第4話『栗橋まどか』

 モニターの向こうにはまさかの栗橋まどかがいた。

 彼女が嫌いだとかそういうわけではない。でも、一番会いたくもなければ、今後一切関わりたくない奴だった。

『きょ、今日からここに住むことになりました、栗橋まどかといいます』

 栗橋は頭を深く下げた。

 もう予想はついていたが、栗橋が俺の家に引っ越してくる女子生徒だったのか。でも、よりによってどうして彼女が……。

 俺は初めて防衛本能が発揮された瞬間がはっきりと分かった。それだけ彼女が家に来ることが俺にとって非常に危険なことなのだろう。それは、この引越は単なる引越ではないことと引越の理由もきっと俺にとって面倒なことも確実だということだ。

 とりあえず、栗橋に会わないとどうにもならない。

 俺は玄関まで行き、家の扉を開ける。

 すると、そこには制服姿の栗橋が立っていた。優しそうで艶やかな白い肌と黒いロングヘアが清涼感を漂わせる。和服が似合いそうだ。

 ああ、俺はこんな女の子をこれから防衛本能の所為で泣かそうとしているのか。防衛本能よ、少しはこの子に優しくしても大丈夫だと判断してくれないだろうか。

「……本当にこれからここに住むのか?」

「は、はい! 成瀬篤人さんと一緒に住むと決めました。その……今日からよろしくお願いしますっ!」

 栗橋は頬を赤くしながら一生懸命になって俺に挨拶をしてきた。深く頭を下げる仕草が素直で可愛らしい。

「……とりあえず、中に入れ。ここで話すのも何だから」

 俺はそう言って、栗橋を家の中に入れて玄関の扉の鍵を閉める。おお、防衛本能が発揮されていても結構穏やかじゃないか。

 しかし、そう思っていたのも束の間。

 栗橋がローファーを脱ごうとした瞬間、俺は彼女の手を力強く掴んだ。

「中に入れとは言ったが、家に上がっていいなんて言ってねえぞ」

「えっ……?」

「お前、俺に何か言うべきことがあったんじゃないのか?」

 俺がそう言って栗橋の手を掴む力を更に強めるため、栗橋もさすがに俺のことを怯えた目で見始めている。

「引っ越してくることを言わなかったことでしょうか? 本当に申し訳ありません。今日になって急に決まったことなので、成瀬さんに伝えられる機会がなくて……」

 栗橋は俺に関係なく引越を決めてしまったことに罪悪感を抱いているのか。今、俺が本心で話しているのならそれで許したはずだ。

 でも、防衛本能剥き出しの俺ならそんなことじゃ絶対に許したりしないだろう。

「確かにそれも言わなきゃいけないことの一つだ。でもな!」

 俺は栗橋を壁に追い詰めて、両手で思い切り壁を叩く。

「本当に話さなきゃいけないのは、今朝、お前が巻き込まれたことだろ!」

 そうだ、今日はあの騒動から始まった。

 栗橋が数人の男に絡まれていて、俺がふと目をやったら直後に彼女が俺に視線を向けてきて……そうしたら、防衛本能が発揮されてしまった。

 そのことから俺は険悪なイメージを持たれてしまった。クラスメイトの中に実際に騒動を見た生徒もいたそうだから。

「何でだよ……何であの時、何も言ってくれなかったんだよ! 俺が教室に入ってきたときの、あの静寂はお前だって分かってるはずだろ! お前があの騒動の現場にいたって知ってる奴もいただろ。俺と一緒に住んでも良いと思うなら、あの時も俺をフォローする言葉を一言くらい言ってくれたって良かったじゃないか!」

「えっと、そ、それは……」

「そもそも、それ以前にお前が――」

 あんな男達に絡まれてなきゃ、俺がこんな目に遭う必要なんてなかったんだ……などとは何も言えなかった。

 今、栗橋に言ったこと。言おうとしたこと。人間として最低だ。

 俺が険悪なイメージを持たされてしまったこと。それによって友達が作れなくなってしまったこと。全ては自分が弱いだけなのに、本心で向き合えないからなのに、それを全て栗橋の所為にしようとしているんだ。それを本心ではなく、防衛本能による勢いに任せてしまおうなんて本当に俺は弱くて最低な人間だ。

 栗橋が俺を傷つけようだなんてこれっぽっちも思っていないのに。俺とこれから一緒に住んでいいって思ってくれているほどなのに。どうして俺の防衛本能はそんなに人間不信になって、どうして俺の本心は防衛本能に少しでも抗うこともできないのか。栗橋の気持ちが本当は分かっているはずなのに。

 ああ、俺が一人になってしまう理由が分かる。どこへ行っても必然的に孤独になってしまう理由が体で分かる。

 誰とも一緒に住めないけれど、特に栗橋とは絶対に住めない。これ以上、彼女を傷つけたくない……これは俺の本心だ。それを何とかして言わないと。

 俺が今一度、栗橋のことを見ようとした瞬間だった。

 予想外にも、壁に追い詰められている栗橋は俺のことを抱き寄せたのだ。そして、顔を俺の胸の中に埋める。

「ふ、ふざけてるのか!」

 本当に考えもしない行動だったから、途端にそんな言葉が出てしまう。放課後、あの部屋で堤先輩に抱きしめられたこともあってか、色仕掛けでも仕掛けてくるんじゃないかと本当に警戒してしまう。

 でも、栗橋に抱きしめられたことで感じる人という温もり、柔らかさ、匂い。そして、一番強く感じる彼女の優しさは俺の心を激しく揺さぶる。

「あの時の成瀬さんは確かに恐い印象もありました。泣いてしまったのも、もしかしたらその所為だったのかもしれません。でも、私には分かっていました。あの時、成瀬さんと目が合った瞬間から、今こうしているときまで。あなたは優しい心の持ち主だと」

「何を言っているんだよ。俺には防衛本能っていうのがあって、あの時はもしかしたら俺も巻き込まれるかもしれないって思ったから、ただ自分を守りたかったからあんなことをしただけかもしれないんだぞ。お前を守ろうとか助けようだなんて――」

「それでも……」

 栗橋はぎゅっ、とワイシャツの背中の部分を強く掴み、

「私には成瀬さんが私を助けるために、私の前に立ってくれたのだと思っています。そして、私を男の方達から守ってくださったことに感謝しています。あの時は何も言えなくて本当に申し訳ありませんでした」

 と、優しい口調で言った。

そして、俺の胸から顔を離し、俺のことを笑顔で見て、

「あの時は助けてくださって、ありがとうございました」

 栗橋はこの世にある最も素直な言葉で、俺に礼を言ってくれた。

 暗闇だけが広がった世界に、一縷の光が差し込んだような気がした。こんな俺にでも感謝をしてくれた人がいたなんて。

「成瀬さん、涙が……」

 そっと、栗橋は右手で俺の涙を拭った。

 気づかない間に涙まで流してしまっていたのか。本当にどこまで情けないんだよ。

「目にゴミが入っただけだ。気遣ってくれなくていいんだぞ」

「そう、ですか……」

 こんなときでも意地を張ってしまうのか、俺の防衛本能は。女々しいという印象をクラスメイトの女子に植え付けまいとしているのか。

 でも、俺の泣いている姿に対して心配してくれるなんて、栗橋は本当に良い奴なんだ。

「……もう、ここまで来たら家に帰すわけにはいかない。もう、家具もお前の部屋に運んじまったからな。だから、その……よろしくな、栗橋」

 本能でも栗橋は大丈夫な奴だと判断したのか、ようやく彼女を一緒に住む人として受け入れることができたようだ。

 俺がゆっくりと栗橋の体を離すと、彼女は俺の顔を見て本当に嬉しそうに笑った。

「はいっ、よろしくお願いします!」

「……ああ」

 そして、栗橋が初めて俺の家の敷居を跨いだ。

 リビングに向かう彼女の背中は何だかはしゃいでいるように見えた。新しい住まいに心を躍らせているのだろうか。俺も、初めてこの家に来たときにはあまりにも良い生活環境に胸が高まったな。

 俺も栗橋の後に付いていきリビングに入ろうとしたのだが、

「あの、成瀬さん」

 栗橋がリビングへの扉のドアノブを掴んだところで立ち止まった。

「私、ここに来たのは……成瀬さんにお礼がしたかったからなんです」

「どういうことだ?」

 全く意味が分からない。

 引っ越しをする理由なんてもっと他にあるはずなのに。他の学生と共同生活をしてみたかったとか、実家から飛び出したかったとか。そこにどうして、俺が登場してくるのかが理解できなかった。

「だって、成瀬さんは私のことを……命を賭けて守ってくれたんですよ?」

「大げさだな。それに、あの時……男達を倒す俺の姿を見ていれば、自分で言うのも何だが余裕でぶっ倒したように思えたはずだ」

「そ、それでもっ! 成瀬さんが私を守ってくれたことに変わりはありません。だから私はそれに見合うことを成瀬さんにしたいと思ったんです」

「それが引っ越しだって言いたいのか?」

「……え、ええ。成瀬さんの住んでいるお部屋に引っ越してきて、成瀬さんに尽くしたいと思いました」

「つ、尽くしたいってお前……」

 な、何なんだ……こ、この……俺が今まで体験したことのないような空気感は。漫画やアニメなどフィクションにしかないと思った甘そうなこの雰囲気は。

 俺の方に振り返った栗橋の頬がほんのりと赤みを帯びていた。

 栗橋は恥ずかしそうに照れ笑いをしながら、

「一緒に住んで尽くしたいくらいに成瀬さんには感謝していますから」

 と、言った。

 そうだよな。そういうことだよな。

 やっぱり、俺の想像していたことはフィクションだけに起こりえる話だったようだ。現実はそこまで甘くできていなかったか。本当は想像通りにならなくてほっとしているんだけど。それこそ、どうすればいいのか分からなかったし。

 しかし、考えてみれば女子が自分のために尽くしたいだなんて、どんな理由であれそれこそ甘い話なんじゃないのかと思う。

「運んできた荷物の中にメイド服があるんです。家では常に着ましょうか?」

「別に良いって。お前がそんな姿だと逆に落ち着かなくなりそうだ」

 栗橋はかなり可愛いし、彼女のメイド服姿を見たら俺の防衛本能が単なる本能に変わって彼女を傷つけることになるかもしれない。

「何だか残念です」

「……お前って結構形から入る方なのか?」

「そういうわけではありません。でも、尽くすということは奉仕するということ。誰かを奉仕する女性の代表格と言えばメイドさんだったのでその制服を……」

 持ってきたわけか。あと、メイド服ってどこで売ってるものなんだ?

 まあ、制服って着れば結構身が引き締まるし……俺を奉仕するという気持ちを持たせるにはメイド服はうってつけのアイテムなのかもしれない。

 でも、さっきも言ったようにメイド服姿の栗橋を前にしたら俺の本能がどうなるか分からないので、可能な限りは避けたいところだ。

「それじゃ、呼び方を変えるとかどうだ? 俺はどんな呼び方でも構わないけど」

 とりあえず、メイド服姿に代替するかもしれないものを思いつきで言ったのだが、意外にも栗橋はこのことに目を光らせている。

「私、ずっと成瀬さんのこと……下の名前で呼びたいって思っていたんです」

「ああ、俺は構わないぞ」

「で、では……あ、篤人さん」

 おっ、なかなか良い響きだな。自分の下の名前が可愛い声に乗せられると、ここまで聞き心地の良いものなのか。さん付けなのが栗橋らしい。気に入った。

「私が下の名前で呼ぶのですから、篤人さんにも私のことを下の名前で呼んで欲しいなって思ってみたり……」

「分かったよ。……まどか」

「はうっ」

 下の名前で呼ばれることに慣れていないのだろうか。栗橋……いや、まどかは赤くなった頬に両手を当てて俺から視線を逸らしている。

 しかし、お互いのことを下の名前で呼び合うのか。そんな関係の男女が一緒の部屋に住むっていうのは世間で言う同棲ってやつなんじゃないのか? まあ、恋人同士ではないけれど。

 何だか俺、普通の高校生でもなかなかできないことをしている気がしてきた。ぼっちというものから一気に抜け出して、リア充よりもよっぽど凄い領域に踏み込んでいるんじゃないかと思う。しかも、まどかは俺に尽くしたいと宣言している。

 野球で例えるならば、さっきまではヒット一本も打てなくて負ける寸前だったのに、まどかが来たことで逆転満塁ホームランを打ってサヨナラ勝ちをしたような感じだ。要するに、状況が良い方向に一転したということだ。

 まどかが俺に好意があるかどうかは関係無しに、こいつは俺の高校生活の中で一番深く付き合うことになる奴だろう。四六時中一緒にいることになるかもしれない。だから、こいつには本心で向き合えるようになりたい。防衛本能なんかに屈せずに。

「あ、あのっ! 篤人さん」

「なんだ?」

「さっきまで篤人さんに尽くすなんて言っておいて申し訳ないんですけど、荷物の整理を手伝ってくれませんか? 一人だと夜遅くまでかかってしまいそうなので……」

 そういえば、リビングにはたくさんのダンボール箱が置かれていたな。女子一人だと今日中に終わらない可能性もありそうだ。中には重い物もあるだろうし、男手が必要になってくる場面も出てくるだろう。

「……分かった。その代わり、色々と指示を頼む」

「ありがとうございます」

 本当に良い笑顔を見せてくれるな、まどかって。

 そうだ、荷物を整理する前に俺も言うべきことをちゃんと言わないと。

「あのさ、まどか」

「なんでしょうか?」

「……さっきは本当にすまなかった。酷いことばかり言って。まどかの気持ちを全然考えてなくて……本当に、ごめん」

 俺は深く頭を下げた。

 まどかの笑顔に時々、俺の暴言について許してくれたんだと甘えていたけど、それは間違っている。誠心誠意、自分の言葉で伝えないと人として駄目だと思う。

 まどかは今、どんな表情をしているのだろう。

 俺は彼女の表情を見るのが恐くて、頭を上げることができずにいる。

 少しの間、静寂がこの空気を支配する。

「……そうですね」

 と、小さな声でまどかが言って、

「あの時の篤人さんの言葉には私も少し傷つきました」

「そう、だよな……」

「でも、私には分かってしまうんですよ」

 まどかは両手で俺の手をぎゅっと握る。

「篤人さんは本気でそんなことは言っていないんだって」

「まどか……」

 ゆっくりと頭を上げると、そこに待っていたのはさっきまでと変わらない笑みを浮かべるまどかだった。

「篤人さんがこうしてちゃんと謝ってくれると思っていました。だって、篤人さんは優しい心の持ち主ですから」

「……そこまで俺は良い奴でもないぞ」

「そのようなことを何度言っても同じことです。私には分かっていますよ」

 まどかは優しい口調でそう言った。

 本心でまどかが言っていることは分かっているんだけど、ここまで自然に言われると少し恐ろしく感じてしまう。まるで、俺の心が全て見透かされているような気がして。

「じゃあ、篤人さんには重い荷物をたくさん運んでもらおうかなぁ」

 優しそうな笑みから少し意地悪そうな笑みに変わったので、

「……か、かかってこいよ。受けて立とうじゃねえか」

 どうやら、防衛本能が発揮したらしい。ただし、今までとは比べものにならないくらいにソフトになっているけど。

 そして、俺はまどかの指示の下で、荷物整理に従事するのであった。

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