り一パーセントの可能性も頭から消し切れない。
流一は瞳に真剣な色を宿して言った。
「清真と一緒に暮らしたい。協力してくれ」
「……は?」
瞬間、頭の中が空白になる。
「ちょっとちょっと待ってよ、なんでいきなりそういう話になっちゃうわけ? 全然意味分んないんだけど!」
「強引なのは分ってる。だけど現実的に考えて、清真を助ける方法はこれしかないと思う。借金はどうにもできないけど、まさか清真が自分で金を借りてるわけじゃないだろう。だったらそんなのは放置でいい。清真一人を支えるぐらいなら俺だって役に立つ。あいつも自分でバイトしてるんだし、力を合わせればどうにかなる」
どうだ、というように流一は穂月を見た。穂月は流一の言葉と気持ちをいったん胸に受け止めて、答えた。
「そういうこと、ね。流一がちゃんと考えたうえでのことなら、あたしも全力で応援するよ……って言いたいところだけど」
ため息をついて首を振る。
「そんなの現実的でもなんでもないから。流一が清真さんのためを思ってるのは分った。だけど気持ちだけじゃどうにもならないことっていっぱいあるんだよ。例えば住む所はどうするの? 高校生二人に貸してくれる部屋なんてそうそう見付からないでしょ。バイトだって学校行きながらじゃ限度があるし。それともまさか学校やめて働こうとか考えてる? だったらあたしは絶対反対するから」
自分としてはかなり厳しく説得したつもりだったのに、流一にはまるで通じなかったらしい。
「お前、何言ってんだ?」
きょとんとした顔をされ、眉間の裏側が熱くなる。
「それはこっちの台詞よ! あんたの言ってることなんてただの妄想じゃない。どうせ、超美人と二人っきりで誰にも邪魔されずに毎日やりまくりだぜヒャッハー、とかキモいこと考えてんでしょ。オナニーのネタならネットでエロ動画でも漁ってれば?」
「……ったく、アホか。一緒に暮らすって言ったのはな、うちでって意味だよ。親父と律子さんに頼んだりとか、お前にも色々サポートしてほしいってこと」
「だ……だったら初めっからそう言いなさいよ! 分りにくいのよ、この馬鹿、童貞、包茎!!」
「常識で考えろっての。あと誰が包茎だ」
「安心して。まだ誰にも言ってないから」
流一は黙り込んだ。おととい、穂月があやまって流一のいる脱衣所の戸を開けてしまった時のことを思い出したのだろう。穂月も同じだった。かなり具体的な映像が脳裡に浮かぶ。
「ごめん、話を戻そうか」
「そうだな」
互いに気を取り直すための間を挟んでから、改めて相談を再開する。
「清真さんをうちに住ませるって?」
「事情を説明すれば親父は考えてくれると思う。律子さんは?」
「うーん、うちの家族が全員賛成で、向こうの親御さんの了承も取れるんなら、たぶん。でも実際問題としてどうするつもりよ。うちにはもう余ってる部屋なんかないじゃない」
「普通に考えれば、穂月の部屋で一緒にっていうのが自然かなって……やっぱ駄目か」
穂月が眉根に深く皺を寄せると、流一はすぐにあきらめ肩を落とした。
「仕方ないな。俺が基本リビングで生活するようにする。清真には俺の部屋使ってもらうことにして」
「自ら犠牲を払う意思はあるわけね」
「当然だろ。バイトもするし。清真の負担が増える分、ちゃんと家にも入れる。穂月、お前にもバイトしてくれなんて言わない。頼みたいのは二つだ。一つめは、親父達に話す時にお前からも口添えしてほしいってこと。それが無理ならせめて反対はしないでくれ。あともう一つは、話がまとまって清真が実際にうちに来ることになったら、なるべく仲良くしてやってほしい。女同士だから話せるみたいなこともあるだろうしさ」
流一はひどく真面目腐った表情をしていた。どうしてこんなに本気になっているんだろう。不思議になる。困っているクラスメイトに対する単なる善意? ヒーロー願望みたいなもの? セーエキ臭い下心?
「……分ったよ。協力する」
「ありがとう、助かる」
「清真さんがいいっていうなら、部屋もあたしと一緒でいいよ。だけど流一、あんた自分こそ肝心なこと忘れてない?」
「肝心なこと?」
「清真さんの意思は確認したの? あんたがやろうとしてることって、あたし達からすればただクラスメイトがうちに住むようになるってだけだけど、あの人にとっては家も家族も捨てて赤の他人のところに独りで転がり込むってことだよ。普通の人でもかなりハードル高いようなことなのに、正真正銘のお嬢様育ちの人がそんなことしたがるのかな」
「それは抵抗はあるだろうけど……少なくとも、好きでもない男と結婚させられるよりはましだ」
「本当に断言できる? 例えば昔は本人の意思抜きで親の決めた人と結婚するのなんて普通にあったわけだし、今だって全部の人が百パーセント愛情だけで結婚するわけじゃないよね。好きだけど貧乏な相手と、嫌いではないお金持ちの相手なら、結婚するなら後の方がいいって人はそれなりにいると思うよ。文字通り生活掛かってるんだもん。それに」
ここから先を口にするべきか、わずかに迷う。もしかすると流一に対してすごく意地悪なことなのかもしれないから。
「それにさ、今は違くても、そのうち本当に好きになるかもしれないよ」
#
憶測だけであれこれ言っていても意味はない。
折り入って二人で話がしたいから放課後時間を取ってほしい、と流一は学校で清真に申し入れ、だがバイトがあるので無理だと断られた。
「じゃあバイトが終わってからでもいい」
流一は食い下がった。うかうかしていると明日からの土日で一気に色々進展してしまうかもしれない。
「それでは、お店まで来ていただけるのでしたら」
「行くよ」
流一は即座に承知した。
夕食を済ませた後、清真に会うため家を出た流一は、西来島で電車を降り、清真のバイト先のマウンテン・バーガーまで歩いて行った。まだ八時を過ぎたぐらいなので、人通りは昼間とさして変わらない。通勤帰りの流れがある分、むしろ多いぐらいかもしれない。
「すいません、お待たせしました」
流一が店の前に着いてほどなく、清真が現れた。一度家に戻らず学校から直接来たらしく、連高の制服姿だ。
「悪いな。大変な時なのにこんな遅くにつき合わせて」
「平気です。もうだいたいの問題は解決していますから」
口調がなんとなく事務的に感じられるのはバイトで疲れているためだろうか。それとも流一のただの気のせいか。
「アルバイトも特に続ける必要はないのですが、急に辞めると他の方に負担を掛けることになってしまいますからね。それに結構楽しくもあります。善嗣様に止められない限りは、このまま働かせてもらおうと思っています」
「それなら白石がやめろって言ったらやめるのか?」
「おそらくあの方は言われないでしょうが……そうですね、夫の決断を尊重するのは妻たる者の務めでしょう。違いますか?」
「そんなの」
俺の知ったことか。流一は舌打ちしたくなった。亭主関白だろうとかかあ天下だろうと結婚している連中の好きにすればいい。高校生が気にするようなことではないはずだ。
流一の苛立ちには気付かない様子で、清真が一歩先に立つ。
「歩きながらでもよろしいですか? 余り帰りが遅くなると父が心配するかもしれません」
「そうだな」
本音としてはどこかに腰を落ち着けたかったが、無理強いはできない。とはいえ西来島の駅には五分も歩けば着いてしまう。こんなことなら今日の昼休みにでもどこかに適当に連れ出した方がましだった、などと考えている間に、進んでいる方向がおかしいことに気付く。
「おい、お前どこに行くつもりだよ」
清真の肩を掴んで止める。これでは駅と反対だ。まさか道を覚えていないということはあるまいし、流一と同じく他のことに気を取られていてうっかり間違えたのだろうか。
ふと思い出す。そういえばこの辺りにビジネスホテルが一軒あった気がする。
清真が振り返った。流一が置いた手に自らの手を重ね、物問いたげな瞳を向ける。
何を考えているのかなど分らない。だが何かを欲しているのだということは分った。
掌の熱を感じながら、流一は清真を見返した。突然現れた婚約者などという存在を、こいつは本当に受け入れることができたのか。あるいは拒否するという選択肢は初めからなかったのかもしれない。だが清真は綺麗なだけの人形ではないし、身も心も未だ十代の途上にいる。我儘を忘れ果ててしまうには早過ぎる。
「流一……このままわたくしと来てくださいますか?」
どこに、と流一は訊かなかった。
「お前がいいなら。俺は構わない」
「ありがとうございます。流一ならきっとそう言ってくださると思いました」
夜に咲く花のように、清真はひそやかに微笑んだ。もっと近くへ。流一は二人を隔てる間を詰めた。吐息を重ねられるところまで。
「参りましょうか」
刹那、清真が顔を逸らせた。そして未練げもなく歩き出す。流一は肩透かしを食った気分になったが、すぐに隣に寄り添う。
落ち着いてるな、こいつ。清真の様子を窺って思う。実は経験者だったりするのだろうか。そうだとしても不思議はないが、やはり意外な感じはする。
正確な場所はうろ覚えだったものの、予期した通り行く手にビジネスホテルが見えてくる。一階にはレストランが入っていたが、基本的にはただの四角い建物で、ライトに照らされた表示がなければ気付かず通り過ぎてしまいそうだった。
清真は足を緩めない。流一の鼓動は速まった。
「流一」
「え、あ、何だ」
「そろそろお話を聞かせていただけませんか。もし流一に時間の余裕があるのでしたら、家に着いてからゆっくりということでもわたくしは構いませんけれど」
「家って」
流一は首を後ろに捻じ曲げた。ホテルは既に過ぎてしまった。少なからずあせりを覚えつつ、頭の中に付近の地図を描く。
「……もしかして、お前のうちに行く途中なのか、今?」
「ここからだいたい四十分ぐらいですね。それまでに終わりそうですか?」
「いや、ちょっと待ってくれ。色々混乱してるから。整理したい」
「ご随意に」
流一は大きく深呼吸した。腰の辺りにくすぶっている熱の塊をどうにか冷ます。
認めよう。夜道を一駅分歩いて帰ろうとする女子高生は、おそらく多数派ではないとしても、常識外れとまではいかない。変に深読みしたのはひとえに流一の過ちだ。
「ひどいな。どうかしてる」
自分に呆れてしまう。清真とはあくまで成り行きで関わっているだけだ。自分達に特別な結び付きなどあるわけないのに。
流一の嘆息を、清真は律儀に拾い上げた。
「流一には悩みがあるのですね。どうぞなんなりと仰ってみてください。わたくしでよろしければ喜んでお相手致します。流一がすっきりできるよう精一杯ご奉仕しますから」
「いいから。気にするな。忘れろ」
「ですが、せっかくわざわざここまでいらしていただきましたのに。何もなしでお帰りになるなんて」
「話は俺のことじゃない。お前だ」
「わたくしですか?」
「お前さ、本気なのか?」
「さて……わたくしは大抵の場合は本気ですけれど。悪意をもって人様をたばかったりは致しません」
「あの白石って野郎と本気で結婚するつもりでいるのかってことだよ」
「はい」
即答する。
「それがどうかしましたか」
「どうかしたかって……まだ高校生なのに早過ぎるとか思わないのか? しかも相手はろくに知りもしないおっさんだぞ。絶対おかしいだろ!」
「確かにそうした考え方もあるかとは思います。しかし」
清真は足を止めた。
「仮にそうだとして、あなたに何か関係があるのですか?」
流一は押し黙った。
「それに」
冷たくなった夜風が頬を撫でる。辺りは住宅街に入っていた。ひとけはめっきり減っている。
「家同士で決めたことでもあります。わたくしの名は蘭子ですが、あなたがいつも呼んでいる通り、前にある名は清真です。家もまた大切なわたくしの一部なのですよ」
清真の言おうとしていることは分った。それは流一には容易に手を伸ばすことのできない領域だ。だがそうでないところもあるはずだった。
「一つ、教えてくれ」
「はい」
「お前は白石をどう思ってるんだ。奴の家とか会社のことは抜きで、ただの一人の男として」
「お会いしたのはまだ一度きりですし、長くお話したわけでもありませんので、余りはっきりしたことは申せませんが」
「いいよ。なんとなくの印象で」
「頼りがいのあるお方だとお見受けしました。善嗣様ならば、きっと清真の家を盛り立ててくれるだろうと信じられます」
「だからそういうのはいらないんだって。もっと単純なことでいいんだ。横暴そうとか態度がでかくてむかつくとか人のこと見下してそうとかとにかくいけ好かないとか、お前の個人的な感想が聞きたいんだよ!」
それ全部あんたの個人的な感想なんじゃないの、と穂月がいたら突っ込んだかもしれない。
「一つ、決して見過ごせない点があります」
清真が複雑な数式の矛盾に気付いたように頷くと、流一はつま先をくっ付けんばかりにして詰め寄った。
「実はマザコンで、そのうえ赤ちゃんプレイが好きそうとかか?」
「あの方は巨マラの持ち主なのです。きょまら子たるわたくしに、まさにふさわしいとは思いませんか?」
流一はくるりと背中を向けた。
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もともとそんなつもりなどはなかった。見付けたのは本当に偶然だったし、足を向けたのはいわば出来心だった。
日曜日、流一はまたもや西来島まで来ていた。先週のデートの予定が途中から変わってしまったので、改めて続きをしたいとあけみにねだられたのだ。
午前中はあけみはバスケ部の練習があったので、昼食を済ませてからの待ち合わせである。
空は曇っていた。雨が振りそうというほどではないものの、重く湿った空気が肌に纏わりつく感覚が鬱陶しい。
約束までにはまだかなり余裕があった。本屋かコンビニにでも入ってやり過ごそうと流一は辺りに首を巡らせて、仰向いた視線を止めた。
〈白石エンタープライズ〉
交差点を渡った先にある、この辺りではわりと大きなビルの最上階だ。窓に黄色いゴシック体で、覚えのある社名が存在を主張していた。歩行者用信号が点滅を始め、流一は急かされるようにして横断歩道を渡ると、真っ直ぐにそのビルに向かった。建物の中に入ってエレベーターに乗り込み、八階のボタンを押す。
休日だし閉まっているかとも思ったが、エレベーターを降りた先には受付が設えられてあり、事務員っぽい制服を着た女性が一人きちんと座っていた。
「いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか?」
場違いな来客に一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、女性はすぐに愛想笑いを作って応対する。
「すいません、白石善嗣さんっていますか」
「白石、ですか」
流一が半ば駄目元で尋ねると、女性は意外そうな面持ちになって訊き返した。
「お約束でしょうか?」
「ではないんですけど、来島の清真の家のことで話があるって伝えてください」
「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「織名です」
「織名様ですね。少々お待ちくださいませ」
女性は受話器を取り上げると、いずこかと連絡を取り始める。白石は流一の名前など知らないだろうから、門前払いされてもおかしくない。若干緊張しながら待っていると、通話を終えた女性が顔を上げた。
「お待たせ致しました。ただ今白石が参ります」
気持ちの準備をする間もなく、受付の奥からスーツ姿の男が現れた。確かに清真の家で会った白石に間違いない。短髪を剣山みたいに逆立てているのはこの前と同じだが、地味な黒縁の眼鏡を掛けていて、強面の印象が少し和らいでいる。
白石はちらりと流一を見遣ってから、受付の女性に尋ねた。
「吉川さん、お客様というのは」
「こちらの織名様です」
そう聞いても白石の表情は変わらない。眼鏡の向こうで続けて二回瞬きしたのが、あからさまな反応の全てだった。
「食事に出てきます。何かあれば携帯に連絡を」
「分りました。いってらっしゃいませ」
流一に向けたのより五割増し気持ちがこもっていそうな笑顔に見送られ、白石は流一の脇を過ぎてエレベーターへ向かった。
無視かよ。
さすがにむっとして睨むと、ケージに乗り込んだ白石が来いというように顎をしゃくった。態度は横柄だが、一応話を聞く気はあるらしい。流一は本来部外者で、勝手に押し掛けている身に過ぎない。大人しく従うことにする。
沈黙したままエレベーターで三階まで降りると、ステーキハウスがあった。白石は一人でさっさと店の中に入っていき、だが出迎えたウェイターには「二人」と告げる。
喫煙席を指定して、奥のテーブルに案内される。近くに客はでっぷりと太った中年男がいるだけだ。食事はもう済んでいるらしく、食器はコーヒーカップしか残っていない。それと灰皿だ。
壁際に座った白石は、スーツのポケットから煙草の箱を取り出して一本咥え、小振りな金色のライターで火を点けると、ようやく流一へ注意を向けた。
「悪い、苦手だったか」
「別に平気……です」
「なら座れよ」
「です」を付けるべきか否かわずかに迷ったのだが、ひとまず世間の常識に従うことを選択した。初めから喧嘩腰では纏まる話も纏まらなくなるだろう。ただ問題は何をどう纏めればいいのかそもそも見当がついていないことである。
「飯は?」
「食べました」
「俺はまだだから食わせてもらう」
白石はステーキのセットと、単品でコーヒーを一つ注文した。セットにもコーヒーは付いてくるから、たぶん流一の分なのだろう。
「お前、蘭子の家にいた奴だな」
「同じクラスです。清真が学校休んでて、連絡も取れないっていうことで、担任に様子を見て来るように頼まれました」
「つき合ってるのか?」
「違います」
はっきりと否定する。白石は顔を横に向けて煙を吹いた。
「分らんな。だったらどうしてわざわざ会社まで来る必要がある。てっきり俺の女に手を出すなとでも文句付けに来たのかと思ったんだが。ただの片想いだっていうなら先に蘭子を口説いてからにした方がいいんじゃないか」
「うるせえよ。金の力で女子高生をどうこうしようって薄汚いおっさんのくせに知ったふうに上から語んな」
半ばわざとの挑発だったが、白石は落ち着いた態度を崩さない。
「蘭子がお前にそう言ったのか?」
「もっともらしく理屈つけたって要するにそういうことだろ」
「違いない」
出来のよくないジョークでも聞かされたみたいに、白石は素っ気なく頷いた。
「だが一応事実を言えば、この話を持ち出してきたのは向こうの方だ。やっぱりなかったことにしたいっていうならこっちはそれでも全然構わない」
「“清真”の名前はいらないっていうのか?」
「なにしろ平安頃まで遡れるお家柄らしいからな。確かに箔付けにはなるだろうが、それで実際どれだけ商売の役に立つのかっていうと正直俺にはさっぱり分らん。もしかしたらどこかに特別なコネでもあったとして、宝くじを買って一等が当たるよりは期待してもいいかなってレベルだ」
「清真はそんなもんを守るためにあんたなんかと結婚するっていうのか?」
「価値観は人それぞれだろう。俺からすればお前なんかのためにわざわざ時間を取ってやってるのは破格のサービスのつもりなんだが」
「じゃああんたは……」
白石の言い分の正しさを流一は認めた。いけ好かないのは相変わらずだが、それなりに公平な人物ではあるようだ。再び敬語に戻す。
「白石さんとしては、どうなんですか」
「何がだ」
「清真と結婚したいのか、したくないのかってことです」
「そうだな」
白石は火の点いた先端を灰皿で揉み消した。
「微妙」
ビミョー、とそこいらのガキみたいに発音する。流一は白い目を向けたが、考えてみれば白石と自分との年齢差はせいぜい十歳かそこらだろう。社会人と学生という身分の違いこそあれ、世代的には近いのだ。
白石は腕を組み、しかつめらしく論評を始めた。
「まず顔は申し分ないな。頭も相当良さそうだし、高校生とは思えないほどしっかりしてる。女の子を褒めるのに使う言葉じゃないかもしれないが、肝が据わってるな。傑物だ。ただどうにも性格がな……悪いっていうんじゃないんだが」
そこから先は予想がついた。
「変だからな」
まさに。心の底から同意してしまう。
「初対面の男に向かって、あなたは巨マラですか、とか訊くか普通?」
「……で、そうだって答えたんですか」
「なら是非見せてくれっていうのはさすがに断ったけどな。ひょっとして俺を嵌めようとしてるのかと思って隠しカメラがないか探したよ」
笑えない話である。しかし平日の教室で同じ要求をされた流一に比べればずっとましだろう。
流一のチノパンのポケットで携帯が震えた。取り出して確認すると、発信者名は“新宮あけみ”だ。まずい。すっかり忘れていた。画面の表示時刻は約束をもう二十分以上も過ぎている。流一はあせって腰を浮かせた。
「すいません、俺用事あるんで、これで」
「蘭子とデートか」
「いえ、中学の時の後輩です!」
慌ただしくテーブルを離れる流一の背中に、デートは否定しないのかよ、と白石がぼやくように突っ込むのが聞こえたが、構っている余裕はなかった。
初めのうちあけみはいたって上機嫌だった。流一が遅れて駆けつけて来た時も、「大丈夫です、あたしも今来たところですから」と定番の台詞で答えられるのがむしろ嬉しそうでさえあった。
あけみのお目当てはハーブティーの専門店で、流一は生まれて初めてカモミールティーなる代物を頼んだ。そこはかとなくぼんやり甘く、さしてうまいとは思わなかったものの、不平を唱えるほどまずくもない。それにあけみはこの店が気に入ったようだから、とりあえず来た甲斐はあった。けれど流一にとって居心地は余り良くない。
「女の子ばっかだな」
店内のテーブルは全て埋まっていて、流一達の他に一組だけカップルがいるのを除くと、あとは全て中高生ぐらいの女子のグループだった。故に大変にかしましい。まるでそこら中でガラスが割れまくっているみたいなハイトーン・ヴォイスがぐさぐさと脳に突き刺さる。
「ここって今ひそかに人気あるんですよ」
関係者でもないのにあけみが得意そうに教えてくれる。
流一はうんざりしているのが面に出ないよう苦心した。ひそかにどころか、ボーイズアイドルグループのコンサート会場かと錯覚しそうな盛況である。これであけみが一緒でなかったら一分だっていたくない。
「……清真の家とはまるっきり別世界だ」
すぐ隣町だというのに向こうは仙境さながらに森閑としていた。もっとも単に古寂びていただけではなく、電気やガスまで止まっていたらしいが、もう復活したのだろうか。
たぶんしたのだろう。白石が対処したに決まっている。
「先輩、清真さんのうちに行ったんですか」
あけみの声が急激に冷たくなった。フォークでケーキをつつきながら、尖った氷柱みたいな上目遣いを投げかける。
「俺一人でじゃないからな。クラスの用事で、穂月と原と他にもう一人いた」
「でも行ったんですね」
「つき合わされただけだっての」
「穂月先輩にですか?」
「クラス委員」
「女の人だ」
根拠もなくあけみが断定する。事実なので強いて違うとも言えない。
「すごいなー先輩は。高校でもモテモテなんだ」
「気にし過ぎだって。秋津が俺に声を掛けたのは、クラスで清真とまともに会話したことがあるのが俺ぐらいだからって単純な理由だよ。深い意味なんてない」
と思っておいた方が色々丸く治まるだろう。だがあけみはなおも絡む。
「清真さんって人、高嶺の花って感じでしたもんね。でも先輩だけは余裕で手が届いちゃうんですね」
「席が隣だからな。それと他の連中が清真に近寄らないのは、あいつが美人過ぎるせいとかだけじゃなくて、変人だから引いてるんだよ。なにしろきょまら子だから」
「そっか。オナルー先輩と気が合うわけだ」
あけみは拗ねたように言った。
「それ、どういう意味だ」
流一はテーブル越しに身を乗り出した。
「え、あ……」
あけみの唇の隙間からアイスミントティーのストローが離れて落ちる。
「あの、流一先輩、今のは違うんです! あたしそんなつもりじゃなくて」
「そんなつもりって?」
「ご、ごめんなさい!」
あけみは半泣きで席を立った。流一が引き止める間もなく、身を翻して店の外に駈け出して行く。うるさかった店内が束の間静まり、ざわめきが波のように戻り始める頃、カモミールティーを半分残したまま流一は伝票を取り上げた。
あけみは流一のことを「オナルー」先輩と言った。それは少なくとも100パーセントの好意からではあり得ない。女子にもてて調子に乗ってる(ようにあけみには見えたのだろう)流一への、ちょっとした腹立ち紛れの嫌がらせ。
それはいい。あけみには後でフォローを入れておこう。流一は怒ったわけではない。誤解させてしまったのは悪かった。
だがその前に考えるべきことが出来た。
流一は真っ直ぐに帰宅すると、手を洗おうと洗面所の扉を開けた。
「あ」
「あ」
穂月が全裸だった。髪は艶やかに濡れ、素肌は水滴をまつわらせている。
「お前……なんでこんな時間に風呂になんか入ってるんだよ」
「さっきジュースこぼしちゃってべたべたして気持ち悪いからシャワー浴びた……ってか、まじまじと見てんじゃねーわよ。チ○コもぐわよ」
そこそこに膨らんだ上を左手で、それなりに茂った下を右手で、遅まきながら穂月は隠した。この前は俺が見られたんだからいいだろう、とは流一もまさか言わない。
「悪い」
扉を閉める。一緒に住んでいるのだから、当然こういうこともある。とはいえさすがに今のは不意打ちだった。見たものが目の前から隠され、記憶の領域へと移るのにつれて、かえって生の感情が動き始める。このドアの一枚向こうにはあらわな姿の穂月がいるのだ。恋愛感情は抜きにして、ただ好きか嫌いかで言えば間違いなく好きな同い年の女子が。
「いいよ」
いいって、本当に? 一瞬テンパりかけた流一だが、現れた穂月はTシャツとショートパンツという軽装ながらちゃんと服を着ていた。ちなみにノーブラ、でもない。
「……なんか視線がやらしいんだけど。手、洗いに来たんでしょ。ついでに顔も洗って頭冷やしなよ、スケベオナルー」
つっけんどんに言い捨て、リビングに向かおうとした穂月の手首を、流一は反射で掴んだ。
「待てよ」
「やだ、何よエロオナルー、離せ!」
「オナホヅキ」
発音は“オナホ好き”。穂月は唖然と目を見開いた。
「って、俺が呼んだらどう思う」
「……あー、うん。やっぱむかつくかも。ごめん、あたしが悪かった」
「いや本当に訊いてるんだ。俺が、っていうか誰でもいいんだけど、面と向かってお前のことをオナホ好き呼ばわりするとしたらどうしてだ?」
穂月は眉をひそめた。だが混ぜっ返したりはせず、少し考えた後に答えを返す。
「場合にもよるだろうけど、だいたいはあたしのこと馬鹿にしたいんじゃないの。いい気持ちはしないよね」
「じゃあお前が自分で“オナホ好き”を名乗る理由はなんだ」
「はあ? いつあたしがそんなことしたってのよ」
「仮の話だよ。もしそうするとしたらって考えてみてくれ」
「それって意味あるの?」
「たぶん、わりと」
「なんかよく分んないけど……そうだね、自虐で自分を守ろうとしてるって感じかしら。すごく嫌なんだけど、人に言われるぐらいなら自分から笑ってごまかしちゃおうみたいな。やっぱさ、織名っていう苗字になったの正直いまいちだなって思う。だけど流一と真行さんが家族になったのはまた別の話だよ。全然嫌だなんて思ってないからさ、ほんとに!」
「分ってるよ。俺も穂月が傍にいるの嬉しいからな」
「ば、馬鹿、真顔で直球は反則だって」
穂月は顔を赤らめた。
「行ってくる」
流一は玄関へ引き返した。
#
来る者は全て拒むといった風情で大門は今日も閉ざされていたが、流一は躊躇せず通用口脇のインターホンのボタンを押した。チャイムの音こそ聞こえなかったものの、前回とは違って手応えというか線が繋がっている気配が確かに感じられた。
幸い、ただの思い過ごしではなかったらしい。少し間を置いてからもう一度ボタンを押すと、プツッというノイズに続いて、人声の応答がスピーカーから聞こえてきた。
“はい、どちら様でしょう?”
電気に変換されて粗くなっていても、元の優美さは隠し切れない。
「ああ、清真か? 流一だ。入ってもいいか」
沈黙された。
暫し唖然としてしまう。何故だ? 一昨日の晩、さよならも言わずに帰ってしまったことを根に持っているのだろうか。しかしあれは清真だって悪い。というか流一は悪くない、と思う。
ただ単に今は都合が悪いということなのかもしれなかった。それも流一には言いたくないような事情で。
例えば白石が来ているとか。そしてベッドに裸で転がっているとか。清真もついさっきまでそこにいて、汗と喘ぎに塗れていたとか。
「おい、聞こえてるのか!?」
思わず声を高めると、はっという微かな吐息がスピーカーから洩れた気がした。
“……失礼しました。流一がまた来てくださるとは思っていなかったので、少し驚いてしまいました。どうぞ、お入りください”
流一はしょうもない妄想を振り払うと、通用口を抜けて奥の建物に向かった。途中で玄関の扉が開き、清真が迎えに現れる。学校の制服でもジャージでも、もちろんバーガー・チェーンのお仕着せでもない、初めて目にする純然たる私服姿だ。丈の長いストレートラインの藍色のワンピースに、クリーム色の薄手のカーディガンを羽織り、髪は編み込みにしてすっきりと上げている。
流一は束の間息をすることを忘れた。まさしく馬子にも衣装、ではない、その逆だ。今まで馬子に扮していたお姫様が、本来の麗しき姿を取り戻した。
「こんにちは流一。ようこそいらっしゃいました」
清真が左の掌を上に向けて差し伸べる。だが流一にはどういう意味の仕種なのか分らなかった。入場料を払え? そんな馬鹿な。中世の騎士みたいに片膝付いてキスをしろ? しかしあれは甲の側にするものではなかったか。確信のないまま、とりあえず自分の手を置いてみる。
それで正解だったらしい。清真は品良く微笑むと、流一の指先を柔らかく包み込んで歩を進めた。導かれるまま流一も後に従う。
通されたのはこの前と同じ座敷だった。家の中は相変わらず静かだが、ゆっくりと朽ち果てていくような褪せた雰囲気は消えている。
流一を案内した後、いったん場を外していた清真は、やがて盆の上に湯呑み茶碗を二つ載せて戻った。
「どうぞ。粗茶ですが」
「ありがとう」
茶碗の蓋を取る。鮮やかな緑色が仄かに香り、流一は誘われるようにして口をつけた。
「……うまいな」
やはりカモミールティーよりこちらの方が性に合う。
「ありがとうございます」
褒められて清真は嬉しそうだった。
「お前いかにも茶道とかやってそうだもんな」
「お触り程度には。ですがそれはお煎茶ですよ。点てたわけではありません」
「そうなのか」
詳しくないので適当に頷いておく。
「なんにしろ、もう電気もガスも水道も問題なく使えるんだな」
「善嗣様がいらしたその日のうちに全て整えてくださいましたから。お仕事柄そうした手続きには精通されておいでのようです。わたくしも父も世間知らずなものですから、大変に助かりました」
ネットで軽く調べたところでは、白石エンタープライズは不動産事業がメインの会社らしい。清真邸の維持には結構な手間が掛かりそうだが、差配するのはお手の物といったところだろう。
「やっぱり、清真の家のためには白石がいた方がいいってことなんだろうな」
流一のように金も力も社会経験も持たないガキとは違う。清真も言葉を飾らず認めた。
「ある意味ではわたくし以上に必要な方かと存じます」
逆説的だが、きっとそれは真実だ。
「だとしたら」
流一は清真の淹れてくれた茶で唇を湿した。
「お前には清真の家は必要なのか?」
「……どういう意味でしょうか」
戸惑った様子の清真に、流一は一息に告げた。
「俺のところに来ないかって意味だ」
刹那、清真の瞳が見開かれる。
「やっと分ったんだ。どうしてお前が、きょまら子なんて下らないあだ名を自分に付けたのか」
清真が何か言い掛けたのを制して、流一はたどり着いた答えを開いてみせる。
「馬鹿馬鹿しかったんだろう?」
あるいは名の誉れといい、また名は体を表すという。しかし名と実とは常に相伴うわけではなく、世に通った名がまさしく名のみのものに過ぎないならば、それはもはや身を飾る綾ではない。心を繋ぐ枷だ。
「お前だってほんとは俺達と変わらないはずだ。好きなように遊びたいだろうし、将来やりたいこととか、なりたいものだってあるかもしれない。なのにたまたまこんな家に生まれたせいで、自分の人生を好き勝手に周りの人間に決められる。好きでもない男と結婚なんて、普通なら嫌がって当然のことさえお前はあっさり承知した。実際大した疑問も持たなかったのかもしれないな。だけど」
流一の言葉に清真は静かに耳を傾ける。感情の窺えない面差しは普段以上に大人びて、神秘的にすら映った。
「心の底では納得してなんかいなかった。だから、きょまら子を名乗ったんだ。入学した頃にはもう、相手までは決まってなくても、誰かと近いうちに結婚させられることになるのは分ってたんだろう? そしてお前は自分が拒否しないことも知っていた。清真蘭子──いつでも清真が先に来て、蘭子が後回しにされてしまう自分のことを、お前はきょまら子と呼んで笑ったんだ」
清真の道化じみた不品行を、卑屈や逃げだと断じて蔑む権利を流一は持っていないし、もとよりそんなつもりもない。名家の子女であるが故の苦悩など所詮自分には縁がない。
「そんなのはさ、終わりにしよう」
だから流一は自分に手の届く話をする。お家の事情も会社の思惑も棚に上げ、今ここにいる相手と向かい合う。
「ただの清真蘭子として俺のところに来ればいい。それならもうきょまら子なんて名乗る必要はないよな?」
越えなければいけない壁は幾つもある。まず手始めに流一と穂月の親達を説得して、それが首尾良く行ったとしても、まだスタート地点にさえ立ってはいない。清真の父親の承認、白石側との話し合い、清真の生活費と学費の工面。
どれも右から左とはいかないだろう。幾度も困難にぶつかるはずだ。それでも無理だとは思わなかった。もしも清真が新たな道に踏み出すことを選ぶなら、絶対全部乗り越えてみせる。
「はい、流一」
清真の瞳に強い光が宿った。あるいはその煌めきは深窓の令嬢にしては華やかに過ぎるものだったかもしれない。けれど流一は美しいと感じた。
「一緒に暮らすって思っていいんだな」
「もちろんです。わたくしは喜んで流一のお嫁になります」
「なら穂月にはもう話してあるから、早速今日にでもうちの親に……」
「ご紹介くださるのですね? ありがとうございます。流一の伴侶として粗相のないよう、精一杯努めたいと思います」
「いやそんな努めはいらない」
流一は全力で拒絶した。流れが異次元の方向へずれている。
「紹介はもちろんする。まずは今日話を通して、なるべく早く機会を作るようにする。けどその前に確認させてくれ。お前、嫁とか伴侶とか言ったよな? いったい何の事だ?」
「妻、の方がよろしかったでしょうか? 正式に言い表すなら、流一の配偶者として籍を入れる、ということになります。そうすればわたくしの名は織名蘭子、流一と二人揃えばオナるーとオナらん子、まさに奇跡の巡り合せと申せましょう。きょまら子の名を捨てることになっても一片の悔いもありません」
駄目だこいつ……早くなんとかしないと……。
流一は背骨が抜けてしまったように項垂れた。どうやら清真は本気だった。流一と結婚することを現実のこととして考えているのだ。もはや完全に理解の外だ。どうやったらそんな発想になる!?
「流一、どうかしましたか? 頭でも痛いのですか?」
全くその通りだ。だから頼むから少し静かにしてくれ。
だがそんな流一の願いを嘲笑うかのように、さらなる混乱の種が現れる。
「ただいま」
引き開けられた襖の向こうには流一の初めて見る男がいた。印象は存外若い。皺の寄った白いシャツにベージュのジャケットを引っ掛け、ネクタイはしていない。色白の細面は犀利なようだが、目元はむしろ柔らかく品が良い。たとえるなら血筋は上等なのだがいまいちやる気のないインテリゲンツィアといった風采である。だが実際に何をして暮らしているにせよ、流一が男の正体として思い付くのは一つだけだった。
「お帰りなさいませ、お父様」
清真が男に向かって一礼する。流一の予想は当たっていた。清真の父親である男は、娘に鷹揚に頷くとその傍らに正座した。
「蘭子、こちらの御仁は?」
所作は軽いが姿勢は直ぐに伸びて美しい。流一もあぐらをやめて座り直した。
「同じクラスの織名流一さんです。席が隣で、いつもとても良くしてもらっています」
「初めまして、流一君、蘭子の父です。娘がお世話になっているようで、どうもありがとうございます」
「いえそんな、こっちこそ」
流一は些か面喰らいながら礼を返した。思いのほか丁寧でまともそうな人物だった。家のために高校生の娘を無理矢理嫁がせようとする時代錯誤な輩とも思えない。
「お父様、ちょうど良いところに帰って来てくださいましたわ」
清真は成層圏の空のように晴れやかに言った。
「わたくしは流一に求婚されました。わたくしにとっても心より望むところであり、謹んでお請け致しました。つきましては近いうちにこの屋敷を出て流一の元で暮らします」
流一の頭痛は悪化した。誤解をすぐに否定するだけの気力も出ない。
「ふむ」
清真氏はやけに軽い相槌を打つと、娘と流一を見較べた。おそらく余り真剣に受け取る気になれなかったに違いない。
流一は卓に腕を突いて身を前に乗り出した。へたっている場合ではない。せっかく父親に会えたのだ。この際事情を説明してしまうべきだ。
「すいません聞いてください、俺が彼女に言おうとしたのは」
「まあ待ちなさい」
流一の出端をくじき、清真氏は隣の娘に向き直った。
「蘭子、君に大切な人ができたことはとても素晴らしいことだと思う。しかしだね、善嗣君とのことはどうするんだ。流一君と代りばんこに通ってもらうことにするのか?」
流一は自分の名前が持ち出された文脈を上手く理解できなかった。なんだ、代りばんこって? うつけた目を清真氏に投げる。
清真は父親に正対した。
「善嗣様も大変好ましい殿方だとは存じます。けれどもわたくしは一番愛する人とこそ添い遂げたいのです。恐れながら善嗣様にはお断り申し上げますわ」
「しかしそれでは勿体ない。お前ほどの器量の持ち主ならば男の二人や三人侍らせてしかるべきだよ。善嗣君もキープしておいた方がいい。流一君、君もそう思うだろう?」
「思うわけねえだろ」
流一はべしんと座卓に手を叩き付けた。正直わりと痛かった。
清真氏があからさまに眉をひそめる。
「ああ、いや」
さすがに無礼が過ぎた。やけにおかしな展開になってはいるが、もともと自分は清真を説得するためにここに来たのだ。父親の機嫌を損ねるのは上手くない。
清真氏は曇った息を吐いた。
「自分以外の夫の存在は認められんというわけか。なんともケツの穴の小さい少年だな。だが蘭子が君がいいというのなら是非もない。実は今当家は困窮していてね、持参金の用意ができないんだ。それでもいいというなら蘭子のことをよろしくお願いするよ」
「お父様、ご安心なさってください。流一は男性器こそ小さくても、お金にこだわるような心の小さい人物ではありませんわ。ねえ流一、あなたはわたくしの体だけで満足してくれますわよね?」
「……お前は俺のことをなんだと思ってるんだ」
「あら、駄目なのですか? ではどう致しましょう。わたくしのアルバイト代では不足でしょうし」
「ならば
「善嗣様のお父君にですか?」
「手切れ金代りだと言えば寄越すだろう。流一君、一千万ぐらいでよろしいか」
流一はついに心の底から納得した。この人は紛うかたなき清真蘭子の父親だ。
もう面倒だからそれでいいです、と切り上げたくなったのを流一は腹に力を入れて堪えた。
「あの、いいですか、俺の意図がちゃんと伝わってないみたいなんで、いったん聞いてください。まず大前提として、俺は清真と……蘭子さんと結婚するつもりはありません。だから違います、持参金がどうとかじゃなくて、そもそも誤解なんです。悪い清真、考えてみれば俺の言い方も分りにくかった。もっと具体的に話せばよかった」
だがまさかプロポーズの意味に受け取られるとは想像もしなかったのだ、とは言っても詮ないことだろう。相手は世俗を超越した思考の持ち主だ。
「どういうことでしょうか?」
思案する面持ちで清真が問う。
「つまりさ、うちに下宿するのはどうだって誘いたかったんだよ。もちろん俺の親と穂月も同居する。不自由も苦労もあるだろうけど、家のために無理矢理結婚させられるよりはましだろうって思ったんだが……どうもそういう感じじゃなさそうだな」
答えたのは清真氏である。
「僕が蘭子のことで考えているのは蘭子にとっての幸せだけだよ。善嗣君は相当甲斐性がありそうだから、彼が婿になってくれるのなら安楽に暮らせることは疑いない。けれど蘭子自身がそれよりも君との茨の道の方を選ぶというなら僕はその希望を尊重する」
「なんで俺とは茨なんだよ……」
思わず流一がぼやくと、頼みもしないのに清真が応じる。
「そうですわお父様、わたくしと流一が共に歩むのなら薔薇色の道に決まっています」
薔薇も茨も種属的には同じなんじゃないかという気がしたがとりあえずどうでもいい。
「借金はどうするんです。まさか蘭子さんに押し付けたりしませんよね?」
「見くびってもらっては困るな。僕はこれでも千二百年間続く清真家の当主だよ。そんなものはどうとでもできる」
「そうなのですか?」
清真は意外そうだった。確かに返せる当てがあるのなら今回の騒ぎはなんだったんだという話になる。
清真氏は勿体を付けた調子で流一の方を向いた。
「たとえば君、今三百円持っているかな」
「ありますけど」
「では投資したまえ。僕は三百円を百万倍に増やせる率のいい方法を知っている。しかも収益は非課税だ。これを何度か繰り返せば、一年後にはもうすっかり大金持ちになっている」
その方法ならさっき西来島の駅前で見た。しかし流一が指摘するまでもなく、娘が否定的な見解を述べた。
「お父様、宝くじというのは買えば必ず当たるというものではないと思いますけれど」
「なに、問題ない。僕はこれまで一度も外れたことがないんだ」
流一はおよそ熱のない義務感だけで訊いた。
「当たったことはあるんですか」
「流一君、まだ若い君に重要な教訓を垂れておこう。この世で目を向けるべきは過去ではなく未来だ。そうして人は成長し、家は栄え、国は富む」
清真家千二百年の歴史が当代で絶える可能性は高そうだった。
とにかく伝えるべきことは伝えた。この場ですぐ方が付くようなことではなし、流一は今日はもう辞去することにした。
「流一、心より御礼申し上げます。あなたがわたくしのことを気にかけてくださることが本当に嬉しいです」
一見すると仰け反ってしまうぐらいに立派だが、傍に寄れば傷みの目立つ清真邸の大門の外に立ち、流一は曇天の下で居眠りをしているような家並へ続く坂道に目を落とした。
「別に……実質俺はまだ何もしてない。それに事がどう転ぶかも分らないんだし、今礼を言われても困る」
彼方を見遣りながら答えると、穏やかに笑う気配がした。
「かもしれませんわね。それでは目処がついた暁には、改めてわたくしの体でお礼をさせてください」
「だからお前はそういうことを軽々しくだな」
「決して軽くなどではありませんよ。愛しい人に抱いてもらいたいと願うのは、わたくしにとってとても大切なことなのです。実経験こそありませんが、知識はそれなりに蓄えているつもりですし、流一を満足させられるよう一生懸命努めます。時に流一は何か特殊な嗜好はお持ちでしょうか?」
「そんなものはない」
たぶん。
「とにかくお前の相手にはなれないから。いいか清真、俺には彼女がいるんだ。お前も会ったことがある。マンバーで俺と一緒にいた子だ」
「覚えていますわ。小柄で子供っぽくてよく言えば人並みに可愛らしい方ですね」
客観的には妥当な評価という気もしたが、彼氏としては少々頷きにくかった。
「ですが御存知の通り、わたくしにも一応まだ婚約者はおりますし、流一も会ったことがあるのですから、おあいこというものではないでしょうか」
「全然理屈になってないからな。だいたい、まだ知り合っていくらも経ってないのに好きとか言われたって本気にできるかよ」
「それは仕方がありませんわ。だって」
らしくもなく、清真はためらいを見せた。流一はまるで爆弾の位置を探るような気分で訊いた。
「なんだよ?」
「だって……一目惚れしてしまったんですもの」
拗ねたように面を伏せる。流一は何も答えないまま、地面から足を引き剥がすようにして家路に着いた。
あの時の清真に手を触れずにいられたのはほとんど奇跡だったと思う。
#
流一が教室に入った時、既に姿勢正しく着席していた清真は、いつもの通り紺色の布のカバーを付けた文庫本を読んでいた。中身はまたエロ小説なのだろうか。多少気になりはしたものの、積極的に確かめようとまでは思えない。
「おはよう、織名くん」
そのまま戸口の近くに立っていると、流一よりやや低い位置から線の細い声が聞こえた。
「どうかしたの?」
女子ではクラス一背の高い布川が、心配するように眉根を寄せる。うるせえ、構うな、などと親しくもない女子に返すほど流一の魂はよじれていない。
「おはよう。別にどうもしないよ。また一週間学校来るのがかったるいなってちょっと思っただけ」
「あ、うん、そうだよね、分るな、でもさ」
布川は要領を得ない会話を続けようとしたが、流一は軽く頷くだけで済ませると自分の机に向かう。
「おはよう流一くん」
「おはよ」
親しげな挨拶をくれる秋津の脇を通り過ぎて一つ後ろの席に着く。
「おはようございます、流一」
「ああ、おは……」
普通に返そうとして、しかし流一の口は半開きの状態で固まった。まるで胸の真ん中にハードパンチを喰らったみたいな衝撃を受けていた。
どうしてなのか分らない。
読みかけの文庫を閉じて楚々と頭を下げる挙措も、控えめで滑らかなアルトの響きも、そして高雅な微笑みも、全て知っているものばかりだ。
なのにぴくりとも視線を逸らせなかった。
別人じゃないよな?
馬鹿馬鹿しい問いが浮かぶ。
顔形なら最初に見た瞬間から心に焼き付いている。芸能人でもおかしくないぐらい、いや女優やアイドルの中にだってこれほど端麗な面立ちの持ち主は決して多くはないだろう。だがそれは例えば歴史的な絵画や工芸品のようなもので、睦み親しむよりは眺めて感心する類に近かった。だけど今は。
こいつってこんなに可愛いかったっけか?
あたかも身近にいる普通の女の子のように。
流一の動作不良については気に留めず、清真は前に向き直って再び文庫本に手を伸ばした。
「……婚約はもうなくなったのか?」
ぼそりとこぼしたのは本当はただの独り言だった。だから周囲の雑音に紛れて消えてしまうべきだった。しかし清真には届いた。
「わたくしと流一の婚約ですか?」
え、と前の席で秋津が声を上げ、驚愕した表情の布川が窓際から振り返る。
「馬鹿お前何言って……ちょっと来い!」
焦って動いたのは後から考えれば明らかに失敗だった。意味が分らんという素振りで適当に流しておけば、例の如く清真の妄言ということでごまかせたはずなのに。
しかし気付いた時には流一はもう清真の手を引いて歩き出していて、教室中の関心が集まるのを全力でシカトしながら廊下に逃れ、勢い任せに屋上へ続く階段を上って途中の踊り場でようやく足を止めた。
「あー……」
しかし果たしてこの後はどうすればいいのだろう。間を持たせる術が思い付かずに悩んでいると、清真が口に手を当てて小さく笑った。
「そんなにおかしいかよ」
流一は自分の間抜けさを棚に上げて睨みつける。
「いえ、そんなことはありません」
言葉では否定しても清真の気色は明るいままだ。
「おかしいのではなく、嬉しかったのですよ。流一がわたくしを連れて逃げてくださるなんて、まるで駆け落ちのようで素敵です」
「逃げてない。関係ない奴に話を聞かせない方がいいと思っただけだ」
嘘だ。本当はあの場に居たたまれなくなっただけだろう、という突っ込みは却下する。
「それで」
ここまで来て遠慮したところで意味はない。単刀直入に状況を確認してしまう。
「あの後白石とは話したのか?」
「ええ、父の方から連絡を取りました」
「結果は?」
「取り決めたことは当座そのままに。ただし最低三年、わたくしが高校に在学している間は、婚儀は執り行わないということになりました。今の家にも引き続き住めますし、学費や生活費の援助も頂けます」
要は現状を引き伸ばしただけで、何ら根本的な解決はされていない。だがそれでも清真の側にとって悪い話ではないはずだった。むしろ一方的に寛大な申し出といってもいい。
もっとも、もし他に何の条件もないとすればだ。
「婚約は続けるってことは、つまり」
流一が咄嗟に考えてしまったことを清真は正確に読み取った。
「わたくしが善嗣様と褥を共にするのか、ですね。いいえ、特にそうした義務は負っておりません」
「本当なんだな?」
「ですが、それでもあえて善嗣様がわたくしを求めてくださるというのなら……わたくしに拒むべき理由はないように思います」
どうせいつものしょうもない戯言に決まってる。だが流一は怒ってみせることも笑い飛ばすこともできなかった。
「それとも」
清真は真っ直ぐに流一を見上げた。
「あなたが理由になってくださいますか?」
静かに瞳を閉じる。
流一は動かなかった。いや動けなかった。清真にさらに近付くことも、反対に距離を取ることも、指一本持ち上げることさえ自由にならない。視界がだんだんと狭まり、目に映るのはただ清真の姿だけで、自分がどこにいるのかも分らなくなる。実はどこにもいないのかもしれなかった。だがそんなのは困る。もし俺がいなかったら俺はどうすればいい。俺はどこにいる。どこにいればいい。誰のところに?
予鈴が鳴った。
「時間切れ、ですね」
清真の言葉に、流一は我に返った。ここはどこだと改めて考えるまでもなく、さっきまでいたのと同じ階段の踊り場だと分る。当り前だ。ただじっとしていただけなのだから。
「清真、俺は」
「いいのですよ、流一」
清真は後ろに下がり、階段を一つ降りてから振り返った。
「わたくしの想いはわたくしだけのものなのですから。あなたの想いがあなただけのものであるように。それでも、二つの想いが一つに重なる時がいつか来るのかもしれません。だからその日までは、どうぞ相変わることなく」
そうだ。今はまだ。
流一はほとんど自分でも意識しないままに、清真の後を追って足を前へと踏み出した。
だけどもしかしたら。きっと余り遠くないうちに。
手を伸ばせば届くところにいる清真はいる。
「わたくしのことはきょまら子ちゃんと」
「呼ばねえよ! ってか呼んだことねえだろ!」
「ならば蘭子、と」
一気に清真を追い越そうとした流一は、思わず隣に顔を向けて。
「……らん、っこおわ!?」
自分一人だけで済んだのがせめてもの救いだったと思う。
足を踏み外して階段を転げ落ちた流一は、清真の肩を借りて向かった保健室で全治三日の診断を下された。だが教室に戻った後の穂月その他からの視線の方がたぶん怪我よりもっと痛かった。
(了)
なまえのまえの しかも・かくの @sikamo
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