―17― 曇りなき空を進みゆく船の中で(9)

 目の前にいる2体の解剖された男女の死体――

 彼らの姿をじっくりと、まじまじと眺めているマリア王女の青き瞳は、嫌悪でもなく、恐怖でもなく、自分たちのように学術探求心によってでもなく、ただただ歓喜のために見開かれ、さらに輝きを増していった。

 そして、サミュエルは、この美しきマリア王女が男の死体の陰茎と睾丸にもチラリと目をやったのを見逃さなかった。



「ひ、人殺し……っ!」

 扉から数歩過ぎたところで動けなくなり、それ以上前に足をすすめることもできず、真っ青な顔で口元を押さえたオーガストはその場にしゃがみこみ……

 胃から逆流してくるものを必死で留めようとしているのか、彼はその丸めた背を――いや、よくよく見ると彼は全身を震わせていた。

 ”人殺し”というその言葉は、今の彼が吐くことができる精一杯の言葉であり、唯一の言葉でもあったのだろう。


 彼の言葉に、フランシスがピクリと眉を動かした。

「人殺しとは失敬な……オーガスト、言葉はよく考えてから、口にしなさい。特に年上の者に対してはね」

 オーガストに向かって、ピシャリと言い放ったフランシス。

 だが、フランシスもさすがに、”あなたは今、私たちを人殺しと言いましたが、あなた自身、先ほどまで、人殺しに胸を押し付けられ、鼻の下を伸ばしていたでしょう”という心の内の言葉は、”よく考えて”、口には出さなかったが――



 開かれた男女の遺体の内部を、鼻と口元を押さえながらも、うっとりと眺め続けていたマリアがフランシスに向かって、甘い声で問う。

「ねぇん、フランシス。この2人を”生きたまま”こうして裂いたの? 2人は一体、どういう関係なの? 恋人同士? 夫婦? 最期はどんな命乞いをしたの? この2人はどんな風に苦しみながら、絶命したの?」

 マリア王女からの矢継ぎ早な質問。

 そのウキウキワクワクとした、涼やかな甘い声。



――そういうことか……

 サミュエルは、チラリと横目でフランシスを見た。

 そして、フランシスも”そういうことですよ”と、黙ってサミュエルに頷き返した。

 先ほど、フランシスが言っていたマリア王女の性質――”エキセントリックで、外見の美しさに反比例した性質”を、サミュエルも即座に理解した。

 この世の慈愛を具現化したかのような瑞々しい天使のごとき王女は、常軌を逸した猟奇趣味の禍々しいサディストであると。

 そのうえ、フランシスに即、体を開いた(一体、”出会って何秒で合体”したんだよ……?)ということからも、性に関してもなかなかの発展家(まだ、ガキのくせに)なのだと――



 コホン、と顔の下半分を覆い隠しているハンカチーフの下で咳払いをしたフランシスは、マリア王女の質問に一つ一つ答えるため、口を開いた。

「マリア王女……この2人の男女は、同じ墓地内に葬られていた者たちでした。よって、”残念ながら”、生きたまま彼らの体を裂いたわけではありません。それと、この2人の墓石に彫られていた名字は異なっておりましたし……どちらも30代という若さで、おそらく病によって、同じ日に冥海へと旅立った赤の他人であるかと思われます。あなた様がお望みになっているような、命乞いや絶命の瞬間などといった”素敵なお話”はご用意できない状況なのですよ」


 フランシスのその言葉を聞いたマリアは、「なんだ、そうなの。つまらないわ」と、その輝く青き瞳を少しだけ曇らせた。

 きっとマリア王女は――そう、この常軌を逸したサディスト娘は、死体となって横たわっている男女が夫婦もしくは恋人であり、大切な者を守ろうと悪しき魔導士に必死で命乞いをしたが、愛する者の目の前で”生きたまま”体を断末魔の叫びともに引き裂かれた(もしくは、愛する者の肉体が引き裂かれるのを見せられ、気が触れたかのように絶叫した)という”この上なく甘美で体を疼かせる物語”を期待していたのだろう。



「……というわけなのですよ、オーガスト。あなたの先ほどの言葉を正確に言い直すとしたら、人殺しではなく、墓荒らしですね。彼らの肉体が土へと帰ろうとしている安らかな眠りの旅を妨げ、また彼らの遺族の方々にも大変に惨いことをしてしまったと、自覚はしております。でも、このようにまだ新鮮な、しかも男と女の死体が一体ずつ一度に手に入る好機は滅多にないと思い……犯行に及んだ次第でございます。人体解剖が終わった後は、彼らの肉体を元通り縫い合わせて、再度同じ墓へと葬る心づもりです。”私たち”の学術的研究心の礎となっていただいた彼らへの深い感謝の気持ちを込めてね……けれども、人間、いくつになっても向上心を失わず、自分の得意な領域だけでなく、医学というまた違う領域にも少し足を踏み入れて、実践で学んでみることも大切であると……今の時代は、魔導士が医者よりも数歩先を進んでます。ですが……後、1000年ほどもすれば医学や化学が魔導士を追い越すかと……いいえ、むしろ魔導士という存在自体がまるで伝説上の架空のものとなって、語り継がれているでしょう。この未来予測に関しては、”私たち2人”の考えはほぼ一致しているのですよ」



 フランシスの長い話を、輝く瞳を少し曇らせながら聞いていたマリアも、そして怯える瞳を少し潤ませながら聞いていたオーガストも、あることに気づいた。フランシスは今、”私たち”そして”私たち2人”とも言ったのだ。

 この部屋に、フランシス以外にもう1人魔導士がいたのだということに、彼女たちは今さらながらに気づいた。


 普段は決して存在感が薄いわけではなく、甘いマスクの美男子という点では割と目立つであろう魔導士サミュエル・メイナード・ヘルキャットだが、先ほどのまでのこの空間においては、マリア王女もオーガストも、目に否応なしに飛び込んでくる内部を開かれた男女の死体に……1人は歓喜、もう1人は恐怖によって、心臓をギュっと鷲掴みにされていたため、全くサミュエルの存在が目に入っていなかったのだ。

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