―16― 曇りなき空を進みゆく船の中で(8)

 外にいる、あの若い女……いや、娘がアドリアナ王国の第一王女のマリア・エリザベスであると――


 曇った窓からうかがえる外に目を向けていたサミュエルは、背後のフランシスをパッと振り返った。

 そう、その優し気な顔の眉間に盛大な皺を寄せながら……

 


「お前、まさか……王女にまで手を出したのか?」

 サミュエルのその問いに、フランシスは、ふふふふふふ、と長めに尺を取って、笑った。

「手を出したという表現は、やや語弊がありますね。フェイトの石がついた指輪をお送りし、”契約を結んだ”といった表現が最も適切かと。まあ、契約を結んだ後、あの方は即、私に”体を開いて”くださったため、深い関係になるのは一度沸かした桶一杯のお湯が完全に冷め切るよりも速かったですよ」


 サミュエルが、”勘弁してくれよ”と言いたげに、ハンカチーフの下の口元を動かした。

「互いの性生活に口を出す義理もなければ権利もないわけだから、長年ノータッチだったつーわけだが……さすがに、お前がこの王国の王女に手を出すなんて、阿呆なことをするとは思わなかったな。俺たちの計画には、王族なんて何の必要もないだろう?」


「……確かに私たちの計画に、お城にいらっしゃる王族の方々は……つまりは生まれ持った身分などは何の必要などありませんね。私たちの計画が成功した時には、あの方々が”どっちに転ぶか”は分かりませんけど……実は私は”あの棺に迎え入れる贄”となる人材を探し、お城の魔導士の方々をこっそりと物色していたのです。そのなかの1人に、抜きん出た力を持つ魔導士の女性がいらっしゃり……現在はその彼女を、私のニーズに合う贄かどうかを影からこっそりと見定めている状況でございます。ちなみにその魔導士の女性ですが、年は20手前とまだ若く、貴族の姫もかくやというほど美人でもあります。ですが……やはり……マリア王女のあの美しさを前にしましたら………」


 まだまだ、長々と続きそうなフランシスの話をサミュエルはピシャリと遮る。

「どんだけ美人の王女か、知らねーけど……俺に断りもなく、勝手なことはすンなよ。お前、俺に協調性を持てとかいうけど、お前こそ、協調性皆無だろ」

 80年以上、このアドリアナ王国で人生を紡いできたサミュエルは、24才の時より指名手配犯であるとはいえ、第一王女マリア・エリザベスが世に並ぶものないほどの美貌の持ち主であるということは、この王国内に風とともに流れてくる噂で知っている。

 だが、彼は苛立ち始めている。 


「まあまあ、そうプリプリとされる前に……あなたも一度、マリア王女をご覧になってください。お姿”だけは”同じ時代に生を受けたことを感謝し、ひれ伏したくなるほど美しい方ですよ。内面はかなりエキセントリックで、外見の美しさに反比例した性質を持っておりますけどね……でも、まあ、いくら美しいとはいえ、私たちの計画を邪魔しようとしたら、即、契約解除ですけど」

「というか……城にいるはずの王女がそもそもなんで、ンなところに居るんだ?」


 ”お前が瞬間移動で、オーガストといかいう奴もろともここに連れて来た理由はなんだ?”とサミュエルの語気には、早くも怒りが含まれ始めていた。

 だが、フランシスはいつもと全く同じ余裕に満ちた物言いで彼に言葉を返す。

「マリア王女でございますが、デメトラの町で人間にあるまじき振る舞いをしたため、兄の王子殿下に城の中に軟禁といった状態でして……籠の中の鳥……いや、檻の中の猛獣である彼女が、私に『城の外”でも”遊びたいわ』と、青き瞳を潤ませて懇願したのです。あの顔でそう懇願されたなら、大抵の望みはかなえてやりたくなりますよ……あ、ちょうど今、マリア王女たちがこの廃墟に足を踏み入れたようでございますよ」


 クスッと笑ったフランシスは、指をパチンと鳴らした。


 途端、自分たちが今いる部屋の扉が――死者たちが放つ真実の肉体の死の臭いが充満している部屋の扉が、廃墟にあるまじき軽快な音を立てて開いた。

 フランシスの魔術によって開いた扉の向こうには――





 言葉を失ったサミュエル。

 いや、言葉だけではない、扉の向こうにいた”絶世の美の化身”を見たサミュエルの思考は、十数秒、忘却の彼方へと追いやられ……


 ただただ、マリア王女の美しさに見惚れているサミュエルの様子を横目で見たフランシスは、”ほら、私の言う通りでございましたでしょう?”と、ハンカチーフの下でフッと唇を動かした。


 サミュエルも、マリア王女の美しさを実際に目の当たりにした者たちの大多数と同じく、彼女の美しさによって止められた時の隙間に留められた。

 だが、彼は大多数の者よりかは格段に速く、動き出す時の流れに戻ってくることができたようであった。


 

 アドリアナ王国 第一王女マリア・エリザベス。

 そして、彼女に乳房を押し付けられ、彼女の体温を熱く”切なく”感じてるにちがいないオーガストという名の平民の青年。

 マリア王女が身に着けているピンク色のドレス。曇った窓越しでは、頭の軽さと阿呆さをさらに際立たせるような下品な色に見えていた。

 だが、実際に目の前にするとそのピンク色のドレスは、一瞥しただけでも高級品だと分かる。そのうえ、まるで朝露に濡れたローズピンクのバラの花びらを思わせる上品な代物であり、マリア王女の美しさをより一層際立たせる役割を果たしていた。

 このような薄汚れた廃屋の中にあっても艶やかにきらめくマリア王女の波打つ金色の髪までもが、そのドレスと相まってより一層美しく映えていた。


 対する平民の青年・オーガストは、一国の王女に比べると貧相な感じにサミュエルの目には映った。

 仮にオーガスト単体でその扉の向こうにいたとしたら、背もそこそこ(おそらく自分とそう変わりない)、際だった美男子ではないが充分に見られる顔(世の若い女の81%以上は”まずまず有り”と答えるかもしれない)をしている。体つきを見る限り、肉体労働で生計を立てているようではなく、どこか儚げで繊細な雰囲気も醸し出してはいるが、善良で平凡な一市民といった具合だ。

 だが、ただの平民が王族の娘(それもアドリアナ王国で一番高い地位の”娘”)と並ぶと、同じ世界の同じ時代に生まれていても、生を紡ぐ”世界”が違っているということを否応なしに伝わってきた。



 しばしの間、言葉を失ってしまったサミュエルとは対照的に――

 扉の向こうにいたマリア王女とオーガストは、この部屋に充満している血生臭さに、ハッと鼻を押さえ、みるみるうちに顔をしかめていく……


 そして、彼女たちも……自分たちの鼻孔を蹂躙するこの臭いと目に飛び込んでくる死した男女の”開かれた肉体”を見て、ここで何が行われていたかを即座に理解したのだろう。

 オーガストは、瞬く間に青へと変化し、顔の下半分を手で覆い隠したまま、バッと目の前の惨状から顔を背けた。


 対するマリア王女の、夜空に浮かぶ青き月の光のような瞳はパアアッと輝いた。

 両手で可愛らしく鼻と口元を押さえているマリア王女。

 彼女は、漂う臭気に顔をしかめているも、さらにその美しき瞳を輝かせ続け、体を開かれたまま血だらけの白い布の上に横たわる男女へとトコトコと近づいてきた。

 そのうえ――あろうことか、彼女は、開かれている男の体の中をじいっと覗き込んだのだ。



「人の中って、こんな風になっているのね? とっても素敵な光景だわ、フランシス」

 涼やかで透きとおるようでいて甘いその声。

 だが、医者ならともかく、世の大多数は顔を背け、気の弱い者などは逃げ出すこの光景を「素敵」と……

 マリア王女の瞳は青く輝き、白い頬はうっすらと染まっていた。

 そう、まるで性の歓びを思わせるように、恍惚と――

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