ー15ー 出港(1)

 カール・コリン・ウッズとダリオ・グレン・レイク。

 この港町で起こっている異常な事態――いや、異常な事態というよりも、”希望の光を運ぶ者たち”の身に迫っている命の危機を救わんと、首都シャノンより瞬間移動にて駆け付けた彼ら。

 その彼らもまた、自分たちの瞳に映る目の前の惨状に息を息を呑んだ。 


 幾筋もの業火。

 その業火はまるで大蛇が鱗を光らせるように、その熱き身をくねらせていた。


 夜空には沈みゆく青い月が煌々と輝いている。

 だが、今彼らが目にしているのは、間違えて地獄の一歩手前へと瞬間移動をしてしまったのかと思わざるをえない光景であった。


 何の力も持たない一般市民であったなら、自分の身を守るために真っ先にこの場から避難するであろう。けれども、この業火を消すことができる”力”を持ってこの世に生を受けた彼らは頷きあった。


 バッと互いの手を取りあったカールとダリオ。

 彼らの手が重なり合ったそこより、彼らが精神を集中させ数秒のうちに練り上げた気が放たれ――


 眩しい光。

 誰かを傷つけ、殺めるために発せられた気の光ではない。

 人を助け、守るためにカールとダリオが発したその気は、燃えさかる炎を澄み切った上空へと風とともに舞い上がらせ、昇華させるかのような動きを見せ――やがて、十数秒のうちに禍々しき紅蓮の炎は掻き消えた……


 燃えさかっていた炎は完全に消えた。

 だが、カールもダリオも理解していた。これは自分たちの力が優れていたから、いとも簡単に鎮火できたわけでない。この炎を生じさせたと思われる者が、今はこの炎を”操ってはいない”からであるのだと。


「カールさん! ダリオさん!」

 トレヴァーの声。

 トレヴァーの腕の中には、ヴィンセントの背より受け渡されたばかりの魔導士アダム・ポール・タウンゼントがいた。

 よく見えなかったが、アダムは気を失い、そのうえ顔に血(おそらく鼻血であるだろう)がついていた。そのアダムの傍らには、涙で濡れた顔のジェニーもいる。


 首都シャノンより彼らとともに出立した兵たちも姿も、カールとダリオは認めた。この港町の衛所に務める衛兵だと思われる者たちも馬に乗り、駆け付けてもきていた。

 そして、彼らの中にはマリア王女にその命を捧げる人形職人オーガスト・セオドア・グッドマンの姿もあった。


 国王陛下の命を受け、ユーフェミア国へと旅出つ”希望の光を運ぶ者たち”7人、レイナとジェニーの2人の少女、そして彼らを助け、万が一の時は守るためにと付き添っている自分たちのピーターとミザリー、ともに旅立った兵士たちの命だけは無事であるようであった。

 そう、命だけは――


 彼らは無傷というわけではなかった。

 月明かりに照らされた者たち。 

 同僚であるピーターとミザリーは、トレヴァーたちの足元で、誰かが脱いだ上着の上に横たわらせられていた。

 カールとダリオは固く目を閉じた彼らがなんらかの魔術によって、極限まで弱らせられた気を感じ取ることができたが、何も知らない者が彼らを見たら、彼らを死人だと思わずにはいられないだろう。


 トレヴァー、ヴィンセント、ダニエル、ジェニーには目立った外傷はないようであった。

 だが、ルークとディランは頭から血を流している。アダムと同じく、負傷している。

 そして、二百年前の我がアドリアナ王国の国王ジョセフ・ガイの彫像が悠然と立つ噴水の中で、ずぶ濡れとなっているフレディとレイナ。

 フレディの服(おそらく寝間着であったものだろう)はボロボロとなり、彼の引き締まった素肌がところどころ剥き出しになっていた。

 レイナは――自分たちが駆け付けたことにも気づいていないのだろうか、口元を押さえ、フレディにかばわれたままガタガタと震え、青き月のごとき美しい瞳からは今にも涙が溢れ出さんばかりであった。


 レイナたちの視線の先には――


「!!!」


 一人の男が倒れていた。

 男の背中には、無数の弓矢が突き刺さっていた。

 青き月の下では、黒に見える真紅の血だまりの中に突っ伏すように倒れているその男の命がすでに亡いのは、誰が見ても明らかであった。

 間に合わなかった。

 死者が出てしまっていた。

 うつぶせとなっているため、死した男の顔は分からない。

 だが、男の髪の長さや体格からして、フランシスやあのネイサンという子供ではない。

 まさか、あの男こそ、自分たちが一度も姿を見たこともなく、名前しか聞いたことがなかった魔導士サミュエル・メイナード・ヘルキャットなのか?

 いや、巻き添えになってしまった一般人という可能性もある。 


 顔を見合わせ、再び頷きあったカールとダリオが一歩を踏み出した瞬間――

 彼らは感じ取った、この場に姿を見せようとしている悪しき者たちの気を。自分たちが何度も感じ取った”あいつ”の気配を――


「!!!!!」


 カールとダリオだけでなく、全員が――いや、かろうじて動くことができる者たちは皆、肉体に深い楔を残している苦痛に耐え、身構えた。


 突如、眼前に現れた黒い靄はゆっくりと晴れていった。

 青き月の下で、漆黒の炎のように揺らめきながら……


 余韻を残す登場の仕方。

 流れるような長髪のシルエット。

 あのシルエットは絶対に魔導士・フランシスだ。そのフランシスより大きい影が、彼のすぐ側に立っていた。

 あのシルエットは、少年魔導士ネイサン・マイケル・スライにしては大きすぎるし、それに何よりもその大きな影は髪をツインテールに揺っており、まるまるとした乳房の輪郭も見てとれた。

 もう1人は女だ。


 晴れた漆黒の靄より現れたのは、やはり魔導士フランシスであった。

 そして――


 「ロッ……ローズマリー……!」

 ズォォォンという擬態語とともに現れたかのような筋肉隆々の大女の姿を見たルークとディラン、トレヴァーはギョッとし、ダニエルはビクッと飛びあがった。

 この苦痛が残っている肉体で今から、あの女とやり合わなければならないのか。


 彼らの反応を見たカールとダリオは、あの女が話に聞いていた以前にルークたちをしばき回した超武闘派の女か、と理解した。

 話に聞いていた以上の存在感と迫力だ。

 ローズマリーの傍らにいる、長身の部類に入りなおかつ男であるフランシスが華奢に見えるほどであった。

 22才の男として、決して軟弱な体格ではないカールとダリオも、あの女に殴られたら吹き飛んでしまうのでは思うほどの畏怖を感じずにはいられなかった。



 フランシスは、グルリと辺りを見回した。

 そして、”ある一点”を見て、目を少しだけ細めた後、自分と同じ魔導士である彼らへと向き直った。 

「お久しぶりですね、カールとダリオ。火を消してくださるとは、お礼を申し上げます。私の手間が省けましたよ」


 いつもと同じで余裕綽々とし、憎たらしいフランシスの物言い。

 フランシスは黙ったままのカールとダリオの心の内を読み取ったかのごとく、言葉を続けた。

「私はあなたたちとやり合いにこの場に姿を見せたわけではないんですから、安心してください。あなたたちもこのシュールでカオスな状態に驚きを隠せなかったという具合ですね。あなたたちを物言わぬ亡骸にするのは、私にとっては赤子の手をひねるようなものですけれども、あなたたちまで失ってしまったら、ジョセフ王子が嘆き悲しみますからね」


「……ふざけるな!」

 カールが声を荒げ、ダリオも眉をグッと吊り上げた。


 顔立ちばかりか、怒りの表情まで似ている2人の若き魔導士を見て、フランシスはクスリと笑った。

 その余裕に満ちた笑み。

 自分はいつでも彼らを殺せる。だが、見逃している。もっと大きな目的があるが故に。

 そして、そもそも今、この場に現れたのは、その大きな目的のために必要な自分の右腕である1人の魔導士を取り戻しにきただけであるのだから――


「少し、失礼」

 その言葉とともに、フランシスとローズマリーはフッと掻き消えた。今度は余韻を残すことなく――


 だが、そのわずか数秒のちに――”彼ら”は再び、元の位置にフッという音とともに戻ってきた。

 彼ら。

 そう、依然として余裕に満ちた表情のフランシスと、少し憮然とした表情のまま(思う存分暴れたいのだか、今はやめておいてくださいね、とフランシスに言い聞かされている)のローズマリーと、そのローズマリーの逞しい両腕に、お姫様抱っこのような体勢で抱えられたサミュエルがいた。遠くに――燃えさかっていた炎の中の”ある一点”に失神したまま倒れていたサミュエルをすぐに抱きかかえ、この場に戻ってきたのだ。



「部下の不始末をお詫びいたします。どうも、サミュエルも今宵はペースが狂ったようでございましてね。ただの柄の悪い若者みたいになってしまいましたよ。ですが……彼をアドリアナ王国側へは渡しませんよ」

 フランシスの瞳がキラリと光った。

「まあ、仮に彼があなたたちをはじめとする、アドリアナ王国の正義を重んずる方々に捕えられたとしましても、彼にとっては牢屋破りなどはたやすいことですけれども。彼にこれ以上、血を流させてややこしいことになるのは避けたいですからね」


 サミュエルが牢屋破りをする。それはつまり監視の者を殺して、自由の身になるということだろう。

 今のフランシスの言葉を聞いた、今宵の一連の流れをまだ掴めていないカールとダリオもハッとした。

 あのローズマリーという名の大女が今、抱き上げているあの若い男こそが、話に聞いていたサミュエル・メイナード・ヘルキャットなのだと。


 カールとダリオの瞳に映るサミュエル・メイナード・ヘルキャットは、彼の戸籍上の年齢――アダム・ポール・タウンゼントと同じ83才という年齢には、絶対に見えなかった。

 予測していた通り、やはりヘルキャットもフランシスと同じく神人の不老という特性を手に入れているのだ。

 それに――

 固く瞳を閉じた彼のその顔立ちを見る限り、悪しき者には見えなかった。

 59年前――いやもう数か月もすれば60年前に、何の罪もない一般人多数を巻き込んだ神人殺人事件の首謀者の1人である犯罪者には見えなかった。

 月明かりに照らされたその顔立ちは甘やかで品すら感じられ、間違いなく美男子の部類には入るほどでもあったのだから。

 性格は顔に出るとは、人は良く言う。

 だが、顔と性格が一致しない人間は一定数やはりいるのだ。そのサンプルの主たるものがマリア王女であり、そして今、自分たちの目の前に立っているフランシスであるのだから――


 そして、ローズマリーは、そこそこ上背があって決して小柄と形容することはできない成人男性であるサミュエルを両腕で抱きかかえ、平然と仁王立ちの体勢を続けていた。

 このことは、成長途中のネイサン・マイケル・スライの細腕には少し厳しいし、同じ女であっても、そもそも女だからこそ、レイナやジェニーは絶対に無理であるだろう。


「なあ……フランシス、やっぱり駄目か?」

 憮然とした表情のローズマリーが、チラリと”希望の光を運ぶ者たち”へと視線を移した。


 ローズマリーの視線と、アダムと両腕で抱きかかえているトレヴァーの視線がかち合った。

 トレヴァーとローズマリー。

 希望の光を運ぶ者たちと、悪しき者たちのうちでそれぞれ一番発達した筋肉を誇り、なお高名な魔導士をそれぞれ抱きかかえた2人の視線が一瞬交わった。

 すぐに視線をトレヴァーから逸らしたローズマリーであったが、彼女のまるまるとしたふくよかな頬はうっすらと桃色に染まっていた。

 それは、やはり今から、あの希望の光を運ぶ者たちとやり合いたいという気持ちが盛り上がっていたためか、それとも――


 この一瞬のうちにローズマリーは、フランシスの許可さえ下りれば、自分がこの腕を振るえるかもしれない者たちの姿を肉食動物のようにとらえていた。

 サミュエルと同じく気を失っている魔導士のじいさんや双子みたいな魔導士の男たちは別として、以前にしばき回したトレヴァー含む4人のガキたち(あの全く対照的な雰囲気のガキ2人は頭から血を流しているし、あの青白い顔のヒョロヒョロしたガキは相変わらずのチキンぶりだ)と他にもまだ2人の男と兵たちがいる。

 赤毛でやたら濃い顔立ちの男と、「凍った騎士」などとフランシスに呼ばれていたグレーの髪の男だ。特に今、マリア王女の本体とともに全身ずぶ濡れとなっているあのグレーの髪の奴は、見るからに優れた運動能力を持っているのが感じ取れる。


 ”彼ら(素晴らしいガチムチのトレヴァー、そしておそらくその次はあの凍った騎士)とやり合いたい”というローズマリーの燃え上がる熱意がその筋肉に包まれた全身より発せられているのを感じ取ったフランシスは、ゴホンと咳払いをした。

「いいえ、今日のところは帰りましょう、ローズマリー。手負いの状態の彼らをフルボッコにしてもあなたは満足しないはずです。それに……ここで彼らを倒しても面白くないでしょう。エマヌエーレ国を救う彼らの物語はやっと大きく動き始めたというのに」

 そのフランシスの言葉を聞いたローズマリーは、悔しさで唇をグッと噛みしめた。

 だが、数秒のち、「”わあった”よ」とややぶっきら棒に、”分かった。今日はお前の言う通りにするよ”という意志をフランシスに示した。


「あなたとネイサンは聞き分けがいいから助かりますよ。私の堪忍袋の尾をキレさせることはないのですからね」

 やや悪意のこもったフランシスのその言葉。

 数か月前、フランシスの堪忍袋の尾を切れさせ、地獄の業火で魂の大部分を焼くつくされ、人形の首に魂のひとかけらだけが残っている、世にも美しい王女の存在は、ローズマリーもきちんと理解している。


 撤退の承諾の意をローズマリーから感じ取ったフランシスはゆっくりと希望の光を運ぶ者たち、そしてカールとダリオに向き直った。

 沈みかけている青い月あかりに照らされ、フランシスの銀色の髪が夢のごとく、闇に映えていた。


「さあ、皆さま。この次はエマヌエーレ国でお会いいたしましょうか。今後の船旅は、嵐だの海賊だのの多数の危険を孕んでいると思いますが、私は、いえ私たちはあなた方が無事に異国の地を踏むことを期待しておりますよ。エマヌエーレ国に着いた後はもしかしたら、以前に少しだけお話しました影生者の兄妹もあなたたちと顔を合わせる縁が紡がれているかもしれませんしね」

 余裕に満ちたフランシス。

 このフランシスが率いる悪しき者たちも、エマヌエーレ国への旅路を――海ではなく、空という大海原で進んでいくのだろう。


 軽く咳払いをしたフランシスは、カールとダリオに視線を移した。

「あなたたちは、今宵、ただ愛だけに生き、短き生涯を先ほど閉じたそこの哀れな男の身元をジョセフ王子にご報告しなければなりませんね」

 物言わぬ亡骸となって、うつ伏せに倒れているティモシー・ロバート・ワイズへとフランシスは視線を移した。

「デメトラの町で、マリア王女があのようなことをしでかさなかったら、彼はごく普通の夫であり、父親として、愛する妻と娘とともに今宵の国王陛下の生誕祭を迎えていたでしょう。まあ……マリア王女にあの薬を渡したのは私だったので、責任の一端は私にもあるのですが……まさか、彼女が戯れに何の罪もない平民の赤ん坊を殺すなんて思いませんでしたもの。マリア王女の狂気を甘く見てはいけませんでしたね」


 フランシスの口から、”デメトラの町”という単語を聞いたカールとダリオは、ハッとした。彼らも思い出したのだ。あのデメトラの町でマリア王女が戯れに行った人殺しを――

 そして、アダムを両腕に抱えたままのトレヴァーも一層、険しい顔をしてフランシスを見ていた。


「さて、そろそろ帰りますか。ローズマリー」

 そう言ったフランシスがローズマリーに向き直った、その時……


「フランシス!」

 オーガストがフランシスへと駆け寄った。

「……俺も連れて帰ってくれ」


 オーガストのその言葉と彼の切なる懇願が溢れたその表情を見たフランシスは、エメラルドグリーンの瞳を細め、小さな子供をあやすような口調で言った。

「オーガスト……あなたにはこれから使用予定の精巧な人形を数体作っていただきました。もう私といたしましては、これきりあなたを探し出してまで、どうこうする気は全くないのですよ。それに、このような皆が揃っている前で言うことではないんですが、やはりあなたは元凶――いえ、マリア王女に出会う前の生活に戻るべきですよ。多少の懲役はくらうかもしれませんが、せっかく命が助かったんですから」


 助かったんじゃない。

 この何を考えているのか分からないフランシスによって、気まぐれであったにせよ、自分は助けられたのだとオーガストは理解していた。

 自分には人形を作ることしかできないし、魔力も武力も持たない自分などは単なる役立たずなのだから、こいつらにとっちゃどうでもいい存在でしかないのだということも。

 だが、マリア王女の魂があの神人の船にいる。あの方は自分の帰りなどは待っていないかもしれない。だが、自分にとっては、マリア王女はまさに自分の半身――いいや、命以上の存在なのだ。自分の命を残して、市井の中に戻れるものか。


「……いいから、俺も連れて帰ってくれ。頼む」

 オーガストはフランシスに手を差し出した。


「よせっ!」

 頭から血を流したままのルークとディランが、苦痛に顔を歪めながらハモるように叫んだ。

「オーガスト! そいつから離れろ!」

 カールとダリオもハモるように叫び、身構えた。


 なんて、馬鹿なことを。せっかく、悪しき者たちとの縁が切れるかもしれないのに、わざわざまだ荒れ狂う嵐の中へと、燃えさかる炎の中へとお前は飛び込むのか――と。


「全く懲りない人ですね。あなたも」

 ルークとディラン、カールとダリオの制止にも聞こえないふりをしたフランシスがオーガストのその手を取った。


「顔が似ていない”にこいち”コンビも、顔が似ている”にこいち”コンビもどちらもうるさいですよ。オーガストもあなたたちと同じく、立派な1人の男なんですよ。ここは彼の意志を尊重しましょうよ。そして、彼自身の選択による責任は彼自身がその身で負うということもね」


 フランシスとオーガストの手は重なりあった。

 愛だけにいきる哀れな人形職人は悪しき魔導士に手を伸ばし、悪しき魔導士はその手を取った。

 オーガストは再び、フランシス側に立った。神人の船に乗り、破滅しか待っていない愛の海を進んでいくのだ。


「ただし、オーガスト。あなたには戦力としての一切期待はいたしませんよ。ご自分の身と”あなたの女神”の身はご自分で守ってくださいね。おそらく、あなたは腕相撲ですら、この人間離れしたローズマリーに勝てないしょうし……まあ、私自身もあの神人の船の乗る者たちの中の誰一人として、彼女には勝てないとは思いますけど」

「おい……人を化け物みたいにいうなよ」

 フランシスの言葉にローズマリーがピクリと青筋を立てた。


「それでは本当に失礼するといたします」

 フランシスはクスリと笑った。

 そして、二百年前の国王――(ここだけの話だが元々のフランシスが今以上の貧富の差のある社会の片隅で生を受けた、その年に崩御した)ジョセフ・ガイの立派な彫像が以前と立つ、噴水の中でともに水浸しのまま、焼け焦げた衣服を身にまとった凍った騎士フレデリック・ジーン・ロゴにかばわれたままの異世界からの少女・レイナに視線をチラリと移した。

 さりげなく――といっても、レイナはフランシスと視線があったのを敏感に感じ取り、冷たい水の中でさらにそのたおやかな身を震わせたのだが、フランシスはレイナからスッと視線を逸らし、傍らのオーガストを見た。

「……いいんですか? オーガスト」

 フランシスは小声で彼に問う。

 あなたの愛しの女神(の肉体)は、今は他の男の傍らにいますよ。引きはがさなくていいんですか? と。

「……いいんだ。早く俺を連れて帰ってくれ」

 ”愛しいマリア”王女から目を逸らし、唇を噛みしめたオーガストは、苦し気に絞り出したかのような声でフランシスに答えた。


 フランシスはバッと手をかざした。

 沈みかけている青き月の光の元で、漆黒の靄が溢れ出した。

 全てを覆いつくし、あと数時間もすれば朝日が昇るであろうこの地を漆黒に染め上げてしまうのではと思わせるその深い靄は、フランシスとローズマリー、今宵この地を荒らしつくしたものの、今はローズマリーに抱きかかえられたままのサミュエル、そして愛のために生き続けることを再び選択したオーガストも何もかも漆黒の中に呑み込み……


 そして、消えた――



 


 同時刻の神人の船。

 ネイサンは部屋の一室をウロウロと足早に行ったり来たりしていた。

 落ち着かない。

 今、一体、地上でどんなことが繰り広げられているのか。

 生まれつき抜きん出た魔力を持ち、この世に生を受けたものの、フランシスのように遠く離れた場所の光景を他人に見せる、または覗き見をするほどの技術はネイサンはまだ取得していなかった。


――やっぱり、俺も”見学”だけでもさせてくれと、フランシスさんにせがむべきだったかもしれない。そういってせがむ程度なら、イカレ王女のように魂のひとかけらだけにされるまでにはならないだろう。単にローズマリーとサミュエルさんを取り戻しに行くだけだって、フランシスさんは言っていたけど……今頃、きっとローズマリーの奴、地上で暴れ狂っているんだろうな。カールとダリオにはフランシスさんが魔導士同士、相手になっているんだろうけど。ローズマリーの奴、特にあの日焼けしたムキムキ男に気があるみたいだったし……


 苛立ち。

 優れた”腕力”を持っていたために、今宵――いや、もう数時間もすれば日が昇るかも――フランシスに選ばれた同僚に対する羨望で、ネイサンがその無造作に束ねた長髪を幾度目かに掻き毟った時であった。


 フランシスが発する気。

 そして、ネイサンが耳を澄ますと、この神人の船の看板より、複数の足音が聞こえてきたのだ。


 帰ってきた。フランシスとサミュエル、そしてローズマリーの”3人”が――

 弾かれるように、けたたましい音で部屋の扉を開け、看板へと続くまだ薄暗い廊下を駆け出したネイサンの瞳に、地上からこの神人の船に帰還した者たちのシルエットが見えてきた。


 まずは、流れるような長髪のフランシス。あの赤毛の美形に後ろから殴られて、気を失わされたサミュエルと、そのサミュエルを抱きかかえたローズマリー。そして――

「え……」


 4人目のシルエット。

 人形職人オーガスト・セオドア・グッドマンまでも、この船に戻ってきている。

 ネイサンが積極的に縁を紡いでいきたいわけでもなく、また縁を遠ざけたいわけでもない、まあ要するに魔力も武力も持っていないくて、ネイサンにとってはどうでもいいオーガストまでもが再びこの神人の船と……


――え? なんで、あいつまで。フランシスさんやサミュエルさんにイカレ王女への恋心と忠誠心を利用され、弄ばれただけだって、どんな馬鹿でも分かるだろ? まさか、あいつは自分のプライドまであのイカレ王女に吸い取られてしまったのか?

 オーガストがここに戻ってきた理由。

 それは、マリア王女がこの船の中にいるからのただ一つしかないだろう。


「ネイサン? フランシスたちが戻ってきたの?」

 ネイサンの背後から、小さな足音と少女の可憐な声がかけられた。

 別室でマリア王女の面倒(つまりは話し相手)となっていた魔導士ヘレンも、フランシスたちの帰還をしっかりと感じ取っていたのだ。

「ええ、ヘレンさん。フランシスさんたちが戻ってきたんですけど……」

 振り返ったネイサンは、ヘレンに目くばせをした。”あいつ”まで戻ってきたんですよ、と。


 オーガストの姿に気づいたヘレンも、ハッと言葉を失い、立ち尽くしていた。

”どうしてなの? それほど、マリア王女を愛しているの?”と問いたげな表情で……


 帰還したフランシスは、ネイサンとヘレンが心の中で考えていることが分かった。

 だが、彼はあえてスルーし、彼らに向かって口を開いた。

「ただいま、戻りました。全く、今夜もまた長い夜でございましたね。まあ、”アポストルとなった人の気配”も感じることができ、それなりに退屈はしなかったですけど、なんだか、物語の本題へと入る前にいろいろ起こってしまって、肝心の本題が尻切れトンボとならないことを祈りますよ。さあ、そろそろ私たちも休みますか。睡眠不足は精神的に結構くるんですよ」

 サラリと音がするほど、油気のなく清潔なフランシスの長髪が風もないのに、揺れた。


「ヘレン……申し訳ございませんが、サミュエルのベッドの用意をしていただけますでしょうか? 自身が作った薬の苦痛に、彼は本日よりあと数日間は寝込みうなされるはずです。一瞬の隙を見せたがために、アダム・ポール・タウンゼントに足元をすくわれた彼の自業自得といえばそれまでですけど、やはり彼は私の大切な右腕ですのでね」

 フランシスはフッとため息をついた。

「そして、ネイサン……あなたは私と一緒に寝ましょう。もちろん、同じベッドで眠るわけではありませんよ。睡眠不足で疲れてはおりますけど、あなたに寝物語を聞かせる余裕はまだありますのでね。好奇心旺盛な若者の芽を上から踏んずけるのではなく、私は伸ばしてやりたいと思っておりますのでね」

 

 ネイサンの顔が薄暗い廊下でも分かるほど、輝いたのがフランシスには分かった。

 これからネイサンに聞かせる寝物語。それは、まさにこれからの計画に関する新たな情報だろう。やはり、魔導士フランシスはまだ年若い自分をサミュエルやヘレンと同じく認めてはくれている。いつか、彼ら2人を超えて、自分が右腕となる日が来るのかもしれないとネイサンの心には歓びの炎が瞬時に灯された。


 困惑した表情のままのヘレン、そしてその困惑など瞬時に忘れ、一刻も早くフランシスと眠りたいと願うネイサンの横を、オーガストが通り、いや走り抜けた。

 彼は慌ただしい足音を立て、ある一室を目指した。

 先ほどまでヘレンがいた部屋。つまりは、マリア王女がいる部屋へと向かって――痛いほどのフランシスたちの視線が自分の背中に注がれているのを感じながら……


「今は、彼をマリア王女と二人だけにしてあげましょう」

 フランシスが言った。

 そのフランシスの言葉を聞いたローズマリーが、サミュエルを先ほどと何ら変わらない体勢で抱いたまま、「恋って苦しいもんだな」と、ポツリと呟いた。

 オーガストが部屋の扉をバアンと閉める音が、悪しき者たちのいる廊下に響いた。



 オーガストが誰よりも、自分自身よりも愛してやまないマリア王女は、天使のごとき美しい人形の首の姿でテーブルの上にいた。

 彼女の首の下には、なめらかで肌触りのいいすこぶる高級なクッションが敷かれていた。このクッションはフランシスが「一応、王女殿下ですからね。それなりの品質のものをご用意しましょう」とあつらえてくれたものであった。


「……私をほったらかして、数日間もどこに行っていたの? オーガスト」

 澄んだ甘い声。

 彼に問うそのマリアの声には、”こんなに私をほったらかしにして”という怒りと”やっと戻ってきてくれたのね。やっぱりあの不気味娘よりあなたの方がいいわ”という媚も含まれていた。

 いつ見ても変わることのない、夢か幻かというほどの美しさ。

 自分は生きている。だから、再びこの愛しき人に会えたのだ。


 唇を噛みしめたオーガストは、俯いて、声を絞り出した。

「……も、申し訳ございませんでした。少しフランシスに頼まれた仕事がありまして……」

 マリアは何も知らないようであった。

 自身の肉体が、ティモシー・ロバート・ワイズの憎しみの対象物となっていたことを。自身の存在が、単なるサミュエル・メイナード・ヘルキャットの添え物扱いでしかなかったことを。

 でも、”もう今宵のことに限っては”、決着は着いた。ティモシー・ロバート・ワイズの自殺によって。

 最後まで憎しみの炎を燃やし続けたあの男の魂は冥海へと逝ったのだ。


 オーガストは弾かれたように、マリアへと駆け寄った。

 そして、その熱く脈打つ胸のなかへと、彼女を抱きしめた。

「ど、どうしたの?! オーガスト?」

 マリアが驚いていた。そして、彼女を驚かせたのはそれだけではなかった。

 彼女の金色の髪――オーガスト自身が魂を注ぎ込み、作りあげたこの人形の髪に、彼の涙がポタリポタリと落ちてきたのだから。

 

 愛しい女の魂を再びこの腕に抱けたと歓び。

 だが、その歓び以上に……


――俺は何もできなかった。この方の肉体を取り戻すこともできず……結局、フランシスに助けられ、そのうえ、この方の肉体を守り抜いたのは、あいつらだ。俺は肝心な時には何もできなかった。フランシスが言う通り、俺は何の力も持っていない。ただこうして、この方の側にいることしかできない。この方の盾になることしかできないんだ……


 マリアの魂のひとかけらを抱きしめたまま、オーガストは決して声を出すまいと、歯を食いしばりむせび泣いた。

 愛する者を守る力を持たずに生まれた自身の身を呪いながら……

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