ー16ー 出港(2)

 夜は明けた。

 

 カールとダリオの眼前には、一人の若い男の亡骸が昇りゆく朝日のあたたかなきらめく光に照らされ、冷たく横たわっていた。

 男の背に突き刺さっていた幾本もの弓矢はすでに抜かれていた。


 髪もボサボサで髭も伸び放題、浮浪者のような風体。その男の左頬に、逆三角形を描くように3つの黒子が並んでいた。

 男の顔立ち自体は、際立って美しいわけでも醜いわけでもなかった。この特徴的な黒子がなければ、人に強烈な印象を残すことのない男の喉元は、一直線に裂け、すでに乾き始めた血はおびただしく噴き出した跡が残っていた。


 男は自らの手で、自らの喉元を躊躇いもなく引き裂いた。

 自殺だ。

 追い詰められた男が自殺を選び、それを実行に移したのは、希望の光を運ぶ者たち、レイナ、そして居合わせた他の者たちからの聞き取りによって間違いはない、とカールもダリオも判断した。

 特にトレヴァーは、この男が宿の一室にレイナに襲い掛かっていたその場に居合わせたらしい。そして、いつものごとくクドクドと嫌味たらしいフランシスが発した”デメトラの町”という言葉……



 この男――”生前の”ティモシー・ロバート・ワイズに、カールとダリオは面識があった。

 デメトラの町で、まだ1才にもなっていなかった娘をマリア王女に毒殺された若い父親だ。 


 ティモシーは、娘の仇を取ろうとし、自分が生を受けた大地を治める国王の娘(の肉体)の息の根を止めようとした。

 平民が王族、それも王女を殺そうとした。

 ”マリア王女”が外も中も、人を人とも思わぬ残虐なマリア王女であったままであったとしたら、絶対に死刑は免れることはできない。

 だが、今のマリア王女の肉体の中にいるのは、全くの無実の別人の少女の魂である。”レイナの殺害”が遂行されてしまったという最悪の事態になっていたとしても、間違いなく極刑に処されるだろう。

 恋愛には程遠い日常を送り、まだ子を持つ親にもなったことなどもない自分たちだけでなく、ジョセフ王子も彼がこのような行動を起こさざるを得なかった身を千切られるようなその思いは、”人の心を持つ人として”痛いくらいに理解なさろうとするだろうけれども……


 おそらくティモシーは、最初から死ぬつもりであったのだ。

 ティモシーの無念のまま見開かれた血走った両の瞳を、ダリオがそっと閉じさせた。そして、カールがティモシーの亡骸に白い布をふわりをかけた。

 ”安らかに、眠れ”と――




※※※



 人を殺めた手。

 血塗られた手。

 窓から差し込んでくる沈みゆく夕陽に、この手は血のように赤く照らされていく――

 過去から絡み合う糸――決してぬぐい取ることなどできない、血にまみれた罪の糸は、たおやかで白い”この手”に絡みついている。

レイナは睫毛を震わせた。

 

 震えたその睫毛の奥で、ティモシー・ロバート・ワイズの最期の姿が再生され、レイナはその身をも震わせた。

 この肉体が、この手が、彼の娘・ビアンカを殺したのは、間違いなく事実であるだろう。

 ティモシーの最期の姿。彼は躊躇いもなく、自らの喉を一直線に引き裂いた。

 あの光景は、自分の魂に焼き付いて一生忘れることなどできないだろうし、忘れてはならないことだ。

 ティモシーだけでなく、この世界に来てから、この肉体へと向けられていた様々な憎しみと殺意が蘇ってくる。

 マリア王女に顔を焼かれた侍女のサマンサ、マリア王女に愛娘を殺されたアンバーの父親、そしてティモシー・ロバート・ワイズ。


 震えに加え、発熱した時のような眩暈を感じたレイナはふらついた。

 だが、ふらつくよりも今はしなければならないことがあると、レイナは唇を噛みしめた。苦く哀しいティモシーの最期の思いが、この全身にどろりとした油のように沈殿し、”血塗られた手”は震え、吐き気まで催された。

 けれども、今はこの”血塗られた手”で、恐ろしいサミュエル・メイナード・ヘルキャットの襲撃から自分たちを守ろうとしてくれた、魔導士ミザリーの看病をするのだ。


 レイナはベッドに横たわり、赤い顔をして苦し気に喘ぎ続けるミザリーの枕元に足音を立てないように歩みより、彼女の熱をたっぷり含んだ布を冷たい水で濡らした清潔な新しいものに取り換えた。

 その時、ミザリーが口元を少しだけ動かした。

 律儀な彼女は、おそらく”ありがとう”と自分に伝えようとしたのだろう。


 今、レイナとミザリー、そしてルークたちがいるのは、数日前の悲劇の舞台となった宿からわずかに離れた場所に位置する別の宿の一室であった。

 あの氷漬けになった宿の後片付け(レイナは衣類などよりも、何よりもアンバーの形見と言えるノートが無事であったことに安堵した。癪ではあるが、このノートがサミュエル・メイナード・ヘルキャットの炎に焼き尽くされなかったのは、フランシスの氷のためであるだろう)を終え、”一時的な休息の場”として、この宿に身を寄せていた。

 自分たちはまだアドリアナ王国内にいる。魔導士であるアダム、ピーター、ミザリーは、高熱にうなされ寝込まざるを得ない状態が続いていた。

 本来なら、今ごろ船に乗り、エマヌエーレ国への海路で出港3日目を迎えているはずであった。

 サミュエルの襲撃はこの港町に住む者たちにとっては超大事件であり、居合わせた”無関係の一般人”が血を流すことは幸運にもなかったが、首都から駆け付けたカールとダリオ、そして港町の衛兵たちは、その後のフォローに駆けずり回っている。


 

 ”魔導士の力を持って生まれた者にはより強く効く”痺れ薬のような妖しいサミュエルの薬。

 その薬による高熱だけでなく、サミュエルの拳による殴打の跡が頬に残っているアダムの看病は、彼の側をひと時も離れたくないジェニーがつきっきりで睡眠時間も惜しんで行っている。魔導士ピーターの看病は、ルークたちが行っているのだろう。


 苦しそうに喘ぎ続けるミザリーの様子を見たレイナの瞳に涙が滲み始めた。

 と同時に、また先ほどの眩暈が襲ってきた。

 実はレイナ自身の体調も万全というわけではなかった。まさか、あのサミュエルの薬は魔導士の力もないこの肉体にも苦痛の楔を残しているのか、それとも――

 レイナがティモシーに炎の中に投げ込まれる直前、本当に間一髪、フレディによって助けられた。

 彼とともに冷たい噴水の中へと身を浸すこととなったが、その後、すぐに服を着替えることができる精神状態でなく、ショックでただただ泣きじゃくり、ぐっしょりと濡れた冷たい寝間着のまま震えていたことを覚えている。それによって、風邪をひいてしまったのか。


 キーンと耳鳴りまでしてきたレイナは、思わずその場に座り込んでしまった。

 その時、聞き覚えのある声が響いてきた。

 ”落ち着いて”と――

 自分の魂に直接、響いてきたかのようなその声。その濃厚で艶のあるテノールをレイナは知っていた。

「……ヴィンセントさん?」

 今の声は、間違いなく”希望の光を運ぶ者たち”の1人、ヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーのものであった。

 けれども、ヴィンセントは今、この部屋にはいない……


 その時、部屋の扉が軽く2回ノックされた。

 それと同時に「レイナ、少し時間だけ俺たちの部屋に来てもらえるか? 話しておくことがあるんだ」というトレヴァーの声がした。

 

 レイナが扉を開けると、トレヴァーとこの宿の従業員だと思われる若い女性が立っていた。

 トレヴァーとの対比で、より一層小さく華奢にレイナの目に映ってしまっているその女性は、レイナ(マリア)の美しさを間近で見て、しばし声が出ないようであった。ほうっと赤らめたまま女性は、「お、お嬢様……そちらの方は私が看病いたしますので……」とたどたどしくも言葉を紡ぎ出した。




 トレヴァーに案内された部屋の一室には、すでにルーク、ディラン、ヴィンセント、ダニエル、フレディが揃っていた。

 ティモシーに酒瓶での殴打を受けたルークとディランの頭部には、痛々しい白い包帯が巻かれたままであった。

 トレヴァーに促されたレイナは、空いていた椅子の一つにチョコンと遠慮がちに腰掛ける。


 今からトレヴァーが何を話そうとしているのか、レイナは分かっていた。

 ティモシー・ロバート・ワイズのことだ。

 ティモシーは、その最期の時までマリア王女の肉体にある魂もマリア王女であると(確かにこのことはレイナの世界の常識から見て当たり前のことであるが)信じ込み、”レイナ”に対する殺人未遂のみならず、「淫売」「キ××イ」「悪魔女」、そして「キ××イマ×コ」などあらん限りの侮辱の言葉を浴びせかけてきた。


 トレヴァーは、彼とあの夜より前に面識があるらしかった。

 互いの名前すら知らなかったらしいが、トレヴァーはなぜ彼が”マリア王女”を殺そうとしたのかを知っているのだ。彼が復讐に自身の身までも焼き尽くすことになった原因を。


 窓から差し込んでくる赤い夕陽は、トレヴァーを、そして黙って彼の話を聞こうとするレイナ、希望の光を運ぶ者たちを赤く照らしていく……


 ルークとディランは、赤く照らされたトレヴァーの横顔を見ながら、思い出していた。

 体はがっしりとして一見おっかなさそうだが、優し気な鳶色の瞳で、ゆったりとした大地を思わせる兄貴分といった感じの2才年上のこの青年と、ほんの数か月前の冬にデブラの町で初めて出会い、何年も前からの友人であったかのように意気投合した。


 泊まっていた宿で、トレヴァーは以前にデメトラの町でジョセフ王子とマリア王女を見たことがあると言っていた。その時のトレヴァーは、マリア王女について何か奥歯にものが挟まったような言い方をしていた。そして、実際に”何を見たのか”話そうとした時、あのオーガストに自分たち3人は飲み残しの冷たい酒をぶっかけられた。


 宿がフランシスからの襲撃を受けた後、自分たちはアドリアナ王国の王女殿下の中にある魂は、全くの別人であり、しかも異世界から来た少女の魂だと知ることとなった。

 トレヴァーは、マリア王女の中の魂を気遣って、残虐趣味のヤバすぎるあの王女が以前にデメトラの町でしでかしたことを、自分たちにも話さなかったのだ。それはトレヴァーの優しさであり、思慮深さであったのだ。


 そして、ついにトレヴァーは、ゆっくりとその口を開き始めた。



※※※


 

 約1年前――

 アドリアナ王国内に優しい春風が駆け抜け、草花が芽吹き始めたその頃のトレヴァー・モーリス・ガルシアは、19才であった。

 トレヴァーはある旅一座に属し、裏方の用心棒として一日一日の生計を立てていた。


 歌と踊り、そして芸で、自分たちの身一つで食べていく者たちが集まった集団。

 それであると同時に、いわゆる社会の下流で生きる者、つまりは社会的弱者のカテゴリーに属する集団でもあった。

 決まった定住地を持たない単なる流れ者たち。

 その流れ者たちが盗みや強姦を訴えたところで大したことにはならないさ、とタカをくくった不埒な輩が、まとまった金を盗みに、または踊り子の肉体を狙い、侵入してくることは、表沙汰にならないだけで全国的に多発していた。人前で歌と踊りを見せるわけだから、よっぽど優れた芸を持っている者以外は、男も女も平均してわりと見られる容姿である者が多いのも、町から町へと風のように流れゆく旅一座の特徴でもあった。


 だが、トレヴァーが属していた旅一座は、魔導士の力を持っている団長が危険をあらかじめ避けたルートを通っていたため、命の危険や踊り子たちの貞操の危機を感じさせるほどの輩には幸運にも直面はしなかったのだ。



 その日――

 トレヴァーは、いつもより早くに目覚めた。早くにといっても、もう日が沈みかけていた頃であったが……

 トレヴァーの属している旅一座は、男女合わせて20人ほどであった。

 デメトラの町での興業は、まずまず成功し、明日には別の町へと移動することとなっている。

 このデメトラの町での最後の夜、トレヴァーは寝ずの番をするために仮眠をとっていた。


 まだ、眠気がうっすらと残る鳶色の瞳をこすり、トレヴァーは寝床より這い出た。

 誰かの話し声が聞こえてくる。

 それも4、5人の聞き覚えのない高い声が――

 

 トレヴァーが春風ではためくテントから顔を出すと――

 「わっ!!」と数人の少年たちが驚き、飛びあがった。


――なんだ、子供たちだったのか?

 トレヴァーは話し声の正体がすぐに分かったため、安堵した。

 何か変わった事態が起こり始めているのではないかと思ったけど、単にこの少年たちが物珍しさに、この旅一座のテント周りをウロウロしているだけであったのだと。


 声変わりもまだまだ数年先の少年たちが、物珍しい者、自分たちが暮らす町に風のようにやってきて、また風のように去っていく者たちに強い興味を示し、連れだってこのテントを覗きに来た。これは、どこの町でもある風物詩のようなものだ。


「すっげーでけえ兄ちゃん」

「筋肉マンだ」

「きっと、牛や馬を持ち上げたりするんだよ」

 物珍しそうに、そのうえ全く遠慮することなく、トレヴァーを見上げる6~8才だと推測される5人の少年たちの瞳はいずれも輝いていた。


 ”俺は裏方だ。それに、牛や馬を持ち上げたりするのは俺でも厳しいぞ”と思いつつ、トレヴァーは黙ったまま少年たちにニコッと微笑みかけた。


 そのトレヴァーの優しい微笑みに、トレヴァーの巨体に少しばかり恐れを抱いていた少年たちの顔は一斉にほころんだ。

 1人の少年が、トレヴァーに向かって、おずおずと口を開いた。

「あの……肩車してもらっていいですか?」


 少年の申し出をトレヴァーは快く受けた。

 トレヴァーの逞しい両肩に担がれた少年を羨ましがった他の少年たちが「次は俺も!」と、じゃれあってきた。

 人見知りもせず、今、まさに目の前にあることだけを楽しむ少年たちの、軽やかな重みを感じるトレヴァーの頬を春風が優しく撫でていった。


 なだらかな平地にあり、その風景通り、極めてのどかで平和なデメトラの町。

 アドリアナ国内の幾つもの町を風のごとく通り抜けてきたトレヴァーは、この町は今までで五本の指に入るほど治安のいい町だと思わずにはいられなかった。

 

 この場所からも見える家の数からして、町の人口そのものはそれほど多くはないだろう。

 だが、過疎化し始めている町というわけでもなく、子供や若者の割合が多いようであり、活気に満ちた町でもあった。首都シャノンより町一つを挟んでいるだけという理由もあり、デメトラの町でまずまずの家柄に生まれた者は、都会へと生き、教育を受ける機会にも恵まれるはずだ。ひょっとしたら、この少年たちの幾人かは、首都シャノンで教育を受けることができるかもしれないとも。


 地平線へと沈みゆく夕陽は、デメトラの町の青き草原を赤く染め上げていく――

「さあ、もう日が暮れる。おうちの人が待っているぞ」


 トレヴァーに早めの帰宅を促された少年たちは、赤い夕陽にその成長途中の華奢な身を染めながら、駆けていった――


 少年たちの後ろ姿を見ながら、トレヴァーは”自分たちの将来”について、思いをはせていた。

 そう、”自分たち”。

 トレヴァーは、旅一座の踊り子の一人である、同い年のライリー・ステラ・サットンと愛し合っていた。

 互いにけじめはきちんとつけ、団員たちの前で時と場所をわきまえずに、いちゃつくなどといったことは絶対にしなかったが、彼女とは子供ができていてもおかしくないぐらい、深い付き合いをしていた。

 

 ライリーは今はテント内にはいない。

 同じ踊り子のおねえさんたちと、デメトラの町の中心部で買い物をしているのだ。限られた手持ちの金と相談し、新しい町での衣装の下地となる服や靴を選び抜き、自分たちでより煌びやかで華やかになるようリメイクを加え、それぞれの女らしいゴージャスな肉体にまとうために。


 自分もライリーも、今は19才という若さを持っている。

 だが、いずれどちらの体力には衰えがやってくる。その前に、どこかに定住して、そこで2人で人生をともに歩んでいきたいと――



「……トレヴァー、寝ていたんじゃなかったのか?」

 背後からかけられたその酒やけしたような声に、トレヴァーは振り返った。

 テントより顔を出していたのは、この旅一座の団長であった。


 深い海を思わせるような青の瞳、白と灰色が混じりあった頭髪。

 年はまだ50手前のこの団長は、非常に特徴的な酒やけをしたような声であるものの、酒などは滅多に飲まず、この声は持病ともいえる咳の病が原因であった。


「いえ……少し早くに目が覚めたもので」

「そうか。それならいいんだが……」


 言葉を言い終わらないうちに、団長は酷くゴホゴホと咳き込み始めた。

 慌てたトレヴァーは、団長の体を支え――

 

 テント内の簡単なつくりの固い寝台に、トレヴァーによって横たわらせられた団長は、トレヴァーの顔をじっと見つめた。

 まさに用心棒にうってつけな肉体の発達具合だが、極めて真面目で優しい鳶色の瞳をまだ年若い青年を――

「……他の奴らにも話してあるんだが……俺が死んだ時は墓などはいらん。ただ、この身を火にくべて、風へとかえしてくれればいい」

「団長! そんなこと……!」


 驚いたトレヴァーも団長の顔をじっと見つめた。

 この深い青の瞳をした、年齢的にいえばまだまだ死を考えるには早すぎる男を――

 この団長は、気が荒いわけでもなく、かといって無口なわけでもなく、生まれ持った魔導士の力に加え、常識や良識はきちんと持ち合わせつつ人生を紡いできた、いわゆる善良な中年の男である。

 もともと体が丈夫ではない彼のその顔にある皺には、年を重ねる喜びや深みよりも、苦渋の思いの方が強く刻み込まれているような気がしていた。

 そのうえ、彼は自分の死期すらすでに悟り始めている。


 実のところ、魔導士の力など微塵も持っていないトレヴァーですら、薄々感じずにはいられなかった。

 この団長以上の高齢であったとしても、心身ともに生き生きとしている老人は大勢いる。けれども、おそらく肉体的にも精神的にも、団長の命の炎が灯されている蝋燭は……


 トレヴァーは、世話になった団長がこの世から数年もしないうちにいなくなるかもしれないというあってはならないことを、自分の中で強く打ち消すため、唇を強くグッと噛んだ。


 トレヴァーのその仕草を見た団長は、静かに口を開いた。

「……なんだかな、不吉な予感がするんだ」


 その答えにトレヴァーは、ハッとした。

 この団長は、魔導士の力を持ってこの生を受けた者である。

 まさか、自分の心の内を読まれたのではと。

 だが、団長の口から続いた言葉は、全く違うことであった。


「いや、不吉な予感というよりも、何か俺が今まで出会ったことがないような何かがこの地に近づいているような気がするんだ……怖いんだよ」

 そう言った団長は、感じている恐怖を誤魔化すように自身の顎にそっと手をやった。

 大の男が怖いと感じ、しかも年下の男に向かって、その恐怖を口にまで出して伝えた。


「あの、その……”今まで出会ったことがないような何か”とは一体……?」


――まさか、俺たちのいるこの旅一座に敵意や不埒な振る舞いをしようとする輩の襲撃を団長は感じ取っているのか……

 魔導士として、身を立てれるほどの力の持ち主ではないが、この団長の危険を察知する第六感なるものが自分たちより遥かに優れており、彼のおかげで今までそう危険な目にあることもなかったのだから。


 トレヴァーが、自身の考えを口を出すよりも早く、団長が再び、その口を開いた。

「”俺たち”に敵意を持っている者じゃない。そんな敵意を持っている者がいるなら、俺はこの町を通ることを最初から避ける。魔導士としては大したことなくても、それぐらいの危険は察知できるからな。……だが、俺が今感じている何かは、俺たちを最初から”人”として、とらえてはいないだろう。どう表現すればいいのか……人の形はしているが人ではない者だ。何かの間違いで人の器に入ってしまった禍々しい死の匂いを孕んだ、空虚な何か……」



 今の団長の言葉を聞いたトレヴァーは面食らった。

 人の形はしているが人ではない者。

 何かの間違いで人の器に入ってしまった禍々しい死の匂いを孕んだ、空虚な何か。

 矛盾している。

 だが、その矛盾している不吉さとその何かがもたらす恐怖を。この団長は間違いなく、感じ取っている。


「まあ、明日にはこの地を発つ。俺たちは、”その存在”を避けれればいい。俺たちの手に負える相手じゃなさそうだからな」

 そう言った団長は、ゴホゴホと咳き込んだ。

 「団長!」と慌てたトレヴァーは、冷たい水を彼に飲ませ、肉が薄くなってしまっている彼の背中をさすった。


 ふう、と息を吐いた団長は、トレヴァーに礼を言い、再び寝台に横たわり、瞳をそっと閉じた。

「トレヴァー……魔導士の力を持って生まれてしまった俺の戯言だと思って、今から俺が言う話を聞いてくれるか?」

 そっと目を閉じたはずの団長が、再び、青い瞳でトレヴァーを見ていた。

 

「?」と不思議そうな顔をするトレヴァー。

 だが、団長はかまわず続けた。この青年にどうしても伝えておきたいことであったために。

「……本当に近い未来のことだ。お前は数奇な運命の船に乗るだろう。今のお前からは、とても信じられないような……偶然のようであるが、幾つもの必然の出会いが待っている。その出会いには何か、俺たちが住む世界とは異なる世界の魂も絡み合ってくるようにも”感じるんだ”」

「それは一体……?」


 トレヴァーは言葉に詰まった。

 自分が数奇な運命の船に乗る? 

 そのうえ、偶然のようでいて、幾つもの必然の出会いが待っている? しかも異なる世界の魂が絡みあってくるとも……


「今の話は、魔導士の力を”ほんの戯れ程度”に神から授けられた男の戯言だ。魔導士の力といっても、その力の種類や強さは様々だ。俺のように、中途半端であるがゆえに、上にも行けず下にも行けない人生を歩む者もいる。だが、それも人の数だけある様々な人生の一つかもな。お前がこれから先の長い人生を生きる時、”しばしの間”同じ船に乗っていた一人の男が、こんなことを言っていたと時々、思い出してくれればいいさ」


「団長……」

 自分の死期を悟り、そのうえ自らの運命を呪いながらも受け入れた団長の言葉に、トレヴァーの胸は痛んだ。


 その時――

 自分たちのいるテント前に、まだ騒がしさが戻っていたことに気づいた。


「……さっきの子供たちだろう? お前に何か、伝えたいことがあるみたいだ……あの子供たちには、邪気の欠片も見られんよ」

 

 トレヴァーは考えた。

 団長が感じ取っている不吉な予感は、”自分たちがいる旅一座”には向いてはいないらしい。でも、この地に近づいてくる。あの少年たちに危害が及ぶことがないと言い切れるだろうか、と。


 団長はそっと目を細めた。

「お前は本当に女だけでなく、子供にも好かれる体質だな。きっと自分の”子供たち”とも、うまくやっていけるさ」


 団長の言葉に、少しひっかかったトレヴァーであったが、少年たちが自分を呼ぶ声と団長の「俺は一人で留守番してるさ」という言葉に促され、再びテントの外へと出た。



「お前たち、一体、どうしたんだ?」

 トレヴァーは、先ほど帰宅を促したはずの少年たちに優しく聞いた。

 少年たちは揃って息を弾ませ、そのうえ瞳をキラキラと輝かせて、自分を見上げている。


「王子様と王女様が、この先にある裏道を通るんだって!」

「にいちゃんも、見に行こうよ!」

 何人かの少年たちの興奮した声が重なり合った。


「王子殿下たちが……?!」   

 にわかには信じられないことである。

 けれども、自分を見上げる少年たちのキラキラと輝く無垢な瞳は嘘を言っているようには見えない。

 それに、王子殿下たちがこの町を通り抜ける理由の見当がつかないわけではない。


 このデメトラの町を抜けたところに慈善施設があるのだ。

 おそらく公務で現国王の王子と王女のお二方が揃って、慈善施設を訪れたのだろう。

 行きは別の道を、帰りは首都シャノンへと続く、デメトラの町を通り抜けることにしたのかもしれないと。


 アドリアナ王国の王族――保守的で質実剛健との噂のある現国王ルーカス・エドワルドとその息子である王子ジョセフ・エドワードは、仰々しい行列で移動するわけではなく、選りすぐりの従者(無論、兵だけでなく魔導士も含む)だけを率いていると風の噂で聞いたことがあった。

 目立ったことをするわけではなく、ひっそりと善なることを民のために行う国王陛下と王子殿下。

 心身とも衰弱している状態が何年も続いている王妃の影はすこぶる薄いが、その王妃が産んだ16才の王女マリア・エリザベスは、世に並ぶほどもない絶世の美貌の持ち主であるとトレヴァーも、聞いていた。

 

 

 スキップせんばかりの足取りで、坂道をじゃれ合いながら歩く少年たちを後ろから見守りながら、トレヴァーは「やれやれ、帰りはあいつらを家まで送っていった方がいいかもしれないな。俺みたいな流れ者と一緒にいたことが、あいつらの家族は不快に思うかもしれないけれども」と、考えていた。


「マリア王女って、凄い美人なんだって」

「でも、ハンナより可愛い女なんているわけないよ」

「そんなことない。俺のママが世界で一番、美人なんだ」

 前を歩く少年たちは口ぐちに言いあっていた。

 自分の母親と一人の少年が気になっているのであろう女の子の名前が彼らの口より紡がれている。


 トレヴァーは、好奇心旺盛な少年たちを保護するために彼らについていっているということもあったが、自分自身もアドリアナ王国の王子と王女の姿を一目でいいから見てみたいと思っていた。

 首都シャノンで実際にマリア王女の姿を見たことがある者が、このまま首を刎ねられて死んでもいいと思えるほどの美しさであったと、興奮気味に語っていたらしいということも風の噂で聞いたことがあったのだから。

 言葉を交わすことなど恐れ多いことこのうえなく、そもそも、単なる平民がその姿を直視する機会などは、この機を逃したら一生ないに等しいだろう。

 


 トレヴァーと少年たちが、ひときわ開けた道へと出た時、そこにはすでに十数名ほどのデメトラの町の民たちが集まっていた。

 少年たちのうちの一人が「間に合ったぜ」と言いながら、民たちの中にいる自身の兄だと思われる少年のところにタタッと駆け寄っていった。

 どうやら、王子殿下と王女殿下がこの道を通ることは、デメトラの町の中心部にまでは届いていないらしい。届いていたとしたら、もっと大騒ぎになり、ここにもっと大勢の民が詰めかけていたに違いない。

 この付近の所帯を構える幾つかの世帯にのみ、急遽伝わったのだと推測された。

 

 自分のように寝床が定まらぬわけではなく、この大地に家を構えて暮らしている民たち。

 その民たちは、明らかにこの町の者ではないよそ者のトレヴァーの姿を認めても、侮蔑や嫌悪の視線を向けることはなかった。デメトラの町は、こののどかな情景どおり、わりと民度のいい町なのだろう。ただ、「でけぇな」と誰かがボソッと呟いた声はトレヴァーにも聞こえたが。


 民たちの中には、急いで一張羅に着替えてきたと思われる者もいれば、しきりに手櫛で自分の髪を整えようとしている者もいた。

「やっぱり、髭剃ってきた方がいいか?」と、自分の妻らしき女に聞いている男もいる。



 トレヴァーは集まった民たちの中にいる、自分と同じ年頃だと思われる黒々とした髪の一人の青年に目を留めた。

 青年の左頬には、逆三角形が描くように3つの黒子が並んでいた。

 その青年の傍らには、折れそうなほどに細い腰つきの小柄な女性――女性というよりも少女の域を出たばかりと思われるほどのあどけなさが残っている娘がいた。

 だが、その娘は、華奢な腕の中に赤ん坊を抱いている。あの娘は母親なのだ。


 夫婦か、とトレヴァーは考えていた。

 青年は妻の腕の中の赤ん坊を覗き込み、妻とともにキャッキャッと笑い声をあげる赤ん坊をあやしていた。青年はおそらく肉体労働で生計を立て、妻と赤ん坊を養っているんだろうと一目で予測できる体つきであった。

 どちらもハッとするほどの美男美女というわけではなく、そう裕福というわけでもなさそうだったが、彼ら夫婦の醸し出す清潔であり穏やかで地道な幸福に溢れた雰囲気は、まるで一つの絵のようにトレヴァーの瞳には映った。


 「ビアンカ」と呼びかける声に、赤ん坊――ビアンカはさらに嬉しそうに笑みをあげ、まだ少女の面影を残している母へとキャッキャッと無垢な笑い声をあげ、その小さな手を伸ばしていた。

 

 一人の少年の「来たよ! ほら!」という声にトレヴァーは我に返った。

 少年の小さな人差し指が指し示す先に、王子殿下と王女殿下がいるらしい一行の姿があった。

 少年の母らしき女性の「こら! 指差さないの!」と盛大に慌てる声に、少年はハッとして指をひっこめた。

 

 王子殿下たちがこの道を通るには、あと数分ほどの時間を有することは誰もが理解していたが、皆、その場にひれ伏すように揃って腰を落としていく。

 トレヴァーも、まだ礼儀などについて正確に分からない少年たちも、そして先ほどの若夫婦も――

 ただ、アドリアナ王国の王子殿下と王女殿下に敬意をあらわすために。

 


 王子殿下一行が、この場へと近づいてくる。

 馬の蹄、そして規則正しい足音たちに、緊張と畏敬による静寂は刻々と張りつめていく。

 トレヴァー自身、自分の心臓がいつもより強く脈打っていることを感じていた。彼と同じく地にひれ伏した民たちの中より、緊張によって全身からやっとのこと絞り出されたかのような幾つかの深く濃い息はトレヴァーの鼓膜にまで届いた。


 トレヴァーは、自分のすぐ近くにいる少年の一人がブルブルと震えていることに気づいた。

 少年の顔は青ざめていた。

 きっと彼の10年にも満たない人生で、最大であり、最初で最後かもしれない緊張に彼は直面しているのだろう。

 そのまま少年の肩を抱いてやりたかったが、トレヴァーはいくら同性とはいえ、他所の子供の肉体に本人の許可なく気安く触れることは躊躇していた。

 だが、少年がリバースしそうになったら、彼をすぐに抱えて走り王子殿下たちの前で吐瀉物をまき散らすのだけは阻止しなければとトレヴァーは身構えていた。



 けれども、そのトレヴァーの身構えもむなしく、この数刻後、この少年は王子殿下と王女殿下の前でついにリバースすることになってしまうのだ。

 敬愛すべき王女殿下の手によって人が死ぬ瞬間を、目の前で見てしまったがゆえに……

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