マイ・ネーム・イズ
人生で自分の思い通りになることなんてわずかなものだ。
あれをしようとかこうしたいとか好きに決められることがあったとしても、選べる範囲は初めから限られてる。
例えば、「今日はコービーとジョーダンのどっちにコーチしてもらおうかな」などと迷っても意味はない。
一介の女子高生である穂月に(というか世界中の誰にも)そんな選択肢は存在しない。せいぜい高校でもバスケを続けようかどうかと悩むぐらいが関の山だ。
自分に割り振られているのは自分という役柄一つだけで、気に入らないから別の人をやるというわけにはいかない。
ならばせめて、みじめに見えないよう精一杯演技をしてみせるしかないだろう。
前の席の人の自己紹介が終わると、穂月は水泳のコース台に上がる時のように勢いを付けて立ち上がった。
「桜台中学から来ました、織名穂月です。中学の時はバスケットをやってました。高校で部活をどうするかはまだ決めてません。これから一年間よろしくお願いします」
考えておいた口上を一気に並べ、小さく頭を下げるとすぐさま腰を落とす。
まず最初のハードルはクリアした。密かに胸を撫で下ろす。先への不安は未だ拭い難いものの、いきなり躓くことは避けられた、と安心したのは早計だった。
「……織名?」
不思議そうに呟いたのは、大きな丸眼鏡を掛けた地味めの女子だ。覚えがある。同じ桜台中出身で、確か三枝さんといったはず。彼女も穂月のことを知っていて、それゆえ苗字が斉藤でないことに疑問を持ったのだろう。
それはいい。穂月自身まだちっとも馴染めていないのだ。
真の災厄はさらにその先にあった。
「おな、ほづき?」
本命の刺客は知らない男子だった。おそらくは明確な考えも、まして悪意などなかったのだと思う。ただ三枝の疑問が呼び水となって、心に引っ掛かったことを口に出してみただけのこと。
だから恨むのは筋が違う。
「……おなほ、ずき」
されど恨まずいらりょうか。
最初に吹き出したのが誰だったのか、穂月には分らない。確かめようという気にもなれなかった。
教室の中に隠微な笑いの小波が広がる。誰もに伝わっていくというわけではなく、特に男子に比べて女子は少ない感じだ。分らない振りをしているだけの子もいるのだろうが、実際に分っていない子もいるのだろう。なんといっても普通女子には縁のない道具なのだから。
穂月自身も、気付いたのは自分の苗字が変わると知って暫く経ってからのことだった。
“織名穂月”を読み替えると、“オナホ好き”になるということに。
1―Eの担任になったのは永野という定年間近といった風貌の男性だったが、忍び笑いが起きている理由を全く理解できていないらしく、咎めもせずに怪訝そうな面持ちで生徒達を見回すばかりだ。
うん、なんかいい人っぽい。穂月は思った。だが今この場ではどうしようもなく役立たずだ。
もともと恐れていたことではあったし、少しは覚悟もしていたけれど、のっけから公開処刑みたいな目に合うのはいくらなんでもひど過ぎる。
──あたし何も悪いことしてないのに。
せめて運命の選択に文句をつけたくもなる。
事の起こりは中学の卒業式の日にまで遡る。
カラオケボックスで三時間を過ごした後、続く二次会の誘いはスルーして、穂月は帰宅の途についていた。流一も一緒だが、道行く二人の間には微妙な距離が開いている。別に打ち上げの席で喧嘩をしたといった事実はない。
流一ができたばかりの彼女に早速義理立てしている、というわけでもないだろう。穂月と流一の間柄はあけみだって知っている。手でも繋いでいるのならともかく、並んで歩くぐらいのことで目くじらを立てたりはしないはずだ。流一がよそよそしいのは他の理由からに決まっていた。
「ねえ」
穂月は流一との間合を詰めた。
「なんだよ」
「あんたがうちに来る? それともあたしがあんたんちに行く?」
小石でも飲んだように、流一の喉仏が上下する。
「……お前んとこの方が綺麗だろ」
何歩か無言で進んでから、投げ遣り気味な答えが返った。
「それもそうね」
男所帯の織名家に対し、斉藤家は女所帯である。世の中には几帳面な男子もいれば、ずぼらな女子もいるだろうが、この両家の場合は、快適な生活環境の維持能力という点においては女性陣の圧勝だった。
「じゃあお湯張っとくから、三十分ぐらいしたら来てよ」
「ああ」
「タオルとかは自分で用意してね」
「ん」
表面上は生返事のようだが、実は流一が後のことをびんびんに意識しているのは穂月には余裕でお見通しである。
二人でお風呂に入る。
ノリと冗談が半半ぐらいのつもりで決めたことが、家が近付くにつれていよいよリアルなこととして感じられてきたのに違いない。
もちろん穂月だって意識はしている。緊張もしているし、まるで恥ずかしくないといったら嘘になる。
だけど、嫌じゃない。
強がりでなく素直に思う。流一がちゃんと男の子っぽくなってきているのは認めるけれど、やはり穂月にとっては半分弟みたいなものなのだ。
「じゃあ後でね」
流一の家の前でいったん別れ、自宅まで進んでから振り返ると、扉の向こうに消えていく流一の後ろ姿があった。
こっち見るかと思ったのに。小さく唇を尖らせてドアに鍵を差し込む。
「あれ?」
穂月は思わず首を捻った。開いてる。どうして? 朝出る時に掛け忘れた?
若干の不安を覚えながらそろりとノブを引く。もし家の中が荒らされていたりしたらどうしよう。もっと恐ろしいことに、押し入っていた空き巣と鉢合わせなんてしてしまったら。
玄関に男物の靴があって一瞬びくりとしたものの、泥棒ならわざわざ靴を脱いだうえに揃えて置いたりはしないだろう。ということは来客だ。それなら母も既に帰っているのだろう。
早退するとは聞いていなかったので少し怪訝に思ったが、リビングから聞こえてきた声は紛れもなく母の律子のものだった。穂月はすっかり緊張を解いた。会話相手の男性も、穂月のよく知っている人だと分った。自室に荷物だけ置くとすぐにリビングに顔を出した。
「ただいま」
「おかえりなさい」
母に帰宅の挨拶を済ませてから、客人の方に顔を向ける。
「おじさん、いらっしゃい」
「おかえり穂月ちゃん。卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
人の好さそうな笑みを浮かべる
「今日はどうしたんですか? それにお母さんも」
普通なら二人共まだ仕事中の時間だろう。
「流一と穂月ちゃんに報告することがあってね。卒業祝いを兼ねて食事会をしようということになったんだ」
穂月は眉を上げた。
両家の四人で食事というのは小さい頃はしょっちゅうだったし、今でも月一ぐらいの頻度で行っているが、何をするにも親次第だった昔とは違って、最近は予め日取を決めておくのが常だった。中学生ともなれば穂月達にも自分の都合というものがあるのだ。だから今日いきなりというのに少々驚いた。
「報告って、何か急な話なんですか」
「実は前々から考えてはいたんだけどね。君達の環境も変わることだし、この際だと思って踏み切ってみることにした。正直不安もあったんだけど、律さんも賛成してくれたから僕もほっとしたよ」
真行は律子に微笑みかけた。律子も楽しそうに笑い返す。なんだか妙な雰囲気だ。まるでいい年して二人で悪戯でも企んでいるみたいな。
「流一ももう帰ってるのかな。さっきうちの玄関の音がしたみたいだけど」
「はい、クラスの打ち上げに出てそのまま一緒に。もうすぐこっちに……」
穂月は危ういところで口を噤んだ。まずいまずい。お風呂入りに来ます、などと話してしまうわけにはいかない。律子も真行も鷹揚な質ではあるが、さすがに年頃の娘と息子が裸のつき合いをするのを放置はしないだろう。
「こっちに、なんだい?」
「あ、あたし呼んできますね!」
穂月は足早にリビングから抜け出した。入浴の仕度をした流一が来てしまったらごまかすのが大変だ。
サンダルをつっかけ、二秒で隣家に達すると、予想通り鍵が掛かっていなかったのをいいことに断りもなく上がり込む。目指す流一の部屋のドアは開いていた。
「流一、もう帰って来てる!」
いきなり現れた穂月に流一はさすがに目を瞠った。だが文句を言われる前に穂月はさっさと話を進める。
「うちのお母さんと流一んとこのおじさん、今うちにいる」
「そうなのか?」
やはり流一も知らなかったらしい。
「で、一緒に食事しようって。あたし達の卒業祝いと、あとなんか報告することがあるって言ってたけど。心当りある?」
流一は少し考える素振りをしてから、いやと首を振った。
「親父からは何も聞いてない。なんだろう。転勤とかか?」
「でもそれだったら流一はともかくあたしには関係な……あれ? ねえ、それってもしかして、新しい職場が遠くなるから流一達が引っ越しちゃうとかって話?」
「だから知らねえって。だけど少なくともまだ入学してもいないうちから高校変わるって話にはならないだろ。それならもっと前に言ってるはずだ」
「そっか、そうだよね」
穂月はほっとして頷いた。真行は家事などではいい加減なところもあるが、基本的には堅実で常識的な人だ。息子に不必要な負担を強いたりはしないだろう。
「とにかくそういうことだから。流一もうちに来て」
元々の用件を告げてから、穂月はついでのように付け足した。
「でもお風呂は無しだから」
「……当り前だろ」
「あ、今間があった。そっかー、そんなに残念だったんだ。流一がどうしてもっていうんなら、また日を改めてってことにしてあげてもいいけど」
「人の気持ちを捏造すんなよ。どうでもいいことだから忘れてただけだ」
「ほんとにいいの? 後で後悔しても遅いからね。こんなチャンスもう二度とあげないわよ」
「いらねえし」
などとやり合いながら斉藤家のリビングに戻った穂月達を、律子と真行の結婚話が待っていた。
とにかく今はじっとしていよう。
織名穂月として迎えた入学初日、コーラの泡みたいに軽躁な笑いが弾ける教室で、穂月は息を詰めるようにして下を向いていた。うるさい、黙れ! などと怒鳴る気には到底なれない。自然と収まってくれるのを待つばかりだ。
だが忍耐の時間は意外と早く終わった。未だ騒ぎが続く間を割って、穂月の後ろの席の生徒が自己紹介をするべく立ち上がった。
「桜台中から来ました織名流一です」
効果は覿面だった。佐藤や鈴木ならばともかく、織名というのはそう滅多にある姓ではない。穂月への好奇の念がそのまま流一の方にシフトする。
「中学の頃は、よくオナルーって呼ばれてました」
一瞬の静寂。続いて爆笑が巻き起こる。
ジュースと間違ってお酒のカクテルを飲んでしまったみたいに、穂月の頬が熱くなる。後ろを振り向きたいという衝動に懸命に抗った。今流一の顔を見てしまったら、自分がどういう行動に出るのか自分でちょっと予測がつかない。
「それで」
流一は再び口を開いた。先を聞こうとして生徒達が少し静かになる。
「呼ぶ方は面白半分で、大して悪気もないのかもしれないけど、呼ばれる方はおかしくもなんともないから。それでも呼びたいって奴は勝手にすればいい。でも俺には話し掛けるな。むかつく」
教室は完全に静まり帰った。
──はあ。まじ疲れた。
苦行さながらの午前が過ぎて、晴れて自由の身になったというのに穂月の体は重かった。朝食はもう胃の中で消化されているはずで、だから物理的には軽くなっているはずなのにおかしなものだ。
穂月は脱力して机の上に突っ伏した。なるべく頭の中を空っぽにしようとする。元気を回復するにはとにかくまず休むのが一番だ。深刻ぶって悩んだところで益はない。
「……さん」
早々に放課後となった教室はなかなかに賑やかだった。流一が重くした空気は既に吹き散らされ、明るい華やぎに満ちている。他人からすれば穂月達の名前などしょせんは笑い話の種である。高校に入学した晴れの日に鬱な気分を押し付けるほどの毒はない。
「……名さん」
連城高校は元々は女子校で、共学になって五年以上経った今もまだ女子の方が多い。教室内のそこかしこで咲いている話の輪を作っているのも多くは黄色い声だった。今日はちょっとその中に入って行く気になれない。だけど明日は適当に喋ってみよう。楽しい子がいるといいな。
「あの、織名さ……」
「おい穂月!」
「ひゃいっ!?」
穂月は椅子の上でびくりと尻を浮かせた。思いに沈んでいる時に後ろからの大声は心臓に優しくない。暗い夜道なら問答無用で裏拳を叩き付けるところだ。
「何よ流一、びっくりするじゃない」
振り向いて抗議する。鞄を机の上に載せた流一は、前に向けて顎をしゃくった。
「呼んでる」
「だから何の用よ?」
「俺じゃない」
流一の視線を追って穂月はようやく言っている意味を理解した。
穂月の机の前に知らない子達が立っていた。髪が長くて背が高い子と、中背で丸顔の子の二人組だ。胸ポケットのクラスバッチは1―Eとなっているから、穂月の新しいクラスメイトである。
「えーっと、あたしに何か用?」
穂月が尋ねると、背高の方がなぜか難癖でもつけられたみたいに身を竦めた。そっちから話し掛けといて、いったいどういう了見よ。つい眉をひそめると、丸顔が背高を庇うように口を出した。
「あの、誤解しないでね、
「オナサント?」
穂月は素で訊き返した。遅れて「織名さんと」に変換され、ようやく自分のことだと認識する。端からすればさぞかし間抜け面に見えただろう。
「……なんかもう、ざけんなって感じ」
鬱にこめかみを押さえる。戸籍上の名前が変わったのは一週間前のことだが、実質的に使うのは今日が初めてである。やはり旧姓で通す方が良かったのではないか、と早くも後悔の芽が萌す。
「理美ちゃん、織名さん今忙しいみたいだから」
丸顔が背高の手を引いた。
「でも」
「あのさ、用があるならはっきり言ってほしいんだけど。あたしに何か文句でもあるわけ?」
「そ、そんなことは全然! あの、あたし織名さんに謝らなきゃって」
「どうしてよ。あたしあなたのことなんか全然知らないんだけど。誰か他の人と勘違いしてない?」
「穂月、お前少し黙れ」
苛立つ穂月を抑え、流一が後ろから首を突っ込む。
「悪いな、こいつ苗字変わったばっかでまだ慣れてないんだよ。今は態度悪いけど、ほんとはもっといい奴だから。あんま気にしないでくれ」
「いえ、あたし達全然平気ですから!」
丸顔は急にテンションを上げた。
「二人は、どういう……」
背高の声は相変わらずか細いままだが、目の光がぐっと強くなっている。馬鹿らしい。穂月は思った。要するにこの子らの目当ては流一で、自分はダシに使われただけということか。
「あたし達ね、一緒に住んでるの」
穂月が言うと、背高と丸顔は揃ってぎょっとした。
「結婚して苗字が変わったの。あたしつい最近まで斉藤だったから、織名って呼ばれてもいまいちぴんと来なくて。さ、帰ろ流一。今夜は一緒にお風呂入る? こないだの約束は流れちゃったもんね」
穂月は立ち上がると流一の手を掴んで引っ張った。流一は腰を浮かせながらも、あっさりとネタをばらしてしまう。
「結婚したのは俺の父親とこいつの母親だから。つまり穂月は義理の妹ってこと」
「姉よ。あたしの方が誕生日先なんだから。じゃあそういうことだから、またね……んー、誰さんだっけ」
「あ、
丸顔が我に返ったように名前を告げた。
「で、こっちが
「布川です。よろしくお願いします」
背高はぎこちなく頭を下げた。
「古倉さんに布川さんね。あたしは穂月。さんでもちゃんでも敬称略でも好きに呼んでいいから。ただし、苗字はなしで」
「あの、織名さ、あ、オナホ、ほ、穂月さん」
待てお前いまなんつった。
瞬間切れかけた穂月だが、気弱げな布川の表情を見て、怒りを鎮めるべく自らに言い聞かせる。落ち着け、あたし。この子はあたしが希望した通りただ呼び直そうとしただけなんだから。
「何かしら、布川さん」
にっこりと笑ってみせる。布川は引き攣った表情で後ろに下がりかけたが、途中で踏みとどまって穂月に訊いた。
「この後って、何か予定ありますか?」
「別に。帰るだけだけど」
「もしよかったら、あたし達と一緒にどこかでお昼食べませんか」
穂月はすぐには返事をせず、手を掴んだままの流一の顔を見た。
「それは、流一もってこと?」
てっきりそういう意味なのかと思ったら、布川はむしろ困惑する気色になった。
「え、織名くんもですか……どうしよう、晶子?」
「あたしは、理美ちゃんがいいなら」
古倉が答えても布川はまだ決断が付かないようだ。ではやはり穂月の方に用があったということなのか。そういえばさっき謝るとかどうとか言ってたけど。
「ごめん、やっぱり今日は帰るわ。実はまだ引っ越しの整理が終わってなくてさ。他に家事とかもあるし」
なんとなく行きたくないというのが本音だが、今言った理由も嘘ではない。なにしろ新居に移ってまだ二日である。そのうえこれまで別々の家庭だったものが一つに合体したのだから、生活が落ち着くまでにはまだまだ手間も暇も掛かる。
「いえ、こっちこそ無理言ってすいませんでした。それじゃまた明日」
「あたし達も帰ろうか」
布川達が行ってしまってから、穂月と流一も教室を後にした。二人並んで廊下を歩く。高校になったからといって様子は中学とさして変わらない。はっきりと目に付く違いといえば、制服がセーラー服と詰襟ではなく女子男子共にブレザーであることぐらいだ。
「流一はもう部屋の整理終わったの?」
「だいたい」
「それなら手伝ってよ。キッチンとか。今日もカップ麺なんてやでしょ」
「俺はそれでもいいけど」
昇降口に着く。流一が身を屈めてスニーカーの靴紐を結びながら穂月に尋ねる。
「お前が飯作るのか?」
「文句ある?」
「いや嬉しいけど。穂月の料理うまいし」
「別に大したことないって。普通よ普通」
真顔で褒めるのはやめてほしい。もともと見てくれがいいうえに、こういうことを平気で言ってしまう辺りが実にたらしである。狙ってやってるわけじゃないことは分っているが。
校舎を出て正門へ向かう。今日午前中で終わりなのは新入生だけなので、周りを歩いているのは皆同学年だろう。ぱっと見た限りでは男女の二人連れは穂月達だけだ。
「流一、ありがとね」
穂月が短く礼を言うと、流一はちらりと顔を向けた。
「何が」
「自己紹介の時。あんなこと言ったのって、本当はあたしのためでしょ」
流一は直接穂月のことについては何も触れなかった。だが“オナホ好き”などと笑い者にされて嬉しい女子はいない、という当り前の命題をクラス全員の頭に叩き込むには十分だったはずだ。
「もともとお前が言ったことだろ」
「あたしが?」
「嫌なら嫌ってはっきりさせればいいって。卒業式の日に」
「……ああ」
そういえばそんなこともあった。まさか自分が同じ立場になるなんてあの時は想像もしていなかった。
「ごめんね。あたしあんたの気持ちとかちゃんと考えてなかった。向こうは冗談のつもりでいるのに、こっちだけ本気になるのって結構きついんだよね。そんなの想像すればすぐ分ることなのに」
「反省しろよ」
窘める口調は軽い。この件はこれでチャラということなのだろう。
穂月の胸の奥にほんのりと熱が灯る。
──これからずっとこいつと一緒に暮らしてくんだ。
いつの間にか自分よりかなり高い位置になってしまった横顔を、眩しいものでもあるように振り仰ぐ。
「っと」
流一は不意に足を止めた。ズボンのポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出す。
「電話、誰?」
「いやちょっと」
穂月の問いに曖昧に濁しながら流一はタッチパネルに指を滑らせる。電話ではなくメールか何かのようだ。覗き込むような行儀の悪い真似はしなくても、誰からなのかは推測できた。
「あけちゃんか。入学式はどうでしたかって?」
図星だったらしい。流一は穂月から画面を遮るように身を斜めにした。
「すぐ返信してあげなね。あたしは先行ってるから」
穂月は足を早めた。自分が傍にいるとどうも無駄に意識してしまうようだ。
あけみは今は昼休み中のはずで、きっと携帯を手にしたまま返事が来るのを待っている。たとえ他愛ない内容でもしっかり相手をしてやった方がいい。まだつき合い始めたばかりなのだし、それにあけみは放っておかれると不安になってくるタイプだろう。
後ろで流一が歩道の鉄柵に腰を凭せて携帯に向かっているのを確認すると、穂月は一人で駅に向かった。
連城台駅に着き、下りの電車に乗った。前の家からなら自転車で(なんなら徒歩でも)通えたのだが、新しい住まいからだと各停に乗って十五分ぐらい掛かる。
自宅最寄りの初瀬駅は、北口は小さいながらも一応繁華街といった態なのだが、穂月が普段利用する南口は改札を出るともういきなり住宅街になっている。静かというよりいっそ鄙びていると形容したくなる地域で、うっかりすると家の合間に畑があったりするほどだ。
一戸建やアパートなどの低層建築が比較的多い中で、わりと目立つ七階建のマンションへ至る。穂月達が越して来たのはその三階だった。
旧宅より部屋数は増え、穂月と流一それぞれの個室も与えられていたが、建物はお世辞にも綺麗とは言えない。なにしろ昭和の物件である。それでも急遽探して見つかったにしては上等の部類だろう。親達が籍を入れた後も、暫くの間はそれまで同様二世帯に別れて暮らすという案もあったのだ。
穂月にとってはその方が楽だったのは間違いない。
それでも引っ越すことに反対はしなかった。母が家族皆で暮らしたがっているのは分ったし、流一も義父の真行も気心の知れた相手である。それほど大変なことにはなるまいと気軽く考えることにした。
三階でエレベーターを降り、外廊下を一番奥まで進む。気まぐれに新居のインターフォンを押してみたが当然応答はない。
「ただいまー」
玄関の鍵を開け、誰もいない空間に帰宅の挨拶を投げると、穂月はまだどこかよそよそしい匂いのする自分の部屋に入った。
制服を脱いでジャケットとスカートをハンガーに掛ける。ブラウスは床の上に放って、キャミソールに下着という格好で穂月はベッドに転がった。天井や壁は見慣れなくても、布団や枕は今まで使っていたものだ。目を閉じて体をうずめてしまえば以前と同じ気分に浸れるだろう。実際、穂月自身は何一つ変わっていないのだから。
暫くぼうっとしていると、やがて玄関の方で音がした。目を開けて机の上の時計を見遣る。帰宅してからもう三十分以上が過ぎていた。体を起こして伸びをする。喉が渇いた。それにお昼もまだだ。
面倒なので野菜ジュースにビスケットを二、三枚摘むだけで済ませようかと思ったが、それすら買ってあったかどうか定かでない。
ドアを開けて廊下に出ると、ちょうど流一がリビングからこちらに向かってくるところだった。
「お帰り。ご飯は?」
「ああ、いや」
流一は曖昧に首を振って、ぎこちなく穂月から視線を逸らした。まるで後ろめたいことでもあるみたいな反応だ。怪しい。
ひょっとしてあけみと何かあったのだろうか。連高と桜中は近いから、その気になれば顔を見に行くことぐらいは簡単だ。けれどさすがにエロいことまでは無理だと思う。でもベロチューとかおっぱい触ったりぐらいならいけるかな?
そっぽを向いている流一の様子を探ろうとして、だがすぐにどうでもいいかと思い直す。上手くいっているならそれでいい。もし反対に早くも浮気とかだったら鉄拳制裁も辞さないけれど。
「まだ食べてないなら、適当に用意するから待ってて、って言いたいところだけど……無理か」
現状冷蔵庫はほぼ空である。食器や調理器具の開梱さえまだ全部は終わっていない。
「コンビニ寄ってきたから。サンドイッチとおにぎりでよければある」
「あたしの分も?」
「一応」
「さっすが、気が利くね。ありがたく頂きます」
調子よく答えてから、穂月はすすっと間合を詰めた。
「ところ、であけちゃんとなんかあった?」
どうでもいいとはいえやはり気になる。不用意に事に及んだ挙句妊娠! なんてことになったら大変だし。つまりこれは単なる興味本位や好奇心などではない。流一の義姉として、そしてあけみの先輩として、穂月には二人を見守る責任があるのだ。崇高なる使命である。
「何もあるわけないだろ」
「ならどうして顔を背ける。何か隠してるんじゃないの? お姉さんに話してごらん、ん?」
「ふざけんな! わざとやってんのか!? お前のせいだろうが!」
「は? 何いきなり逆切れしてんのよ。なんであたしの……え」
まさか。穂月は極めて厄介な可能性に思い至った。流一とあけみの仲が順調に行っているとして、それにもかかわらず穂月のせいで流一が素直に喜べないでいるとしたら、その原因として考えられるのは。
流一ってば、本当はあたしのことが好き、とか──?
「そ、そんなの今さら困る!」
「何がだよ! 見られて困るぐらいならさっさと服着ろよ!」
「あ……おう」
しまった。そういえば帰宅して制服を脱いだ後、なんにも着ていないままだった。上はまだいいとして、下は薄青色のパンツ一枚きりだ。
「もう、早く言ってよ、流一のスケベ」
いそいそと後ろに退り、自室のドアで体を隠して抗議する。
「俺のせいかよ。ほんとにただ呆けてるだけだなんて思わねえし」
「さっきまでうとうとしてたからちょっとうっかりしたの。これからはもっと注意するわ。ごめん」
「謝らなくてもいいけど」
気まずげな流一の声を遮断して穂月はぴたりとドアを閉ざした。そのまま背中を凭せ掛けてずるずると座り込む。
流一にパンツを見られるぐらいは別にどうということもない。だが無自覚に隙だらけでいるのはやはりよろしくないだろう。今は家族になったとはいえ、元は他人なのだ。最低限のけじめは付けるべきだった。
──もっと色々ちゃんとしないとな。
穂月は軽く自分の両頬を叩くと、服を着るために立ち上がった。
#
寝過ごした。入学二日目にして遅刻決定というにはまだ早いが、起床予定を既に三十分も過ぎていた。
昨夜はわりと遅くまで新宮とメッセージの遣り取りをしていたのだが、結局寝たのはいつもと大して変わらなかったはずだ。確か最後に送信したのが、などと思いながら枕元の携帯を取り上げて、ミスに気付く。アラームを設定するのを忘れていた。
流一は自分に舌打ちしつつ身を起こした。もう朝飯を食べている余裕はない。だがすぐに着替えて顔だけ洗って即行出ればギリで間に合う。
スウェットを脱ぎ散らかしたところでノックの音がする。
「流一、そろそろ起きないと……って、ごめん」
制服姿で用意万端といった様子の穂月は、ボクサーパンツ一丁で振り返った流一を見て瞬きをすると、後退りしてドアを細め、隙間から声を掛ける。
「家出るのあんたが最後だから、ちゃんと戸締まりしといてね。朝ごはんはどうする?」
「食えるのか?」
「パンでよければ。自分で焼いてジャムでもマーガリンでもご自由に」
「それならいい」
自分のために用意してくれたのなら遅刻覚悟で頂戴するが、セルフサービスなら省略だ。ワイシャツとズボンだけ身に着けてからドアを開ける。
「おはよ、流一」
「おはよう」
部屋のすぐ外に立っている穂月の脇を抜け、流一は洗面所に向かった。すれ違いざま新宮とはまた違ういい匂いがしたが気にしないことにする。
「じゃあまた後でね」
流一は冷たい水で顔を叩きながら、穂月が玄関から出て行くのを背中で聞いた。
始業一分前にどうにか教室に滑り込んだ。流一を除く全員の席は既に埋まっていて、と思いきやまだ空きが二つあった。一つはもちろん流一の席だ。もう一つが誰のものなのかは不明である。昨日は結局最後まで来なかった。
担任の永野はいち早く教卓の後ろに待機していて、流一は心持ち身を小さくしながら自席に向かった。穂月とも軽く頷き合っただけで特に言葉は交わさない。椅子に腰を落とし、教科書やノートを取り出してデイパックを机の脇のフックに引っ掛けたところで古風な鐘の音が鳴り響く。もちろん本物ではなく校内スピーカーを通じた放送である。
「それではホームルームを始めます。秋津さん、お願いします」
永野の言葉に応じて、出席番号が一番のために最初の日直に指名された女子が「きりーっ」と緊張気味な号令を掛ける。雑然とした動きながらもクラス一同が立ち上がり、だが型通りに「れいっ」とは続かなかった。
──なんだ、あれ。
教室の前扉を開けて入ってきた姿を見て、流一は背筋の毛が逆立つのを覚えた。
服装はいたって普通である。濃紺のジャケットにプリーツスカート、それに白のブラウスは連城高校伝統の女子の制服で、スカート丈が膝下なのは他の女子に比べて長めだが、こちらの方が本来の正しい着こなし方だろう。ブラウスも第一ボタンまできっちりと留められ、形良く締められたネクタイのダークグリーンは今年度の新入生の割り当て色だ。流一の席からは定かに読み取れなかったが、胸ポケットのクラスバッチも1―Eとなっているようだ。
つまりはこのクラスの一員で、残る空席はこの生徒のためのものに違いない。シャーロック・ホームズならずとも簡単に判別できる。だがそれでも。
自分とは違う世界の人間だ。
そう感じたのは流一だけではなかっただろう。
単に顔が綺麗だというのではない。纏っている気品が格別だった。まるで淡い黄金色の光輝にでも照らされているみたいに周りから浮き立って見える。それでいて他者を見下しているような傲慢さなどはなく、教壇の上を歩む姿は淑やかそのものである。
歴史絵巻に金文字で記されているような古く高貴な家柄の姫君。そう説明されれば誰もが即座に納得するに違いない。
「おはようございます先生。遅くなりまして誠に申し訳ございません」
女生徒は流れるような所作で一礼した。
「その……貴方は」
永野は頭も舌もまるで上手く回っていない様子だった。背丈は同じぐらいでも、年齢では三分の一にも満たない少女に対し、完全に圧倒されてしまっていた。酸欠に陥った金魚みたいに幾度も口をぱくぱくさせて、ようやく場を繋ぐ言葉を絞り出す。
「……あなたが
「さようでございます」
女生徒は首肯した。素性を確かめることができて安心するどころか、永野はかえって思い詰めたように問いを重ねた。
「いったいどうされたのです? 昨日は連絡がありませんでしたし、そのうえ本日も遅刻とは……何が問題がおありでしたら、どうぞ仰ってみてください。どんなことでも相談に乗りますし、僕に出来る限りのことはしますから」
真摯を通り越して永野はほとんど懇願するようだった。それも美人女子高生の歓心を買おうとする助平な中年男といった役回りではなく、困難の渦中にいるプリンセスを救わんとする若きナイトの如き熱情に溢れていた。
「ありがとうございます。ですがどうぞ心配はご無用に願います」
「しかし」
「ただ日付を間違えていただけですので」
「……ええと、それはつまり」
「恥ずかしながら、入学式は本日だとばかり思っておりましたもので。実は先程まで体育館の方にいたのですが、どなたもおられないので不審に思っていたところ、たまたまいらしった殿方がわたくしの思い違いを正してくださいました。それで急ぎこちらの教室まで参ったしだいです」
「んんっ」
永野は大袈裟に咳払いをした。おかしなことは何一つ聞かなかった、という素振りで清真に促す。
「では席に着いてください。あそこの空いている場所です」
「はい、承知致しました」
いったん歩き出そうとした清真は、途中で不調法に気付いたように生徒達へ面を向けた。
「皆さん、申し遅れました」
黒板からチョークを取り上げ、毛筆かと錯覚させるような流麗な筆致で“清真蘭子”と書き付ける。
「この度、縁あって皆様と共に学ばせて頂くこととなりました、
深く頭を下げる。生徒達と永野はまるで見えない糸に引かれたように一斉に礼を返した。
「親しき仲にも礼儀ありとは申せ、余り堅苦しいのは得意ではございませんので」
姿勢を戻した女生徒は、雅さを保ちつつも桜の花のように色付いた微笑を浮かべた。
「どうぞわたくしのことはお気軽に、きょまら子ちゃん、とお呼びくださいね」
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