―63― 襲撃(7)~鳥~
快晴。雲一つない晴れた青空。
時折吹き抜ける潮の匂いのする穏やかな風に、静かな波の音が混じり合う。
”希望の光を運ぶ者たち”を乗せた船は、出港前に定められていた航路をすこぶる順調に進んでいた。
眩しい太陽が空高く昇った今現在になっても、海はこれから数刻後に起こる殺戮の前兆などは微塵も見せてはいなかった。
だが、船に乗っている”幾人か”は、未来の欠片をつかむことができる魔導士でもないというのに、体の奥底から自らの意志に関わらず湧き上がってくる不安に、すなわち”不吉な予感”にとらわれ続けていた。
その”幾人か”のうちの1人である、兵士隊長パトリック・イアン・ヒンドリー。
現在、彼はダニエル・コーディ・ホワイトとともに、この船に乗る女性たちを集めて、避難訓練を行っている最中であった。
湧き上がってくる不吉な予感を気のせいだと打ち消して、何の対策もとらないのではなく、自らの第六感を信じることにしたパトリック。
何も起こらなかったなら、それでいい。だが、万が一何かが起こった時に、事前に対策をとっているのといないのとでは、その結末は全く違ってくるはずであると。
海賊の襲撃や船内において大規模な火災が発生した時、船の後方にある隠し部屋へと女性たちは避難する。隠し部屋の一角にある梯子を下りていくと、緊急時の脱出に使う小舟が十数隻(船の乗員分)準備してある。
パトリックとダニエルの2人の男を先頭とし、まだ微熱が続いている魔導士ミザリー・タラ・レックスをのぞく、その他の女たちがひとかたまりとなり、その隠し部屋までの最短ルートを進んでいた。
少しばかり軋み音をたてる廊下をぞろぞろと歩くパトリックご一行。
パトリックは自分とともに先頭を歩くダニエルが、打ち合わせをした昨日以上に血の気の薄い唇をグッと結び、”何かに”身構えているように感じ取れ、少し気にかかっていた。
女性馴れしていないことは見るからに感じ取れる彼は、こう女性ばかりに囲まれて単に緊張しているのであろうか? それとも、自分との打ち合わせ後(昨日の夕方以降から今日の午前中にかけて)に何かがあったのだろうか?
そのダニエルとは対照的に、自分たちの後ろに続く女性たちはこの避難訓練に対して、どこか緊張感がないようで女性たちの間で交わされている少しばかりのペチャクチャとした私語も、パトリックの耳に聞こえてきていた。
ついに、パトリックは足を止め、振り返る。
途端、女性たちの私語はピタッと止んだ。
「……皆さん、よく聞いてください。これから、私が言うのはとても大切なことです。実際に非常事態が起こった時、甲板にいる航海士が銅鑼を鳴らします。その銅鑼の音が聞こえた時、つまりはこの船より脱出しなければならない事態が起こった時は”自分の命を守ること”を第一に考えてください。皆さんも、この船の中でそれぞれ人間関係を築いているとは思います。ですが、仲の良い同僚と連れ立って逃げようとして、彼女の姿を探しているうちに、さらに事態が悪化し、2人とも取返しのつかないこととなります。まず、今から案内する隠し部屋へと自分1人であっても辿り着くこと。それを念頭に置いて行動してください」
パトリックの言葉を聞いた女性たちは皆、神妙な面持ちで彼に向かって頷いた。
もちろん、女性たちの中で抜きん出て若く瑞々しい肌をしているレイナとジェニーも。
突如、足を止めて振り返ったパトリックが、女性たちの一部に緊張感が見られないため、ほんの少しばかり苛立っているのが、レイナには分かった。
レイナとジェニーは隣り合って歩いているも、私語などは全くしていなかった。というよりも、この避難訓練は万が一の時のためを想定して、真面目に取り組むことだと彼女たち2人は理解していた。
――今、兵士隊長さんがおっしゃったことって、少し状況は違うけど、”津波てんでんこ”といったニュアンスのことよね。何かが起こった時、自分の命は自分で守ることを第一に考えるって……そして、非常事態を知らせる銅鑼の音(出港時に聞いた銅鑼の音は少し覚えているような気がするけど)は、つまり私の世界でいう非常ベルみたいなものよね。それを聞き逃さないようにしなきゃ……
頭では理解して、パトリックに頷いたレイナであったが、実際に今から向かう隠し部屋に避難しなければならない事態が起こったとしたなら、真っ先にジェニーやミザリーの姿を探してしまいそうな気がした。
パトリックとレイナの目が合った。
それは時間にしたら、わずか数秒のことであっただろう。
パトリックはレイナからごく自然に目を逸らし、再び前を向き、ダニエルとともに廊下を歩き始めた。
女性たちは、再び彼らの後へと続く……
先ほどのパトリックの視線は、神妙な面持ちでコクリと頷いた”レイナ”の美しさに惹き付けられ、数秒止まってしまっていた。
この船内においても”レイナ”のところにだけ、まるでパアッと天からの眩しい光が差し込んだような、そして”レイナ”自身も光り輝いているかのような崇高な美が、彼の目を数秒ではあるも釘付けにしたのだ。
思春期のパトリックなら、”レイナ”の美貌に心を奪われ、この場での自分の役割も何もかも忘れ、そのまま立ちつくしてしまっていたであろう。
だが、現在の中年へと差し掛かり始めているパトリックは、人生経験も女性経験も順調に積み、子供も3人ほど成し、何よりも今は”兵士隊長として避難訓練の指揮をとる”という仕事の最中である。
真面目に決めるところはきちんと決めるパトリックは、すぐに頭を雄モードから仕事モード(兵士隊長モード)へと切り替えた。
実は――
兵士隊長パトリック・イアン・ヒンドリーは、”希望の光を運ぶ者たち”が首都シャノンを発つ前、レイナとジェニーは、アドリアナ王国の城内にいた方がいいのではないかと進言していた者のうちの1人であった。
異世界から今は亡き魔導士アンバー・ミーガン・オスティーンの手によって”呼び寄せられ”、この世界で生きるための戸籍をジョセフ王子より与えられたレイナ・アン・リバーフォローズという名の、外側はマリア王女である娘。
そして、魔導士アダム・ポール・タウンゼントに残された、たった1人の家族であるジェニー・ルー・タウンゼントという名の魔導士としての力を持たずに生を受けた娘。
この2人の娘の存在は、パトリックが事前に予測していた通り、若い兵士たちの間にふわふわとした感情(いや強烈な劣情か?)を漂わせてしまっているし、実際に数日前、見るからに頼りないしオドオドしているレイナは、ギャンブル狂いの船医ガイガーと娼館狂いの兵士スミスの悪だくみによる事件にもう少しで巻き込まれるところであった。
ちなみに、その後、ルーク開チン事件も発生したため、パトリックはルークにちゃんと軽い口頭注意は行っていた。
レイナやジェニー自身は、チャラチャラしたところは一切なく、2人ともいたって、真面目な娘であることは見ていても分かる。
例えば、自分たちが男たちを惹きつけていることを知っていて、思わせぶりな態度をとったり、男たちが寝泊まりをしているエリアにやってきて必要以上に世話を焼いたり、一緒に酒を飲んでキャイキャイしたりなどすることは、一切なかった。
この避難訓練においても、彼女たち2人の私語は一切、聞こえてはこなかった。
今の”レイナ”とかつてのマリア王女の立ち振る舞いを存分に知っているパトリックからすると、何も事情を知らない者が彼女を見たとしたら、二重人格であるのではと思うであろう。
絶世の美貌を誇る彼女の目鼻立ちには、なんら変わりはない。だが、表情や仕草などは違うため、醸し出している雰囲気は全く異なり、外側は同じでも別の人間を見ているようであった。
頼りない”レイナ”は、絶世の美貌によってだけではなく、別の意味でも目が離せないため、はっきり言って、この旅路に絶対に必要不可欠な人物であるとはパトリックには思えなかった。
それは、ジェニーについても同様であった。
祖父は魔導士であっても、彼女は魔導士の力を持ってもいないし、腕っぷしが強い武闘派の特殊な女でもない、いわば”単なる一般人の娘”だ。
ジェニーは、超絶美人というわけではないが、化粧など全くしていない今のスッピンの顔でさえ、なかなか愛らしかった。
出立前の身辺調査によると、彼女は祖父のアダムとともに田舎暮らしが長かったが、都会の流行などにもそれほど興味はないみたいであったが、磨けば光る素材ではある。
ピカピカに磨きぬいても、”気品に満ちた優雅な貴族の姫にも見える娘”とまではいかないだろうが、愛らしいお嫁さんタイプ――つまりは嫁を探している大多数の兵士たちには最も受けが良いのだと……
どちらも、まだ子供の域を少し抜けかけているような年齢の10代後半の少女とはいえ、健康である一般的な男性(もちろんパトリックも含む)の性欲の圏内にいる娘たち。
パトリック自身は、高貴でどこか冷たい感じのする近寄りがたい美人(例を出すなら、エヴァ・ジャクリーン・ヤードリーのような美人)が最も好みのタイプであったが、彼女たち2人は充分に性的対象の圏内にあった。
中には幼女にしか、もしくは熟女にしか、興味が持てない男もいるので全員がそうとは言い切れないが、性欲をそそる若くて”力を持っていない”2人の娘が男たちの”戦場”にいることは好ましくないことだ。
いや、この船内だけでなく仮に海賊などにこの海で遭遇したとしたなら、間違いなく彼女たちは海賊に連れ去られ、犯され、最後は殺されるか、もしくは売り飛ばされるであろう。
パトリックの胸にだけしまっていることであったが、2年ほどの前の冬に、パトリックは以前のマリア王女に1回だけ誘惑されたことがあった。
日が沈むのが早い冬の夕暮れ時、城内で1人でいたパトリックに「夜はもっと寒くなるわね、ヒンドリー。だから……私をその逞しい腕の中でギュっと温めて」と陳腐な誘い文句で、マリア王女はそのたおやかな身を彼にすり寄らせてきた。
わずか15才のマリア王女に、誘惑された36才のパトリック。親子ほど年の違う男を誘惑してきたマリア王女は、少女ではなく、完全に男を何人も知っているメスの顔をしていた。
”自分の幼い娘たちには、誰彼構わず誘惑して寝るようなこんな女には絶対になって欲しくない”と願いつつ、パトリックは淫乱な王女の誘いを「申し訳ございません。ただいまより、訓練が始まりますので……」とバレバレの断り文句でかわした。
マリア王女の誘惑をはねのけたパトリックであったが、それ以来、マリア王女が誘ってくることはなかった。
意外にさっぱりというか、”断った者は追わず(まだまだ他にも私の遊び相手はいるわ♪)”といったマリア王女。
マリア王女がジョセフ王子に兄妹という域を越えて執着していることは、はたから見ても分かったが、自分のようにいくらでも換えがきき消費できる平民の兵士にけんもほろろにされても、彼女はそれほど執着はしなかったのだ。
だが、マリア王女の誘惑にあらがうことのできなかった男たちも、パトリックは片手の指で数えられないほど知っている。
おさえられない性衝動だけでなく、解雇承知でマリア王女を抱いた兵士だっている。
雲の上にいたはず絶世の美貌の高貴な王女が、自分の目の前へと降りてきて、その柔らかな手を差し伸べて、しなやかな両脚を自ら開いてくれる。
”こんなチャンス、俺の人生に二度とあるか”と言った具合に……
もちろん、パトリックも俗世を離れて、あらゆる欲を取り去った僧のように、清廉潔白な人物ではない。
仮に遠征先で、後腐れのない美しく若い娘(娼婦)に声をかけられたとしたなら、妻と娘の顔が脳裏にちらつきつつ、また仕組まれた美人局ではないことを用心しつつ、抱いていただろう。
だが、自分が声をかけられた場所は城内(職場)であり、相手は国王ルーカス・エドワルド(最上の地位にいるボス)の娘だ。
”出世”と”絶世の美貌の若い娘と性交できるかも”という2つの事柄を乗せた天秤が、”出世”に傾いただけのことだ。
出世欲が人一倍強いパトリック。
その強い出世欲に見合う身体能力を持っている彼は、今こうして名誉ある兵士隊長として、”希望の光を運ぶ者たち”とともにこの船に乗っている。
パトリックは、こうも思っていた。
自分が出世することは、妻や子供たちの生活を保証し、守ることと同義であると。
甘い言葉で「愛している」などと言い続けることよりも、その全ては行動で示す(出世する)ことが、彼の愛し方であった。
もし自分が、この旅路の途中で命を落とすことがあっても――そう、彼が今、感じている不吉な予感が現実となる事態が起こったとしても、愛する妻や3人の娘たちに二度と会えなくなっても、アドリアナ王国から特別弔慰金が支給されるのだから……
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