第四話 反撃の狼煙

 現在の大きな問題は演説や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される。

               ――――オットー・フォン・ビスマルク


    *


 リヒトニア西部からダリア東部にかけて広がる森林地帯を戦車で突破するのは不可能だと思われていた。しかしそれは誤りだった。それどころかアルテニア軍はその思い込みを利用して奇襲攻撃を仕掛けることでダリア領内への進軍に成功。

 この報せには西方同盟に大きな動揺が走った。アルテニア軍は物量だけではなかったのだ。彼らはこの勢いに乗り、さらに大きく進軍した。


 ケーニッヒ大佐はルッツたちを作戦会議室に呼んだ。卓上の地図のとある場所を棒で指しながら、


「悪い報せだ。フォルトナ橋が敵に占拠された」


 ルッツは険しい表情で腕を組みながら、


「ついにそこまで……。それはかなり厄介なことになりましたね」


「最悪、航空爆撃などで破壊することも検討されているが、奪還可能ならそれに越したことはない」


「爆破されたらリヒトニアに戻れないじゃないですか!」


 厳密には戻れるのだが、やはり進軍が難しくはなる。

 この発言はルッツが全く諦めていないことの現れだ。


「それで今回の作戦だ。大きな橋と言っても所詮は橋だ、大部隊を向かわせても詰まってしまう」


「そうですね」


 だから橋は攻防の要所となるのだ。


「そこで特殊部隊の出番だ。ダリア軍の特殊部隊が西岸から攻撃をかける。同時に君たちが超少人数であることを活かしてこっそり渡河し、橋の東岸を奇襲して友軍による制圧を支援するんだ」


「そのダリアの特殊部隊っていうのも超人の集まりなのでしょうか?」


「いや、精鋭ではあるが『超常現象』を起こせるレベルではないだろう。そんな超人がたくさんいてたまるか。ただし中隊規模で参加するそうだ」


 流石にこんな超人部隊が然う然うあるわけがなかった。

 中隊規模――約二百人である。


「わかりました」


「はぁ~、とうとうこの時が来てしまいましたかー」


 ヴィクトリアはちょっと嫌そうだ。


「いよいよでござるか」


「腕がなりますね」


「アルテニア……倒す……」


 それぞれの想いを胸に運命の時を待った。


    *


 そして一九四一年十一月二十日の午前三時頃、ルッツたちは夜の闇に紛れて川の橋の袂からやや離れた場所をボートで渡った。

 

 川辺りを歩哨が歩いているのを発見した。

 そこで、ルッツはハンスの目を見ながら歩哨を指差した。

 ハンスは頷くと川の方を見ている歩哨の背後から近づくと、肩に触れる。

 すると不思議な事に歩哨は糸が切れた人形のように静かに膝をついて倒れた。

 ルッツは親指を立てたあと、進むように合図をした。

 そして橋の袂までわずか一キロメートルほどのところまで至ったところでルッツが待ての合図を出す。

 彼らはしばらく闇に身を潜めてその時を待った。

 

 午前五時、腕の動きで突撃の合図を出すと、部隊はマリーを残して駆け始めた。

 マリーは茂みの陰に隠れつつ、伏せて狙撃体勢に入る。

 人間とは思えない速さでラルフとハンスが先行する。

 不思議なことに彼らは足音もほとんど立てない。

 さすが東洋の神秘!


「さぁ、ヴィクトリア! さっさと敵を殲滅しないと俺が死んじゃうぞ?」


 ルッツが煽る。


「まったく、しょうがないマイスターですねー。――障害を取り除く必要あり――緊急モードへの移行――安全装置解除――」


 ヴィクトリアの走るスピードが一気に上がった。

 まだ未熟な彼女が走るとそれなりに足音が響く。


 敵陣まで二百メートル。

 アルテニア軍は当然、敵がこっそりと渡河して東岸から奇襲してくる可能性は当然考えていた。しかし、今夜の見張り番が見たのは想像の外にあるものだった。数は少ないが異常な速度で人影が迫ってくるのだ。


〈誰だ! 止まれ!〉


 どうしていいかパニックになった見張り番はとりあえず叫んだ! そして、まるで叫んだことが合図であったかのようにその兵はマリーの狙撃によって額に穴が開けられた。夜間でも陣地にはいくらかの明かりがあるものだ。


 彼女はすぐに小銃ライフル遊底ボルトを引きながら次の目標の選定を行った。

 自動小銃オートマチックもそこそこ配備されてはいるが、彼女はあえて仕組みが単純で信頼性と精度の高い鎖閂ボルトアクション式を使用している。さらに彼女は遠距離狙撃を行うにも関わらず反射を恐れて小銃ライフル望遠鏡スコープを装着していない。それにも関わらず高い命中率を誇るのがマリー・クルーゲの凄さのひとつなのだ。


〈敵襲! 敵襲!〉


 アルテニア軍は速やかに防衛態勢に移行する。陣地中心に照明弾が上がり始める。迎撃しようとして機関砲を動かした兵士は、それを打つ前にラルフに両断された。

 狙撃を警戒して物陰に隠れていた兵士の腕にヴィクトルが噛み付く。


〈うわ、犬だっ!〉


 焦って物陰から出たところをマリーの弾丸に撃ち抜かれた。


 ヴィクトリアは【玩具おもちゃ屋】が開発した例の大剣を使用している。重すぎて人間には扱えない――そもそも持ち上げることすら難しい――が、彼女はこれを軽々と扱える。

 その姿を見た敵の恐怖はいかほどか?


〈ば……化物!〉


 動きは人間とは思えぬほど俊敏で、銃口が捉えることは不可能だ。また、彼女から隠れることも難しい。彼女はわずかな音から人の存在を感知するのだ。

 アルテニア兵たちは何が起こったのかすら理解すら出来ずに粉砕されていく。


「こんな可憐な私を見て化物呼ばわりとは失礼な人ですねー」


 その間にハンスがトーチカの中を制圧していく。ハンスは【チー】を捉えることで視界外のこともある程度知ることができる。この感知能力は近距離においてはヴィクトリアよりも正確であり、こういう役割にはうってつけだ。


「ほぉ~~~あたっ!」


 まず、トーチカに穴を開けて侵入!


〈え⁉〉


「あちょ~! ほあった! あたたっ!」


 ハンスの攻撃は素手にもかかわらず、次々と敵を一撃で倒していく。


 かくして、ルッツが到着するころにはほとんど敵の守備隊を壊滅させていた。


「……も、もう終わったのか?」


「ああ、クレム隊長、遅かったですね」


「このぐらい造作もないでござるよ」


 隊員たちが涼しい顔――暗くてわかりにくいが、声からしてきっとそうなのだろう――で隊長を出迎える。


「何だこのチート部隊! 知ってたけど……。とりあえず信号弾を上げるぞ」


 ルッツは夜空に向かって信号弾を発射した。それは勝利の雄叫びであり、反撃の狼煙だった。

 いける――いけるぞ!

 ルッツは亡霊部隊の強さに興奮した。

 この亡霊部隊ならアルテニアあいつらに対抗できる!

 これまで押され続けたルッツがようやく見つけた希望だ。


「まだ、西岸では戦闘が続いているようでござるな」


「まぁ、あっちの方が敵の戦力は多いですからね」


「とりあえず、友軍にここまで到達してもらわないとな。……ん? 敵の野戦砲が残っているな……これでちょっと手伝ってやるか」


 そして西岸――。


〈なんだあの信号弾は?〉


 予定にない信号弾にアルテニア軍は戸惑う。


〈うわー、東岸から大砲で攻撃されているぞ! 情報伝達の不備か?〉


 ルッツたちは敵が残した大砲を利用して友軍の援護をはじめたのだ。


〈なんか東岸の様子がおかしいぞ!〉


〈まさかすでにやられているのか?〉


〈そんな馬鹿な!〉


 亡霊部隊があまりにも短時間で東岸の敵を倒してしまったため、奇襲を受けたことすら伝わってなかったのである。


〈どういうことだ……うわあああーーーっ!〉


 アルテニア軍は混乱している。

 この異変をダリア軍の特殊部隊は見逃さなかった。


〈友軍の奇襲が成功した! この気を逃すな!〉


 奇襲作戦開始からアルテニア軍フォルトナ橋守備隊は僅かな時間で壊滅。

 かくして、フォルトナ橋はダリアの手に戻ったのであった。

 これが西方同盟の反撃の始まりである。


    *


 フォルトナ橋の奪還をきっかけに西方同盟軍は前線を押し返したが、その勢いも森林地帯に阻まれた。そこでは両軍共に大規模作戦が行うのが難しく、泥沼化の様相を見せ始めていた。

 しかし、そのような状況でこそ亡霊部隊は真価を発揮するのだ!


 マリーは双眼鏡を覗いて敵の野営地を観察している。

 彼女の任務は敵野営地の偵察――ではなく、そこにいる敵の殲滅である。

 ルッツからは無理そうなら偵察に留めておくように言われていたが、いずれにせよ状況把握は必要なので、まずは適した高所に登り、敵状調査を試みた。

 戦力はおよそ小隊規模。


「……問題ない」


 マリーにとっては強がりではなく、当然のことなのだ。

 敵の目につかなさそうな方角から、野営地に接近。地雷を仕掛けていることもあるが、感知できるヴィクトルと進めば問題ない。マリー自身もそういう『異変』を感知する能力に優れている。

 野営地に侵入し、弾薬庫となっているテントに接近する。

 歩哨が立っていたが、ナイフで密かに始末する。ハンスならもっとスマートにできるのだろうが、得意なことは人それぞれ。

 弾薬庫に侵入し、爆弾をセットする。もちろん【玩具おもちゃ屋】特製の可塑性プラスチック爆薬である。最重要目標である弾薬庫への設置が完了した後は、戦車やその他の荷物などにも設置した。

 マリーの特技は狙撃だけではない。猟師たる者、獲物に気づかれないように環境と一体化しなくてはならない。野外での隠密行動も彼女の得意とするところだ。

 その後、予め探しておいた狙撃地点の一つに向かい、到着後伏せてひたすら待機。忍耐力は狙撃手にとってとても重要な要素だ。

 そしてついに現れた――士官の野戦服と中尉を現す肩章――を身に着けた人物!

 おそらくこの人物がこの部隊の指揮官だろう。そして、その人物が射界に入った時、引き金を引いた。直後にその人物は倒れる――命中だ。


〈銃声⁉〉


〈隊長がやられた!〉


 突如倒れた隊長を見た兵士が叫ぶ。

すぐに別の狙撃地点に移動しながら爆弾を起爆させ、連続的に五箇所で爆発が発生する。


〈砲撃を食らったのか⁉〉


〈いや、違う!〉


〈どうなっているんだ⁉〉


 隊長の死亡と爆発で混乱に陥ってるアルテニア兵たちを次々と仕留めていく。全ての敵を倒したと判断したところで、隊長のテントに入り書類をあるだけ頂戴する。彼女にはアルテニア語はまだ読めないが、ルッツに渡すだけだから問題ない。

 そして彼女は部隊との合流地点に戻った。


 合流地点にはマリーとヴィクトル以外は全員揃っていた。

 ラルフとハンスはそれぞれマリーと同じような単独任務を与えられ、先に戻っていたのだ。

 ルッツはヴィクトリアに抱きついて、


「おお~暖か~い」


 と情けない声を出していた。

 それも仕方ないことである。リヒトニアの冬は寒いのだ。

 実はヴィクトリアはある程度体温を調整することができる。この機能によりルッツは暖を取っているのである焚き火と違って煙が出ないので敵に察知されない。

 ヴィクトリアはニヤニヤしながら、


「おお、よしよし~ヌクヌクしましょうね~」


 とルッツの頭を撫でる。


「それはやめろ!」


 口ではそう言うが、離れることはできない。

 足音でマリーが近づいたことに気がついて、


「おかえり、どうだった?」


「問題ない……全部殺した」


 と事も無げに答えた後、獲得した書類をルッツに渡した。


「さすがだ」


 受け取った書類に目を通す。


「なるほど、近くで敵戦車部隊が攻撃の準備をしているようだ。これは放ってはおけないな」


「ところで、そこら辺に転がっている敵の死体は何?」


「ああ、待っている間に敵の部隊が近づいてきてな。せっかくだからヴィクトリアに全部倒してもらった」


「マイスターは人形使いが荒くて困りますねー」


「優秀なやつほどたくさん働くのがいい世の中だ」


「何ですか、その今思いつきみたいな謎理論は」


 ルッツはヴィクトリアから離れると、


「よし、行くか!」


 次の目標に向かって歩き始めた、


    *


「敵戦車小隊を発見っと……Tー800型戦車が五台……」


 ルッツは双眼鏡を覗いている。

 森の中の開けた場所に戦車小隊が展開していた。


 ちなみに型番のTは戦車танкのTだ。

 さらになぜ戦車を『タンク』と呼ぶのか――戦車はアバロニア王国で発明されたが、最初は秘匿のため『水のタンクTANK』と称していたのだ。そして、アルテニア語でもタンクтанкだ。


「この部隊には戦車も大砲もないが、おまえたちがいる。むしろ、騒音を建てずに限界まで接近できる分、有利な場面が多い。マリーは狙撃に適した場所を確保し、他の者は気が付かれないように限界まで接近する。そして、発見されるかマリーの狙撃を合図に攻撃を開始する。いいな? それでは用意!」


「「了解ヤー」」


 事前の指示通り、攻撃はマリーの遠距離狙撃から始まった。


〈狙撃か⁉〉


〈どこからだ?〉


 マリーは次々と場所を変えながら敵を射殺していく。

 急に狙撃された側はとりあえず物陰に隠れて動けなくなる。つまりは機関銃による掃射と似たような効果を得られるのだ。接近戦を得意とする亡霊部隊を援護するには機関銃では不都合だ。さらに狙撃の方が弾の消費が圧倒的に少ないという利点がある。

 敵が伏せている間に他の隊員たちが一気に進む。


〈あっちからだ!〉


〈迫撃砲で炙り出せ! 同時にカウンタースナイプの用意!〉


 しかし、いつの間にか陣地内に入り込んだヴィクトリアが迫撃砲を発射しようとしているアルテニア兵たちを大剣で薙ぎ倒していく。

 ヴィクトリアもずいぶん隠密行動の技術が高まった。


〈何なんだ、あの武器は⁉〉


〈戦車だ! 戦車を出せ!〉


 戦車も次々と動き出す。砲の狙いをヴィクトリアに向ける。


〈喰らいやがれ、化物め!〉


 戦車はヴィクトリアに向けて徹甲弾を発射した!


「てやっ!」


 なんとヴィクトリアは恐るべき速度で飛んでくるそれを蹴り上げてしまったのだ。

 ヴィクトリアの頭上を越えて徹甲弾はあらぬところへ飛んでいく。


〈嘘だろ、おい⁉〉


 当然ながら、アルテニア兵たちの驚きは凄いものだった。


〈危ないですねー、そういう物を人に向けて撃ってはいけないと学校で習わなかったのですか? いけない子にはお仕置です!〉


 ヴィクトリアは流暢なアルテニア語で嫌味を言いながら、戦車に砲身に大剣を叩きつけた。砲身はひしゃげて使い物にならなくなった。


〈嘘だぁあああああ!〉


 さらにヴィクトリアは戦車の履帯を破壊、戦車はただの鋼鉄の箱になった。


「やれやれ、自分のことながら野蛮な戦い方で嫌になりますねー。まぁ、戦わないのが一番ですが、マイスターがアレではしょーがないです」


 ヴィクトリアの攻撃に気を取られていたアルテニア兵は、


〈どうなっているんだ……うわっ〉


「奥義・鳳凰天舞!」


 ハンスの打撃で火達磨になりながら飛んでいき、空中で爆散した。

 それを見たヴィクトリアは恍惚とした表情で、


「わぁ、綺麗な花火……」


 と呟いた。

 その背後からアルテニア兵がこっそりとナイフを構えて近寄ったが、


〈ぐはっ〉


 ヴィクトリアは振り向きざまの回し蹴りでその人物を粉砕した。砲弾すら跳ね跳ばせる蹴りである。生身の人間に使えば――。

 

 今度は別の戦車の砲がハンスを狙う。


「ほぉ……」


 ハンスはそれに気付くが動じない。

 亡霊部隊の超人たちにとっては戦車は気配が大きすぎるので対処がしやすいのだ。


〈撃てーっ!〉


 ハンスは木っ端微塵に……ならなかった。代わりに戦車が損傷していた。

 驚くべきことに徹甲弾はハンスの突き出した掌に止められ、停止していた。


〈受け止めただと……!〉


〈ど、どこから攻撃された?〉


 ハンスが【チー】の力で砲弾の勢いをほぼそのまま返したのだ。

 ゴトン――と徹甲弾が地面に落ちる。

 ちなみに、掌の前で停止して落ちるまでの時間がパワーロスの現れである。


「さすがにこれだけで大破はさせられませんでしたね。それではとどめです!」


 ハンスは包帯を伸ばして戦車の砲に巻きつけた。


「ほいっ……と」


 びゅん……ドガーン。

 戦車はいとも容易たやすくひっくり返った。


「しかし……ラルフさんには敵いませんね」


 残り三台の戦車はすでにラルフによってバラバラに切断されていた。


「ははは、半分はこれのお陰でござる」


 ラルフは自慢げに刀を見せた。刀身がキラリと光る。

 しばらくしてルッツとマリーが現れる。


「さ・て・と」


 ルッツはハンスが捕えた敵の隊長の方を見る。

 単に敵部隊を殲滅するだけなら、最初に隊長を倒すのが都合がいい。

 だが、今回は捕虜にできた。せっかくなので活用することにした。


〈さーて、隊長さんよ、この先に農園があるんだが、そこの配置を教えてくれないかな? どんな兵器使ってて、何人ぐらいいるとか〉


 ルッツは敵に地図を見せつつ、拳銃ハンドガンの先を相手の頬にグリグリと押し付けながら、問い詰めた。


〈馬鹿な、栄光あるアルテニア軍人が仲間を売るなどと!〉


〈そうか、こいつはな……お前らアルテニア軍に村を焼き払われたんだ。この意味がわかるか?〉


〈さぁね〉


「そうか……。じゃあ、『戦死』してもらうしかないな。マリー、やっていいぞ」


「……わかった」


 マリーがアルテニア軍の隊長に近づく。ナイフを取り出し――刺した。


〈うぎゃぁあああ!〉


 敵の隊長が叫び声を上げる。

 しかし、マリーは顔色一つ変えずに、何度も何度も刃を突き刺した。

 亡霊部隊の隊員でなくとも訓練された兵士なら一撃で急所を突くことは簡単だ。

 しかし。マリーは意図的にそれを外した。


「国際条約って何だったかな……」


 やがて、敵の隊長は動かなくなった。


「……終わった」


「どうだ、少しは気が晴れたか?」


 ルッツの問いに対して、マリーはやはり無表情で、


「……あまり」


 そう答えた。


「だろうな。あまり敵を憎んでもどうしようもないぞ」


「どうすればいいの?」


「とにかくリヒトニアを取り戻すことだな!」


「マイスターがデタラメなこと言ってるー!」


「うるせぇ、俺にだってわからないんだ!」


    *


 アルテニア帝国首都ソフィーグラードの宮殿――つまりは皇帝の家――にある宰相の執務室。

 この部屋で最も高級な椅子には女が座っている。

 しかし、この女は宰相ではない。名目上は宰相の秘書ということになっている。


 長い白銀の髪、鋭い眼光、透き通るような白い肌、それを際立たせる艶やかな黒いドレス。

 可憐ながらも鋭い刃物のような印象を与える女――少女と言ってもいい若さを感じさせる――だ。

 生気を感じさせるか感じさせないか――その境界線上に存在するかのごとく、その女の与える印象は非日常的だった。


 宰相――アリスタルフ・ソロヴィヤノフ――はを愛おしげに撫でる。それに対して彼女は嬉しそうな表情も嫌そうな表情もしない――無表情である。

 ちなみに、無表情の人形が多いのは、見る人によって勝手に読み取らせる効果を狙っているからだとか……。


 この女を『秘書』と言われて不自然だと思った者は多い。しかし、それを表立って発言する者はいない。

 アリスタルフ・ソロヴィヤノフはどんな魔法を使ったのか、皇帝一家の絶大な信頼を得てついには宰相にまで任命された。

 ソロヴィヤノフ宰相は皇帝の代理人、現在のアルテニア帝国における絶対権力者なのである。

 その彼が『秘書』と言えば『秘書』なのだ。


〈どうなっているのだ、アヴジェーエフ将軍よ。ついにリヒトニアまで押し返されたぞ〉


 宰相は将軍に対して横目で問い詰める。


〈はい、ダリア本土に踏み入ったため、やつらも死に物狂いでのようです〉


〈そうなることは最初からわかっていたはずでは?〉


〈さらに我々に数で敵わないことを理解した上で、少数精鋭の部隊による奇襲や後方撹乱などの特殊作戦を多用し始めたようです〉


〈……なるほど〉


〈そして兵士たちの間でまことしやかに囁かれている噂があります〉


〈ほほう、それは?〉


〈軍服を着た化物が現れたと。その……誠に信じられないのですが……神出鬼没、鋼鉄をバターのように切り裂き、戦車の砲撃を蹴り飛ばしたとか……〉


 突然、女が立ち上がった。


〈どうしたんだ、クラーラ〉


 この女はクラーラという名前らしい。クラーラはほんのすこしだけ――かすかに笑みを浮かべると、


〈ようやく私の出番が来たようですね〉


 ソロヴィヤノフ宰相は驚き、


〈なんと、君が戦うのかね?〉


〈私は愛玩人形ではありませんから〉


 もちろんこの発言は彼女の当て擦りだ。


〈うーん、君には私の側に居てほしい〉


〈確かに閣下の警護も重要ですね。ではを出してはいかがでしょうか?〉


〈なんだ、知っていたのか。後で驚かせようとして秘密にしていたのに〉


〈『敵を知り己を知れば百戦危うからず』ですからね〉


東洋アジアの諺か。ははは、わかったそうしよう〉


〈……あのー〉


 アヴジェーエフ将軍は話についていけていない様子だ。ソロヴィヤノフは突然に思い出したかのようにアヴジェーエフの方を向き、


〈アヴジェーエフ将軍、君は超古代文明について知っているかね〉


〈ま、まぁ、噂程度には。高度な文明を持ち、人間を遥かに超える能力を持つ人造人間を生み出したとか〉


〈実は、その人造人間がこれまで残骸だけでも多数、それどころか完全な状態のものも発見されていてね……〉


〈まさか……⁉〉


〈そう、このクラーラ・ナイジョノワ発見されし者はその内のだ。他に我々が知らないところで発見された個体が存在してもおかしくはないがね〉


 アヴジェーエフ将軍は驚愕の表情で、


〈な、なんという……〉


 ソロヴィヤノフ宰相はアヴジェーエフ将軍に近づくと、


〈君には特別に教えてあげたが、他の誰かに言っちゃ駄目だぞ?〉


〈は、はい……〉


〈では、下がりなさい〉


 アヴジェーエフ将軍は退室した。


〈クラーラ、君と出逢ってから一気に運が向いてきた。そして、この国の階段を一気に上り詰めることができたんだ〉


〈閣下、私に運を向上させる機能はありません〉


〈ははは、わかってるよ。中々君らしい言い方だ。私はこの戦いを必ず勝ってみせるよ。我が偉大な祖国を必ずや世界の頂点に君臨させて見せる! その偉業を、君に見届けてほしい〉


〈あまり私に向いた任務ではありません〉


〈任務じゃないよ。でもそうしてほしいんだ〉


〈閣下がそれをお望みなら〉

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