なまえのまえの
しかも・かくの
ハッピー・グラデュエーション
「いやー、感動的だったなー、流一。俺マジで泣きそうなっちまったぜ」
そう言って馴れ馴れしく肩を組んできた榊浩康の瞳は本当に潤んでいたが、流一はつられて目頭を熱くしたりはしなかった。
「どうせお前のは花粉症だろうが」
「実はそうなんだけどな」
あっさりと白状した榊は鼻を啜り上げ、ポケットティッシュを取り出して鼻をかむと丸めて後ろのゴミ箱に投げ入れる。
「ナイッシュー。さすが俺」
自画自賛したところでゴミ箱までの距離はほんの二、三歩である。外す方が間抜けだ。
「だけどやっぱり本番になると違うもんだよな。練習の時は式ウゼーとか思ってたけどさ。それになんつっても春子ちゃんが……」
榊は再び鼻を啜り上げた。今度は流一も茶化さない。
春子ちゃんというのは流一達のクラス担任の北川春子のことである。大学を出てからまだ三年かそこいらの準新米教師で、担任として初めて受け持った流一達のクラスが卒業する今日は朝からずっとぐすんぐすんやっていた。
卒業式が終わった後のホームルームではろくに喋ることさえできず、どうにか全員に卒業証書を渡し終えるやいなや脱兎の如く教室を飛び出していってしまった。クラスの皆で用意しておいた花束と寄せ書きの色紙を渡している暇もなかった。あとで特に春子ちゃんと仲の良かった連中&クラス委員とで職員室まで届けに行くことになっている。
「流一だって感動しただろ?」
榊がなおもしつこく絡む。
「少しはな」
流一はおざなりに応じた。
「このクラスで良かったなって思うだろ?」
「別に自分で選んだわけじゃないからな」
「ったく素直じゃねーなー。うちのクラスだけだぜ、式でお前の名前が呼ばれた時に誰も笑った奴がいなかったのって」
流一は不機嫌に押し黙った。実際に確認したわけではないが、榊の言葉はおそらく正しい。
改めて思い出そうとするまでもない。なにしろほんの二、三時間ばかり前の出来事である。
常とは違う粛然たる空気に包まれた体育館で、卒業生の名前が一人一人と読み上げられる。A組、B組に続いて流一達のC組となり、担任の春子ちゃんが声を震わせながらも気丈にかつ慈しむように教え子達の名を呼んでいく。誰もが胸を熱くすること必至の場面、なのに流一の名前が呼ばれた途端、雰囲気をぶち壊しにするように上がるくすくす笑い。
流一は無表情に返事をして起立した。順番はすぐ次の生徒に移り、耳障りな雑音もほどなく消える。
下らない。むきになる価値もない。
だけどむかつかないわけじゃない。
それに春子ちゃんはともかく、C組の生徒達が大人しかったのは、流一の気持ちを慮った厚い友情の賜物でもなんでもなかった。
「俺達に感謝しろよ。恥ずいあだ名だからってお前のこと笑ったりしないんだから……なあオナルー?」
流一の姓は織名。
フルネームの
流一は無言で榊に拳を入れた。榊が鼻を抑えて顔をしかめる。
「いって……何も殴るこたねえだろうが、今さらよ」
つまりはそういうことだった。C組の生徒にとって、オナルーという呼び名はとっくに当り前のものとなっているのだ。誰もあえて笑う必要がないまでに。
「ねえねえ、オナルーも打ち上げ行くよね」
強引に榊を押し除け、クラスの女子が流一の正面に割り込んだ。
小学生ではあるまいし、「オナる」という言葉の意味ぐらい普通に知っているだろう。だが与那覇陽子には照れる様子もふざけた気色もない。遊んでいる部類に入るとはいえ、与那覇はとりわけビッチというわけではないのだが。
流一はスクールバッグを掴むと戸口へ足を向けた。
「あれ、ちょっとオナルー?」
あせったような声が追ってくるが無視。
「リューイチくんっ」
「なんだよ」
呼び直されてようやく流一は振り返った。
「だから打ち上げ。来るよね?」
「どうしようと俺の勝手だろ」
「そうだけど。でもオナルーいなかったらつまんないし……あ、うそうそ、今のなし、リューイチくん待って、リューイチくんってば!」
後ろからしっかと手を掴まれ、廊下で名前を大声で連呼されてはさすがに相手をしないわけにもいかない。
「後で行くよ。場所決まったら連絡してくれ」
「なんで? みんなで一緒に行けばいいのに」
握った手を引き寄せようとするのを流一が振り払うと、与那覇はまるで殴られでもしたみたいに身を竦めた。むしろ迷惑しているのはこっちの方だ。被害者みたいな顔をするのはやめてほしい。
「用事があるんだよ。たぶんそんな時間掛かんないから、すぐ合流するって。他の奴にも言っといて」
「……分った。でも絶対だからね? 絶対後から来てね?」
しつこいな、とは思ったが黙っておく。ことさらに傷つけたいわけではない。返事代りに軽く与那覇の頭を叩くと、流一は先を急いだ。
与那覇が流一の背中を追って教室を出て行くところを、斉藤穂月は友達と会話しながらも横目でしっかりと眺めていた。
与那覇が流一を好きなのはクラスの女子なら誰でも知っていることだ。はっきりと口に出したことはなくても、態度を見てれば丸分りである。もちろん流一だって気付いているに違いない。
このまま一気に告白か、と密かに成り行きを窺っていると、程なくして与那覇は顔をうつむけて戻ってきた。どうやら余りうまくいかなかった模様である。
それでも完全に意気消沈というわけではないようで、自分の席に戻って机の上のバッグをぽすんと叩くと「よし」というように拳を握った。勝負はまだこれからといったところだろうか。
──どうせ駄目だろうけどね。
皮肉でも意地悪でもなく客観的に予想する。流一にその気がないのは確実だし、与那覇と仲睦まじくしている図というのも余り想像がつかない。それぐらいならまだしもあの子の方が。
「穂月はどうする?」
クラス委員の静流に尋ねられ、穂月はこの場に意識を戻した。話の流れは把握している。職員室に色紙と花束を一緒に渡しに行くかという意味だ。春子ちゃんのことは好きだし、このまま別れるのは名残惜しかったのだが、穂月は首を振った。
「ごめん、あたしパス。ちょっと行くとこあるから」
「えーなにそれ、怪しくない?」
探るような視線がわりかしマジだ。仲間だと思ってたのにお前まで男かよコンチクショー、という静流の心の叫びが伝わってくるかのようだった。だが残念ながら誤解である。
「別に怪しくないって。後輩から告られるの断るだけだし」
「へ?」
「なんてね、冗談よ」
目を丸くしている相手にさらりと手を振って穂月は席を立った。
待ち合わせの場所は校内ではなく近くの公園のバスケットボールのゴールだった。
相手は先に来ていたものの、高校生ぐらいの男子達がゴールを使っていたので少し離れた場所に所在なさげに立っている。コートを着ていないセーラー服の肩が寒そうだ。三月の風はまだ冷たい。
下を向いているせいでこちらにはまだ気付いていないようだ。流一は適当に近付いたところで声を掛けた。
「新宮」
「織名先輩!」
新宮あけみはバネが弾けるように顔を上げた。流一はその場で足を止め、自分の方に手招きした。他人がバスケをして遊んでいる側で面倒な話はしたくない。
新宮は仔犬みたいに一直線に駆け寄ってくる。ぱたぱたと尻尾を振っているのが見えないのがいっそ不思議な気がするほどだ。
流一の元までたどり着くと、新宮は両手を祈るような形にして胸の前で組み合わせた。
「良かった。来てくれたんですね」
すっぽかすとかえって厄介なことになりそうだしな、しょうがない。
ここにはいない別の人間のことを思い浮かべながら、流一は心中で呟いた。もし直接新宮に呼び出されたのなら、放置を答えに代えるという手もあったかもしれない。
「そうだ、先輩、ご卒業おめでとうございます。これお祝いです」
新宮はスカートのポケットからリボンの掛けられた小袋を取り出した。
「全然大した物じゃないんですけど、もしよかったら」
「ありがとう」
差し出されるままに受け取る。持った感じはかなり軽い。女子の好きそうな生活雑貨の類か、中学生のお小遣いでも買えるようなちょっとしたアクセサリーといったところだろうか。
開けてもいいか、といったような台詞を期待されているのは分ったが、あえて黙ったままバッグにしまう。
ひとたび中身を見てしまえば今度は「大切にするよ」とか何とか言わねばならない。だが例えば新宮とお揃いのキャラもののハンドタオルとかだったりしたら、実際に使うのはかなり厳しい。気落ちした相手の気色には流一は気付かない振りをした。
「それで俺に何の用だ」
「えっと、その……」
新宮は流一を見上げてはうつむくということを繰り返す。流一は黙って待った。何も起こらないまま終わるのならそれでもいい。流一としては完全な無駄足だが、半年後ぐらいに新宮の中で切なくも美しい想い出として沈殿するなら本望である。
「先輩」
もう少しだけしたら帰ろうと流一が思い始めた頃、新宮は決然と息を吸い込んだ。
「あたし、先輩のことが好きです! あたしとつき合ってください!」
「悪い、俺お前のことただの後輩としか思ってないから」
わずかの空白があった。そして小柄な後輩の瞳がみるみる潤む。
しまった。流一は自分に舌打ちしたくなった。余りにも直球だったのでつい真正面から打ち返してしまった。新宮が本当に告白できるとはぶっちゃけ思ってなかったし。
だがいずれにせよ口から出た言葉は戻せない。
かくなるうえは速やかにこの場から立ち去るのみだ。たぶんそれが一番ダメージが少ないだろう。
とはいえ目の前で悲しんでいる後輩を置き去りにするのも忍びない。
「……斉藤先輩と、つき合ってるんですか?」
「何?」
決断悪く佇んでいる流一に、ボールが意想外の角度から飛んできた。
「斉藤先輩は違うって言ってましたけど、でも織名先輩と斉藤先輩ってすっごく仲いいですもんね。最初からあたしの入る余地なんかなかったんですよね」
「おい新宮」
「すいませんでした、空気読めてなくて。あけみが謝ってたって斉藤先輩にも伝えてください。さよなら」
新宮は背中を向けた。だがさよならと言うわりにいつまでも歩き出さない。
流一はうんざりとため息をついた。
もう卒業したのだし、OBとして部活に顔を出すつもりもないので、誤解されたままでも特に困りはしないのだが。
「お前な、勝手に勘違いして納得するなよ。俺と穂月は別になんでもないからな」
それでもなおざりにはしておけない。自分は良くても穂月は迷惑するかもしれないし。
流一は後ろから新宮の肩を掴むと強引に振り向かせた。そしていたく後悔した。
やばい。こいつ超泣いてる。
「先輩……あたしのこと嫌い、ですか……?」
新宮はセーラー服の袖で目元を拭った。だがほとんど甲斐はなく、すぐに新たな涙が零れ落ちる。
「いや、そんなことはないけど」
流一は正直に答えた。しかしだからといって特に好きでもない。
「先輩!」
新宮は流一の学ランの胸元を鷲掴みにした。そしてきつく目を閉じ、背伸びをしてぐぐっと顔を上向ける。
客観的な事実として、相当に可愛くなかった。眉間には深い皺が寄り、口元は梅干しを頬張っているみたいに歪んで、まるで尿意を我慢するひょっとこみたいになっている。もし新宮に密かな想いを寄せる男がいたとしても、この必死過ぎる形相を見せられたら百年の恋も冷めてしまいかねない。
だから、仕方なかったのだ。
流一は新宮にキスをした。
「どういうつもりよ」
隣を歩く穂月が流一に胡乱な目付きをくれる。
部活に出るために新宮は既に学校へ戻り、今は二人でクラスの打ち上げ会場のカラオケボックスへ向かっているところである。
「断るって言ってたくせに。どーしてキスなんかしてるわけ?」
「うるせえよ」
流一は仏頂面で応じた。
「そもそもなんでお前がいるんだ。偶然通りかかったとか言うなよ」
「そんなの様子見に来たに決まってるじゃない。あんたは端から振る気満々だったし、あけちゃんがわんわん泣き出しちゃったりしたらフォローしてあげようと思ってわざわざ来てやったっていうのに……どういうことよ?」
どうもこうもない。情に流されて勢いでしただけだ。そんな流一の内心を見透かしたように、穂月はドスを利かせて釘を刺す。
「あんたまさかやり逃げする気じゃないでしょうね」
「人聞きの悪いこと言うなよ。ただキスしただけだろうが」
舌だって入れてない。
「だけ? あんたふざけてんの? あけちゃんがどれだけ勇気出したと思ってんのよ。もしいい加減な真似して、あの子のこと傷つけたりしたら本気で怒るからね」
「新宮とはちゃんとつき合うよ。決まってんだろ」
流一は強く言い返した。
「お前に口出しされなくったってな。本人にも返事はした」
「……ならいいけど」
しかし穂月はなおも不満そうだ。
流一にとっては単なる成り行き、というか下手をすると気の迷いに近くても、いやむしろそうだからこそ、しかるべきけじめが必要なのかもしれなかった。
「もうお前ともあんまり二人でいない方がいいかもな」
「え?」
「無理に避けようとまでは思わないけどさ。どうしたって顔は合わせるだろうし」
穂月とは進む高校も同じだし、それにとにかく家が近い。なにしろ同じマンションの隣室である。そのうえどちらの家庭も親一人子一人で、その親同士も仲が良いとあって、二人は幼馴染みを通り越して半ば兄妹(穂月に言わせれば姉弟)のようにして育ってきた。彼女ができたぐらいでいきなり疎遠になれるはずもない。
「でも少なくとも、部屋に行ったり二人で出掛けたりするのはやめにするから。俺達にすればどうってことないことでも新宮は気にするかもしれないし……って、おい、聞いてるのか?」
「あ、ごめん。なんかちょっと淋しくなってきちゃって」
穂月は鼻を啜った。予想外に過剰な反応だった。
「落ち着けって。そんな大袈裟に考えることないから。別に今までと大して変わらない。ただ新宮が誤解しないようになるべく気を付けようってだけの話だ」
「ううん、流一のことは別にどうでもよくて。ただ卒業したんだなって実感が何か急にね」
どうせそんなところだろうと思った。流一は些か憮然とする。
「あけちゃんだって、このままじゃなかなか会えなくなっちゃうからって思い詰めた挙句オナルーなんかに告ったんだろうし」
「お前もし高校でその呼び方したら新宮のこと関係なく他人だから」
きつめに念を押したが、穂月は逆に諭すように言い返す。
「そんなのあたしだけ口止めしたって無意味でしょ。うちから連高行く子なんて何人もいるんだから。それに中学の知り合いが黙っててもどうせまた誰かが言い出すに決まってるし」
「決まってねえ」
高校生は中学生よりは大人なはずだ。しょうもない下ネタ絡みのあだ名を面白がったりしない程度の分別は期待したい。
「流一、そんなに嫌だったの?」
「当り前だろ」
「だけどそんなに本気で怒ったりしてなかったじゃない。せいぜいぶーたれたりシカトしたりするぐらいでさ。はっきりやめろって言ってれば、少なくとも周りの友達は呼ぶのやめたと思うけど」
「かもな」
だとしても必死になって抵抗しているように取られるのも面白くない。
「ね、高校でもおんなじクラスになれるといいね」
穂月はいきなり腕を絡めた。柔らかい匂いと甘い心地に瞬間流一の鼓動が止まる。
「なんだよ突然」
戸惑い警戒しながらも、流一は無下に突き放そうとはしない。穂月はさらにきゅっと身を寄せた。
「いいじゃん、今だけだから。あたしもあけちゃんが誤解するようなことはしたくないし、だからこれで最後だよ。あ、ねえ、どうせなら久し振りに一緒にお風呂でも入ろうか?」
「それは……本当に久し振りだな」
流一は思わず遠い目をした。前がいつのことだったか定かでないが、かれこれ十年かそこらは経っている。
「いいかもな。じゃあ俺がお前の背中流してやるよ。卒業記念のサービスでさ」
乗り気になって答えると、穂月は反対にぎょっとした顔をした。
「ちょっとあんた本気?」
「なんだよ、冗談だったのか? まあ俺はどっちでもいいけど」
「何その上から目線。むかつくんだけど。オナルーのくせに」
穂月は絡めていた腕を解くと、流一に肩をぶつけた。じゃれつくというようなレベルではなく、ほとんど体当りの勢いだ。約十五センチ背が高い流一が足元をよろけさせる。
「いいよ、一緒に入ろう。流一なんか全然平気だし」
「どうせ水着着るんだろ」
「ばっか、そんなわけないじゃん。家のお風呂入るのに水着なんて着ないわよ。裸に決まってるっての」
「だったらバスタオル巻きっぱとかもしないんだろうな?」
「当然ね。でもあんたは水着でもタオルでも好きにすれば。あたしの体に興奮して勃っちゃってるとこ見られたら恥ずかしいでしょ」
「お前なんかに反応しねえよ」
やばくなったら頭の中で般若心経でも唱えてやり過ごすしかない。ジュゲムジュゲムゴコーノスリキレ、とかそんな感じで。
穂月が眦をきつくした。
「一応言っとくけど、調子に乗ってわざと変なとこ触ったりしたら全力でグーパンだから」
わざとじゃなければいいのか、と流一は思った。
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