【R15】人生は彼女の物語のなかに(今風タイトル:生真面目JKの魂が異世界の絶世の美人王女の肉体に?!運命の恋?逆ハーレム?それどころじゃありません!)
ー10ー サミュエル・メイナード・ヘルキャット(2)
ー10ー サミュエル・メイナード・ヘルキャット(2)
目にも止まらぬ速さで飛びかかってきた男の手がビュッと宙を切り、”レイナ”の左頬をバシッと打った。
「!!!!!」
鼓膜が破られたかのごとき痛みとともに、レイナは軽く吹っ飛んだ。
レイナの後頭部が、ベッドの脚にガッとぶつかり、左頬を覆いつくし始めた痺れに、後頭部の鈍い痛みが、レイナに思考の隙間を与えることなく上書きされた。
「う……っ……」
意志に関わらず、レイナの口からは呻き声が漏れた。
まだ拳で殴られたのではないだけましだったのかもしれない。
けれども、全く見知らぬ侵入者の男、体の痛み、そして平手打ちといはいえ、生まれて初めて男性に手をあげられたというショックで、心臓が急激に強く――自分がまだ生者の淵にいることを実感させるかのように、強く激しく脈打ち始めた。
――早く……立って……逃げなきゃ……!!
自身を奮い立たせ、床に両手をつき立ち上がろうとしたレイナの視界はグラグラと揺れ続け、定まらない。手も脚も、レイナの恐怖と同調するように、その震えはより激しくなっていった。
”強姦”という二文字が、レイナの頭の中で赤く点滅し始める。
先ほどワイズと名を名乗ったこの見知らぬ男は、”マリア王女”の美しさに目を付け、強姦目的で女2人だけのこの部屋に押し入ってきたのだと。
男は、倒れ込んだまま立ち上がることもできない”レイナ”の両肩をグッと掴み、髭が伸び放題となっているその顔を近づけてきた。
それは互いの熱い息がかかりあうほどの至近距離であった。
両肩を掴み上げる男の力の強さ。
悲鳴をあげることすらできず、助けを求めつつも、喘ぐように息をすることしかできなくなったレイナは、否が応でも眼前の男の顔を見上げるしかなかった。
「!!!」
男の瞳――その黒々とした瞳の中にあるのは、女という獲物を前にした性の欲望などではなかった。
憎悪。そして、殺意であった。
そうだった。
ミザリーを殴り気を失わせたこの男が、先ほど猛禽類のように首をグルリを回し、”自分”へと向けたのは、性の欲望ではなく憎悪であり殺意――”自分”がこの世界において、数度向けられた殺意であったのだから。
男は、伸び放題の黒い髭よりのぞいている口をゆっくりと開いた。
「……久しぶりだな、王女殿下。俺の顔を覚えているか?」
「!!!」
やはり、この男も自分のことをマリア王女だと思って――マリア王女の肉体の中にある魂もマリア王女であるだと思っているのだ。
「あぅぅ……」
”違う! 私はマリア王女じゃありません!”と、必死で目の前の男に叫ぼうとしたレイナであったが、ただ声にもならない声が震える息とともに、男の唇へと向かって発せられただけであった。
「そうか、怖いのか。人殺しのくせに……俺はティモシー・ロバート・ワイズだ。お前がデメトラの町で殺した赤ん坊・ビアンカの父親だよ」
「…………しっ、知りませんっっ……!!」
レイナはやっと声を絞り出すことができた。
”私は”人を殺してなどいない。
自身の魂の潔白を、眼前でまさに自分を憎悪の炎で焼き焦がさんばかりに睨み付けている侵入者の男――ティモシー・ロバート・ワイズへと伝えようと……
だが、それはティモシーが全身に煮えたぎらせている殺意をより強固なものとしたらしかった。”レイナ”の両肩を掴み上げる彼の力はより強くなったのだから――
「そうか……俺の顔も、娘の名も何一つ覚えていないのか。お前に人生を断ち切られた哀れな娘の名すら……!! そりゃあ、お前ら王族サマにとっちゃ、俺ら平民なんていくらでも換えのきく税金を納めるだけの道具でしかないだもんな」
違う。覚えていないのではない、”知らない”のだ。
左頬に3つの黒子が三角形を描くように並んでいるこのティモシーの顔も、マリア王女の魂がこの肉体で殺したであろうティモシーの娘のことも――
「俺ら平民が人を殺したとなっちゃ、極刑に処されてもおかしくないのに、さすがは、最上級国民サマだ。超特権階級の女は何のお咎めもなく、明日から優雅な船旅ってわけか。だが、お前はこのアドリアナ王国から出ることはできないし、明日の日の出も拝めやしない。今夜、俺がお前の人生を断ち切ってやるんだからな……」
――違う! 違う! ”私”はマリア王女じゃない!!
レイナは必死に”自身”の身の潔白を証明しようと、首をブンブンと横に振った。掌と背中は冷たく湿っているのに、喉はカラカラに乾ききっていた。
「ふん……何、目に涙なんて浮かべてんだ。ビアンカを殺した”あの時”とは、まるで別人みたいだな。なあ……お前がビアンカを殺したあの後しばらくして、お前の兄の王子殿下が直々にうちを訪れて、平民の俺に頭を下げて、謝罪の言葉と多額の賠償金を恵んでくれたよ。だがなあ……ビアンカの命も、おかしくなって自殺した妻の命も戻ることはないんだよ!!」
ティモシーは、自身の顔を”憎い女”にさらにグッと近づけた。
「さて、どうやってお前を殺そうか。頭の中では何度もお前を殺したけど、実際に殺すことができるのは、たった1回だけだからな……」
「ひぃ……っ……!!」
――ここで、殺される!! 殺されるんだ!!!
自分の力では、この男――ティモシーから逃れることはできない。だが、自分がこうして、ここで今にも殺されそうになっていることを知る者は誰もいない。ティモシーに鳩尾に一撃を入れられたミザリーは青い顔をしたまま、床に転がり動かない。
「……いやあっ!!!」
レイナは悲鳴を上げ、その身を必死によじらせ、抵抗した。
大声を出したレイナに慌てたティモシーが、レイナの口を右手でふさいだ。
瑞々しく愛くるしい花のごとき唇が、ティモシーの荒れたゴツゴツとした大きな手の平で押さえつけられた。
「……お前が助けを求めたって、誰も来やしねえよ。お前の周りにいた若い男たちは1階の大部屋に集まってるようだし、あいつらが明日の朝、この部屋で発見するのはお前の死体だ。しかし、魔導士に聞いていた通りの淫乱ぶりだな。入れ食い状態なんじゃねえのか。でも、”残念ながら”俺はお前を犯す気はない。誰がお前なんかを……! 俺の家族を殺したお前なんかを……!!」
ティモシーの手がついに……”レイナ”の口元と右肩より離れた。
ティモシーのざらつき骨ばった大きな手が、白くほっそりとしたレイナの――いや、”マリア王女”の首へとかかった!
「俺は絞首刑になろうが、火あぶりになろうがもうどうだっていいんだ……嬲り殺してやるよ……死ね、苦しんで死ね。この淫売! 悪魔女!! キ××イ!!!」
「が……っ……」
ぐぎゅううう、と首が締め上げられ、淡いピンク色の唇の端からは涎がつたう……
もしかしたら、ティモシーはわざと両手に力を入れず、”マリア王女”の苦痛の時間をできる限り長くしようとしているのかもしれなかった。
眼尻から溢れ出たレイナの涙は頬をつたい、首を締め上げるティモシーの指先にポタリと落ち……
――こ、こんなところで、私は……っ……
レイナの頭の中にチカチカと赤信号が――あなたの”人生”はここで終わり――というシグナルが点滅し始めた。そして、キィーンという黄泉の国から聞こえてくるような耳鳴りも……
「何をしておる!!」
部屋の扉の向こうより突如、聞こえてきた声。
魔導士アダム・ポール・タウンゼントのその声に、自分の首を締め上げているティモシーの両手はビクンと跳ね上がり、緩んだ。
殺意に隙が生じた。
アダムの声に間髪入れず、ダダッと床を駆ける力強い音が、黄泉の国からの耳鳴りが響き渡るレイナの耳に聞こえてきた。
「!!!」
殺意は離れた。
ティモシーは吹っ飛び、壁にぶつかったのだから――
「レイナ! 大丈夫か!?」
後ろからティモシーを蹴り飛ばし、レイナを死の淵から救った主はトレヴァーであった。
中断されていた酸素は、急激に肺へと流れ込んできた。
真っ赤な顔をしたレイナは、ゲホゲホと咳き込みながら、床へと倒れ込んだ。
床に手をついて、トレヴァーに答えようとしたレイナであったが、声すら出すことはできず、その代わり瞳から涙がさらにドッと溢れ出た。
またしても、本当にギリギリのところで、自分の魂が紡ぐ人生はつながった。
レイナのぐらつき滲んだ視界には、自分を死の淵から救いあげてくれた”希望の光を運ぶ者たち”のうちの2人――アダムとトレヴァーの姿が映った。
※※※
”レイナ”が無実の罪で粛清されそうになっていたこの部屋に、アダムとトレヴァーが現れたこと。それは全くの偶然によるものであった。
ティモシーがレイナたちの部屋に押し入る少し前――
国王ルーカス・エドワルドの生誕祭で、レイナとともにたった一杯の酒を嗜んだ少女・ジェニー。彼女は後から酔いが回るタイプであったらしい。
宿に冷たいお水をもらいにいったジェニーであったが、2階の自分たちの部屋にまで戻ることもできずに、1階の通路にしゃがみこんでしまっていた。
そこに偶然にトレヴァーが通りかかり、彼女に声をかけたのだ。
「ジェニー……歩いて部屋まで戻れるか?」
そのトレヴァーの問いかけに、赤い顔をしたままのジェニーは力なく首を縦に振った。
ジェニーの意識は今のところはっきりとしているし、彼女自身が部屋に戻ることができるという意思表示もしているものの、トレヴァーはジェニーを部屋まで送り届けることにした。
最初、トレヴァーはジェニーを両手で抱き上げて部屋まで運ぼうとしたが、さすがにお姫様抱っこはジェニーも恥ずかしかったらしい。
よって、トレヴァーはジェニーをその広い背中に背負い、彼女を部屋まで送り届けることになった。トレヴァーに背負われたジェニーのスカートからは、彼女の真っ白なふくらはぎがのぞいた。
「……ごめんなさい。でも、トレヴァーさんの目線って、いつもこんなに高いんだ。それに男の人の筋肉って、かたい……」
ジェニーとトレヴァーの間には、40cmほどの身長差がある。それに、ジェニーはレイナと同じく処女であったため(ジェニーの場合はその魂も肉体も両方であるが)、人一倍発達したトレヴァーの筋肉のかたさに驚いていた。
対するトレヴァーは、小動物を思わせるようなジェニーのやわらかさと温かさ、そして彼女の2つの膨らみを自身の肩甲骨あたりに感じながら、2階へと続く階段を登った。
人気が全くない宿の2階は、シーンと静まり返っていた。
トレヴァーは思う。この宿であるが、内部に関しては少し警備が手薄なのではないかと。
この静けさは、宿が首都シャノンからやってきた自分たちのほぼ貸し切り状態にあるというのも要因であるだろう。
宿の門には寝ずの番をしている門番が控えており、外部からの不審者は”門から”入ることは不可能に近い。けれども、門以外からの侵入、門番に気づかれることなく宿の敷地内に侵入した者がいたとしたら、玄関からは無理でも、窓の外に高くそびえている木などをよじ登り、この2階に侵入することが絶対にないとは言い切れない。
平民にはやや敷居の高いこの宿のコンセプトは、”静かでくつろげる空間”といったところなのだろう。だが今、トレヴァーが感じているのは、静寂の中にあるくつろぎではなく、静寂の中にある不吉さであった。
――何だろう? この落ち着かなさは……でも、あのフランシスは、俺たちが船に乗ってユーフェミア国へと向かうこと(悪い意味で)喜んでいるみたいだから、出港前夜に襲撃をしてくる可能性は非常に低いだろう。それに、レイナはミザリーさんと、ジェニーはおじいさんと同じ部屋に泊まるんだ。俺の考えすぎだと信じたいが……
「このバカ娘……飲みなれん酒など飲みおって……」
「だって、お酒だなんて思わなかったんだもの……」
トレヴァーに背負われたジェニーは、無事にアダムが待つ部屋にまで送り届けられた。
溜息をついたアダムは、トレヴァーに孫娘が迷惑をかけたことを詫びた。そして、トレヴァーはジェニーもこうしてベッドに横になったことだしと、1階のルークたちがいる部屋に戻ろうとした。
と、その時、トレヴァーはこの部屋の中にある2枚の古びた木の板が目についた。
――あの板は、確か……?!
トレヴァーも、そのかなりの年季が入った木の板のことをしっかりと覚えていた。
アレクシスの町で、少年魔導士ネイサンが乗っていた木の板――憎たらしいほど調子に乗っていたネイサンであったが、アダムに反撃され、彼は空での足場を真っ二つにされた。その時、彼の足場となっていたのが、あの木の板であった。
言ってはいけないが、そのまま廃材としてもおかしくはない木の板をなぜ、アダムは大切に持ち続けているのかと、トレヴァーは不思議に思った。
――やっぱり、あの板はただの木の板じゃないということなのか? 俺はてっきり、ネイサンが普通の木の板を自分の魔力で宙に浮かび上がらせていると思っていたが……もしかしてあの板自体に、何か不思議な力が宿っているのだろうか?
アダムに問いたくなったトレヴァーであったが、当のアダムが先にトレヴァーのその視線を感じ取ったらしい。
酒に酔ってしまった孫娘がベッドの上で、ほてった頬に長い睫毛の影を落とし始めたのを確認したアダムは口を開いた。
「トレヴァー……その板については、お前たちにいずれ説明するだったんじゃが……お前は”神人”という言葉を聞いたことがあるか?」
アダムからの問いに、トレヴァーは記憶の糸を手繰り寄せる。
確かに、”神人”という言葉を聞いたことはあった。ルークやディランにデブラの町で出会う前に用心棒として所属していた旅一座――団長の死により解散となった旅一座にいた時に年長者より聞いたことがあった。
この世界ではなく、他の異世界――ただし、異”世界”というよりも、一つの海を越えるような感覚でそこに住む神人たちは行き来をするらしいから、異国のようなものだろう。
そこで生を受けた神人たちは、生まれながらにそのコミュニティにおいての役割である「護る者」などを授けられている。そして、揃いも揃って美しい姿で、翼もないのに鳥のように空を飛べ、尾びれもないのに魚のように水の中を泳ぐことができる者たちだと――
「……はい。その”神人”なる者たちのさわりぐらいなら、聞いたことはあります」
「そうか……その板は、わしが昔……」
その時であった。
どこかで――自分たちが今いるこの2階のどこかから、小さな悲鳴(それもおそらくレイナの声のような気がする)が聞こえてきたのだ。
即座に顔を見合わせたトレヴァーとアダムは、レイナとミザリーがいる部屋の様子を見に行くことにした。単にゴキブリが現れただけであったり、コウモリが部屋の中に入ってきただけかもしれない。でも、もし、そうじゃなかったら――
廊下をアダムとともに駆けるトレヴァーの身に、先ほど感じていた不吉な予感がレイナたちのいる部屋に近づくにつれ、冷たい空気のように身にまとわりついてきた。
不用心にも扉が半開きの状態となっていたレイナたちの部屋の中の光景は、トレヴァーが先ほど感じていた不吉な予感は、決して杞憂などではなかったとの証明であった。
気を失い青ざめた顔で床に倒れている魔導士ミザリーと、ベッドの側でボサボサ頭の浮浪者のような男に首を締め上げられていたレイナの姿であったのだから。
※※※
「早くこっちへ……!」
トレヴァーはレイナを抱き起こし、自身の広い背中へと隠した。
なおもゴホゴホと咳き込み続けるレイナの脚はふらついた。細い首に生々しく残る強い殺意の爪痕は、たおやかなレイナの身をガクガクと震わせ続けていた。
アダムはピクリとも動かないミザリーの脈がしっかりあることを確認した。彼女はおそらく、この浮浪者のような侵入者に殴られたか何かで気を失わせられたのだろうとも。
片腕を押さえながら、ユラリと揺らめく蝋燭の炎の動きを思わせるように立ち上がった侵入者に、アダムはトレヴァーと同じく厳しい視線を向けた。
目の前の侵入者――髪も髭も伸び放題で、世捨て人のような風体の男は、魔導士の力を持たない普通の人間でしかないとアダムは分かった。
だが――
この侵入者には”何か”が、アダムが数十年忘れることができなかった”ある者の魔力”の残り火のような気配がしっかりと残留していた。
――まさか……この気配は……!
アダムが身構えた時、ほのかなランプの灯りに加え、窓から差し込んできた青い月明かりが侵入者の顔を照らし出していった。
「あんた……まさか……デメトラの町の……?!」
侵入者――ティモシー・ロバート・ワイズの左頬に均等に並ぶ三角形のような3つの黒子を見たトレヴァーが、アダムより先に口を開いた。
彼は鮮明なまでに、あの出来事を思い出したのだ。
以前に属していた旅一座の通過点の1つであった、デメトラの町で目撃してしまい、今も忘れ得ぬ出来事を。
幽鬼のような表情をしたティモシーは、同じく青い月明かりに照らされゆくトレヴァーの顔を見て、笑いを押さえるようにクッと喉を鳴らした。
「お前……俺のことを知っているのか。まあ、俺もお前のことをどこかで見たことあるような気がしないでもないさ。お前みたいなデカブツはなかなかいないからな」
「やっぱり、あんた……デメトラの町に住んでいた人か。そこで、あんたはマリア王女に赤ン坊を殺された……そうだろう?」
ティモシーにそう問うたトレヴァーの顔も、悲しく歪み始めた。
「……なんだ。そこまで分かっているのか。なら、話は早いだろう。俺はその悪魔女を自分の手で殺りにきたんだ!!」
ティモシーの言葉を聞いたトレヴァーは、レイナをさらにその頑強な背にかばった。
「待て! 話を聞け! ”あのこと”はこの子がやったんじゃない! 確かに今、この子の外側はマリア王女だ。だが、中にいる魂は全くの別人なんだよ!!」
トレヴァーが声を荒げた。
「黙れ! そんな話、誰が信じられるか! いいから、その女をこっちに寄こせ!! その悪魔女を殺すためだけに、俺はこの日まで生き続けてきたんだから……!!」
ティモシーの声は、苦し気であった。
まだ赤ン坊だった娘を殺され、この世の光なるものを全て奪われたであろうティモシー。だが、彼は復讐という灼熱の炎で自らの魂を焦がしながらも、”マリア王女”との再会(つまりは殺害)の日のために生きてきたのだと――
「ちゃんと、話を最後まで聞け! この子は絶対に殺させやしない!!」
トレヴァーが、ティモシーと睨み合った。
トレヴァーの脳裏には、あのデメトラの町で赤ン坊を殺された母親(この侵入者の妻であったに違いない)の悲痛な叫び声と、その時の血の色を思わせるような赤い夕焼けまでもが、生々しく蘇ってきた。
マリア王女のほんの戯れに何かをされた(あれは恐らく毒に違いない)平民の赤ン坊が小さな口から吐瀉物をゲボゲボと吐き続け、やがて冷たく……
けれども、今、自分の背後の”マリア王女”は、あの時のマリア王女ではない。中にいるレイナの魂を殺させるわけにはいかない。
レイナをかばうトレヴァーにティモシーは、唇を歪ませ、ニヤリと笑った
「高貴で美しい王女サマをかばうナイト気取りか。それとも、やっぱりお前、その女にやらせてもらったんだろう? そのキ××イマ×コによ」
「…………人を呼ばせてもらうぞ。そのまま動くな」
ティモシーの挑発には答えず、トレヴァーは険しい顔をしたまま言い放った。
「ふん、いくらでも呼べばいいさ」
ティモシーはニヤリと笑った。
明らかに劣勢に(それも、マリアの殺害という目的が達せられられないであろう状況に)追い込まれているにも関わらず、ティモシーには全く焦りが見られなかった。
トレヴァーにかばわれ、震え続けるレイナはこれとよく似た光景を前に見たことがあった。
マリアだ。
アリスの町の山の麓での戦いにおいて、ジョセフに捕らえられたにも関わらず、絶対に自分が殺されるはずがないという自信を急に醸し出し始めた王女・マリア。あの時の彼女の背後には、魔導士・フランシスがいた。
まさか、このティモシーの後ろにも……
「お前……魔導士の力を借りて、この宿に忍び込んだのだろう?」
ティモシーに問うアダムの声が、ピリピリと張りつめ、なお重々しいものであるのが、レイナにもトレヴァーにも分かった。
やはり、アダムはいち早く、感じ取っていたのだ。
この男・ティモシーは、普通の人間である。だが、ティモシーの後ろには魔導士がいる。その魔導士が彼の敵討ちに力を貸したのだと。
「老いぼれジジイまでナイト気取りか。でも、その年じゃ勃つモンも勃たないだろうから、その淫売を喜ばせることなんてできないぜ」
またしても、下品極まりない言葉を連発するティモシー。
彼の挑発に、アダムもトレヴァーと同じく答えなかった。ただ、アダムは黙って、ティモシーの殺意の炎が燃え続ける瞳を静かに見返して言った。
「お前から、かすかな残り火のような”あいつ”の気を感じる……どういった経緯でかは知らんが、お前をそそのかした魔導士は……アッシュベージュの髪に紫色の瞳の、虫も殺さぬような顔をした……”若い”男の魔導士だろう?」
「!!」
今のアダムの言葉に、レイナもトレヴァーもハッとした。
ティモシーに手を貸した魔導士は、フランシスではないかと彼女たちは薄々思っていた。
だが、アダムの口から発せられた魔導士の特徴は、フランシスの外見的特徴とは異なる。少年魔導士ネイサンの外見的特徴でもない。それに、魔導士ヘレンとは第一、性別が異なっている。
新たな魔導士。
そして、アダムが知っている魔導士。アダムも何十年も忘れることができなかったに違いない魔導士。まさか、その魔導士とは――!
「……ジジイ、お前も魔導士ってわけか。魔導士ってのは、いるところにはいるもんだな……あの”魔導士たち”は俺に力を貸してくれると言った。浮世離れした雰囲気の神と天使を思わせるような美しい2人の男だった。あの2人が神だろうが天使だろうか、それとも悪魔だろうが、俺は別にどうだっていい。魔導士の力でも借りなきゃ、俺はここに忍び込めなかったんだから、感謝様様だ。それに……もう1人、ある男を連れてくるとも、あの2人は言っていたな」
青い月明かりに照らされたティモシーのその顔は、地獄の鬼のごとき歪んだ笑みをたたえているように見え、レイナは震えあがった。
だが、彼をこうして復讐に燃え上がる鬼へと変えてしまったのは、マリア王女だ。彼は得体の知れない魔導士の力を借りてまで、自分の家族の仇を取ろうと――
だが、その時――
レイナもトレヴァーも、自身の肌がぞおっと鳥肌だったのが分かった。部屋の空気が、いや恐らくこの宿全体の空気が一変したのが、魔導士の力を持たないレイナにもトレヴァーにもはっきりと感じられた。
「これは……あいつだ! サミュエル・メイナード・ヘルキャットだ!!」
アダムが身構えた。
彼こそ、確実に感じ取ったのだ。
自分がかつて知っていた魔導士の気配を。すこぶる狡猾で陰険な、あの魔導士の襲撃の合図を――
わずか数分前、1階の大部屋にて――
「トレヴァーの奴、遅いな」
すでに寝間着に着替え、今夜の寝床に潜り込もうとしていたルークが言う。
「そうですね。もうかれこれ、10分以上は経っていると思いますし……」
近くで、自分のシーツを整えていたダニエルがルークに頷いた。
今、この大部屋にいるのは、ルーク、ディラン、ヴィンセント、ダニエル、フレディ、そして魔導士のピーターであった。あと、トレヴァーがこの部屋に戻ってくるはずなので、7名でこの部屋で夜を明かすのだ。
ここは宿の中でも一等広い部屋であると思うが、さすがに7台ものベッドは配置することができないため、ベッドは部屋の壁に立てかけられていた。よって、6名の希望の光を運ぶ者たちと彼らと同じ旅路へと赴く1名の魔導士は、床にマットなるものを敷いてそれぞれ眠りにつく。
ルーク、ディラン、トレヴァー、フレディは、このような睡眠状況には慣れている。ヴィンセントも、この状況に一切の難色は示していなかった。魔導士・ピーターは真っ先に、それはもう気持ちよさそうに、すでにスースーと寝息を立てていた。彼はきっとどんな場所でも、気持ち眠ることができるのだろう。
ダニエルは唯一の貴族階級出身者であるも、彼はこの窮屈な状態に何も言わずに受け入れていたし、どこか嬉しそうにも見えた。それは彼がすでに貴族の身分を捨てていたためかもしれないが、彼は寝心地の良いシーツや贅沢なベッドなどよりも、もっと他のことを求めていたのだろう。
「もうしばらくしてもトレヴァーが戻らないようなら、少し部屋の外を見てくるか?」
フレディもルークに同調する。彼の隣で、白湯を入れたカップを手にしていたヴィンセントも頷く。
「そうですね。確かに戻ってくるのがやけに遅いような気がしますし……」
その時、ヴィンセントの手の内にあったカップが、何の前触れもなく、パリン! と音を立てて割れ、いや、砕け散ったのだ。
「!!」
当のヴィンセントだけではなく、突然のことに一同が驚愕した。
「大丈夫か?」とルークたちの声がはもり、「お兄さん、お怪我は?!」とダニエルが慌てて、駆け寄った。
「いや……怪我はない。けど、今のは一体……?!」
ヴィンセントの掌に、血は一切滲んではいなかった。ただ、本来は1つのものであったカップが、今はただバラバラの欠片として床に散らばっていた。
ヴィンセントが力を入れて、カップを握り割ったわけではない。何かの不吉の前触れのように、彼の手の内のカップはひとりでに割れたのだ。
思えばヴィンセントは、普通の人間とは少し違っている。それを如実に示す1つの例として、彼はアレクシスの町から遠く離れた首都シャノンの、それもジョセフ王子のベッドの中にまで一夜にして移動してしまったという実績がある。彼の第六感は、彼自身の意志に関わらず、これから起こる”何か”を感じ取ったのだろうか。
フレディが剣をそっと手に取った。
「あのおかしな魔導士たちが、今夜、けしかけてくる可能性がゼロとは言い切れないからな。用心するにこしたことはない」
彼の言葉に一同が頷いた。
「やっぱり、俺とルークでトレヴァーを探してくるよ」
ルークと同じく、すでに寝間着姿に着替えていたディランも、剣を手にした。
「レイナはミザリーさんといるし、ジェニーはじいさんといるから、そう心配はないだろうけどよ。トレヴァーと合流した後は、念のため2階の様子も見てくるぜ」
ルークも剣を手に取った。
不吉な予感。
そのうえ、緊張感に包まれ始めたこの部屋の中で、ピーターだけが先ほどと変わらず、規則正しい寝息を立て続けていた。
魔導士としての力を持っているも、頼りになるとは到底思えず、周りの目も一切気にすることなく、どこまでも我が道を行くピーター・ザック・マッキンタイヤーには、やはり一同、渋い顔をするしかなかった。
「ピーターさん……風邪、ひきますよ」
細やかな心配りをするディランは、ピーターの上布団をかけ直そうとした。
と、その時――
目をカッと見開いたピーターが、ガバッと飛び起き、ディランの両腕をガシッと掴んだのだ。それはあまりにも突然であり、またあまりにも至近距離であったため、ディランとピーターの唇がもう少しで触れ合うほどであった。
「ピ、ピーターさん……?」
普段の彼からは想像できない機敏な動きにディランだけでなく、皆、面食らった。そして、部屋の中にはさきほどの不吉な予感とはまた違う、少しだけ妙な空気も……
だが、無精ひげのなかにあるピーターの唇は、完全に血の気を失っていた。
「来る……いや、来た! 魔導士だ! 炎の魔導士だ!!」
「!!!」
魔導士のピーターが感じ取った襲撃者の気。
”炎の魔導士”なる者の気。
魔力を持たぬ者たちが、先ほど感じ取った不吉な予感が予感ではなくなった。出港前夜に、襲撃者がやって来たのだ。
次の瞬間、この大部屋の空気はゾッとするようなものに瞬時に切り替わった。
全員の肌が鳥肌立ったのに間髪入れず、ドオオン! という轟音とともに宿は揺れ動き、部屋の外から幾つもの悲鳴が協奏曲を奏でるがごとく響き渡ってきた!
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