隣の異人

 余韻は長く続いた。むしろ尾を引いた。影響は深刻だった。

 次元がずれてしまったようなホームルームが終了した後も、授業中はもちろんのこと、休み時間になっても清真にあえて触れようとする豪の者はいなかった。

 いじめの一種としての無視とか、誰にも興味を持たれないがゆえの透明人間化とは確かに違っていただろう。清真蘭子は蔑むには美し過ぎたし、空気の中に埋没させてしまうには“きょまら子”インパクトが強烈過ぎた。生徒達の対応を一言で表すなら、「敬して遠ざく」、あるいは「触らぬ神に祟りなし」。

 ──さてと、どうしようかな。

 昼休みに入った教室で、穂月は己の身の振り方を思案した。

 家庭の事情により手作り弁当は用意できなかったので、昼食は学校に来る途中のパン屋さんで調達してあった。今朝寝坊した流一には当然そんな余裕はなかったはずだ。姿が見当たらないのはたぶん購買にでも出向いているのだろう。

 流一が戻るのをわざわざ待つ気にはなれなかった。いくら姉弟でも学校でまでべったりひっついてる必要はない。もっとも、家にいる時だってそれほど一緒にはいないのだけど。

「あたし達と一緒に食べない?」

 顔を向けると、昨日も来た二人組が傍にいた。

 確か、声を掛けてきた顔の丸いのが古倉晶子で、その脇に隠れるようにしている背が高いのが布川理美だ。

「うん、いいよ」

 穂月は頷いた。どういうつもりで穂月に近付いてくるのかはよく分らないが、あえて断ることもない。

「じゃあ流一の机使って、あとどっか適当に椅子一個借りようか」

 自分の席の机を回して後ろにくっつけようとすると、古倉が押しとどめるように口を挟んだ。

「でも勝手に悪くない?」

「へーきへーき。だけど古倉さん達の席の方がいいっていうならそっち行くけど」

「それは別にどっちでも」

「だったらいいじゃん。ね、布川さん」

 押しに弱そうな布川の方に振る。反応は予想以上に迅速だった。

「はい、お弁当持ってきます!」

「理美ちゃん?」

 古倉が慌てたように布川の後を追い掛ける。一見すると古倉の方が先に立っているような感じの二人だが、行動の決定権を持っているのは実は布川であるのかもしれなかった。

 結局布川が流一の席に、古倉は近くの空いている椅子を引っ張ってきて横に座った。

「いただきます」

 女子三人の声が重なる。

「あれ」

 それとほぼ同時、異質な男子の声が上から被さる。穂月は見るまでもなく誰なのか分った。

「流一、借りてるよ」

 気軽く断りを入れるが、布川は狼狽したふうに腰を浮かせる。手に弁当箱の蓋を持ったままなのがちょっと笑える。

「す、すいません勝手に!」

「いいよ。使ってて」

 流一はいなすように答えると、すぐにこの場から離れていった。不当占拠に気を悪くした様子はもちろんない。

「……はい。ありがとうございます」

 布川の囁くような礼はまず確実に流一には届かなかっただろう。まして薄く頬を染めていたことなど知る由もなかったに違いない。

「あのさ布川さん。一応教えとくけどっていうか、教えた方がいいのかどうかよく分んないんだけど」

「なんですか?」

「流一、彼女いるよ」

 布川はびくりと肩を震わせた。

「……穂月さん、ですか」

 上目遣いに尋ねる。

「違うし。なんでみんなそーゆーふうに思うかなあ」

 穂月はパックの苺ジュースを啜った。甘過ぎる。

 流一とつき合っているのかと穂月はこれまでに何度も訊かれてきた。否定してもなかなか納得しようとしなかったり、もっとひどいのになると、流一に告白して振られた後に「つき合ってないって言ったくせに、嘘つき!」などと理不尽な文句を垂れにきた奴さえいる。全く面白くない。こちらは流一だろうと誰だろうとまだ一度も恋人つき合いしたことなどないというのに。男子から告白されたことも。

 穂月の内心の不満には気付くことなく、布川は古倉に同意を求める。

「それはやっぱり雰囲気とか。ね?」

「だね。ちょっと他人が入り込めないみたいな、二人だけで通じ合ってる感があるよね」

「単に遠慮がないだけだよ。弟みたいなもん……っていうか、弟なんだけど」

「でもそれって珍しくない? いくら義理でも姉弟で同じクラスになるなんて」

「籍入れたの四月だからね。クラス割りの方が先に決まってたんじゃないかな」

「四月って今年のですか?」

「ほんとについ最近なんだ」

 布川と古倉はずいぶん驚いたようだった。穂月だってびっくりだ。

「笑えるでしょ」

「それじゃあ、高校入学と同時に同級生の男の子と一緒に暮らし始めたんですね。それもあんなかっこいい人となんて。いいなあ、素敵」

 布川は夢見る乙女のようにうっとりしたが、古倉はもっと現実的だった。

「だけど大変そうじゃない? 色々気も遣うだろうし。それに織名君の他に新しい親もできたってことでしょ」

「流一のお父さんのこともずっと前から知ってるから。まだましだけどね」

 そういえばその流一はどうしただろう。穂月は首を巡らせた。

 いた。男子達で固まっているグループのうち、一番人数の多いところに加わっている。会話は余り弾んでいない様子だが、知り合ったばかりの人が大半なのだからそんなものだろう。流一なら心配はいらない。自分からことさら目立つようなことはしなくても、自然と周りに人が集まってくるような嫌味な奴だ。あっちの人とはまさに真逆だ。

 穂月は隣の列の前の方に視線をやった。教室でたった一人ご飯を食べているのは例の清真蘭子である。

 背中を丸めていかにも寂しそう、という風情ではない。むしろ教室の中でそこだけ茶の湯の席ででもあるかのような、凛とした佇まいは美しくさえあった。

 だからきっと余計なお世話なのかもしれないが。

「あのさ」

 穂月は同席の二人に言ってみた。

「あの人もこっちに誘ったらどうかなって思うんだけど」

 清真の方にちょっと顔を振ってみせるだけで意図は通じた。この二人にも何かしら思うところがあったのかもしれない。

「別にいいんじゃない。理美ちゃんは?」

「いいけど、でも……」

 古倉は簡単に頷いたが、布川は煮え切らない。穂月は率直に尋ねた。

「でも、できれば遠慮したい感じ?」

「そうじゃなくて……ただ、その前に」

 布川はおずおずと穂月を見遣った。だが目が合うとすぐに面を伏せる。面倒臭いな、もう。

「布川さん、昨日も言ったけど、あたしに何かあるならちゃんと口に出してほしいんだけど。意見でも文句でもとりあえずは聞くから」

 その後で怒らないという保証はないが。

「……あたし、なんです」

 布川は両手を膝の上に置くと、下を向いて言った。

「何が?」

「織名……穂月さんの自己紹介の時に、一番最初に笑ったの……だから、ごめんなさい」

 あっそう。

 こめかみの辺りに力が入るのを感じつつ、穂月は努めてゆっくり息を吐いた。右手に持っていた食べかけの卵サンドを机の上に置く。

「大丈夫、理美ちゃんは全然悪くないよ。織名、穂月さんだって別に怒ってないもの。ねえ?」

 だからお前らはいちいち苗字と名前を両方呼ぶんじゃないっての。

 左手の苺ジュースのパックを危うく握り潰しかけて、穂月はさらに深呼吸を繰り返した。

 オーケー、分ってる。この子達に悪意はない。悪意がなければいいってものでもないけど、正面切って戦争を始めるほどのことじゃない。そして今後もそうした事態にはならないだろう。ぶっちゃけそれほどの相手じゃないし。余裕だ。

「布川さん、あなたね」

 穂月は怒るより突き放すような調子を作った。うつむいた布川の身が強張る。

「そんなにオナホが好きなの?」

 布川は唖然としたように顔を上げた。穂月は渋い表情を保ったまま続ける。

「だけどあたしはそんな物持ってないし、興味もないから。エロい話がしたいんだったら誰か他の子としてよね。だいたいオナホとかローターとか、何に使う道具なのかあたしさっぱり分んないし」

 やばいワードは一応ボリュームを落としたものの、他の子達(特に男子)に聞かれなかったかは些か心許ない。もしこれで外したら、それこそ“きょまら子”レベルの痛い子だ。

「……ぷっ」

 布川は小さく吹き出した。よし、うけた。穂月もにやりと頬を緩めてみせる。

「穂月さんってば、それ絶対意味分って言ってるじゃない」

「さあ、なんのことかしら? 布川さん説明してよ。あなたの実体験に基づいて、出来る限り具体的に。まずはオナホからね。どうぞ」

 TVレポーターのマイクに見立てて拳を向ける。布川は澄ましてそっぽを向いた。

「知りません」

「じゃあローター」

「……ぜ、全然分んない、な」

 え、なに、その反応。ぎこちなく視線を泳がせた相手に、深刻な疑念を抱く。まさかこの人、本当に持ってたり使ってたりするんじゃ……。

 戦きつつ、もう一人の様子を窺うと、古倉は自分は何も知らないというように慌ただしく手を振った。対して当の布川は、まるで初めから会話に参加していなかったみたいにひたぶるに弁当をぱくついている、ふうを装いながらも、ロングの髪の隙間から覗くうなじが発熱してるみたいに赤い。

 うん、深く追求するのはやめておこう。穂月は卵サンドを取り上げた。布川がナニをどういうふうにしているかなんて別にかけらの興味もない、こともないが、いくらなんでもプライベートに過ぎる話題だし、昼休みの教室にふさわしくもないだろう。

 清真をこちらの席に誘う件は、有耶無耶のうちに流れてしまった。



 翌日は朝一で席替えが行われた。完全にランダムなくじ引きの結果、穂月は元の位置から少し後ろにずれて廊下側の列の後ろから二番目になった。授業に積極参加しようという意欲に乏しい一般的高校生にとってはなかなか悪くない席である。

 だが最終的に運の良し悪しを決めるのは他との巡り合わせである。果たしていかなる宿縁なのか、クラス全体では女子の方が多いというのに、穂月の周りはほぼ完全に男子で固められることとなった。前と後ろと左隣、それに左斜め前が男子で、右手は壁だ。唯一の例外は左斜め後ろだが、おかっぱ頭でやや幼い感じのその女子は、左隣のボーイッシュなショートカットの子と仲が良いらしく、野郎度の高いこちら側には顔を向けようともしない。机の置き場所も本人の体勢も明らかに左寄りになっている。

 男子といることは全然平気な穂月だが、さすがに些かむさ苦しく感じる。中でもとりわけ濃ゆいのが。

「よろしくね、原くん」

 新しく隣になった男子に、穂月は愛想笑いを向けた。余りまともに聞いていなかった他の人の自己紹介だが、色々特徴的だったので早々に名前を覚えていた。

 一目大きい。軽く百八十は超えてるだろう。坊主頭と日焼けした容貌から連想される通りの野球部で、単に上に高いばかりでなく、制服の上着越しにも肩や胸が厚く盛り上がっているのが分る。言っては悪いが、暑い夏場とかには余り傍に近寄ってほしくないタイプである。

 原康徳は穂月を見ると眉間に深く皺を刻んだ。

 軽くびびる。

 いつもなら「何よ、文句ある?」とばかりに真っ向睨み返すところだが、いかんせん相手がごつい。まるでエンジンの掛かったダンプカーを間近にしているみたいな物理的な圧迫感だ。穂月はそっと壁際へ視線を逃がした。

「んー」

 しかし原は獣のように唸りながらこちらへ迫る。穂月は壁に貼り付かんばかりにして身を引いた。

「えーっと」

 言葉が通じることを祈りながら会話の糸口を探す。

「あたしは、織名穂づ……」

 とりあえず穂月が名乗ろうとした途中で、原ははたと手を打ち合わせた。

「思い出した、オナホさん」

「ていっ」

 右ストレートを放つ。

「ぐっ?」

 原はいい感じに仰け反った。

「あ、ごめん、つい! ……痛かった? ほんとごめんね。だけど君が変な呼び方するから」

「何か違ったか?」

 相当顔の皮が厚いらしく、ほとんどノーダメージといった様子の原に、穂月は痺れ気味の拳を再度握り締めた。だが結局叩き込むことはせず指を緩める。

 どうも原のボケはわざとではなさそうだ。たぶん素だ。その方がもっと質が悪いという気もするが。

「織名、穂月よ。変なところでくっつけたり区切ったりしないで。いい?」

 苗字と名前の間をはっきり開けて念を押す。

「穂月でいいから。苗字だとクラスにもう一人いて紛らわしいし」

 男子と女子なので実際にはそう混同することもないとは思う。

「分った、オナさ、オヅ、ホ、ホナヅキ……オナ好き?」

「ホ、ヅ、キ、だっつってんでしょ。顔に足跡付けられたいの?」

 もしスカートじゃなかったら本気でケンカキックを叩き込みたいところだ。

「ほづき、穂月さんだな。よし、だいたい覚えた」

「だいたいって何よ。三音ぐらい完璧に覚えてよ」

「任せておけ。あともう一人っていうのはオナルーって奴だな」

「リューイチよ。その呼び方するなって言ってたでしょ。君には記憶力ってものがないの? 摂取したカロリー全部筋肉に行ってるんじゃないの。脳筋ノーキンってやつ」

「穂月さんはあいつの彼女なのか?」

「姉」

「なら二卵性の双子ってことか」

 原は独りで勝手に納得する。

「それで姉弟揃って笑える名前にされたのか。馬鹿親ってほんとにいるんだな」

「ちょっと君、なんにも知らないくせに人の親の悪口言ってんじゃないわよ」

 穂月は原の胸ぐらを掴んだ。だが締め上げようとする間もなく、グローブみたいな原の手に捉まえられてひっぺがされる。まさしく赤子を捻るという感じだった。もし原がその気なら、穂月の指の骨はマッチ棒みたいにぺきんとへし折られていたかもしれない。

「じゃあいい親なのか。すまん、俺の言ったことは忘れてくれ」

「分ればいいのよ」

 穂月は机の下でそっと手をさすった。痛いわけではなかったが、原の力の感触がまだ生々しく残っている。

「穂月さんと弟はともかく」

「え?」

「あっちは巨マラでいいんだよな。自分でそう呼んでくれって言ったんだから」

“きょまら子”でしょ、とまさか声に出して訂正もできない。

 ちょっと信じ難いほど綺麗な同級生のことを、穂月は複雑な気分で見遣った。幸い隣席になった男子との相性は良好らしく、仲睦まじく手など握り合っている……って、何よそれ。



 一応今は自習時間中ということになっている。ホームルームの初めにクラス委員その他の選出を行い、その後で席替えをやってもまだ授業終了には間があった。担任の永野は寸秒を惜しまず刻苦勉励すべしなどといった信念の持ち主ではないらしく、「それでは残りは自習にします」と言い残すと速やかに教室を出て行ってしまった。

 だが永野一人が特に怠け者というわけではなく、全体的にアバウトでのんびりした校風であるらしい。生徒の側も監督者がいなくなった途端に騒ぎ出したりはせず、かといって粛々と自習に取り組むわけでもなく、携帯をいじくったり本を読んだり近くの相手と控えめに喋り合ったりと思い思いに緩く過ごしている。

 成績は悪くないのだが高望みはしない。真面目一辺倒ではないけれど羽目は外さない。いってみれば安定志向の小粒な箱入娘――それがかつては地域唯一の女子校だった連城高校のメインの生徒像だった。

 新参者である男子や、精神的に男女の垣根が低い穂月などはそうした中ではマイノリティに属するが、それで肩身の狭い思いをしたりするかといえば、少なくとも穂月に関する限り流一は全然心配していなかった。

 今も何やら騒ぐ声が聞こえたので首を向けると、穂月が隣の席の原とかいうごつい男子とじゃれ合っているところだった。本当に人見知りをしない奴である。

 しかし誰にでも気安いという性質は、人としては美点でも女子としてはどうなのか。

 こっちはだいぶ違う感じだな。流一は密かに左隣に目を遣った。席替えが終わってからの短い間で早くも八回目のことである。

 背中に真っ直ぐ垂れた絹のように滑らかな黒髪。広げた教科書に目を落とす端麗な横顔は対照的に雪の白さだ。周りを額縁で囲って美術館にでも飾れば、モナリザを凌駕する肖像画の逸品として世界中の讃嘆を集めてもおかしくない──などと馬鹿な想像をしているうちに、前の七回より見つめている時間が長くなり過ぎていたらしい。

「わたくしに何か御用でしょうか?」

 流一の視線に気付いた清真蘭子が振り向いた。

「や……」

 舌が攣った、みたいな気がした。まるで雲上人のお姫様に話し掛けられた番兵みたいに、心が浮き足立って揺れる。

「あ……あのさ」

「はい」

「その」

 無理矢理話を続けようとしたものの、いかんせん言葉が出ない。そもそも用がないのだから当然といえば当然だった。しかし今さら後には引けない。人間関係の構築はやはり最初の挨拶が肝心だ。

「流一だ。今日からお隣さんってことでよろしく」

 右手を差し出し、だがその直後に後悔する。ほぼ初対面だというのに超の字のつくお嬢様(推定)の手を握ろうとするなどなれなれしいにもほどがある。

 しかし清真はごく自然に流一の手を取った。しっとりと柔らかく、そして案外力強い。

「こちらこそどうぞよろしくお願い致しますね、流一様」

「りゅ……」

 流一様?

 思わず仰け反りそうになって、だが深く繋がれた清真の手に引き留められる。

「流一様、どうかなさいまして? もしお加減が悪いようでしたら、医者をお呼びしましょうか」

 清真は柳眉をひそめた。保健室に連れて行く、とかではなくいきなり医者を呼び付けるという発想になる辺りに庶民との違いを感じる。

「大丈夫、なんでもない」

 本当に掛り付けの侍医でも呼ばれた日にはかえって胃が痛くなりそうだ。

「だけどその流一様ってのはやめてくれないか。丁寧過ぎて自分のことって感じがしない」

「ではどのようにお呼びすればよろしいでしょう」

「そのまま流一で」

「分りました、流一」

 清真は花が綻ぶように頬笑んだ。

 流一の脳はくらりと痺れた。清真に名を呼ばれた瞬間、まるで世界から余分な膜が剥がれ落ちたみたいな心地がした。

「それではわたくしのことはきょまら子ちゃんと」

「うん、きょまら……って呼べるか!」

 流一のかなり振り遅れ気味な突っ込みに、清真はたおやかに首を傾げる。

「遠慮はご無用ですのに。わたくしと流一は席を並べる学友なのですから」

「そういう問題じゃなくてだな」

 そもそもこいつは“巨マラ”という語の意味するところを知っているのだろうか。

 高貴にして優雅な容貌を、流一はつくづくと眺めやった。およそ冗談や悪ふざけの影もない。

 分ってないんだろうな、やっぱり。ため息をつきたい気分で結論する。

「そもそもどうしてそう呼んでほしいんだ。普通に清真じゃ駄目なのか?」

「もちろん駄目ということはありませんが」

 清真は慎ましくも切々と自らの思いを述べた。

「愛称で呼び合うというのは、親しい間柄であることを示す一つの証ではないでしょうか……とは申せ、もしも流一にとってわたくしと近付きになるのが迷惑ということであれば、非礼をお詫び致します。以後はきちんと節度を保つよう心掛けますので、どうぞご寛恕のほどを」

「いやいやいや、全然迷惑なんかじゃないから。俺が言いたいのはただ略し方がひどいってことで」

「きょまら子はいけませんか?」

「だからよせって。人に聞かれたら変な目で見られるぞ」

 このクラスではもはや手遅れだろうけど。

「なかなか難しいものなのですね。では」

 考える風情になった清真は、ほどなく閃いたようだった。

「“まら子”、はどうでしょう。短くなった分、前より呼び易くなっていると思うのですが」

「却下だ」

 肝心な部分が全く改善されていない。

「減らすなら“ら”にしろ。きょま子。どうだ?」

「きょま子……若干言いにくくはありませんか?」

「かもな。確かに」

 微妙に発音しづらい。それに何か噛んでしまったみたいだ。

「じゃあもっと縮めて“ま子”は。けっこう良くないか?」

「そうですね、素敵かと存じます」

 流一が自讃すると、清真も同意した。

「決まりだな」

「しかしそれでは“マコ”という名なのだと誤解を与えてしまいませんか。愛称としては必ずしも適当でないように思います。愛妾、としてなら素敵かもしれませんが」

 清真が黒く濡れ光るような瞳を合わせてくる。流一は掌に汗が滲むのを覚えたが、温かく瑞々しい感触に包み込まれているおかげで少しも不快な感じがしない──あれ?

「うわっ?」

 さっきからずっと清真の手を握りっぱなしだったことに気付いて慌てて振り払う。

「流一?」

 無礼を通り越してかなり乱暴な振る舞いだったが、清真は怒らなかった。ただ静かに懸念の色を浮かべる。

「その、悪かった」

「平気ですわ。どうぞお気になさらぬよう。それで愛称の方なのですが」

「ああ」

「やはりきょまら子がよろしいかと」

「そうだな、いいんじゃないか……ってそんなわけないだろ! どうしてそういう結論になるんだよ!」

 動揺したまま危うく聞き流すところだった。

「とにかく」

 考え直せ、と言おうとしたところで授業終了を知らせる鐘が鳴る。

「……続きは後にしよう。昼休みに。いいか?」

 じっくり話さないと埒が明きそうにない。

「はい、それではまたお昼に」

 清真はなぜかとても嬉しそうに同意した。


     #


 自室の扉がノックされ、流一はPCで流し見ていた動画を止めた。別にエロいやつではなかったので慌てることはなかったものの、こんな遅くに誰だろうと思う。

 父の真行なら遠慮会釈なしに自分の部屋みたいな顔をして入ってくるだろう。義母の律子は、過去二回の実績から判断すると、ノックに合わせて声も掛ける方針らしい。それに叩き方もずっとソフトだった。よって消去法により残るは一人。

「何か用か」

 いかにも煩わしそうにドアの向こうの相手に答える。しかし無論その程度で怯むような相手ではなく。

「お邪魔」

 部屋に入ってきた穂月は、流一以上に不機嫌そうだった。家宅捜索に訪れた刑事よろしく最初に中をぐるりと見渡して、だがさすがに断りもなしに怪しいブツを探し始めたりはせず、流一の座る椅子の傍の床に直接尻を据えた。

「どういうつもりよ」

 前置きもなしに詰問する。内容の見当は付いていたものの、流一はまず意味を尋ねた。

「どうって?」

「清真さん」

「清真がどうした」

「ずいぶん仲良くなったみたいじゃないの」

「別に」

 流一はどうでもいいというように肩を回してほぐした。

「たまたま席が近くなったからちょっと話してただけだ」

「でしょうね。たまたま手を握り合ったり、ちょっと机をくっつけて一緒にお昼食べたりしただけよね。お弁当の見栄えとかあんまり考えないで作ったんだけど大丈夫だった? もしあの人に笑われたりしてたらごめんね」

「そんなわけないだろ。ちゃんとうまかったよ。ごちそうさま」

「お粗末さま」

 穂月は軽く流し、それから一転して斬り込んだ。

「で、あけちゃんにはどう説明するつもりなの」

 やはり肝はそこか。一瞬動揺しそうになったものの、どうにか踏み止まる。客観的に考えて自分は非難されるようなことはしていない。

「必要ない。清真はただのクラスメイトだ。俺だって新宮のクラスの男になんか興味ないしな」

 穂月は眉間に皺を寄せた。

「手繋いでたのに?」

「初めましてよろしくの握手だ。単なる挨拶」

「一緒にお弁当食べたのに?」

「ちょっと面倒な話してたらホームルーム中に終わらなかったから続きは昼休みにしようって言ったら清真が誤解したんだ」

「だったら誤解だって言えばよかったじゃない」

「それはそうだけど……あいつ、昨日も一人で飯食ってたみたいだったし」

 午前の授業が終わるやいなや待ちかねたように机を寄せてきた清真を見て、違うと説明する気にはなれなかった。何も一緒に寝るというわけじゃなし、無理に拒絶するまでもなかったはずだ。

 穂月は重々しく腰を上げた。

「よく分ったわ。凄い美人とお近付きになれてよかったね。あけちゃんにはあたしから伝えとくから。あんな最低男のことは忘れなさいって」

「待てよ」

 流一が伸ばした手を、穂月は力任せに振り払った。なんだか妙に意地になっているようだ。あくまで引き止めようとすれば結構なガチバトルになってしまいそうだった。

「いいや。好きにしろ」

 スクリーンセイバー画面になっていたPCをシャットダウンして、やりかけだった英語の予習を再開する。

「何それ」

 すぐに部屋を出て行くかと思いきや、穂月は隕石みたいな勢いで教科書に手を突き下ろした。

「あけちゃんとはもう別れるってこと?」

「そんなことは言ってない」

 穂月のせいで書き損じた英単語に消しゴムをかけて屑を払う。

「だけどお前が下らないこと吹き込んだせいで新宮が別れるっていうならしょうがない。俺は言い訳しないし、謝るつもりもない」

「そんっなに、清真さんのことが気に入ったんだ。確かに彼女、見た目はいいもんね。そりゃあもうびっくりするぐらいに。あたしとは大違い」

「まあな」

 穂月はむっと頬を膨らませた。

「悪かったわね。どうせあたしは不細工よ」

「不細工ってことはないだろ」

「何よ、今さら半端なフォロー入れようったって」

「だいたい中の上ってとこじゃないか。中身を知ってる分、いくらか贔屓目入ってるかもしれないけど」

「……あっそ」

 穂月は流一を突き飛ばすようにして身を離すと、戸口でノブを掴んで振り返った。

「一応警告しとく。もしあの人とあけちゃんの二股かけたりしたら、あんたのケツの穴にキュウリ突っ込んで写真撮って個人情報付けてネットに晒すから。文句ないよね?」

「あるに決まってんだろ」

 流一は憮然と答えたが、穂月が乱暴にドアを閉める音に叩き落とされていた。

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