―18― 曇りなき空を進みゆく船の中で(10)

 この部屋にずっといた、もう1人の魔導士。

 その魔導士――サミュエル・メイナード・ヘルキャットの姿を認めたマリアの瞳はキラリと光り、オーガストの瞳には更なる怯えの色が走った。

 マリアの場合は、若い男――顔の下半分をハンカチーフで覆い隠しているが、見えている上半分はなかなかに整っており、おそらく美しい部類に入るであろう男がいたという、自身の”楽しみ”と新たな男への興味によって、妖しい光を見せた。

 対するオーガストの場合は、まず第一に、マリア王女が全面的に信頼(?)をしているらしいが、妖しく禍々しいオーラを発している魔導士フランシスが人体解剖をしている場に居合わせてしまった。彼にとっては、フランシスが人殺しでも、墓荒らしでもどっちだって変わりはなかった。医師でもなく、絶対の必要があったわけでもないのに、墓を掘り起こし(このことだけでもゾッとする)、死者の体を切り刻み、死者に対する尊厳も微塵もない行為を平然と……

 そして、第二に、そのフランシスと一緒に人体解剖を行っている魔導士がいるということ。フランシスの仲間か、それとも手下か? 得体の知れない悪しき魔導士をもう1人、目の前にしているという恐怖によって、その榛色と栗色の中間のような柔らかな瞳に、さらに怯えの色を重ねていった。



 フランシスは、今、自分たちと同じ空間にいて、つい先ほどまでは”盛ったガキのごとく”いちゃつきながら現れた2人の子供(いや、子供と表現するのはやめましょう。おそらく2ケタの経験人数を保持する王女と一応、童貞を捨てたばかりの青年ですからね)が、同一の光景を見ても全く違う反応を如実に示したことに、ハンカチーフの下でフッと彼だけに分かる笑いを漏らしていた。

 各々が生まれ育った”世界”の違いというわけではない。相容れない”魂”の違いというものがありありと伝わってきたのだから。


 フランシスは自身の顔の下半分を覆っているハンカチーフをそっと外した。

 そして――

「マリア王女……こちらは、私の同士の魔導士サミュエル・メイナード・ヘルキャットでございます」

 掌をすっと上に滑らすような恭しい仕草で、フランシスはサミュエルをアドリアナ王国の第一王女に紹介したのだ。


 紹介された当のサミュエルは、思わずフランシスを横目で軽く睨んでしまった。

 なぜ、俺の本名を王女にそのまま伝えるんだ?! 「神人殺人事件」の実行犯として今も指名手配されている俺の名を?! との苛立ちとともに――

 だが、サミュエルは数秒のうちに、考え直す。

 おしゃべりな野郎(フランシス)だが、そんなところに考えが至らない奴ではない。あいつは、この狂った性癖の王女が自分たち側にいると分かっていて、俺の本名を王女に告げたのだ。

 仮に、この王女が城に戻って、この俺の居場所を城にいる正義なんて不確かなモンを重んずる奴らに密告などしたとしても、返り討ちにしてやる、とも……


 サミュエルは、フランシスと同じく自身の顔の下半分を覆っているハンカチーフをそっと外した。

 たまたま生を受けた地である国に対する愛国心などは持ち合わせていないし、単に王族に生まれたというだけで敬われている人間などに敬意などもなかったが、ここは大人として、我がアドリアナ王国の第一王女に挨拶をするために――




「……サミュエル・メイナード・ヘルキャット?」

 マリアは、フランシスから聞いた彼の名、そして彼自身の口から紡がれた彼の名――王族である自分に対して、充分に及第点の振る舞いで挨拶をした魔導士の名を反芻した。


 そして、マリアは十数秒で、彼の名前を思い出したらしい。

 王女として、アドリアナ王国ならび他国の歴史については、教育を受けているのだろう。だが、その歴史には血塗られた一幕もある。

 サミュエルの外見とその魂年齢がまだ一致していた時に引き起こした、あの陰惨で謎に満ちた「殺人事件」を、華々しい歴史の一幕よりも、血塗られ、悲劇に満ちた歴史の一幕を本能的に欲するマリアが、記憶から抜け落とすわけなどはなかった。


「まあ、あなたも”フランシスと同じ”なのね。腐りかけたお年寄りになっているのかと思っていたけど……それにとっても、素敵な人……」

 囁くような声でうっとりと呟いたマリア。

 この時のサミュエルとマリアの距離は、わずか数歩であった。

 サミュエルは自分を上目遣いで見上げるマリア王女の――美貌の粗などは到底見つけられそうにない美しい顔(かんばせ)が、完全に牡を全身で誘う牝の顔となっていることに、柄にもなく背筋をブルリと震わせた。

――……なるほど。フランシスの奴も”これ”にやられたってわけか。こりゃあ、大抵の男は――まさに、この部屋で情けなく目を潤ませているオーガストなんていうガキは、ひとたまりもなかったろうな。だが、俺は違う。股間の俺自身は理性でコントロールはできる年齢だし、何よりこの王女は絶対に手を出してはいけない女だ。避けるが吉の毒蛇女だ……



 そんなサミュエルの心情を知ってか、知らずか、フランシスがコホンと咳払いをした。

「マリア王女、そのサミュエルですが、ある一定のカテゴリーの女性に萌える困った性質を持っております。あなた様の遊び相手としては、いさかか力不足かと思われますね」

 フランシスに、自分の性癖を勝手にばらされそうになったことにサミュエルはグッと眉根を寄せたものの、”この王女の方から俺に興味をなくしてくれた方が幾分かマシか”と考え直した。

 そして、今のフランシスの言葉を聞いたオーガストがホッと胸を撫で下ろしたことも、サミュエルには分かった。


「ある一定のカテゴリーの女性って……?」

 マリアが甘えた声でフランシスに問う。

「まあ、一言でいうと人妻ですね。少し薹が立ったような年齢で、子供も産み、普段は良き妻であり良き母である女性の、不意にぽっかりと開いてしまう心の隙間に入り込むことを、彼は最も好んでいるのです」


「ふぅん。世の中には変わった性癖の人がいるのね」

 そう言ったマリアは、意外に聞き分けが良いのか、牡を誘う牝モードとなっていた表情を和らげていった。

 当のサミュエルは”猟奇趣味のお前にだけは言われたくねえよ”と心の中で毒づいたが……

 

「そうだわ!」

 不意にマリアの瞳がパアッと輝いた。

「人妻が好きってことなら、お母様はどうかしら? 私とお兄様という子供も2人産んでいるし、本当ならもう1人産むはずだったけど、”駄目になっちゃった”し。お母様ったら、いい年してお父様しか男を知らないのよ。今のお母様は、ガリガリで肌も荒れて、髪の毛もだいぶ薄くなっちゃってるけど……お母様が見知らぬ魔導士の男に”犯された”りなんてしたら……”完全に”壊れてしまうかもしれないわね」


 今のマリアの言葉に、サミュエルもオーガストも、そしてさすがのフランシスも顔を引き攣らせた。

 母親を男に犯させるという企みを思いつく娘。

 精神を病んでしまっている母親を、さらに壊そうとしている娘。

 マリア王女と王妃エリーゼ・シエナが、この王国の最上位の地位にいる母娘であることを抜きにしても、普通なら想像したくないような母の男性経験について娘が考察し、そのうえその母を――

 生まれ持った狂気。これから先、矯正不可能な狂気。

 


「わ、私などが王妃様に触れるなんて、滅相もないことでございます」

 サミュエルは柄にもなく、どもりながら、マリアに深々と頭を下げ、拒絶の意を示した。

 頭を上げたサミュエルの、”フランシス!一刻も早く、この女を城に帰せ!”という視線を強く受けたフランシスは、黙って頷いた。


「さ、マリア王女。そろそろ、お城にお送りいたしましょうか。お部屋の中にお一人でいるはずのあなたがいないことを、侍女たちがそろそろ気づく頃合いかもしれませんし」

 デメトラの町で、人間としてあるまじき振る舞いをしたマリアはジョセフ王子によって城の中の自分の部屋に軟禁状態にあった。彼女の部屋の前には、マリアの射程圏外の年齢にある、まだ屈強な中年兵士が幾人も見張りのごとく並んでいた。

 それに加え、彼女に仕える侍女たちは、彼女を怖がっている者が100%の割合である。

 よって、マリアが「しばらくの間、1人でいたいの」などと言ったなら、侍女たちも胸を盛大に撫で下ろして彼女の要望を聞き入れたのだろう。


「オーガスト。ここに来る途中で合流したあなたまで、お城へと送るわけにはいきませんから、お一人で来た道をお帰りくださいね。まあ、西へ西へと太陽が沈みゆく方向へと進んでいけば、すぐに町へと出られるでしょう」

 フランシスのその言葉に、青ざめたままのオーガストは、コクリと頷いた。

 マリア王女は愛しい。だが、この部屋で繰り広げられている悪夢そのものな光景と、愛しい王女の口から紡がれた悪夢そのものである言葉に、彼の心にはっている糸はそろそろ限界へと近づきつつあるのだろう。



「ねえ、フランシス。お願い♪ あと、ほんの少しだけよ。この者たちの素敵な”内部を”、瞳に焼き付けて帰りたいのよ」

 天使のように、愛らしく微笑んだマリアは、やはり可愛らしく鼻と口元を両手で押さえながら、死体の男女の開かれた体を覗き込んだ。

「……生きたままだったとしたら、この臓器がピクピクと動いたのよね。そうだったら、本当にもっともっと素敵だったのに」

 まるで、食べたかったお菓子が、城の者の手違いで自分の手元に届かなかったことを残念がっているような、マリアの軽い口調であった。

「そうだわ、オーガスト。あなたも一緒に眺めましょうよ」

 まるで、一緒に星を眺めましょうよ、とでも言っているような、マリアの甘い口調であった。



「……は、はい……っ! マリア王女!」

 本当なら、今すぐこの場よりダッシュで逃げ出したかったに違いないオーガストだが、マリア王女の声に背筋をピンと正し、漂い続ける臓物の臭気に鼻と口元を押さえながらも、彼女の元に駆け付け、一緒に死体の男女の開かれた体(彼にとっての悪夢)を覗き込もうとした。



 だが――


「お、おい! ここで吐くなよ。後片付けが大変だろ」

 サミュエルの慌てる声。

 だが、嘔吐は止められない。吐いてはいけない時に吐いてしまうのが、”生きている”人間の肉体なのだ。

 オーガストの真っ青であった顔は、いまや真っ赤に変化し……目じりに涙まで滲ませた彼は、胃から湧き上がる逆流を留めることができず……

 血なまぐさい臓器の臭いに、オーガストの吐瀉物の臭いが重なって漂った。


「オーガスト、あなたは血も流れず、肉の生臭さもない人形を普段は作っておりますけど、これを人体の真実として”じっくりと確認はしなくても”分かっておいた方がいいかと思いますよ。あなたの中にも、この横たわる彼らと同じく、臓物があるのですから」

 フランシスが言う。さすがに”あなたが愛するその王女の、美しい皮を切り裂いた中にもね”という言葉は、口に出さなかったが。


 マリアは重ねられて鼻孔に届けられる不快な臭いに顔をわずかにしかめたものの、「ふふ、オーガストったら可愛い。吐くことなんて、誰だってあることだし、気にしなくていいのよ。そんなことで私はあなたを嫌いになったりなんてしないわ」と、彼にすり寄り、彼の背を優しくさすり始めた……



※※※



「……というわけでございましたね。なんだか、最後の最後になって、どっちが悪者か分からないようなことになりましたけど……」

 フランシスがククッと思い出し笑いをした。


 サミュエルもフッと笑う。

「まあ、普通の男ならとっくの昔に逃げ出しているところ(そもそも俺のように危険察知能力の高い男は最初から近づかない)なのに、今もオーガストはこうして、あの狂った毒蛇王女に自分の命も捧げて、仕えている。良く言えば、こうと決めたらそれを貫き通す鋼のごとき意志の持ち主であり、悪く言えばただの馬鹿ってとこか」


「その通りでございますね。ただの馬鹿であっても、守るべき者があるというのは、彼を精神的により強くしているのでしょう。毒蛇の入った壺を抱えながらも、得体の知れない魔導士たちの巣に居続けることを選択するほどにね……私たちも、自分の運命を変えるほどの愛しい女性に出会えればいいですね」


「…………むずがゆくなってくるようなこと言うなよ」

 そう言ったサミュエルの、呆れ顔には嫌悪感も混じっていた。

 フランシスはそんなサミュエルの様子を見て、クスクスと笑いを漏らしした。

「サミュエル……もうすぐ、日が昇る時間ですよ。海平線よりその輝く姿を見せる太陽に照らされた海、そして染まりゆく空は、まるでこの世の宝石のごとく美しいものですよ。仲直りの証として、一緒に眺めますか?」


「……誰が男同士で、ンなロマンチックなことしたいんだ」

 ケッと息を吐く、サミュエル。

 ”そもそも、この船の中には俺が一緒に朝日を眺めたい奴なんて、いねーよ”と、心の中で彼は毒づいた。


「一緒に朝日を見たいというのは、一つの口実でございまして、実は……少し気になっていることがあるのです」

「……何だ? その気になることって?」

 気色の悪いことを言うフランシスから目を逸らしていたサミュエルが、フランシスに視線を戻した。

 彼らの視線は交わる。

 そう、この夜、幾度目かの交わりであった。


「今、私たちが空にて進めている神人の船の下では、”希望の光を運ぶ者たち”の船も海にて進んでおります。あなたの昔馴染であり、あなたが狙っているアダム・ポール・タウンゼントを乗せた船がね。もちろん、彼の守るべきものであるジェニーという名の娘――あの善良と純心を具現化したような何の力も持たない娘も同船しております。そんな彼らの”後ろをつけているように”一隻の船が妙な動きで……まあ、その一隻の船はわりと大型船で、船の装飾を見る限り、エマヌエーレ国のものらしく……単にエマヌエーレ国の貴族が自国に戻るだけと言えば、それまでなのですが……」

 言葉を濁した、いやサミュエルに察させるために、わざと言葉を続けなかったフランシス。


「”どうやら、エマヌエーレ国に着くまでに、一波乱あるかもしれませんね(クスッ)”ってことだろ」

 彼の長年の同士――サミュエルは、彼が続けたかった言葉を一言一句、彼の含み笑いに至るまで、正確に答えた。



 そう、まさに今――

 フランシス、そしてサミュエルが乗る神人の船のはるか下方では、”希望の光を運ぶ者たち”の船が、今まさに海平線より昇る太陽に眩しき光に照らされつつあった。

 穢れの一つもなく極限まで澄み切ったような青い空、”悪しき者たちが船を進めてゆく”曇りなき空も、その昇りゆく太陽の光によって、美しき姿を如実に現すだろう。

 空にいる悪しき者たちは、海にて船を進める者たちに迫り来るかもしれない危機を感じ始めていた。

 だが、彼らを助ける義理などはない悪しき者たちは、ただ顔を見合わせ、互いにフフッと鼻から息を漏らしただけであった……

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