―41― ”まだ”穏やかな船内にて起こったある事件(23)~レイナ、そしてルーク~

 乗船4日目。

 船は少しだけ揺れ、廊下を歩くレイナの足も、ほんのすこしだけ、ぐらついた。

 だが、レイナは両手で持っているトレイとそのトレイの上の飲物をこぼしたりはしなかった。

 先ほど、レイナはこの船の乗っている女性たちを取り仕切る侍女長に、船長ソロモン・カイル・スミスと副船長ブロック・ダン・アンドリュースに飲物を持っていくように仰せつかったのである。



 よって、レイナが向かう先は、操舵室だ。

 操舵室へと近づくにつれ、廊下をまっすぐに進むレイナのところへ届けられる海の匂いは、なぜが強くなってきたように感じた。

 そして、廊下の窓からうかがえる、陸地などまだまだ見えぬ海原を進むこの船へと降り注ぐ太陽の光。

 甲板になど出てしまったら、この”マリア王女”のなめらかで白い肌に、痛々しいほどの赤い火傷跡が残るに違いない。そう思わせるほどに眩しく、そして力強い光が降り注いでいた。


 レイナが15年間生まれ育った日本と同じく、うつろいゆく四季があるらしいこの世界。

 この世界の四季をまだ一周はしていないが、今は春から夏にかけての過渡期といえる時期かと、レイナは予測づけた。

 数か月前に、首都シャノンの城の一角にて初めて目を覚ました時に感じた、まるで氷の上に横たわっているような冷たさなどは、遥かに遠い昔にこの身に感じたことのように思えた。



 スミス船長とアンドリュース副船長に、この手の内の飲物を届け終わった後のレイナの仕事は、船室フロアの掃き掃除となっていた。

 病的な綺麗好きというわけではないが、もともと乱雑だったり、散らかっていたりする状況を好まないレイナにとっては掃除自体はなんら、苦痛ではない。それに何もできないのに、この船に乗せてもらっている身としては、どんなに小さなことでも自分にできることをやるつもりだ。


 だが――

 自室に一人残してきたミザリーがとても心配であるのと、掃き掃除の最中に”あの船医ガイガー”に鉢合せてしまわないかとの恐怖があった。


 ミザリーは、まだ微熱が続いてはいるものの、意識はとてもはっきりとしている。ミザリー自身も、そして彼女の様子を看ているレイナから見ても、彼女の容態は快方に向かっていることは、明らかであった。1人で部屋に居ても(残しても)大丈夫、との判断をレイナたちは互いに下した。

 レイナは、自分が船医ガイガーにされた猥褻行為は、具合がまだ悪いミザリーにとても心配をかけると思って話してはいない。


 けれども今――

 こうして、船室フロアを歩いているこの時も、ガイガーに後ろから両肩をいきなり掴まれたりしないかと……

 第一、レイナとミザリーが寝泊まりをしている船室フロアと、船医ガイガーの船室フロアは同じであった。あと二十日以上あると予測される船旅にて、再び顔を合わすことになるのは到底、避けられないだろう。

 恐怖のなかにあるレイナの心臓の鼓動をより早くするように、下の船室フロアから、勇ましい男たちの掛け声らしきものが聞こえてきた。


 この船はレイナが想像していたよりも、ずっと頑丈であるらしかった。

 血潮がたぎる若き男たちが訓練室で飛び跳ね、動き回っていても、当たり前ではあるがビクともしていない。

 今のこの時代においては、最高級のクオリティを誇る船であるのだろう。


 下の船室フロアの訓練室にて、訓練に励んでいるであろう”希望の光を運ぶ者たち”。

 昨日、船医ガイガーとの間だけではなく、レイナ、そしてルークの間にも”事件”は起こっていた。

 

 あの事件は、よく漫画やアニメなどであるであろう、お約束の展開と言えばそうかもしれない。

 けれども、現実にあのような場面に直面してしまうと、レイナは「キャー」という悲鳴をあげることすらできなかった。

 仮にジェニーだったら、あの船室フロア全体を震わせるような、盛大な悲鳴をあげたとは思うが、レイナは頭が真っ白になってしまい、気がついたら自分の部屋に戻っていたのだ。



 だが、よくよく考えると、あの事件現場はルークたちの部屋である。

 ルークが部屋で何をしようと彼の自由であるし、彼らのテリトリーに”無言で”足を踏み入れてしまった自分にも非はある。

 

 だが、初めて真正面から見てしまった男性の裸体。

 魂は日本人のレイナから表現するとしたら、外国人男性の……


 いや、どう表現するかは別にいいとして、何よりもレイナをドン引きさせていたのは、ルークがディランとトレヴァー(と黙って部屋の中にいた自分)の前に、いたってナチュラルな様子で何も隠すことなく姿を現した件だ。

 あの状況から考えると、ルークは、いや彼らは同性に日常的に全裸を見せることに、なんの躊躇いもないのだろう。

 正直言うと、昨日の事件で、レイナはルークだけでなく、ディランとトレヴァーにも引いてしまっていた。


 レイナは、前の自分の平凡そのものな肉体であっても、そして今いる、顔だけでなくどこもかしこも美しいマリア王女の麗しい肉体であっても、銭湯や温泉、修学旅行のお風呂などのイレギュラーな場合はのぞくとして、同性にだって裸を見られたくはない。

 男でも慎ましやかな人もいれば、女でもあけっぴろげな人もいる。

 レイナは、自分がそうだからといって、男だの女だのと、たまたま生まれついた肉体の性でたった二通りに人を分けることは良くないことであるとは理解はしていた。

 けれども、女として生を受けて育ち、前も今も女の肉体にいるレイナにとっては、自分と彼らは同じ人間であっても、全く異なる生き物だと思わずにはいられなかったのだ。


 もちろん、レイナはルークたちを嫌悪したりはしていない。

 レイナは幾度となく彼らに守られ、命だって救われた。それに、彼らがすごくいい人たちだとも分かってもいる。

 けれども、レイナとルークたちとの間には、目に見えぬ溝ができてしまったことは明らかであった。




 様々な物思いにふけりつつ、歩みを進め、ついに操舵室の扉の前へと立ったレイナ。

 飲物をこぼさないようにトレイを片手で支え、操舵室の扉を二回軽くノックした。

 けれども、返事はない。


――もしかして、誰もいないの? いや、そんなはずはないわ。船長さんも副船長さんのどちらも操舵室にいないなんてこと……絶対にどちらかはいるはずよ。


「失礼します……」

 レイナはは扉にそっと手をかけた。

 木でできた操舵室の扉も、恐る恐る扉を開けるレイナに呼応するかように、キッと小さく軋んだ音を立てただけであった。


 初めて入る操舵室。

 窓はあるものの、昼間だというのに、ここは少し薄暗かった。

 その薄暗いなかに、船長の姿も、副船長の姿もなかった。

 その代わり、真白いシーツがホテルを思わせるようにピシッとかかっている簡素なつくりのベッドが二台、そして左右の壁には”大きさが全く違う”寝間着のような衣服がそれぞれ壁にかかっていた。

 少しだけ視線を上げると、レイナの元の世界における病院のベッド回りの仕切り用カーテンレールを思わせるものが設置されていた。

 今、このベッド周りのカーテンは全開だ。どちらのベッドには人は横たわってなどいない。


――もしかして、ここは船長さんたちの寝室なの?

 彼らのプライベートな空間に足を踏み入れるという失礼なことをしてしまったのでは、という焦り。

 いえ、でも、ここは確かに操舵室のはずよ、というレイナの確信を裏付けるものを彼女は見つけた。


 入り口から対角線上に、また別の部屋へと続くらしい箇所があった。その箇所には扉が設置されているのではなく、離れたところから見ても分厚さと手触りのゴワゴワ感が予測できる大きなカーテンがかかっていた。

 おそらく、あのカーテンを開いたその先に、船長ソロモン・カイル・スミスと副船長ブロック・ダン・アンドリュースがいるのだろう。



 この船における操舵室は、操舵室であると同時に、船長と副船長が仮眠をとるための空間でもあったのだ。

 彼ら二人の正式な寝室は別にあるはずだが、レイナが男性のプライベートな空間に、またしても足を踏み入れてしまったには変わりがない。

 船長さんたちにこの飲物を渡してここから出ていかなきゃ、一刻も早く、とレイナが任務を遂行するためにそっと一歩を踏み出した時――



 分厚いカーテンの向こう側から、波の音とともに、スミス船長とアンドリュース副船長の話し声が聞こえてきた。

 レイナはビクッと飛びあがり、その場で足を止めてしまった。



「アンドリュース……昨日の夜、下の食堂で”あいつ”は、あの例の者たちにちょっかいをかけようとしたらしい。あの者たちが、国王陛下と王子殿下の命を直々に受けた者たちであることは、あいつも分かっているはずなのに……あいつはなんでいつも自分から、波風を立て、場をかき乱そうとするんだ。今は平民であっても、これから先、名誉称号を授かり、自分などより上の身分になる可能性を含んでいる者たちに対しても………自分の息子ながら、本当に馬鹿としか思えん……」


 年長者らしい落ち着いたスミス船長の声。だが、彼の声は”自分の息子に対しての”気苦労と呆れに満ちたものであった。

 

 スミス船長の今の話を聞いた――というよりも、盗み聞きするつもりはないが、結果的に盗み聞きしてしまっているレイナは、彼の息子がこの船に同船しているということ、そのうえ、その息子が昨日の夜、ルークたちに何やらちょっかいをかけたということを知った。



「そんなこと……血気盛んな若者にはよくあることですよ」

 アンドリュース副船長の、非常に若々しい、まるでルークたちと変わらぬ年頃の青年のような声が聞こえた。

 若々しいといっても、レイナがともにこの船に乗っている侍女たちのガールズトーク(?)で聞いた話では、男性にしては小柄でびっくりするぐらい童顔の副船長ブロック・ダン・アンドリュースの年齢は35才だとのことであった。そのうえ、妻を娶ってからまだ一年未満であるという情報も、レイナの耳には入ってきていた。



「……いや、本当にいつもあいつは私の気苦労の種でしかない。下の子たちとは全く性格が違っているし……私はあいつが剣などはからっきし駄目でも、自然や本を好む大人しい性質に生まれついていたか、はたまた娘として生を受けていてくれたらと……今まで何度思ったことか……私はあいつを憎んではない。どんな息子でも息子であることには変わりない。だが、声も図体も大きくて、荒っぽくて、とても妻や下の子たちじゃ、あいつを止めることなどできんだろう」

 スミス船長のふうという重々しい溜息が――この船を操る船長としてではなく、息子に苦労する一人の父親としての溜息が聞こえた。



 レイナは考える。

 船長のファミリーネームは、スミスである。だとすると、当然、息子のファミリーネームもスミスであるだろう。

 侍女たちのガールズトークでも、船長の息子についての話題はまだ出ていない。もしかしたら、船長の息子の話題があがっていたかもしれない時に、レイナはミザリーの看病をしていたり、掃除をしていたりで、その場に居合わせず、聞くことがなかっただけかもしれないが……


――前にジェニーのおじいさんが言っていたのは、この世界の人たちの言葉も、そして名前も、私が15年の間に培った魂の記憶より、こうして私の耳に聞こえてきているのかもしれない、ということよね。私自身は、スミスという姓には、それほど珍しい姓である印象は抱いていないわ。英語の教科書や問題集にだって出てきた姓だし……アメリカとかには行ったことがないから、実際のところはどうだか、分からないけど……


 レイナの心の中で散らばっていたパズルのピースが、”船医ガイガーのニヤついた顔が描かれているパズルのピース”が嫌な音を立てながら、集まってくる……



「そのうえ、あいつの”友人たち”は、碌でもない奴ばかりだ。うちの金を目当てに集まってきた奴らか、はたまたハドリー・フィル・ガイガーのような博打仲間か……」


 続いて聞こえてきたスミス船長の言葉に、ついにレイナの心のパズルはぴったりと組み合わさった。

 スミス船長の息子と、船医ガイガーが猥褻行為とともに押し付けてきた鍵の届け先である兵士スミスは、珍しくはないであろう同じ姓をを持つ別のスミスではなく、やはり同一人物であったのだ。

 レイナがまだ顔をしっかりと覚えていない兵士スミスは、実の親の頭を悩ませるほどの不肖の息子であると同時に、女性蔑視のガイガーの博打仲間でもあり、そのうえ、あのままディランとトレヴァーに会ううこともなく、鍵を渡しに行っていたとしたら、レイナ自身も何をされていたのか分からない超危険人物であると――



「スミス船長……そのガイガーのことなのですが兵士の数人に借金を申し入れているようで……この船内にても、ご子息たちと……あの、えっと……隠れて夜中に博打を行っているらしく……ガイガーは腕と頭は確かなのかもしれませんが、正直、素行にはかなりの問題がある人物だと思われます」

 アンドリュース副船長の声に、スミス船長が頷いたらしかった。


「ガイガーの奴が幼い頃から”神童”と呼ばれ、成績も常に主席であり、17才の時に外科も内科も網羅して医師の資格をとったという”伝説”は私も聞いている。だが、奴は……自分の手持ちの金の計算はできないし、これ以上踏み入れてはいけないことへの自制心も判断力もない奴だ」

 スミス船長はガイガーを”奴”と呼んでいる。息子をたぶらかす、というより、一緒になって遊んでいるガイガーを相当苦々しく思っているのだろう。

 


 レイナは、この世界の資格だの学校だのの仕組みについては、まだまだよく分からない。

 けれども、たった17才で、自分の魂よりわずか2才上という日本でいうわずか高校2年生か3年生で医師の資格を取ったガイガーは、女性蔑視で陰険な内面はどうあれ、非常に……というよりも超絶に優秀な腕と頭を保持する医師であることには間違いない。


――あの嫌なガイガーさんって人、私の世界で言うと東大や京大にストレートで合格するような人ってことよね。いいえ、もしかしたら、海外でサクッと飛び級(?)して、国際的な超有名大学なんかにサラリと入れてしまう天才という表現が、この場合は正しいかもしれないわ……だから、この船の船医に選ばれたのよね。でも、いくら頭が良くたって、あんな人……!!



 昨日のことを思い出した、レイナが嫌悪感によって、柔らかな唇をグッと噛みしめた時――


「16才かそこらのあいつを最初に娼館へと連れていったのも、ガイガーだろう。あいつは娼館通いに今現在も狂ったようにのめり込み続け、親の私の前でも性的なことを全く隠そうともしなくなった。トータルして100人の娼婦を買っただのと、まるで子供のような表情で私にも報告してきた。だが……あいつが遊ぶのは全て商売女であるのは幸運と思うべきか……うっかり子供ができて認知を迫られたり、”身の程知らずにも”嫁にしてくれと我が家に押しかけてくることは、まずはないとは思うからな……」


 今のスミス船長が発した「商売女」という言葉に、レイナの心はざわつき、嫌なもやもやとした影が彼女の心をかげらせた。

 商売女、すなわち娼婦が、女の肉体で金を稼ぐという商売をしているのは事実であるだろう。

 今、心がざわついている理由については、どう説明すればいいのか、レイナ自身も適切な言葉は見つからない。

 非常に身なりも振る舞いも折り目正しい中年男性であるスミス船長の口から紡がれた今の「商売女」という言葉は、レイナの心をかげらせたうえ、さらにねばついた不快感を湧き上がらせつつあった。



 スミス船長とアンドリュース副船長は、仕切りであるカーテンの向こう側にレイナがいることには気づかず……そもそも気づいていたら、すぐに彼らは話を止めるだろうが、まだまだ話は……主にスミス船長の不肖の息子についての話というか愚痴は続くようであった。


「昨日の食堂でのことははそう大事にはならなかったらしいが、これから先、あいつは絶対にこの船内で何か問題を起こすだろう。問題を起こすことは明らかに予測できるが、まだ私の目の届く範囲であるこの船にあいつがいれば……”本当に最悪なこと”になってしまうのは防げると思い、王国側の使者にもかけあい、あいつを同船させるように手を回したんだ……」


 今のスミス船長の口から溜息交じりに紡がれた、”本当に最悪なこと”という意味深な言葉。

 カーテンを隔てて盗み聞きを続けてしまっているレイナはもちろん、彼の話を聞いていてアンドリュース副船長も、その”本当に最悪なこと”とは一体何であるのかは分からないようであった。

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