ー14ー サミュエル・メイナード・ヘルキャット(6)

 数刻前、首都シャノン。

 月はとうに高く昇り、眠りに入っていた王子・ジョセフであったが、廊下より聞こえてくる騒がしさにその青き瞳をひらいた。

 今の季節にそぐわぬ肌寒さを感じたジョセフは、素早くガウンを羽織り、部屋の外へと出た。


 今宵は父王であるルーカス・エドワルドの生誕祭だ。

 この城内にては、ささやかな祝い事を済ませたものの、国中にいたるところで祭の催しがあり、町の灯りもいつもよりも遅くまで灯っていることをジョセフは理解していた。

 だが、それにしては……


「オスティーン、何かあったのか?」

 ジョセフが廊下を出て、まず最初に目についた者――魔導士アーロン・リー・オスティーンに問う。

 アーロンの近くに、自分の側近である魔導士カールと魔導士ダリオまでもいることに彼は気づいた。


「殿下、お休みのところをこれは失礼したしました。実は……」

 アーロンは、カールとダリオとともにジョセフに恭しく一礼をした。そして、アーロンはその血の気がなく、神経質そうな顔をさらにしかめて、言葉を続けた。

「港町で何かが起こっているようでございまして……私たちもあの者たちとともに旅立ちましたマッキンタイヤーやレックスの気を探そうとしたのですが、掴めませず……なんとか掴むことができたタウンゼントの気も非常に弱弱しく……取り急ぎ、この城内で動ける者を魔導士一同で急遽、港町へと飛ばす心づもりでございます」

 アーロンのその言葉に、カールとダリオが唇を固く結び、頷いた。


「やはり、フランシスの襲撃か?」

 今、港町でいるレイナたちの無事を案ずるジョセフは、真っ先に、自分たちに仇なす魔導士の名をあげた。あいつは、ちょっかいをかけるのは止めると自らの口で言っておきながらも、けしかけてきたのだと。


 アーロンは言葉を濁しながらジョセフに答える。

「いえ……おそらく、違う魔導士によるものだと思われます」

 フランシスではなく、違う魔導士による襲撃か?

 動というよりかは、静の気の使い方をする、老成した魔導士アーロン・リー・オスティーンは、体力の衰えはあるものの、気の探し方ならび掴み方が非常に優れていることは、ジョセフも知っている。

 数か月前、この城内より消えた”レイナ”がデブラの町にいることを真っ先に探し当てたのは、このアーロンであるのだから。


「殿下……私はこの禍々しく燃え上がっている”この魔導士”の気に記憶があります。まだ、私が10代であったころ、神人殺人事件の現場に調査のために赴いた時に強く感じた気でございます」


 アーロンのその言葉に、ジョセフも、そしてカールとダリオもハッとした。

 聡明な彼らは、今のアーロンの言葉より理解した。

 アーロンが感じている、禍々しい魔導士の気。

 現在、60半ばのアーロンがまだ自分たちよりも年若い少年であった時に感じ取り、それから半世紀以上もたった今もなお、忘れることのできなかった魔導士の気。

 サミュエル・メイナード・ヘルキャットが、ついにその姿を見せたのだと――


 そして、ジョセフは思いもよらなかった。

 今宵の サミュエル・メイナード・ヘルキャットの襲撃には、妹マリアが過去にしでかした罪が絡み合っていることも――



「レイナ! 下がっていろ!」

 ルークはじめ、”希望の光を運ぶ者たち”は、レイナならび負傷して動くこともできないアダム、そしてジェニーをかばい、彼女たちの前にザッと立った。

 片方には酒瓶、そしてもう片方には燃え上がる松明を手にとったティモシー・ロバート・ワイズ。

 娘の仇を取るために、”マリア王女”を殺そうとしている男。

 

「……何があったかは知らねえけど、こいつは”マリア王女”じゃねえんだよ! こいつの魂は、ほんの数か月前にこの世界にやってきた。だから、お前に殺される理由はない!」

 そのルークの言葉に、ティモシーに対峙している者たち、全員が頷いた。

 剣を構えてはいるものの、ルークはティモシーに向かって、説得を試みようとしている。できるかぎり、武力ではない解決をルークたちは望んでいるのだ。


「理由があるとか理由がないとか、そんなこともうどうだっていいんだよ……その淫売の手が、俺の娘のビアンカに毒を与えて殺したんだからな! 俺自身がその淫売をこの手で殺したいだけなんだからな!!」

 

 ティモシーの言葉を聞いたレイナの手が震えた。

 人を殺めた手。血塗られた手。過去から絡み合う糸――決してぬぐい取ることなどできない血まみれの罪の糸が、たおやかで白い”この手”に絡みついてくる。


「それによ、さっき、”こいつ”がその女のことを”マリア王女”と呼んでいたろう! それこそが、その女がマリア王女であることの証明なんだろうが」

 顎をしゃくり、自分に視線を移したティモシーに、オーガストがハッとした。


 そうだ。

 自分は確かに、あのマリア王女の肉体を”マリア王女”と呼んだ。自分自身も、中にいる魂は別人、異世界から来たレイナという名の平民の娘の魂が入っているということは理解している。

 愛しさのあまり、愛する女の肉体を守りたいがゆえに、自らの口から”マリア王女”という言葉を発してしまった。これは自分のミスだ。


「……違う。あの人はあいつ等が言う通り、本当にマリア王女じゃないんだ。だから……殺さないでくれ……頼む」

 オーガストの懇願にティモシーが鼻を鳴らした。

「あんな悪魔を愛しているのか。お前もあの女にやらせてもらったのかもしれないけど、あの女は他の男にも平気で股を開いているぞ……自分だけは違うって思ってんのか。哀れな奴過ぎて、笑えるぜ」


 オーガストはグッとに詰まった。

 ”知っているさ。そんなこと”という言葉も飲み込んだ。

 とにかく、今は”マリア王女”を守らなければ――

 ティモシー・ロバート・ワイズをこれ以上、逆上させてはならない。何より彼の両手には……


 何かを堪えるように唇を噛んだオーガストを見たティモシーは、鼻を鳴らして笑った。

 彼の手にある数本の酒瓶が擦れあい音を立て、彼のもう片方の手にあるあかあかと燃える松明の炎が、彼の哀しみに歪んだその顔を照らし出した。


 その時、オーガストは気づいた。

 ティモシーがその漆黒の瞳の端で、何かをとらえたことに。

 その”何か”によって、ティモシーが伸び放題の髭の中にある唇の端を歪ませたことに。

「!!」

 ティモシーは自分の”勝利”を確信しはじめている。

 それは――!


「――後ろだ!」

 オーガストは叫んだ。

 ティモシーにではなく、今夜、自分とは対立している側に立ち、今も対角線上に剣を構えている”希望の光を運ぶ者たち”へと向かって――


 ティモシーが勝利を確信し、オーガストが目撃した、その光景。

 両手両足を縛られ、硬く瞳を閉じていたままの魔導士サミュエル・メイナード・ヘルキャットがカッとその瞳を見開き――


「!!!」

 ルークたちが背後のサミュエルを振り返るとほぼ同時に、サミュエルを拘束していた両手首と両足首の紐がブチンとちぎれ――いや、青筋を立てたサミュエル自身が発した気によって引きちぎられたのだ!


 あってはならないサミュエル・メイナード・ヘルキャットの覚醒。


 背筋をゾッとさせた全員が身構える間もなく――


「うおおおっ!!」

「きゃああ!!」


 閃光。

 そして熱風。

 サミュエルが発した気によって、レイナもルークたちもなぎ倒された。アダムも防御の気を張ることもできず、オーガストもティモシーも、誰もがつい先ほどまでたっていたその場から言葉どおり3メートルは吹き飛んだ。


 サミュエル・メイナード・ヘルキャットの逆襲開始。

 だが、まだ当のサミュエルもまだ本調子に戻っていなかったためか、炎交じりの熱風でなかっただけ、レイナたちは幸運だったのかもしれない。

 仮に炎の風であったら、全員が火だるまとなっていたに違いないのだから――


 憤怒で鼻息をフーフーと荒くしたサミュエルがユラリと立ち上がる。

「……お前ら、この俺を縛り上げるなんて、舐めた真似しやがって……敵に背を向けちゃいけないという基本の”き”も分かっていない奴らが一丁前によ……死ねよ。お前ら、今、ここで全員死ね。それと、オーガスト……てめえは一体どっち側に立って、ここにやってきたんだよ」


 優美であり、優し気な彼の紫色の瞳には、純然たる殺意の炎が宿っていた。

 それは、先ほど、彼の魂をその若々しい肉体から一時的に追い出したアダムだけではなく、ルークたちにも、そして彼と同じ船に乗ってきたはずなのに、今ルークたちに助太刀をするような言動をとったオーガストすら焼き焦がさんばかりのものであった。


「キャ――!」

「早く逃げろ!」

「魔導士のにいさんが暴れ出したぞ!」

 老若男女の入りまじった悲鳴。

 レイナたちが吹き飛ばされたのを遠巻きに見ていた、無力な一般市民たちは蜘蛛の子を蹴散らすように逃げていく――

 今のこの状況をより正確に表現するとしたなら、「魔導士のじいさんが暴れ出したぞ!」と言うのが最も正しいのだが、59年前の悪夢が再び――一般人すら巻き込む状況で、魔導士サミュエル・メイナード・ヘルキャットが天より授けられた魔力を持って、すでに血に染まっている両手をさらに”新しい血”で染め上げようとしていた。


「たっぷりと粛清してやるからな。くたばれ……屑ども……!!」

 数刻前に自身も吸い込んでしまった、自作の薬による苦痛がまだその肉体に残っているのか、サミュエルは咳き込んだ。

 だが、彼は青筋を立てたまま、地面にバッと両手を着いた!


 彼が両手を着いた”そこ”から、炎がバッと立ち上った。

 狡猾であり、残忍なその炎は、幾筋もに分かれ――レイナ自身が昔、絵本で見たヤマタノオロチを思わせる意志を持った大蛇のごとき勢いで、地面に倒れ込んでいたレイナのところにまで――


「レイナ!!」

 ともに吹き飛ばされ、地面に倒れ込んでいたルークとディランが素早く立ち上がり、炎の大蛇に巻かれる寸前であったレイナの両腕を掴み、間一髪、助け起こした。


「走れるか!?」

「はい……っ!!」

 恐怖による心臓の動悸が止まらぬまま、レイナはルークに答え、彼らとともに地を蹴った。

 炎の大蛇がその鱗を光らせているようなメラメラとした熱気が、このなめらかな”マリア王女”の肌を焦がさんばかりに左右より伝わってくる。

 だが、炎の大蛇に囲まれたこの道は地の果てまで続いてるというわけでない。

 息せき切って地を駆けるレイナ、ルーク、ディランの視線の先には、”道の終わり”が見えていた。

 

 ともにアドリアナ王国・国王ルーカス・エドワルドの宣旨を受け、明日、いや(もうおそらく、とうに日付は変わっているだろう)今日よりこの地を発つ仲間たちの無事は今は分からない。

 今は近くにいる者たちで、脱出口を目指し、ひたすら走るしかない。

 その脱出口の途中に、あかあかと燃える炎に照らされる、かつてこの地を治めていた国王ジョセフ・ガイの噴水も見えていた。



 だが――

「ぐあっ……!!」

 ルークとディランの同時の呻き声。そして、何かが砕け散ったような音も――


「ルークさん! ディランさん!」

 地面に倒れ込み、衝撃が走った頭部を押さえ、呻くルークとディランに、レイナは悲鳴をあげた。

 ハッと振り返ったレイナが見たのは、両手に酒が滴り落ちる砕けた酒瓶を手にしているティモシー・ロバート・ワイズであった。彼は、この阿鼻叫喚のなか、”獲物”の後を追い続け、”獲物”の両隣にいたルークとディランの脳天に同時に一撃をくらわせたのだ。



※※※



「アダム……借りを返してやるからな」

 この阿鼻叫喚の場を作り出した主であるサミュエルは、アダムと彼の孫娘であり、希望の光でもジェニーへと、ゴホゴホと咳き込みながらもゆっくりと一歩を踏み出した。

 ジェニーにとって彼のその姿は、地獄からやってきた美しい皮をかぶった悪鬼を思わせた。


「……逃げろ……ジェニー……!」

 サミュエルに殴られた頬を腫らしたままのアダムも咳き込みながら、自分にしがみついて離れないジェニーへと、息も絶え絶えに言葉を絞り出した。

 数刻前のサミュエルの打撃による痛み、彼の妖しい薬がもたらした鉛のように全身に沈殿している苦痛。それに先ほど、アダムは彼の魂を一時的にその肉体から追い出すという年甲斐もない荒業を行ったため、もはやアダムは立ち上がることすらできない状態にあったのだ。


「嫌よ! 絶対に嫌!!」

 アダムと同じ胡桃色の瞳に涙をいっぱいためながら、ジェニーは祖父を、自分の唯一の家族であり、彼女自身の希望の光でもある祖父を守らんとアダムの盾になろうとした。

 祖父も自分も、この残忍な魔導士に今から殺される。

 でも、自分を育ててくれた祖父を置いて逃げることなどできようか。


 自分を恐れ、震えながらも、アダムをかばうジェニーを見て、サミュエルは大きな舌打ちをした。

 さすがのサミュエルも、女を――いや、少女をその拳で直接殴りつけたり、足蹴にしたりすることは躊躇したらしい。

 ジェニーの両肩をガッを掴み上げ、「どけ!」と乱暴に地面に突き飛ばした。


「……触るな……っ!!」

 動けぬアダムが声を荒げた。

「おい、何が”触るな”だよ……ジジイ……てめえ、何勘違いしてんだよ。俺は成熟した女にしか興味ねえんだよ。こんな子供を犯(や)るわけねえだろ!!」

 性的嗜好は世の男の多数派に属しているサミュエルは、眉をグッと吊り上げ、地に倒れたままのアダムの腹を踏みつけた。

「ぐっ……!」

 さらに上書きされた痛みに、アダムは顔をしかめ、のたうった。


「やめて!!」

 ジェニーは、サミュエルの足に必死でしがみついた。

 恐怖も続いていた。だが、彼女は愛する者が自分の目の前で傷つけられたその痛みで、彼女の瞳からは大粒の涙が溢れ、そのなめらかな頬を濡らした。


「ガキが邪魔するな!」

 サミュエルはジェニーを自身の足から払いのけようとした。再びドサッと地面に倒れ込んだジェニーであったが、彼女はなおもサミュエルに立ち向かおうとした。

「今は大人の話をしてンだ! お前のジジイに罰を与えんだよ! この俺をおちょくった罰をな!」

「けしかけてきたのは、そっちじゃない! おじいちゃんに酷いことしないで!」

 ジェニーが悲鳴のような声をあげる。


 怒りが沸点を迎えた。

 サミュエルと同じく悪しき魔導士であるフランシスは、憤怒の炎を静かに押さえこむがごとくアンバーやジョセフ、そしてレイナに対峙していたが、このサミュエルにおいては、まさにただのヤンキーを思わせるような直情的な憤怒をその若い肉体を持って、アダムたちにぶつけていた。


 絶体絶命。

 その時であった。

 鈍い殴打の音とともに、白目を剥いたサミュエルがドサリとうつ伏せに崩れ落ちた。


「!!」

 涙で滲んだジェニーの瞳、苦痛と愛する孫を守れぬ悔しさで滲み始めたアダムの瞳に映ったのは――

「……早く逃げましょう」

 サミュエルが気絶した後もゴウゴウと燃え上がっている炎による熱気のためか、それとも緊張のためか、その額に脂汗を滲ませたヴィンセントが立っていた。

 彼はサミュエルの背後より忍び寄り、渾身の一撃を見事にくらわせ、彼の意識を一瞬で失わせたのだ。

 ヴィンセントは素早くアダムをその広い背中に背負い、しゃくりあげ涙をぬぐうジェニーとともに、この炎からの脱出口を目指した。


 またしても気を失ったサミュエルは、取り残された。彼自身が発生させた燃えさかる炎の大蛇の道の中に――


 アダムとジェニーはヴィンセントによって助けられた。

 そして、走り続ける彼らは、魔導士ピーターを抱きかかえたトレヴァーと、魔導士ミザリーを抱きかかえたダニエルの無事な姿を炎の突破口の向こうで確認することとなる。

 互いの無事も分からなかったが、彼らは今の自分にできることを即座に行動に移し、ともにユーフェミア国へと向かう者たちを守ろうとしていたのだ。

 そして、「マリア王女!」と叫びながら、炎の大蛇が作り上げた道の中へと飛び込もうとしているオーガストの姿もあった。


 けれども――

 レイナ含む炎の中に取り残された者たちは、まだ地獄の中にいた。




※※※



「……レイナ……っ!」

 背後から固い酒瓶で脳天に打撃をくらったルークとディラン。

 脳震盪を起こしたように視界は定まらず、彼らの濡れた頭部からは酒か、それとも血か分からないものが流れ、顔にまで垂れてきてた。

 彼らの目の前で、レイナはティモシーに引きずられていった。

 そのうえ、ティモシーの利き腕には、先ほど彼が砕け散らせた酒瓶の鋭い欠片が握られていた。


「……お願いします! 話を聞いてください!」

 花のごとき愛らしい唇から、”レイナ”の必死の懇願が発せられた。青い月のごとき、澄み渡った美しい瞳からは涙が溢れた。

 普通の人間であるなら、自分の向かって必死に懇願する”マリア王女”の絶世の美貌に心奪われ、彼女の手を掴み上げるその手を緩めるだろう。

 天上にいる天使を具現化したようなその容姿は、”彼女”を家族の仇であり、殺すべき存在ととらえているティモシーには何の効果もなかった。

 いや、むしろ、手の内にいる獲物が震えていることに、彼はその伸び放題の髭に覆われたその口元をニヤリと歪ませた。

「話を聞けってか。俺の娘のビアンカは、まだ話すこともできない赤ん坊だった。ビアンカがお前に何をしたっていうんだ!」

「私はマリア王女じゃありません……っ!」


 レイナのその言葉――レイナが真っ当な真実を告げたその言葉に、ティモシーの黒い瞳のなかの殺意の炎はさらに燃え上がった。

 ティモシーは、”レイナ”のほっそりとした右手を開いている左手で掴み、ギリリと締め上げた。そして、”レイナ”の喉元に酒瓶の欠片を突き付けた。

「痛っ……!!」

「お前のこの手がビアンカに毒を与えたんだ。ちゃんと”思い出せ”よ。王女殿下、お前の王国の民を、王女であるお前自身が殺したってことをな」


 ティモシーがククッと喉を鳴らした。

 駄目だ。彼にレイナの懇願など、とても通じる状態ではない。最初から、ティモシーは話を聞く気なんて全くないんだ。自分の目の前にいるのは、娘の仇だ。だから、殺す。彼はこの日を待ち望んでもいたのだ。


「残念だったな、淫売。せっかく、お前の大好きな男に両サイドで守られていたのに、あと一歩のところで逃げきれなくてよ。……俺の妻はすこぶる貞淑な女だったぜ。お前みたいなヤリ●ンじゃなかった。なあ、淫売……”俺たち”は本当に幸せだったんだよ。身分もなく、金もなかったけど、ビアンカが生まれて……本当に穏やかな暮らしを何よりも望んでいたんだ……」


 炎に照らされたティモシーの黒い瞳が潤んだことに、レイナは気づいた。

 ティモシーは、何度も”マリア王女”に淫売という言葉を吐いていた。マリアは実際にその肉体を売る仕事をしていたわけでもなく、むしろ、おいそれと手を触れることなどできない、この上ない高貴な身分の王女であった。彼女自身が男を求めて、その豊かな胸元をはだけ、自ら脚を開かない限りは。

 ティモシーも、そしてティモシーの妻も、真っ当な貞操観念を持ち、愛し合ったのだろう。2人の愛の結晶ともいえる娘(ビアンカ)が生まれ、家族で助け合って生きていこうとしていたのだ。

 だが、彼の妻も娘ももうこの世にいない。彼から愛する者たちを奪ったのは、マリア王女だ。


 ティモシーが右手を振り上げた。彼の手にある酒瓶の欠片が、炎と青い月の光に照らされ、鋭い光をレイナに見せた。

「お前の顔を二目と見れないようにズタズタにしたあと、家畜を殺すように喉をかっさばいてもいいんだが……でも、あの魔導士がこうして、お前の最期にふさわしい舞台を設定してくれたしな。わざわざ、俺が酒や松明を屋台から探してくる必要はなかったな」

「!!!」

「地獄の業火で焼かれて死ぬなんて、お前にはピッタリの死に方だろ? その肉体だけでなく、魂まで焼き尽くされろよ」

 レイナの細い首にティモシーの左手がガッとかかった。

「ひいっ……!」

 涙で頬を濡らしたまま、必死で逃げようともがく”マリア王女”にティモシーは満足そうに笑った。

「逃がすかよ。近くには、お前の先祖の像が突っ立ってる噴水があるけど、水を求めながら苦しんで死ね」

 ティモシーの言う通り、ここよりわずか数メートル先に、規則正しい水音を立てるジョセフ・ガイの噴水があった。


「……お前が地獄の門番に色目を使って、地獄行きを免れようとしても無駄だぜ。俺が地獄の中へと、お前を引きずっていくぞ。俺は何もかも”もう”どうだっていいんだから」

「!!」

 ”マリア王女”に対する殺意だけでなく、ティモシーには自死の決意もその瞳に光っていた。


 ”マリア王女”の息の根を止めた後、ティモシーは間違いなく殺人者として極刑に処されるであろう。彼は最初から死ぬつもりで、今宵、宿へと忍び込んできたのだ。


「やめろぉ!」

 酒まみれであり、なお頭部より血を流しながらもルークとディランは立ち上がり、剣を手に駆けてきた。

 

 その光景を見た、ティモシーはふっきれたような表情を浮かべた。

「刺したきゃ、刺せよ。自分で蹴りを付ける手間が省けるさ。だが……この淫売悪魔は、俺が地獄へと送ってやるからな!」

 ティモシーの手がレイナから離れた。それは解放ではなかった。

 彼の両手はレイナの華奢な両肩を掴み、彼女を背後の燃えさかる炎へ向かって投げ入れた!


――!!!!!――


 悲鳴をあげる間もなく、レイナが”背後”で両手を広げている地獄の業火という絶望底へと突き落される寸前――


 その炎の中より、自らも炎に包まれながらも飛び出てきた者がいた!


 レイナが業火へと飲み込まれる前に、彼女の肉体を抱き止めた者――それは――!!


 バッとレイナを抱き止めたフレディは、レイナを両腕にかばったまま、ジョセフ・ガイが佇む噴水の中へと自らも身を投じた。


「フレディ!」

「レイナ!」

 剣を手に地を蹴っていたルークとディランの眼前で、レイナは間一髪、フレディによって助けられたのだ。



 死を覚悟したレイナであったが、今は、この身に感じているのは炎による苦痛ではなく、水の冷たさであった。

 わずか数秒の間に、何が起こったのかはレイナには分からなかった。だが、自分のすぐ隣に、自分と同じく全身水浸しになったまま、荒い息をし、全身に火傷を負ったフレディがいた。

「フレディさん……っ!」

 レイナ自身の髪や衣服は、少し焦げたぐらいで目立った外傷はなかった。そして、フレディがその全身に負っていた火傷も、みるみるうちに治り、若者特有のはりを持った肌へと戻っていった――


 フレデリック・ジーン・ロゴは、守り抜いたのだ。

 彼が200年前より絶対の忠誠を誓い続けている、今はもうこの世にはいない国王ジョセフ・ガイの子孫の肉体と、異世界からやって来た1人の少女の魂を――


 

「くっ……どこまで、男に守られてんだよ。お前はよお……!」

 娘と妻の仇である悪魔を、またしても殺し損ねた。

 喉を鳴らしたティモシーは、その右手に握られたままであった酒瓶の欠片をさらにギュウッと握りしめた。その右手より彼自身の肌をも傷つけた真っ赤な血がポタリと滴り落ちた。

 今度は、ティモシーは、何もしゃべらなかった。

 ただ、黙ったまま、目を猛禽類のように爛々と光らせ、右手の鋭い破片を振りかざし、噴水の中でフレディとともに水浸しになっているレイナへと向かって――

 彼は直接、”マリア王女”の喉元を引き裂こうと――


「!!!」


 レイナがビクリと飛びあがり、フレディがレイナをその腕に咄嗟にかばい、ティモシーの背を負い続けるルークとディランが、手の剣を弓矢のごとく彼の背に命中させようと手を振り上げたその時――


 幾つもの風を斬る音とともに、幾本もの”本物の弓矢”がティモシーの肉体に突き刺さった!


 馬に乗った幾人もの衛兵たちが、炎の突破口から駆けてきた。

 今宵の火事と氷害、そして1人の魔導士が引き起こした暴動は、この港町の衛所にも届いたのだろう。

 その彼らの後ろからは、トレヴァー、ヴィンセント、ダニエル、そして首都シャノンよりやって来ていた兵士たちも、馬に乗った彼らい後に続き――


「ぐっ……」

 呻き声をあげたティモシーは、ガクリと膝を折り、その場に崩れ落ちた。

 幾本もの弓矢がその肉体に突き刺さっているも、即死というわけではなかった。彼はまだ命の残り火を燃やし続けようとしていた。

 彼は、その霞み始めた瞳で”憎んでも憎み足りない、自分から全てを奪い、そのうえ、裁きを受けることなく守られることとなった淫売”の姿をとらえた。

 いや、焼き付けようとしたのだ。その女の青い瞳に、一生涯忘れられないような自分の死にざまを――


 手の内の鋭い破片を握りしめたティモシーは、残っている力で自らの喉を一直線に引き裂いた――




「うわ……っ……!」

 神人の船の中で、一連の流れをフランシスとともに見ていたネイサンは、目の前で人が死んだ、いや自殺したその光景に顔をしかめ、パッと目を逸らした。

 彼の隣に立っているフランシスは、瞬きもせずに、黙ったまま眼前の覗き見のさざ波を眺めていた。


 恐る恐るそのさざ波へと視線を戻したネイサンが見たのは、うつ伏せに地面へと倒れ伏したティモシーが自身の喉より溢れ出る血の海のなかでビクビクと痙攣しつつやがて動かなくなる姿と、彼の死にざまを見たすべての者たちの炎に照らされた青ざめた顔であった。


「……ワイズはもはや、これまでと思ったんでしょうね。衛兵たちに捕らえられたら、おそらく”マリア王女”を殺せるような機会はもう二度とこない。だから、その代わりに自分の死にざまを焼きつけようとしたのでしょう」

 フランシスは少しだけ、声のトーンを落として続けた。

「まあ、彼の自殺は全くの無実である”今のマリア王女の中の人”の魂にはしっかり焼き付いたと思いますけどね。仮にこの事態を引き起こした張本人のマリア王女の目の前で、彼が自殺したとしても、あのマリア王女には何も響かないでしょうけど。それどころか、あの王女は自分の目の前で人が死んだことに歓びすら感じるでしょうし」


 ”なに、しみじみとした感じで語ってんだよ”と心の中で思ったネイサンであったが、覗き見のさざ波の中に、パアッと新たな光が現れたことにハッと息を呑んだ。


 まだ、太陽が昇る時間には早い。一体、何が、いや、誰が――?


「あいつら……!」

 ネイサンはその光の中から現れた2人の人物――自分と同じ魔導士の力を持って生まれたが、アドリアナ王国に仕えるという自分とは全く違う生き方を選択した2人の男のその”そっくりな”顔に見覚えがあった。

 カール・コリン・ウッズとダリオ・グレン・レイクだ。

「おやおや、ジョセフ王子の側近たちも駆け付けましたか。首都シャノンに居ながらも、港町の暴動に気づくとはさすがですね。まあ、惜しいことにタイミングが少しずれてしまい、死者は1人出てしまいましたけどね」

 フランシスはフフッと、ため息にも笑いにも、どっちにもとらえることができるような息をその唇から漏らした。

 

「さて、カルダリの仲良しコンビも現れたことですし、そろそろ地上へと下りるといたしますか。このままだと、サミュエルは自らが起こした炎でバーベキューになってしまいますのでね」

 ネイサンの瞳がパアッと輝いた。

 自分の力を試せる。あのカールやダリオといった魔導士の男たちとも、今からやり合えるだと。


「ネイサン、あなたはお留守番をしておいてくださいね」

「え……」

 出鼻をくじかれたネイサンの表情に、フランシスは”やれやれ”というように肩をすくめた。

「私はローズマリーを連れて、サミュエルを取り戻しに行ってきます。あのまま、アドリアナ王国の衛所に引き渡され裁判を受けるなんて、格好がつきませんし、それにいろいろとばれてはまずいこともありますのでね。計画途中でこんなことになっては困りますので」

「サミュエルさんを引き上げにいくなら、俺こそ一緒に連れていってくださいよ! なんで、ローズマリーなんですか? あいつは……ただ女にしては抜きん出た腕力を持ってるってだけで、俺らみたいな力は持っていないのに……!」


 ネイサンは声を荒げた。

 同じ船に乗るサミュエルを、フランシスが今から(アドリアナ王国側に渡すまいと)引き上げに行く。サミュエルは今回はなかなかにかっこ悪い負け方をしたものの、フランシスの右腕のポジションにある。

 フランシス自身の計画のために、サミュエルを取り戻しに行くというのは、まだ頷ける。

 だが、このフランシスは、人形を作るだけが取り柄で、永遠に心は通いあうことなどないだろう悪女にその命を捧げる哀れなオーガストの命を助けた。それに今、一緒に地上へと連れていこうとしているのは、魔導士ではない、ただの暴力女のローズマリーだ。

 もしかして、また、あのルークとかいう奴らをローズマリーにまたどつきまわさせるつもりなのか。


 フランシスはネイサンが今、自分にまくしたてたかったけど、心の底に黙って飲み込んだ思いを察したらしい。

「ネイサン……私とローズマリーはサミュエルを取り戻しに行くだけです。あの希望の光を運ぶ者たちも、今は心身ともに疲労が大きいと思いますのでね。あなたを連れていってもいいんですが、何せ力仕事でございますので、あなたの成長途中の細腕よりもローズマリーの方が今回は適任かと……適材適所という言葉がありますからね。あなたが活躍できる機会もやってくるはずですよ」

 彼は極めて穏やかな口ぶりでネイサンを諭した。まるで、小さな子供に言い聞かせるように。

「本当に……本当に……そんな機会はやってくるんですか?!」

 ネイサンの語気には苛立ちが含まれていた。

「もちろんですとも。だから、安心してください」


 ただ1人、部屋に取り残されたネイサンは、フランシスがローズマリーの元へと向かう足音を聞きながら、その無造作に束ねた長髪をグシャグシャと掻き毟った。

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