ー17ー 出港(3)

 トレヴァーの口から語られる回想。

 1年ほど前に、デメトラの町で起こった事件。

 トレヴァーはその事件――ティモシー・ロバート・ワイズの娘ビアンカがマリア王女に殺害された事件に関しては当事者でもなんでもない。

 それにも関わらず、彼は生々しいまでに覚えていた。一生涯、彼は忘れることなどできないだろう。

 トレヴァーの回想のなかの、左頬に逆三角形を描くような黒子が並んだ男――この男こそが、数日前に”レイナ”を殺そうとしたティモシー・ロバート・ワイズで間違いない。

 

 ”あの日”と同じく、今、自分たちがいる部屋は沈みゆく赤い夕陽に照らされている。この部屋にいる誰もが悲痛な面持ちをし、哀しみを誘う静けさが沈殿するなか、トレヴァーは再びその口を開いた。



※※※



 アドリアナ王国 第一王子、そして第一王女がついに自分たちに前へと――


 鍛え抜かれた馬の蹄の音。

 従者たちの訓練された規則正しい足音。

 それらは、我が王国の王族の最上級の地位にある敬愛すべき2人――しかも、1人はいずれ国王となる――のお方を、この地で迎える名も無き民たちの心臓の鼓動をより強く、より早くするものであった。


 トレヴァーはうっすらと横目で、こちらへ向かってくる王子殿下一行の姿を確認しようとした。

 一行の馬は十頭にも満たず、馬車は一台だけだ。

 おそらく馬の中でも一等優れているだろう黒馬に乗っている金髪の若者――この赤い夕焼けに照らされ、ここからでも美しく輝いていることが分かる金色の髪の若者こそがこのアドリアナ王国の第一王子、ジョセフ・エドワードに違いない。

 トレヴァーが幼き頃より話に聞いていた通り、このアドリアナ王国の王族は、民たちが汗水たらして治めた税金をむやみやたらと浪費したりはしない。少数精鋭の従者たちを付き従え、公務のための移動を行っている。


 その彼の傍らにはいかにも屈強な(といってもトレヴァーのムキムキ具合には負けるが)体つきの兵士数人と、その兵士たちよりも主君である王子の近い位置に控えている黒衣に身を包んだ2人の男の姿も確認できた。

 特にもう春だというのに、重たげな黒衣に身を包んだ2人の男はジョセフ王子が乗る馬のすぐ傍らにて、徒歩で付き従っている。彼らのその服装と醸し出す雰囲気からして、おそらくあの2人の男は魔導士だろう。

 トレヴァーは、団長が以前に「王族お抱えの魔導士になることができる奴らなんて、本当に俺からしたら雲の上に住んでいるようなものだよ」と言っていたことを思い出す。

 魔導士らしき2人の男の顔はよく確認できなかったが、赤い夕陽に照らされた髪や肌の感じからみると、まだ若い――自分とそれほど変わりないようにも見えた。



 馬の蹄はさらに大きく鳴り響き、訓練された足音もさらに大きく鳴り響き、トレヴァーたちの鼓膜を震わせる。 

 先ほど若い母親に「ビアンカ」と呼ばれていたまだ何も知らない赤子が「あぶうっ」と声を出し、母親に「しっ!」と諌められた。

 平民たちは――もちろん、横目で王子殿下たちの様子を伺っていたトレヴァーも――深く深く頭を垂れた。

 王子殿下への敬愛と忠誠をこの身であらわすために――




 蹄の音は止まった。

 

「皆、ご苦労である」

 若々しいが、威厳に満ちた声が頭上よりかけられた。

 深く頭を垂れていたトレヴァーたちは、その声に一斉に顔をあげた。

 

 アドリアナ王国第一王子 ジョセフ・エドワード。

 馬の足を止めた彼は、馬上より平民たちにねぎらいの言葉をかけたのだ。

 王子みずからによるねぎらいの言葉、そして王子・ジョセフの美貌と威厳に、平民たちは一瞬、言葉を発することができなかったが、すぐに皆、慌てて再び深々と各々の頭を下げた。


 そして、トレヴァーたちは再びその頭を上げる。

 

 白い肌、金色の髪と青い瞳、整った凛々しい眉、高い鼻梁。

 そして、何よりもその全身より溢れる高貴さ。

 トレヴァー自身、同性である男を見て「美しい」と思ったのは初めてであった。

 並々ならぬ美しさと高貴さを合わせ持つジョセフ・エドワードのその雄々しき姿は、沈みゆく赤い夕陽に照らされ、今、自分たちの前にあった。

 彼が乗る黒馬ですら、鍛え抜かれ、その黒光りする毛の艶も手入れが行き届き、いかにも敏捷そうで、よく躾けられていることが分かる。このような馬は平民が手に入れることはまずできないし、ましてや触れることすらできないだろう。


 つい先ほどまで緊張による吐き気を堪えていた少年はポカンと口をあけ、馬上の王子殿下を見上げ、女たちが王子の美貌にほうっと再び見惚れた溜息がトレヴァーにも聞こえた。


 だが――

 トレヴァーは周りの者たちに比べると、幾秒かは早く王子ジョセフ・エドワードの美貌から、現実世界に戻ってこれたようでであった。

 どこか冷静に、自分たちを見下ろしている美貌の王子を観察していた。


――噂に聞いていた以上に美しい王子殿下だ。同じ男といえども、これほどの美貌の持ち主は一目見たら忘れることなどできやしない。でも……どこか冷たそうな感じがしないでもないな。このお方の笑った顔が想像できない……いやいや……王子として生まれ、王子としての教育を受けているのだから、当たり前か。俺たち平民と同じであるわけないし、また同じであったらいけない。しかし……俺より1才年上とのことだが……なんだか、お年よりも年長に見えるような……それだけ、気苦労が多いということかもしれない。高貴な身分に生まれた方は、その利を貪るのではなく、それ相応の責務を果たさなければならないのだから……


 並々ならぬ美しさに加え、”年より老けて見える”という、失礼な感想まで抱いてしまったトレヴァーであったが、彼の王族に対する畏敬の念は何も変わることなかった。


――しかし、このお方と同じ時代に生を受けたといっても、一生お目にかかることもなく、生涯を閉じる者だっているのに、単なる偶然が重なったとはいえ、俺がこうしてこのデメトラの町で王子殿下にお会いできたことは、この上ない幸運であるだろう。

 トレヴァーは、自分をここに連れてきてくれた人懐っこい少年たち、送り出してくれた団長に感謝の念を抱かずにはいられなかった。そして、今はデメトラの町の中心部で、踊り子のおねえさんたちと一緒に上手いやりくりを考えながら、衣装を吟味しているだろう恋人・ライリーに、今日のこのことを一刻も早く話してやりたくなった。



 ”今日のこのこと”とトレヴァーは考えてしまったが、まだ終わりではない。

 もう1人、この行列の中にいるのだ。本来なら一生お目にかかることなどない身分の王族が――


 

 馬の蹄の音とともに、王子ジョセフ・エドワードが通り過ぎる。

 彼の両側に控えている従者たち――黒衣に身を包んだ2人の魔導士らしき男たちも……

 そして……


 行列の後方の一台の馬車。

 馬車には屋根があった。

 だが、平民たちがひれ伏している、ここからでもその馬車に乗る一人の少女――王子殿下と同じく、夕陽に照らされまばゆいばかりに輝いている金色の髪の少女こそが、王女殿下マリア・エリザベスなのだ。

 世にも美しいと噂の王女。

 噂は噂かもしれない。王女という身分の後光もあってか、単にわりと美人の部類に入るだろう王女を周りの者が褒めちぎり、それが国中に広がっただけかもしれない。

 だが、先ほどのジョセフ王子の美しさを見た一同は、血を同じくするマリア王女もさぞや、という期待があった。


 平民一同には、更なる緊張と美貌への期待が張りつめていく。


 馬の蹄。

 そして、馬車の車輪は、乾いた土の上を軽やかな音を立ててこちらへと近づいてくる。



 ついに来た――










 彼女の姿を見た、者たちの時は……止まった。


 この地を紅く照らし出す夕陽の美しさすら、彼女の前では霞み、いやそれ以上に彼女の切ないまでの美しさを際立たせる役割を果たしていた。

 トレヴァーも、いやトレヴァーだけでなく、このアドリアナ王国の大地に跪いた平民たちは、自分たちと同じ人間とは思えぬまさに”天の上にいる者”の美より目を離すことはできなかった。

 幻想的であり、神秘を秘めているかと思えば、蠱惑な妖しさをもはらんだ絶世の美――


 王女マリア・エリザベス。

 波打つ金色の髪、白く透き通った肌、青く輝く瞳、この少女はまるで天使か妖精、あるいは女神か――生も死も、過去も未来も、善も悪も、この王女の前では何もかも意味をなさなくなるだろう。

 


――この世にはこれほど美しい人もいるのか……。


 王女マリア・エリザベスの姿を生で見た、まだ10才にもならない少年たちは、ただポカンとあけて、微動だにしなかった。

 今の彼らの心のなかでは、恋心を抱いていた少女も、そして自分の母親すら、掻き消えていただろう。

 おそらく、これから何事もなければ、少年から青年、そして子を持つ親となり、老人となっていくであろう少年たちの長い人生に、永遠に刻みつけられた美しさであった。


 だが――

 目の前の絶世の美を誇る王女は、自分に敬意を払い、大地に跪いている民たちを一瞥することはなかった。

 兄のジョセフ王子のように、馬の足を止め、民に労いの言葉をかけることもなかった。

 民たちなどはまるで風景の一部であるかのように、彼女はただ黙って前を向いたままである。

 空虚な美しい人形。

 人の形――それも人間としては最高傑作なほどの美しい人の形はしている。

 けれども、どこか冷たい――先ほどトレヴァーがジョセフの容姿を見た際に感じたものとは”別の冷たさ”を感じずにはいられなかった。


 マリア王女が乗った馬車は止まることなく、自分たちの前を通り過ぎてゆく……



 その時――

「……マリア王女!」

 跪いた民たちの中より、1人の女の声があがった。

 驚いたトレヴァーがその声があがった方を見ると、声の主はあの「ビアンカ」という赤ん坊を抱いた若い母親であった。


 平民より王女殿下に直接声がかけられた。それもいきなり。

 マリアは眉をわずかに顰め、そして周りにいた兵士たちがザッと身構えた。

 

 無礼なその振る舞い。

 彼女の夫である左頬に3つの黒子が並んでいる男――ティモシーが「ケーテ」と、慌てて妻を止めようとしていた。

 だが、ケーテという名のその若い母親は、赤らみ引きつった頬のまま、訝し気な表情で自分たちを馬車より見下ろしている王女殿下へと一歩を踏み出した。


「……どうか……どうか、娘に祝福を……!」

 

 そう言った、ケーテのその声は震えていた。

 そして、黙って見ていることしかできない平民たちの誰かの、ゴクリと唾を呑み込む音が聞こえた。

 だが、今ここで一番生きた心地がしない者たちと言えば、当のケーテとティモシーであっただろう。


 マリアは、ごくゆっくりと、ケーテの両腕に宝物のように大切に抱かれている赤ん坊・ビアンカに視線を移した。

 何も知らぬまま、ビアンカは無邪気に母へと手を伸ばしている。


 そして、マリアは微笑んだ。

 無礼を叱責するのでもなければ、無視することもなく、慈愛に満ちた天の女神のごとき笑みを、まっすぐに”ビアンカに”向けた。

 その美しさを見た、全ての者は再び、息を呑み、微動だできなかった。

 彼女の美しさをこの時に初めて目の当たりにした平民たちだけでなく、彼女に付き従っている兵士たちでさえ……


 当のマリアは、自分の美に対する周りの反応をまったく気に留めるふうでもなく、この上ない美しい微笑みのままであった。

 もうすぐ日が暮れ、この地に上るであろう美しき月のごとき青い瞳は、ただまっすぐに赤子の”ビアンカに”注がれている。


 そこにいる誰もが思った。

 お優しい王女殿下は、平民の母親の望み通り、この世に生を受けた赤ん坊に祝福を捧げるのだろうと――



 けれども――


「?」

 トレヴァーは、マリアの妙な動きに気づいた。

 その動きに気づいたのは、この場においてはトレヴァーとティモシーの2人だけであった。


 マリアの折れそうなほどに華奢で、透きとおるほど真白い手首には、銀色の細いブレスレットが巻かれていた。マリアはそのブレスレットのエメラルドグリーンの装飾部にそっと……そう、本当にさりげなく手を触れ、何かを――

 その一瞬、あの美しい微笑み――いや、微笑みというよりも、ニヤリと唇の両端を耳に近づけていくような、美しさなど微塵もないゾッとするような表情に……



――何だ、今の顔……?!

 疑問より強い恐怖を感じ取った、トレヴァーの背筋が震えた。

 マリアがたった今、ほんの一瞬だけ見せた表情に、トレヴァーの背筋もたった一瞬で冷たくなった。

 風など吹いていないはずなのに、自分の頑強な肉体が不吉な風にあおられるがごとき恐怖に……


 それとほぼ同時であった。

 行列の前方にいた王子ジョセフがハッとして、振り返った。


「よせっ!!」

 声を荒げたジョセフは馬の手綱を握り、即座に踵を返した。彼は気づいたのだ。行列の後方で、マリアの近くで起こり始めている……いや、マリアが引き起こそうとしていることに。

 ジョセフが乗る黒馬が立てた土埃が赤い夕陽の中で舞い……


 ケーテは、王子殿下の突然の制止に驚き、ビクッと体を震わせた。

 だが、ジョセフの制止はマリアには届かなかった。

 いいや、届かなかったというよりも、マリアは兄のその制止が聞こえていながら、わざと目の前の赤ん坊に手を伸ばしたのだ。


 顔面蒼白となったジョセフが馬を走らせ、駆け付ける前に、マリアの白くなめらかな、まるで彫刻のように美しい白い手がビアンカに触れた。そう、彼女のやわらかな喉元に――



 その瞬間、ビアンカが少し痛みを訴えるように、小さな身をよじった。


 

 だが、”しばしの間”は、何も起こらなかった。

 ビアンカは火がついたように泣き出したわけでもない。そもそも、マリアはただビアンカに触れただけである。

 


 固唾を飲んで見守ることしかできない民たちは、若妻ケーテが王女殿下に無礼なふるまいをしたため、王子殿下より叱責もしくは懲罰を受けるのではと、自分のことではないのに、震えあがっていた。


 けれども、唇をワナワナを震わせながら、馬に乗って自分たちの前に現れたジョセフは、ケーテではなく、自身の妹に対して焼き焦がさんばかりの厳しい視線を向けていた。

 マリアは兄のその視線を受け、鼻を鳴らすように微笑み、口元を少しだけ動かした。


――何だ? 何なんだ?

 トレヴァーは混乱した。

 しかし、やはり王子殿下の怒りの矛先は平民の母親にではなく、自身の妹に向いている。


 いや、トレヴァーだけでなく、居合わせた全ての者――まだ何も知らない少年たちですら、自分たちの目の前で繰り広げられている、自国の最上位に位置する一組の兄妹から発せられている”不仲”であり不穏な空気に面食らっていた。



「……も、申し訳ございませんっ!!」

 ビアンカの父であり、ケーテの夫であるティモシーが、ジョセフとマリアに土下座した。

 妻の無礼な振る舞いによって、引き起こされつつある不穏な事態。

 そもそも、その事態の封を最初に切ったのは、自分の妻の振る舞いだ。一家の長として、謝罪をしようと――

 黒々とした髪の中にあるつむじを、王子に見せるほど深々と土下座した彼のがっしりとした両肩は震えていた。


「いや、構わぬ。それより、その赤子を早く医者に……」

 ジョセフは、今にも泣きだしそうな顔でガクガクと震え続けるケーテと、彼女の腕に抱かれた赤ん坊へと視線を移した。


 ビアンカは怪我をしたわけではない。ただ、王女殿下は彼女の無垢な柔肌に触れただけである。医者にかかるようなことは何も……

 誰もが疑問に思ったその時――



 ついに”しばしの間”は終わりを告げた。



「ギイッ……!」

 何かが軋んだような音。それは野生の鳥の鳴き声にも似ていた。

 だが、それは鳥が飛び交う空からではなく、自分たちの目の前で――小さなビアンカから発せられたのだ。


「ビアンカ? どうしたの?!」

 ケーテは半ば泣き声で、腕の中の愛しい我が子を覗き込んだ。


 けれども、ビアンカは母に答えることもせず、白目を剥き、その小さな口よりピンク色の泡をブッと吹きだした。

「……ギ、ギイイッッ!!」

 再び、人間とも思えぬ呻き声をあげたビアンカは、まだ柔らかい背骨が折れるのではと思うほどに体を反らし、内臓の色を思わせるピンク色の吐瀉物をゴフッと吹きだし始めた――!!


「ビアンカ!!」

 ビアンカの異変に、彼女をこの世の誰よりも愛するケーテとティモシーの声が重なりあった。


 その小さな――本当に小さな肉体から吐き出されたとは思えない生々しい吐瀉物は、ビアンカ自身の唇から顎にかけてを濡らし、そして悲痛な悲鳴をあげ続ける母親・ケーテの胸もとをも濡らし……

「ギギイッ……!」

 血走った目のビアンカが再び、その柔らかな背骨をビクンとひと際反らしたのとほぼ同時に、彼女の動きは完全に停止した。


 ビアンカは小さな口からそれ以上、赤い血の混じり始めた吐瀉物を吐き出すことはなかった。

 彼女の幼い肉体が灯していた命という、蝋燭の火は完全に消えてしまったのだから――


「ビアンカ?! ビアンカ!!」

 ケーテの悲痛な声が響いた。

 ケーテだけではない。全ての者の驚愕と悲鳴は重なりあい――


 嗚咽を漏らしながら、もうここにはいない娘の魂を呼び戻そうと、ケーテはビアンカを抱きしめ、必死で背中をさすった。


 ケーテの絶叫。

 ケーテは、まだ温かいビアンカを抱きしめたまま、その場にへたり込んだ。

 見開かれた彼女の瞳からは大粒の涙が流れ、「ビアンカ…! ビアンカぁ!」ともうここにはいない愛娘の魂を呼び続ける彼女は、苦し気に喘ぎ続けていた。


 「ケーテ!」

 ティモシーがケーテを抱きしめた。

 夫に抱きしめられたケーテは、宙を見上げたまま、愛娘の名を幾度も呼び続けていた。

 小便の匂いが辺りに立ちこめ始めた。おそらく、ケーテは失禁してしまったのだろう。



 目の前で人が死んだ。

 わずか十数秒の間に、先ほどまで無邪気な笑い声をあげていた赤ん坊が死んだ。

 その小さな肉体に絶大な苦痛を味あわせられ、あれほどまでに惨たらしい死に様で。


 トレヴァーの近くにいた少年が体を折り曲げたかと思うと、胃の中のものを全て吐き出し始めた。ボロボロと涙をこぼし続ける少年の背中は震えていた。


――今の……まさか、まさか……マリア王女が……?!

 震え続ける少年の小さな肉体を支えるトレヴァーに、恐怖と疑念がまとわりついてきた。

 当のマリア王女は、”輝き続けている”青い瞳を見開いたまま、その口元をたおやかな白い手で押さえていた。


 今のこの地にいる全て者を染め上げるかのような赤い夕陽は、生々しい血の色を思わせた。

 血に照らされたのどかなこの大地を、生々しく禍々しい風がザアッと吹きぬけてい

った――



※※※



 トレヴァーの話は終わった。

 一言も発することなく、黙って彼の話を聞いてたレイナたちは、さらに陰鬱な空気のなかに落とし込まれたかのようであった。


 デメトラの町で、”突然死”した赤ん坊。

 マリア王女の実際の人格を知ってしまっている、レイナ、ルーク、ディラン、そしてトレヴァーは、ビアンカは絶対にマリア王女に殺されたのだとしか思えない。

 以前のマリア王女と直接の面識はない、ヴィンセント、ダニエル、フレディも、自分たちがこうしてユーフェミア国に向かうこととなった一連の出来事のなかで、マリア王女の振る舞いを少しは聞いている。


 これから愛に包まれ、すくすくと育っていくはずであったビアンカ。

 そして彼女を見守る父母――ティモシーとケーテの3人の地道でありなお穏やかな幸せは、マリア王女の手によって手折られ、踏みにじられたのだ。

 

 ビアンカの死因についてはトレヴァーは知る立場にはいない。

 だが、あの光景――今も忘れ得ぬビアンカのあの死に様から察するにおそらく、毒物であるだろう。

 ビアンカは、マリア王女の手によって、その柔らかな肌に毒を塗られたか、刺されるかされたのだろうと。


 マリアが生前のビアンカに向けた微笑みは、慈愛などではなかった。

 それは彼女にとって平民の赤ん坊が、風景の一部から自分の残虐な欲望を満たすことができる獲物に変更されただけのことであった。

 ビアンカの惨たらしい死に様に、自らが彼女の命を奪ったにもかかわらず、驚愕したように口を手で覆っていたマリアは、口元に広がずにはいられない悪魔のように気味の悪いニタリとした笑みを隠していただけであったということも――


 実際にビアンカを殺した血塗られた真っ白い手を、固く冷え切った両膝の上でギュっと握りしめたレイナは思い出す。

 あの夜、部屋に押し入り、襲撃してきたティモシーが言っていたことを。

 あの時と同じく、レイナの掌と背中は冷たく湿っているのに、喉はカラカラに乾き始めた。



「ふん……何、目に涙なんて浮かべてんだ。ビアンカを殺した”あの時”とは、まるで別人みたいだな。なあ……お前がビアンカを殺したあの後しばらくして、お前の兄の王子殿下が直々にうちを訪れて、平民の俺に頭を下げて、謝罪の言葉と多額の賠償金を恵んでくれたよ。だがなあ……ビアンカの命も、おかしくなって自殺した妻の命も戻ることはないんだよ!!」



 ティモシーの妻・ケーテは、目の前で我が子を助けるすべもなく失ったことによって、精神のバランスを崩し自殺した。

 妻も子も、大切な者を全て失ったティモシー。

 この世の光を全て奪われた彼は、荒みきった風貌となり、ただ復讐の機会だけを狙ってその日その日を生き続け、悪しき魔導士たちの手をとったのだ。


 ティモシーが、”マリア王女”を殺そうとしたことは罪である。

 だが、その罪に至る過程には、相当の理由があったのだ。

 理由があるから、人を殺していいというわけではない。けれども――

 誰も言葉を発さず、ただ重苦しい沈黙だけが、とうに日が暮れ、薄暗くなった部屋に満ちていった。



 あのデメトラの町での事件から、トレヴァーが所属していた旅一座の団長は、大多数の人間の寿命から考えると短い生涯を閉じた。

 ある朝、団長が起きてこなかった。

 見に行ったトレヴァーは、簡素な寝台の上で冷たくなっている団長を発見した。

 彼の魂は、すでのその肉体を離れ、この世から旅立っていた。

 寝ている間に亡くなったのだろう。その死に顔は、どこか安らかであった。



 団員たちが涙にくれるなか、団長の肉体は火にくべられ、風に運ばれていった。



 それから、旅一座は解散となり、トレヴァーは恋人・ライリーとも別れた。

 だが、トレヴァーは今になって思う。 

 あの団長は、魔導士として生計を立てることはできない人生を送ったが、第六感は優れており、人の本質や未来の欠片をつかむことはできていたと。


 デメトラの町での事件の日、団長が恐怖とともに感じていた”今まで出会ったことがないような何か”は、間違いなくマリア王女のことだろう。あの日、彼女は幸せな一つの家族をその悪魔の手で握りつぶした。


 そして――


「……本当に近い未来のことだ。お前は数奇な運命の船に乗るだろう。今のお前からは、とても信じられないような……偶然のようであるが、幾つもの必然の出会いが待っている。その出会いには何か、俺たちが住む世界とは異なる世界の魂も絡み合ってくるようにも”感じるんだ”」


 団長が生前に自分が伝えた、あの言葉。

 トレヴァーは数奇な運命の船に乗り、今こうして偶然のようであるが、幾つもの必然の出会いによって出会った”希望の光を運ぶ者たち”と、そして異なる世界で生を受けたレイナとともにいる。

 デブラの町で、ルークとディラン、そしてレイナに出会い、再びジョセフ王子に謁見することとなった。

 あのデメトラの町でジョセフ王子の側に控えていた魔導士の2人の若い男――あの時は、ジョセフとマリアの美しさに心を奪われ、きちんとその瓜二つともいえる顔を見てはいなかったが、あの2人も後に縁を紡ぐこととなるカールとダリオであったのだ。

 


 

 出港前夜に起こった事件により、”希望の光を運ぶ者たち”、そしてレイナたちの出港の日時は伸びていた。

 いまだ体調が万全でない者も多数いる。

 だが、一刻もユーフェミア国を救わんがために、明日の昼に自分たちはやりきれぬ思いを抱えたまま、このアドリアナ王国の大地を離れることになっていた。

 同じ大地に生を受け、そして自分たちとそう変わらない年で、生涯を閉じざるを得なかった一人の青年の慟哭に満ちた苦しみを、それぞれの心に刻み……





 翌日の港町は、晴れやかな天候に恵まれた。

 まさに、出港という門出にふさわしい日であるとも言えるだろう。

 出港する者たちのそれぞれの心には深い爪痕を残していたものの、眩しい太陽の光はその傷痕すら気にすることなく、船の甲板に立ち見送りに来た平民たちへと手を振るルークたちを照らしていた。


 ルーク、ディラン、トレヴァー、アダム、ヴィンセント、ダニエル、フレディの7人。そして、ともにユーフェミア国へと向かう兵士たち。

 アドリアナ国王からの命を受け、ユーフェミア国を救いに向かう者たち。彼らは今、見送りにきた平民たちの歓声に包まれていた。

 アダムは、まだまだしつこいぐらいに続く熱でふらついていたものの、出港のその時は民たち(国王の命を受けたと同時に、自分と同じ平民が汗水たらして納めた税金を使っていくのだ)へと、手を振っていた。


 レイナとジェニーは、甲板の影――見送りの者たちから見えないところで、手を振り続ける彼らの後ろ姿を見守っていた。

 自分たちは、国王より直接の命は受けてはいない。

 船の中で彼らの食事を作ったり、洗濯をしたり、繕いもの(レイナは家庭科で習ったレベルぐらいのことしかできそうにないが)をしたりしかできない。いわば、影で彼らを支えるために、同じ船に乗っているだけだ。


 手を振るルークとディランの頭には昨日に続いて、痛々しい白い包帯が巻かれていたし、忌々しい熱がまだ続いているアダムの足元はやっぱり、まだふらついていた。

 きっと、民たちの姿が見えなくなったら、ジェニーはアダムの元へとウサギのように走って駆け付け、彼を自室のベッドへと向かわせるだろう。

 同じく熱でふらついているピーターとミザリーは、起き上がるのも難しい状態であり、今は船室で休むしかない。


 不思議なことであるが、老人であるアダムよりも若いピーターとミザリーのほうが、症状がひどく長引いているようであった。

 あの薬は生まれ持った魔導士の力に反比例してきくものなのか、それとも、まだ若い肉体により強いダメージを与えるようなものなのか。

 疑問に思ったレイナであったが、あのサミュエルには二度と自分たちの前に姿を現してほしくないので、その理由を知りたくもなかった。


 民たちの”希望の光を運ぶ者たち”に向けている盛大な歓声は、まだまだ続く。

 

 わすか数日前に、この港町においてひときわ瀟洒な宿が炎に包まれたのち、氷漬けにされたにも関わらず、今の民たちの歓声は、自分たちを船上から見下ろす英雄たちに向けられていた。

 国王の命を受けた英雄たち。

 自分たちは、その英雄たちが出港する歴史的瞬間の目撃者だ。


 レイナの魂が15年間暮らしていた日本のように、インターネットやテレビ等で高スピードで情報が行きかう世界ではない。

 ほぼ民から民へと伝わった口コミによっての英雄たちへの歓声であるだろう。

 自分たちと同じ平民が何かを成し遂げることへの応援の気持ちもあるのかもしれない、とレイナは考えていた。

 国を治めているのは王族であるも、国を支えているのは名も無き平民たちである。

 民がいなくては、国は滅びてしまうのだから。


 出港の合図。

 身分も財産も何もなくても、各々の命でアドリアナ王国を支えている民たちの歓声はさらに大きくなっていく……


 年代も職業もさまざまである民たち。

 その民たちのなか――

 アドリアナ王国の大地を離れ、海原へと漕ぎだす英雄たちを見ていた1人の少年がそっとその群衆の中から抜け出した。

 少年は、”左脚を引きずりながら”港町のとある一角にある、酒場を目指した。


 足を踏み入れなくても、中はすさみきり、薄汚れていることが、外から一瞥しただけでも分かる酒場へと少年は足を引きずりながらも飛び込んでいった。


 少年の名は、ランディー・デレク・モット。

 年は17になったばかりであり、彼もまたアドリアナ王国の平民の一人であり――いや、正確には平民の一人で”あった”というべきか……

 彼がその人生という時を過ごす場は、数年前にアドリアナ王国の大地から、海へと変わっていたのだから……

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