ガール・アット・ワーク
「おっす流一」
「おう」
連城高校近くの国道との交差点で、背後から肩を叩いてきた相手に適当に返事をすると、流一は青色が点灯した横断歩道を渡り始めた。
「なんか久し振りって感じじゃね?」
「そうか?」
中学で飽きるほど見た顔なので今さらどうでもよかったが、榊と会話するのは確かに卒業式の日以来かもしれない。同じ学校に通っていても、教室の場所が離れていると案外接点がないものらしい。
「斉藤は? 一緒じゃないのか」
榊は穂月の姿を探してきょろきょろと辺りを見回した。穂月が名実ともに流一の身内となっていることは、たぶんもうどこかで聞き知っているだろう。
「先に行った」
流一が答えると、榊は意外とも納得とも決めかねるような顔つきをした。
「お前らでもやっぱ気まずいとかあんの?」
「別にそういうことじゃない。あいつが朝飯やら弁当やら用意してくれてるから、後片付けぐらいは俺がやることにしてるってだけだ」
とはいえ全部済ませてから家を出てもこうして普通に間に合う時間なのだから、本当は一緒に登校しない理由にはならない。流一としては別にわざとずらしているつもりはなかった。ただ自分のペースで動いているだけだ。はっきりと聞いたわけではないが、穂月もきっとそうだと思う。
「お前も色々大変だな」
榊はいかにもおざなりな感想を口にした。それから一転して興味津々といった様子に変わる。
「ところで、お前らのクラスにすっげー可愛い子いるだろ。いかにもお嬢様って感じの」
真っ先に思い浮かんだ相手は一人だ。流一はため息をつくようにその名を挙げた。
「……清真か」
「もう話とかしたか? どんな子だ」
「悪い奴じゃない、とは思うけどな」
基本的には見た目に違わぬ折目正しい良家の子女といった印象だ。一昨日昨日と昼食を共にしたわりに実のある情報は増えていないが、言葉の端々からも高い知性と教養が窺えた。その代わりTVや芸能人等の話題はさっぱりのようだ。
「だけど普通じゃない。クラスでも浮いてるし」
「美人過ぎて他の女子から嫉妬されてるとか?」
「いや間違いなく本人の問題。言動がかなりおかしい」
「例えば」
「やたらと変なあだ名で呼ばせようとしたりとか」
もしかすると、未だに巨マラの意味を説明しそびれたままの流一にも責任の切れ端ぐらいはあるのかもしれないが。
榊は吹き出した。
「マジか、だったらお前にうってつけじゃねえか。ぜひ仲良くなって俺にも紹介してくれよ。なあオナルー……うおっ、危ねっ」
流一が突き出した足に見事に引っ掛かって榊がつんのめる。流一は榊を置き去りにして校門に向かった。
オナルーときょまら子を一緒に並べると“オナる巨マラ”だ。“オナるオナホ好き”に劣るとも勝らない嫌過ぎるカップリングだった。
清真は既に着席していた。最初の日に冗談みたいな理由で遅刻した方が例外で、本来的には真面目な優等生であるのだろう。
「おはようございます、流一」
思わず見惚れてしまうような美しい姿勢で読書に耽っていた清真は、流一が傍に来たことに気付くとわざわざ本を閉じて礼をした。
「おはよう。熱心に何読んでるんだ」
サイズは文庫本である。厚さはそれほどでもない。和服っぽい生地の紺色のブックカバーがなかなか渋い。
清真のイメージ的には昔の女流文学などが似合いそうだ。樋口一葉や与謝野晶子といった辺り。だがもちろん最新のベストセラーや海外のミステリだって文句はない。他人の趣味にケチをつけるなどそれこそ悪趣味というものだ。
「これですか?」
清真は机の上に置いた本を取り上げた。
「言いたくないなら別に」
例えばアニメやマンガみたいなイラストの付いたオタクっぽい小説だったら人に知られるのは恥ずかしいかもしれない。
「官能小説です」
「間脳小説?」
咄嗟に意味が分らなず聞き返した流一に、清真が表紙をめくってみせる。
『欲情のマエストロ 母と娘と息子のソナタ』
「分ったもういい」
流一は机の上に教科書とノートを広げた。一限目は数学だ。わりと得意な科目である。宿題もちゃんとやってきてあったが、授業の前に見直しておくのもいいだろう。
「世界的なピアニストが主人公の冒険ロマンなのですが、世に超絶技巧を謳われる指捌きを武器に、出会った女性達を縦横無尽に弾きこなしていたところ、コンサートツアーで訪れたある地方都市で、泥沼の近親相姦関係にずぶずぶとはまり込んでいた一家と出会い」
「黙れ変態」
清真はぴたりと口を閉ざした。
「ああ、いや」
さすがに言葉が過ぎた。それにどこかに誤解がないとも限らない。流一は声を低め、ずっと気になっていたことを質問してみた。
「お前さ、巨マラって言葉の意味分ってる?」
清真はこくりと頷いた。
「はい。そのつもりです」
だったら説明してみろ、と追求するのはためらわれた。なにしろ教室で普通にエロ小説を読みあらすじを語って聞かせるような埒外人だ。大きなチ○コのことですね、などと答えられたら流一まで周りから怪しい目で見られてしまう。
「わたくしからも一つお尋ねしてよろしいでしょうか?」
「なんだよ」
「流一は巨マラですか?」
絶句する。そして清真の視線の向かう先に気付き、心の底から戦慄した。流一の股間はまさに完全にロックオン状態だ。
「もしよろしければ見せて頂けませんでしょうか。やはりわたくしもきょまら子の名を身に負う以上、本物の有様をきちんと知っておくべきだと思うのです。どうぞよろしくお願い致します」
清真は折り目正しく頭を下げた。
「ば……馬鹿かお前、駄目に決まってるだろう!」
「なぜですか?」
「なぜって」
おっとりと首を傾げる清真を前に流一の思考は空転する。
「俺は巨マラじゃないから」
自分が何を言ったか理解するのに少しかかった。これはもう冗談にさえなっていない。立派なセクハラだ。被害者は主に自分。
「そうでしたか」
硬直する流一を気遣うように、清真は優しく微笑した。
「よく分りました。流一のモノは小さいのですね」
その瞳には慈愛の色があった。
──当分こいつとは関わらないようにしよう。流一は心に決めた。
#
よし、今週終わりっと。
教室の自分の席に座ったまま穂月はむんっと伸びをした。
別に土日に何か特別なイベントが待っているわけではない。むしろできるだけのんびりするつもりでいる。花の高校一年生の春としては些か彩りに欠けるかもしれないが、まだまだ先は長い。スタートダッシュで頑張り過ぎて途中で息切れしてリタイア、なんて残念な結果になるよりはずっといい。
まず明日は心ゆくまで朝寝をしよう。起きてからも午前中は適当にだらだらして、午後になって気が向いたら家の近所を散歩してみるのもいいだろう。
日曜は残っている家の片付けを済ませ、あとは掃除と洗濯と宿題だけやったら残りは全部自由時間にしてしまう。
入学してから初めて迎える週末ということもあって、普段の放課後以上の解放感を覚えているのは穂月だけではないらしかった。終礼が終わると同時に矢のような勢いで飛び出して行った子がいるかと思えば、この後寄り道する場所や土日に遊ぶ予定について賑やかに相談している子達もいる。
流一の姿は既になかった。一緒に帰ろうとか思っていたわけではないのでそれはいい。流一の隣の席に視線を移すと、美少女の清真蘭子は古風な革の学生鞄を手に提げてクラスメイト達に丁寧に挨拶しながら戸口へ向かう。どうやら流一とは別行動であるらしい。それとも後で合流したりするのだろうか。
その可能性は低いだろう、と穂月は思った。今日は昼食も別々に取っていた。流一は他の男子のグループと、そして清真はまた一人きりで。
ちくりと胸が疼く。
だが穂月が流一に釘を刺したのは一昨夜のことである。昨日はまだ一緒に食べていたのだから、おそらく自分のお節介は関係ない。それに清真に相手がいなくなったのなら、今度こそ穂月が誘えばいい。彼女がいるくせに他の子といちゃいちゃするなんてやっぱり間違ってる。本当にあけみに告げ口するつもりまではないけれど。
「すまん、ちょっといいか」
帰ろうと席を立ったところを野太い声に呼び止められた。何だろうと振り向く間に、さっきまで近くの男子達と雑談を交わしていた坊主頭の巨漢が意外な素早さでぬっと近付き、穂月を壁との間に挟み込むようにして両手を付いた。
「へ……?」
正直あせる。目の前にでかい男子が立ちはだかって行き場を塞いでいるのだ。ひとけのない路地裏だったら深刻な身の危険を覚えるシチュエーションだ。
「ん、どうかしたか。何か具合が悪そうだが」
穂月がたじろいでいるのを変に勘違いしたらしい原が上から顔を覗き込む。心配してくれるのはいいのだがぶっちゃけ余計に怖い。
「原くん、近い、離れて」
「んん?」
目前の分厚い胸板に両手を当てがい力任せに突き退けようとしたが、原は牛みたいな唸り声を上げるばかりでびくともしない。周囲がざわつく気配も感じられ、穂月の動揺はますます募った。教室にはまだ少なからぬ数の生徒が残っているのだ。果たして皆の目に自分達は何をしているように映っていることか。
「もう、いい加減に……」
かくなるうえは仕方ない。ちょっと可哀相な気もするけど、急所に一発かましてやる。膝蹴りを繰り出すべく穂月は狙いを定めた。
「おっと、そういうことか」
だが原が先んじて身を引く。鈍いんだか鋭いんだか分らない男である。
「別に変なつもりはなかったんだ。穂月さんってあんまり女子っぽい感じがしないから、ついな」
「いいよ、ちょっとびっくりしただけだから。気にしてない」
原の言い草は無礼だったが咎めはしない。昔から男子の友達は大勢いても、その先に進んだことは皆無の穂月である。女の子扱いされないことには慣れている。
原との間にようやく隙間ができたので周りの様子を確かめると、興味津々といった視線に幾つも出くわして瞬間頭が沸騰しかけた。だが深刻に悩むのも馬鹿らしいとすぐに割り切る。
原との間に何もないのはすぐに知れることだ。それに万一誤解されたままになったところでさして不都合もない。流一と違って特につき合っている相手もいない身だ。いっそこの際本当のことにしてしまうという手も──いやさすがにそれはないか。
「用は何?」
気を取り直して尋ねる。こうやって間近で向かい合うと見上げるのに首が疲れる。穂月も一六五センチあって女子では高い方なのに。
「日曜に練習試合があるんだ」
授業中にガムか飴でも食べていたのか、原の息にはミントの香が混じっていた。
「野球部の? 原君出るの?」
「出る。四番サード」
「おー、凄いじゃん。まだ一年生なのに、っていうか、まだ入部したばっかなのに」
穂月は素直に感心したが、原はさほど嬉しくもなさそうだ。
「弱小だからな。先輩だって俺より野球経験短い人の方が多いぐらいだ」
「それでも凄いって。おめでとう」
「ありがとう。それで穂月さんにお願いがあるんだが」
「分った、女子に応援に来てほしいみたいな話ね。それならもっと早く言ってくれればよかったのに」
教室内をざっと見渡してみるが、居残っている女生徒はもう十人にも満たなかった。今から声を掛けたところでどのぐらい集められるものだろう。些か心許なく感じたが、穂月はすぐに別の可能性を思い付いた。実は数は問題ではないのかもしれない。
「この中に、誰か目当ての子がいたりするの?」
声を潜めて問う。もしそうならその子が帰ってしまう前に捕まえないといけない。果たして原は頷いた。
「当りだ。穂月さん」
「やっぱしね。いいよ、あたしがなんとか誘ってみるから。どの子?」
「だから穂月さん」
「はいはい任せてって。あたしがばっちり……え?」
穂月は疑わしげに自分の胸を指差した。
「ひょっとして、あたし?」
「そう。試合は午前で終わりだから、昼は穂月さんに弁当を作ってきてもらって、食べたら午後から二人で出掛けよう。弁当はお握りと唐揚げで。それ以外は穂月さんに任せる。俺は嫌いな物とかないから大丈夫」
「えーと、ごめん、なんでいきなりそういう話になってるのか全然分んないんだけど。あたし君の彼女でもなんでもないよね」
「これからなればいい。穂月さんは俺の彼女になる。なった。な?」
「な? とか言われても」
「駄目か? もし明日来るのが無理なら、彼女になってくれるだけでもいいんだが」
「どーして彼女になる方がハードル低くなってんのよ。君、あたしのことからかってる? そういう冗談って趣味悪いよ」
「ガチ本気」
原は躊躇なく言い切った。ボディブローみたいに体の奥までずしんと響く。
「そ、そうなんだ、ありがと……」
とはいえそれで自分はどうすれば。
卒業式の日に見た情景が思い浮かぶ。あけみに告白されても少しも取り乱した様子を見せず、想いを受け入れた流一。しかもそのままキスまでしてのけた。為す術を知らずに戸惑っているだけの自分との恋愛力の差に情けなくなる。
だけどちょっと待った。穂月は落ち込みそうになる自分を引き止めた。考えてみれば条件がフェアじゃない。あの時の流一は、あけみが待っていることも用件も最初から承知していたのだし、それに穂月の知らないケースも含めれば、流一が過去に告白された回数はおそらく両手の指に余るだろう。経験値不足の自分とは違って心にもずいぶんと余裕があったに違いない。
なんかむかついてきた。
「いいよ、原くん」
答えてしまってから穂月は急いで断りを入れた。
「その、誤解しないでね。いいっていうのは日曜のことだから。彼女になるとかはなし! でも絶対駄目っていうわけじゃなくて……保留にさせて。あたしまだ原くんのことそんなに知らないし、男の子とつき合うっていうのもよく分んないから」
最後の一言はいかにも余計だった。自分がどれだけ男子にもてないかを告白しているみたいなものだ。穂月は思わず赤面し、原もちょっと意表を衝かれたふうだったが、すぐに表情を引き締めると穂月の肩に手を置いた。
「穂月さん、安心してくれ」
「原くん……」
見上げた穂月に原は力強く頷いてみせる。
「俺も慣れてるわけじゃないけど出来るだけ優しくする。いきなりがっつんがっつん突っ込んだりは絶対にしない。中にも出さないように我慢する」
穂月は原の下顎に掌底を見舞った。
血が上った面を伏せ、足早にその場を歩き去りながら、自分が男の子とつき合うのはまだ暫く先のことになりそうだ、と思った。
#
意外と、面白かった。
流一はささやかな満足感を抱きながら映画館の外に出た。
地元から一番近い劇場には三つの選択肢があった。無難に楽しめそうなハリウッド製アクション大作、魔法使いの女の子がヒロインの子供(とオタク)向け国産アニメ、そしてB級感が色濃く漂うよく分らない洋物ホラーである。どれがいいかと流一が尋ねると、あけみが即決したのはなぜかB級ホラー(というかスプラッター)だった。
「もう、すっごい怖かったです。でも先輩が一緒で本当によかったなって思いました。もしあたし一人だったら途中で泣いちゃって観れなくなってたかも」
あけみは流一に身を寄せると左腕を抱え込んだ。
「そっか。頑張ったな」
流一がねぎらう声は平板だ。確かに、生首が跳ね飛んで血が噴水みたいに吹き出したり、胴体を極太の杭が貫いて腸がちぎれ落ちたりするシーンでは、あけみはきゃあきゃあ叫びながら目元を指で拭っていたりしたが、その合間にも「まじうけるー」だの「そこだ、抉れっ」などと盛り上がっていたのは決して流一の幻聴ではなかったと思う。
「お腹空きましたね。何食べましょうか」
元気よくあけみは言った。もう午後一時をだいぶ過ぎているのでごく自然な欲求ではあったが、画面いっぱいに臓物が飛び交う映像のおかげで流一はさほど食べたい気分ではない。
「俺あんまり金ないんだけど。マンバーでいいか?」
通りの少し先にあるマウンテンバーガーを指差す。それでもファーストフードの中ではグレードの高い部類に属する。
「もちろんです。先輩がごちそうしてくれるんならなんだって嬉しいです」
あけみは殊勝っぽく答えたが、流一は奢るとはひとことも言っていない。さっき窓口で二人分の映画代を払ってチケットを渡した時にも、「ありがとうございます」と礼儀正しく頭を下げはしたものの、あけみが自分で払おうとする素振りは毛ほどもなかった。
金を出すのはいい。流一は男であけみは女だ。そしてそれよりも年上と年下で、先輩と後輩で、高校生と中学生だ。とどめに今日は記念すべき初デートとくれば、百人中九十九十人が流一が負担すべきだと断じるだろう。
流一も同意見だ。だからあけみもきっとそうなのだろう。どこもおかしいところはない。ただ少し意外なだけだ。
もっとも、元からよく知っている相手というわけでもなかった。あけみが桜中のバスケ部に入部してからの一年間で、会話を交わしたのは合計一時間にも満たなかったかもしれない。
流一はどこか他人事のような気分で小柄な彼女のことを見下ろした。きっとこれからも新たな一面を発見していくことになるのだろう。今日明日にも別れてしまうというなら話は別だが。
「なんですか?」
流一にじっと見つめられたあけみが微妙に赤らんだ顔を向ける。
「いや。部活はどんな感じだ。もう一年入ったのか?」
「女子は三人入りました。男子はまだ一人だけです」
「最低でも五人は入れたいよな」
「先輩は、高校でバスケ部入らないんですか?」
「今のとこその気はないかな。そもそも男バスがあるのかさえ知らない」
「だけどそんなのもったいないですよ。バスケしてる流一先輩すごくかっこいい……うん、上手なのに」
「俺程度別にどうってことないよ。もっと上手い奴なんかごろごろしてる」
あけみの個人的な思い入れの方はスルーして客観的な事実を告げる。一応、自分の実力が中学生の半分より上だった自信はあるが、逆に言えばそれだけだ。チームは県ベスト16止まりだったし、流一個人の実績にしても、一試合に三〇点も四〇点も取って注目を集めるとか、強豪校がスカウトに来るといったこともなかった。今の学校で続けたとしても趣味の延長以上にはならないだろう。
連高はおしなべて部活動その他への熱意が低い。流一もそれは承知で受験したのだから文句を言うつもりはさらさらない。それでも時折ぬるま湯に浸っているような気分になることはある。
「新宮には合ってそうだけどな」
「何がですか?」
「うちの学校。わりかし居心地がいいんじゃないかと思う」
「はい、あたしも行きたいです。また先輩の後輩になりたいな」
あけみは流一の腕を抱く手に力を込めた。だがすぐに儚げな息をつく。
「でも行けるかな。いっぱい勉強しないと。それにせっかく頑張って入れても、一年したらまた離れちゃうし。一緒の大学行くのなんかもっと難しいですよね。先輩、どこ受けるんですか?」
「高校入ったばっかで大学のことまで考えるかよ」
流一は渋い顔をした。
昼食には少し遅い時間帯だったが、マウンテンバーガーの店内はまだかなりの混み具合だった。全部で四つある注文カウンターにはどれも順番待ちの長い列ができている。メインの客席は上の階だが、この様子からするとがら空きということはまずないだろう。
「俺が買って持ってくから、新宮は場所取りしといてくれ」
「分りました」
「注文は何にする」
「グリルチーズバーガーのサラダセットお願いします。オレンジジュースで」
カウンターの上に掲示されているメニューを見ながらあけみが答える。
「それだけでいいのか? もう一セットぐらいなら頼んでもいいけど」
「えー、なんですかそれ。あたしそんなに食べませんもん」
あけみは口を尖らせた。見掛けによらずずうずうしいタイプみたいだからな、と二の矢を継ぐのはやめておく。
「育ち盛りだろうから試しに訊いてみただけだよ。じゃあ席頼むな」
「禁煙席でいいですよね?」
「俺はいいけど。お前吸うの?」
まさか、とあけみは首を振った。
「先輩は大人っぽいから、一応訊いてみただけです。たぶん違うだろうなとは思いましたけど。この前もそういう匂いとかしなかったし」
「この前って」
「な、なんでもないです、あたし上行ってますね!」
あけみは逃げるように階段の方に向かった。
最初の日にキスをして以来、あけみとは全く進展していなかった。今日のデートもあけみの方から誘われてのことである。ほとんど状況に流されてとはいえ、ひとたびつき合うことに決めた以上、もっと積極的になってもいいはずだ。問題はいつどこで何をどうやってどこまでやるか、だが。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
家で二人きりになる方策をつらつらと考えているうちに、列が進んで自分の番になっていた。カウンターの上に置かれたメニューに目を落としながら、まずはあけみのリクエストを伝える。
「グリルチーズバーガーのサラダセット」
「グリルチーズバーガーのサラダセットがお一つ。お飲み物とサイズはいかがいたしましょう」
「オレンジジュースで。サイズは」
そういえば聞いてなかったけど普通にMでいいかと思いながら、店員に答えようと流一は顔を上げた。
「……きよ、ま?」
呆然と名を口にする。なぜこいつがここに?
「わたくしですか?164センチ49キロ、上から8……」
「いや、お前のサイズはいいから」
驚愕から速やかに復帰すると、流一は清真が己の身体情報を開示しようとするのを遮った。おそらくどこに曝しても恥ずかしくない数値なのだろうけれど、周りの他人連中にまで教えてやる義理はない。
「サイズはMだ。あとBLTのMセット。コーラで」
「承りました。それではお先に会計の方失礼致します」
流一が注文に戻ると清真も素直に従った。営業用と片付けてしまうには惜しい微笑を湛えて一礼し、慣れた手付きでレジを打つ。
「こちらお返しとレシートになります。番号札十七番でお待ち下さい。後ほどお席の方までお届けに上がります」
コーラとオレンジジュース、それに数字の記されたプラスチック板が載ったトレイが押し出される。流一は機械的に受け取って、だが泥の中に嵌ってしまったみたいに足はぐずぐずと動き出さない。
“バイトしてるのか?”
見れば分る。
“どうして。お前の家って金持ちなんだろう?”
訊いてどうする。そんなのは清真の勝手だ。
「流一? まだ他にご用がおありでしたら」
「違う、なんでもない。ここにいたら邪魔だな」
無意味な想念を振り切り、流一はトレイを持って背中を向けた。
「ありがとうございました」
ざわめきの中で清真の声がはっきりと耳に響いた。
「先輩、こっちです!」
流一が上のフロアに入ると、窓際のカウンター席であけみが手を振った。さすが一応は運動部に所属しているだけのことはあり、よく通る声に釣られて少なからぬ人数の客が顔を向ける。
ぱっと見た限りでは知った相手はいなそうだ。流一は肩の強張りを解いてあけみの方に歩き出す。
「すいません、テーブル席空いてなくて」
「いいよ。ここで十分」
あけみが隣に置いてあったポシェットをどける。流一は自分の飲み物を取ってからトレイを横に滑らせた。喉が渇いていたので早速コーラに口を付ける。冷たい刺激が流れ落ち、少し気分がすっきりする。
「バーガーとかは後で持ってくるから。だけどお前それまで我慢できるか? 腹ぺこだからって紙コップなんか食べるなよ」
「だから、どうしてあたしが先輩の中でそんな食いしん坊キャラになってるんですか。事実無根です。名誉毀損です。ダンコ訂正を要求します」
「それはやっぱり肉食系だからさ。告白して速攻で年上の男の唇奪うぐらいだし」
「そ、そんなことしてないじゃないですか……あれは先輩から」
「でも誘ったのはお前だろ。ウツボカズラだっけ、甘い匂いで引き寄せてふらふら近付いた馬鹿な虫をぱっくり、みたいな感じかな。要は引っ掛かった俺が間抜けで単純だったってことだけど」
実際には色香に惑わされたのではなく情に絆されたのだが、端から見れば似たようなものだろう。どちらにしろ格好はつかない。
「……でしたか」
「何?」
流一が聞き返すと、あけみは頬を歪めて笑いに似た顔を作った。
「もし迷惑だったんなら忘れてください。あんなことぐらいで責任取ってなんて言いませんし、義務感だけで傍にいてもらっても嬉しくないですから……なんてすいません、こんなの生意気ですよね。今日はもう帰ります。映画代とかは後で絶対返しますから。実はお金下ろしておくの忘れちゃってて、今あんまり持ってないんです。ごめんなさい」
あけみは声を掠れさせながら頭を下げた。膝の上のポシェットを掴んで立ち上がろうと腰を浮かせる。
「流一、お待たせしました」
背後から心臓を一突きされたみたいな心地がした。
「こちらグリルチーズバーガーとサラダ、BLTバーガーとポテトのMサイズになります」
店の制服を着た清真が注文の品を載せたトレイを流一の前に置いていく。代わりにプラスチックの番号札を取り上げた。
流一は石像と化したようにただ眺めているしかできない。
「それではどうぞごゆっくり」
雅に一礼して、水の上を歩む天女みたいに静かにフロアを戻っていった。
「……すごい、きれいなひと」
あけみが呟いた。まるで幽霊でも見たかのように目の色がどこか虚ろだった。
「食おう」
流一はあけみの分のバーガーとサラダを隣に回した。
「はい」
あけみは素直に受け取った。帰るのはやめにしてくれたらしい。
「さっきは馬鹿なこと言って悪かった。あけみのことが迷惑とか、俺は全然思ってないから。もしもう俺のことが嫌になったとかじゃないなら、これからも一緒にいてくれると嬉しい」
流一はBLTの紙包みを剥いてかぶりついた。
「流一」
口に物を入れたまま横を向く。なぜいきなり呼び捨てなんだ。好意からなのか、それとも敵意のせいなのか俄に判断に悩んでしまう。
どちらでもなかった。
「先輩のこと流一って呼んでた。さっきの綺麗な人」
ベーコンの代わりに舌を噛みそうになった。そっちか。コーラを飲み、いったん間を取ってから流一は答える。
「同じクラスの奴だよ。実は俺もさっき会って驚いた。こんなとこでバイトしてるなんて全然知らなかったからな」
嘘などついていないのに、なぜか言い訳めいた調子になってしまう。
「なんていう人ですか?」
感情の読み取れない顔つきであけみが訊いた。
「清真だ。清いに真面目の真」
「清真さん、ですね」
ポシェットから携帯を取り出すと、ぽちぽちとキーを打ち始める。
「新宮、何してるんだ?」
「メールです。穂月先輩に清真さんって知ってますかって」
「それは駄目だやめろ」
携帯を操作する手を掴んで止める。あけみは咎めるような目付をした。
「どうしてですか?」
「あいつ絶対誤解するから。それもかなり面倒臭い方向に」
「分りました。じゃあやめます」
思いの外あっさりと引き下がったあけみは顔をうつむけて黙る。気まずさが二人の間に積もる。
「……誤解、なんですよね?」
壊れ物に触れるように、あけみは流一の手を探った。流一は握り返した。
「清真とは何もないから。俺がつき合ってるのはあけみだけだ」
「信じます」
あけみはようやく明るく笑うと、流一の耳元に唇を寄せた。
「だから先輩こそ、肉食系になってくれてもいいんですよ?」
#
まさしく惨敗だった。九対一の大差で、そのうえ野球に詳しくない穂月の目から見ても、運不運が積み重なった結果などではなく純然たる実力の違いなのは明白だった。
「お疲れ様、原くん。いい試……」
いい試合だったね、と型通りねぎらおうとして思いとどまる。この状況では皮肉かいやみにしかならないだろう。
「い、いい天気でよかったね」
馬鹿みたいな台詞だと自分で思った。とはいえ惜しかったねというのも当たらない。些か極まり悪い思いでいると、原は広い肩を竦めた。
「気を遣わなくていい。俺らが弱いのは知ってる」
投げ遣りっぽい調子だが、表情からするとさほど腐っているわけでもないらしい。
日曜の校舎の昇降口付近に他に生徒の姿はなかった。野球のユニフォームから制服に着替えてきた原に、穂月は持参してきた手提げ袋を差し出した。
「はいこれ。リクエストのお握りと唐揚げのお弁当」
「おお、ありがとう穂月さん、嬉しい、愛してる、結婚しよう」
「こら馬鹿離せ!」
瞳を輝かせた原にがばりと抱きすくめられ、穂月は瞬間固まったものの、すぐに我に返って突き放す。原は大人しく一歩後ろに下がり、害意がないと示すように両手を広げた。
「悪い。ちょっとした本気だった」
「まったくもう。いくら冗談でも限度ってものが……は? 本気?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「もちろんだ」
原は無駄に男らしく頷く。
「籍を入れるのは俺が十八になるまで待ってもらうとして、まずは既成事実作りだな。善は急げだ。早速保健室でベッド借りよう」
「たわけ」
手を握ろうとしてきたのを振り払い、ついで膝横につま先を叩き込む。自分でびっくりしてしまうぐらいいい角度で入った。さしもごつい大男が痛みに呻いてしゃがみ込む。
「あの……平気?」
さすがに今のはやり過ぎたかもしれない。万一怪我でもさせてしまったら大変だ。
「保健室行った方がいいなら一緒に……だから違う! そういう意味じゃないってば!」
苦悶で額に皺を寄せながらエロい期待に頬を緩めるという器用かつ気色悪い芸当を披露する原にぴしゃりと念を押す。
「でも今日保健の先生っているのかな」
学校は休みなのだから部活の顧問でもない限り普通は来ていない気がする。
「大丈夫だ。このくらいどうってことない」
単なる強がりではないと証明するように、原は足を踏みしめて立ち上がった。
「そう? でも無理はしないでね。お弁当は……どこで食べようか」
「教室でいいだろう」
「んー、でもあたし私服で来ちゃったしなぁ」
特に用がないなら余り校舎の中にまで入りたくなかった。
「それならベンチにするか」
「ベンチってどこの……あ、ちょっと原くん?」
さっきまで試合が行われていたグラウンドの方へ原は歩き出した。穂月はとりあえず後に続いたが、原が足を止めた場所を見て些か呆れる。
「いやここは駄目でしょ。またすぐどこかの部が使うんだから」
連城高校には各運動部が専有できるだけのグラウンドはなく、よってベンチも当然共有である。荷物置き場や見学者用席として使われる、座面に木の板を張っただけのシンプルな代物だ。穂月がさっきまで試合を観戦していたのも、こことは別の場所にあるベンチの一つだった。
「平気だ。今日の午後はどこも予定入ってないから」
「そうなの? でもだからってこんなどっからでも見えるようなところでっていうのは気が引けるんだけど。にしてもさ、うちの運動部ってほんとに適当なんだね。普通ならグラウンドの取り合いとかになりそうなものだけど」
原がどっかと腰を下ろした脇に、手提げ袋を置くとあきらめて穂月も座った。目の前にがらんとした空間が広がっているせいでどうにも落ち着かない気分にさせされる。
「実は今日の試合も日曜に練習するのはかっ怠いけどグラウンド割り当てられてるのに何もしないのは体裁が悪いからって理由で組まれたらしい」
「それはさすがに嘘だ」
穂月は笑ったが、原は全くの真顔である。
「え、本当に?」
「俺はそう聞いた。いただきます」
「どうぞ、召し上がれ。そんなの相手の学校にも失礼じゃない」
「いいんじゃないか。どうせ向こうだってこっちが弱小なのは承知で来てんだか、ら、がっ、げほっ」
「ほら、口に物入れたまま喋らない。麦茶」
水筒の蓋に中身を注いで渡す。
「がはっ……ふう、ありがとう、助かった。さすがは穂月さんだ。二人の息はぴったりだな。俺達もうすっかり似合いの夫婦って感じだ」
「んーん、全然。お握り一つ貰うよ」
「えっ?」
「なぜ驚くの。まさか全部一人で食べるつもりでいたわけ? 冗談じゃないっての。わざわざお弁当作ってきたあたしがお昼抜きとかあり得ないから」
構わず取って口に運ぶ。お握りは四つとも別の具で作ってきてあったが、自分の好きな材料しか入れてないのでどれを取っても問題ない。
原は首を横に振った。
「違う。夫婦を否定された方に衝撃を受けた」
「なら深く心に刻んでおいて。二度と妙な考え起こしたりしないように。この唐揚げって実はゆうべの残りなんだけどいいよね」
「穂月さんの手料理ならもちろんいい。しかし困ったな」
「作ったのは真行さんだよ。ぶっちゃけいまひとつ。やっぱりあたしがやればよかったかも。何が困ったの。麦茶ちょうだい」
「真行って誰だ。次は是非穂月さんで頼む。もう部内周知になってる。どうぞ」
「ありがと。真行さんは流一のお父さんだよ。今はあたしのお義父さんでもあるけど。もし次の機会があったら考えとくわ。野球部の周知事項なんてあたしに関係ないじゃない」
「あそこで試合見てる女子は誰だって話が出たから、俺の嫁ですって宣言しといた」
「ぷはっ!」
麦茶がストレートに気管に入った。
「がはっ、げへっ」
「大丈夫か? 穂月さんって意外とそそっかしいよな。さすがはオナホ好きなだけのことはある」
原が意味不明なことをほざきながら背中をさする。穂月は思い切り噎せているせいですぐに突っ込むこともままならない。
ようやく普通に呼吸ができるようになると、まずは食べかけのお握りを片付け、それから空の手提げ袋を掴んで立ち上がった。
「帰る」
唐揚げで頬を膨らませた原が穂月を見上げて瞬きをする。
「お弁当箱と水筒は明日返してくれればいいから。ちゃんと洗っておいてね」
原はようやく穂月がマジギレ一歩手前であることに気付いたらしい。血相を変えて腰を浮かせた。
「ストップ!! 待つから! 口の中の物飲み込んでから喋って!」
穂月は危険を直感して掌を前に突き出した。原は瞬間動きを止め、ややあってから油を注された古い機械みたいに咀嚼を再開する。何度か顎が上下した後に、突き出た喉仏がごくりと動く。しかしなおも油断は禁物だ。
「げっぷするなら横向いて! あと顔離して!」
矢継ぎ早に指示を下したのは正解だった。そして間一髪だった。
穂月に命じられるままに面を背けた原が、濁った音を立てて空気の塊を吐き出した。
よかった、間に合った。穂月は安堵の息をついた。もし食べ滓や油臭い息を真近で浴びせられていたらと思うとぞっとする。おそらくもう二度ととまではいかないまでも、暫くの間は口をきく気になれなかったに違いない。もっとも、穂月としては原との交流が途絶えたところで特に問題ないのだが。
原は徐に後ろを向くと、角ばったスポーツバッグから何やら取り出してシュッと一吹き。
「穂月さん、もう大丈夫だ。これでいつでもベロチューいける。ばっち来い」
振り返った原が両手を広げて差し招く。穂月は頭痛をこらえるようにこめかみを押えた。
口内清涼スプレーを常備するほどの気遣いができるなら、なぜもっと基本的な人としての道を履めないものか。
「しょうがない……試合の後で出掛けるって約束だったもんね。もう少しだけつき合ってあげるわ。ただし」
本気具合を分らせるため力を込める。
「もしまたあたしの名前を茶化すようなこと言ったら即刻終了だから」
「任せろ」
原はごつい手で己の胸を叩いた。
「そんなふざけた野郎は俺が力ずくで黙らせてやる」
──だから、君に言ってるんだってば。
今すぐ終了にしなかったことを穂月は早くも後悔し始めた。
電車に乗って二駅、
「原くんはよく
通り沿いの店や看板を見るともなく眺めながら穂月は隣を歩く原に尋ねた。原はすぐに答える。
「毎日な」
「そうなんだ。ちょっと意外かも」
原が真面目一辺倒からはほど遠い人種であることはもう嫌というほど分っているが、かといって街中を遊び歩くタイプとも見えない。しかし実際原の足取りには迷いがなく、かなりの馴染みがあることを窺わせた。
「これからどこに行くわけ? ケーキがおいしくて居心地のいいお店でも紹介してくれるんなら嬉しいんだけど」
それなら休みの日にわざわざ出て来た甲斐も少しはあるというものだ。
「俺ん家」
穂月は頬をひきつらせた。この男はいったい何を言っているのだろう。
「余計な心配はしないでいい」
だが穂月が肘鉄を喰らわせる前に、原は落ち着いた調子で付け加えた。さすがに女子が男子の家に遊びに行くのはそれほど簡単な話ではないという程度の常識は持っていたようだ。ミクロン単位で原のことを見直す。
早計だった。
「夜までは誰もいないから、俺達二人きりでどこからも邪魔は入らない。確実に最後までやれる。納得してくれたか?」
原は親指をびっと突き立てた。午前の練習試合で連城高校唯一の得点となったホームランを打った時より得意げだった。
「あたし、もう約束果たしたよね」
穂月は自分に確認するように言った。わざわざ電車に乗って移動したのだ。十分「二人で出掛け」たというのに値する。
「じゃあね原くん、今日は楽しくなかったわ。また誘わないでね」
「俺ん家、の近くにある公園って言おうとしたんだ。ちょっと説明が足りなかった」
「ふうん。その公園って夜まで誰もいないんだ。変わってるね。昼間は閉鎖でもされてるわけ?」
「それはだな、つまり、誰もいないみたいに二人の世界に浸れるっていう意味だ。カップル連中がよく来てるから、俺達がいちゃついても誰も気にしない。キスぐらいなら余裕でいける」
本当にこれでフォローしているつもりなのだろうか。穂月はまじまじと原を眺めた。どうやら普通に断ったぐらいでは埒が明きそうにない。
「分った、行くよ。つき合ってる人達がいっぱい来るっていうなら、たぶんそれなりに素敵な場所なんでしょうし。それに」
ふっと一息置いてから、なるべく可愛げに笑ってみせる。
「原くんが相手だもんね」
穂月の言葉に原は俄然色めき立った。ここだ。
「傍にいるのが君なら、周りの雰囲気に流されて間違って好きになっちゃうなんて心配もいらないし。だから馴れ馴れしくくっ付いてきたりとか金輪際やめてね」
原に連れられてやって来た
原はめっきりと静かになっていた。気心の知れた間柄では全くないので一人が黙り込んでしまうとやけに重苦しく感じられてしまう。
それこそ周りの恋人達みたいにぴったりと引っ付いてやりでもすれば、原は皿に水を受けた河童さながらに元気になるのかもしれない。だがもちろん穂月にそんな義理はない。原がもう穂月へ求愛する男の子の役を降りるというなら二人の物語はここまでだ。
「織名」
原は唐突に口を開いた。穂月さん、ではなかったことが意外なほど心に引っ掛かる。しかしそれを咎めて無理に呼び直させたところで意味はない。
「原くん、あたし確かにちょっとは君にむかついてたし、そのせいで意地の悪いことも言ったと思うけど、心底君が嫌いってわけじゃ……」
「こっち」
「やっ!?」
柄にもなく気弱な女の子みたいな悲鳴を上げてしまった。原が強く肩を抱き寄せ、穂月を木立の中へと連れ込んだ。
本物の森や林ではないのだから奥行きは知れている。道を外れた場所で抱き合ったりキスしたりしているカップルをそれまでにも何度も見掛けていたが、視覚刺激がついに原の野獣も目覚めさせてしまったのかもしれない。現に行く手には今もその真っ最中の二人がいた。彼女の方は小柄で、彼氏はそこそこ背が高い。身長差を埋めようと一所懸命背伸びしている彼女の背中がいじらしい。
彼氏はそんな彼女を支えるようにしっかりと背中に腕を回していた。穂月は少し羨ましくなった。あんなふうに大切そうに抱きかかえてもらえたら、穂月でも乙女心がときめいてしまいそうだ。しかしその相手が原というのはひとまず遠慮させてもらいたい。
「ねえちょっと、どこまで行く気よ!?」
己が身の危険とは別の意味で穂月はあせった。てっきりひとけのない方へ向かうのかと思いきや、原は穂月を連れたまま一直線にキスをしている二人へと突き進む。
恋する二人もさすがに異常に気付いたらしい。彼氏が顔を上げ、すぐに驚きの表情を浮かべる。
原は彼女の頭越しに彼氏へ告げた。
「織名、俺、織名とやりたい」
くらりと穂月の視界が揺れる先で、あけみを胸に抱いた流一が石化した。
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