第21話『謎の研究員』

 同日、午後七時三十分。

 一刻も早く行きたかったため、俺は鏡浜駅からタクシーを使って松本さんの手術が行われている鏡浜総合病院に向かった。

 今の時間だともう通常の診察時間が終わっているからか、病院も閑散としていた。俺は案内板に従って手術室の方へ向かう。

「篤人さん!」

 手術室の前のベンチにはまどか、堤先輩、宮永先輩、上杉先輩とAGCのメンバーが全て揃っていた。

 そして、もう一人……灰色のスーツ姿の男性がいる。彼が昨日……宮永先輩と上杉先輩が研究所で会った霧嶋刑事なのか。

「君が成瀬篤人君だね。初めまして、霧嶋徹です。部下から君のことは聞いたよ。松本さんが刺された事件については本当に感謝する。ありがとう」

「いえ、俺は……やるべきことをやっただけです」

「謙遜しなくてもいい。高校生になったばかりの青年とは思えない冷静な行動だった。堤さんが君をスカウトする理由が分かる」

「そうですか」

 スカウトって芸能事務所じゃないんだから。

 というか、霧嶋刑事ってもっと歳を取った威厳のある人だと思っていたけど、随分と若い人なんだな。エリートという雰囲気は伝わってくるが。

「それよりも、松本さんの容体はどんな感じですか?」

「篤人君の応急処置のおかげで何とか一命は取り留めたみたい。土曜日だったけど輸血も何とかなって、山は越えたわ」

「そうですか。良かった……」

 松本さんが命の危険から脱したことが分かってほっとした。でも、まどかには恥ずかしいけど今でも後悔の念が残っている。

 俺は堤先輩の前まで行き、深く頭を下げる。

「本当にすみませんでした。途中まででも俺が松本さんを送って行けばこうなることはなかったんです」

 こんな陳謝が無意味だなんてことは分かっていた。でも、ここで何もしない自分をどうしても許すことができなかった。

 すると、宮永先輩が俺の方に手を乗せる。

「……成瀬は別に何も悪くないわよ。霧嶋刑事の言う通り、あんたは自分のできることを最大限にやったじゃない。だから、松本さんは助かったんじゃないの?」

「宮永先輩……」

「べ、別に成瀬が可哀想だから慰めたいとかそういうわけじゃないから。ただ、あたしはあんたのやったことが凄いから褒めただけであって……」

「ありがとう……ございます。宮永先輩」

 俺が精一杯に宮永先輩へ微笑むと、彼女も微笑んだ。

「でも、私は篤人君の言う通りだと思うわ」

「奏先輩! 成瀬はそんな……」

「別に篤人君を悪く言っているわけじゃないわ、紗希ちゃん。確かに、篤人君やまどかちゃんが途中まで送れば特別寮の前で松本さんが刺されることはなかったと思う。でも、例えば駅まで送ったとしたら。松本さんはホームで刺されていたでしょうね。こういう言い方は悪いけど、今回の事件の場合、必ずどこかのタイミングで松本さんはナイフで刺されていたと思うわ。特別寮の前で刺されたことが不幸中の幸いだったかもしれないわね」

 松本さんはいずれにせよ刺される運命にあった。ということは、やっぱり……越水さんを殺害した真犯人と同一犯だと考えているのか。

「篤人君やまどかちゃんが責められることじゃないわ。責めるべき人間がいるとしたらそれは松本さんを刺した犯人。私達がやるべきことはその犯人を暴くことよ」

「……はい」

 堤先輩は厳しい人でもあり、優しい人だな。

 そして、まどかや宮永先輩、上杉先輩も俺に微笑みかけてくれている。俺はいい人達に恵まれていると改めて思った。

 俺のやるべきことは今、俺の手に握られている物にある。

「堤先輩、この封筒を見てください。電話で話した血の付いた封筒です」

 俺は松本さんから受け取った、百瀬さんの妊娠診断書が入っている茶封筒を堤先輩へ渡した。

「この血が越水さんのものなのね」

「はい。松本さんが現場でこの封筒を発見したとき、越水さんは既に亡くなっていたそうです。もちろん、時刻は越水さんが送ったメールの通り、午後三時十五分です」

「なるほどね」

「この封筒の中身には事件当日に発行された百瀬さんの妊娠診断書が同封されており、それにも血が付いています。なので、この血は事件が起こったときに付いたものだと考えることができます」

 堤先輩は実際に封筒から妊娠診断書を取り出し、じっくりと見ている。

「確かに患者の欄に百瀬遥と書かれているわね。一番新しい診断書が事件当日の三月二十九日に発行されている、か」

 先輩は診断書を封筒の中に入れて、霧嶋刑事の所へ持っていく。

「今の彼の話、聞いていましたか?」

「ああ、もちろんさ。今の話とこの診断書は……栗橋ななみが犯人であることを真っ向から否定する証拠になるからね。昨日、堤さんが示してくれた返り討ちの可能性の件も考えると、栗橋ななみが犯人であるとは言えないな。よし、今すぐに彼女を釈放する手続きを取ってこよう。終わり次第、彼女をここへ連れてくる」

「……お願いします」

 霧嶋刑事は診断書を持ってここを後にした。

 どうやら、霧嶋刑事は松本さんの話と百瀬さんの診断書のことを信じてくれたようだ。そして、ななみさんがようやく釈放されることになった。

 まどかの方を見ると、彼女は今すぐにも泣きそうになっていた。もちろん、それは嬉し泣きだろう。

「篤人さん……」

「良かったな、これでななみさんが越水さんを殺害していないと認められたんだ」

「……はい」

 ついに泣き出してしまったまどかの頭を、俺はゆっくりと撫でた。

「良かったね、栗橋さん。これで一歩前進かな、紗希ちゃん」

「そうね。まずは第一関門突破って感じかしら」

 宮永先輩の言う通りだ。一つのステップを踏めただけで、最終目的は真実を見つけて真犯人を暴くこと。まだ、その犯人を絞り込むことさえもできていない。

 ななみさんとも早く話をしたいけれど、まずは……堤先輩から聞かないと。松本さんが救急車で運ばれる直前に堤先輩が言っていた。学校で見つけた重要な情報は病院に行ってから話せればいいと。

「堤先輩、今日の学校での捜査で重要な情報を手に入れたと言っていましたよね。それって一体、何だったんですか?」

「事件当日に宝来製薬の研究所の人が越水さんに会いたいと学校に来たの」

「だ、誰だったんですか?」

「守衛室の来客記録によると、佐藤弘(さとうひろむ)という人で、守衛の人も研究員を示すカードも確認したから通したと言っているわ。来た時刻は午後一時過ぎで、出た時刻は午後一時十五分と記録されていたの」

「ということは、事件が起こる二時間前のことですか……」

「ええ。でも、念のためにその佐藤さんに話を聞けるかどうか、研究所で捜査をしていた紗希ちゃんと香織ちゃんに頼んだの。ここからは紗希ちゃんと香織ちゃんに説明してもらおうかしら。私の話したい情報はこれだけだし」

「分かりました、奏先輩」

 話が宮永先輩や上杉先輩に移ったことにどうも不安を感じる。いや、二人が悪いとかそういう意味ではなく、話が一筋縄ではいかないような気がして。

 こほん、と宮永先輩は一つ可愛らしい咳をしてから話し始めた。

「小関さんに佐藤さんがいるかどうか調べてもらったわ。そうしたら、鏡浜研究所には佐藤弘なんて研究員はいないことが分かったの」

「存在しない、ですって?」

「うん。つまり、誰かが『佐藤弘』という研究員を装って学校に行ったことになるわね」

「でも、研究所のメンバーカードを持っていたんでしょう?」

「それってこう考えることができるんじゃない? 研究員の誰かが『佐藤弘』という架空の研究員に成り済まして越水さんへ会いに行った」

 でも、そうすることで『佐藤弘』と偽名を名乗って学校へ行った人間に何のメリットがあるというんだ? そして、わざわざそんなことをする理由が分からない。越水さんにばれてしまう危険もあるわけだし。

「それよりも……研究所では重要な情報が手に入ったのよ、成瀬」

「それは何でしょうか?」

「越水さんが中止を宣言したプロジェクトのこと」

 ああ、例の新薬開発プロジェクトのことか。竹内さんが提案したんだよな。何か事件に繋がる情報でも分かったのかな。

「プロジェクトがどうかしましたか?」

「実は越水さんの中止したプロジェクト、以前から警察が追っている犯罪グループが秘密裏に資金を投入していたらしいの」

「犯罪グループが?」

「そう。プロジェクトのメンバーにその犯罪グループとのパイプ役がいてね。研究の際に作成したサンプルも幾つか無くなっていて。警察がそのパイプ役から犯罪グループを突き詰めたら、グループのアジトから幾つかのサンプルが見つかったそうよ」

 ここで犯罪グループが出てくるか。

 犯罪グループが金を投資して新薬開発に協力していたとなると、グループの目的はその新薬を使って何か犯罪を起こすこと。考えられる犯罪として代表的なものは殺人だ。

「幾つか、ということは奪われたサンプルは全て見つかってないんですか?」

「そうね。まだ警察が目をつけていない誰かが所持している可能性は高そう」

「そうですか……」

 ここへ来て、新たな可能性が浮かび上がったか。犯罪グループの一員が新薬開発プロジェクトの中止を理由に越水さんを殺害したという可能性が。

 でも、外部の人間であるなら『佐藤弘』のように守衛室に記録が残っていなければならない。堤先輩も『佐藤弘』以外のことは言わなかった。

 まさか、学校関係者の誰かが犯罪グループに関わっているのか? そうなれば守衛室の記録がなくても筋は通るけど。ああ、段々と分からなくなってきた。

「悩んでいるみたいだね、成瀬君」

 上杉先輩は苦笑いをしながら俺に話しかけてくる。

「ええ、色々なことが複雑に絡まっていて……」

「そっか。僕も同じことで悩んでいるよ。……あっ、そうだ。僕と紗希ちゃんは霧嶋刑事と一緒にこの病院に来たんだけど、実はその時……小関さんも一緒だったんだよ」

「小関さんは越水さんの上司の……」

「そう。その小関さんの娘さんがこの病院に入院していて。ちょうど、僕達が研究所を出ようとしたときに病院から娘さんの急変の知らせが来たそうだよ。だから、別の手術室の前で小関さんがいる」

「そうだったんですか……」

 娘さんの容態が回復すれば何よりだ。

 今も生きようと必死になっている命があることを知ると、越水さんを殺害した真犯人が許せなくなる。一刻も早く見つけないと、真犯人は新たな犯罪を起こしてしまうかもしれない。

「僕達は真犯人に踊らされているのかな……」

「えっ?」

「実際は本当に単純なことなのに、色々な背景を上手く利用されて……僕達に真実を見つけさせないような気がするんだ」

 そうだ、事件そのものを見れば単純なことだ。犯人は家庭用ナイフを使って越水さんの胸部から腹部にかけて数回刺し、殺害した。

 俺達はそんな事件を、消えたプロジェクト、犯罪グループとの繋がり、百瀬さんの妊娠などの背景によって事件の本質を見えなくさせられている。もちろん、ななみさんが冤罪によって逮捕されたことも一因にある。

「お姉ちゃん!」

 聞き覚えのない女性の声が病院の廊下に響き渡る。

 こんな場所でお姉ちゃん、と言うことは声の主の正体はたった一人しか考えられないだろう。

 俺達の中でいち早く反応したのは、やはりまどかだった。

「ななみ!」

 まどかは走り出し、赤いジャージ姿を着た黒髪のおさげの女の子……ななみさんを抱きしめるのであった。

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