ー9ー サミュエル・メイナード・ヘルキャット(1)

 待ち人、来たらず。

 国王ルーカス・エドワルドの生誕祭の喧噪に紛れ、オーガスト・セオドア・グッドマンは2人の人物を待っていた。

 ”待ち人”と表現はしたが、オーガストはその2人の人物に会うことを決して恋い焦がれているわけではない。

 彼の望み――マリア王女の肉体を取り戻し、自分たちの保護下に置く――に必要な者たちであるから、信用はできなくとも自分は彼らの力を借りる必要があるのだ。


 フランシスの逆鱗に触れ、魂のひとかけらだけにされてしまった愛しきマリア王女。

 本来なら、あのまま消滅してしまうはずであったマリア王女の魂であるが、自分の必死の呼びかけとフランシスの”応急措置”により、何とか今も自我を保ち続けている。

 そのフランシスによる”応急措置”が一体、何であったのかは、フランシスは「企業秘密です」と教えてはくれなかったが。


 オーガストは息を吐き出し、夜空を見上げた。

 今宵の月は、満月より欠けゆく種まき月であった。その月の青く神秘的で凄艶な美しさを放つ月は、愛しき王女の麗しき瞳の色を思わせた。

 

 オーガストは拳をグッと握りしめた。

 今宵の目的は、平民の身でありながら国王陛下からの任命を受け、浮かれまくっているだろう”希望の光を運ぶ者たち”に襲撃をかけ、その隙に自分がマリア王女の肉体を中の魂ごと取り戻すことである。

 さすがに、フランシスたちもマリア王女をあの状態のままにしておくのは、可哀想に思ってくれたのであろうか。

 マリア王女の肉体のことを考えると、オーガストは気が気でなかった。

 この港町のひときわ高い高台に建てられた、白亜の壁を思わせる高級な宿に、愛しい”マリア王女”がいる。

 今、彼女の肉体を腐らせないだけの役割を果たしている少女の魂は、フランシスいわく「マリア王女の中の人は絶対に生娘ですよ。それも倫理観や貞操観念は人一倍強い魂だと思われますね」とのことなので、あの中の魂が男を誘惑するとは考えにくい。


 けれども、もう枯れ果てているだろう魔導士の爺さん1人は除くとして、今の”マリア王女”の周りにいるのは自分と同じ年頃の男たちだ。彼らがマリア王女の美しさに欲望を押さえられず、不埒なふるまいを絶対にしないと言い切れるだろうか。

 マリア王女のほっそりとしたあの肉体が、1人の男の力、もしくは複数の男の力で組み伏せられたとしたら……


「待たせたな、オーガスト」

 突如、背後からかけられたその低い声に、オーガストは振り向いた。待ち人のうちの1人がやってきたのだ。

「顔が赤いぞ。酒でも飲んだのか?」

 その男は、自身の軽い癖のついたやわらかそうなアッシュベージュの髪をかきあげ、言葉を続けた。

「あいつの孫娘は、おそらく15、6ぐらいといったとこか。俺も年を取るはずだな」

 男は、ふぅと軽く息を吐いた。

 男の昔馴染にはすでに孫がいるが、この男自身はとても孫がいるような年齢には見えない。オーガスト自身よりどう見てもせいぜい5才ぐらいしか年上には見えないのだ。

 この男――いかにも優しそうで甘い顔立ちをした魔導士サミュエル・メイナード・ヘルキャットもまた、フランシスやヘレンと同じく神人の力を手に入れ、不老の外見を保ったまま、今こうして自分の目の前に立っている。


 オーガストは、あの神人の船に乗る魔導士たちの外見をあまり褒めたくはなかったが、このサミュエル・メイナード・ヘルキャットもまた、フランシスと同じく間違いなく美男の部類に入る男であった。

 フランシスの美貌と荘厳な雰囲気が神の化身を思わせるものであるとするなら、このサミュエルの美貌は神に仕える天使の化身を思わせた。

 背丈はそこそこであり、自分とそんなに変わらないだろう。けれども、いかにもやわらかそうなアッシュベージュの髪、花の色のような紫色の瞳は、彼の清らかであり、なおかつ優し気な顔立ちを際立たせていた。

 美しい男。虫も殺さないような顔をした男。

 祭りの賑わいの下にあっては、ただの善良な一市民にしか見えないこの男。

 だが、その紫色の瞳には、何か嫌なもの……油断ならない何かが光っている。そして、清らかな顔立ちはしているも、彼の表情からは時折、人間らしい欲や生々しさが透けて見えた。


 オーガストは、人形職人という職業柄、無意識のうちに人を観察し、その表面だけでなく、奥にあるものを見て掴もうとしていた。

 そして、オーガストだけではなく数多くの人間を見ている者は、一見好青年にしか見えないサミュエル・メイナード・ヘルキャットの奥に潜む、底知れぬ何かを感じるに違いないだろう。


「なんだよ。そんなに人の顔をジロジロ見て……俺の人形でも作ってくれるのか?」

 サミュエルのその声にオーガストは我に返り、慌てて首を横に振った。

「……そんなことより、マリア王女は?」

 オーガストが問う。

 サミュエルは鼻でフッと笑った。

「何言ってんだ。お前の愛するマリア王女なら、神人の船にいるだろう。今回は大立ち回りになる可能性があるってんで、お前自身がヘレンに預けてきたんだろう?」


 そうだ。いまだ必要最低限の会話しかしたことがなく、何を考えているか分からない魔導士ヘレンであるが、彼女はマリア王女の魂の面倒は見てくれているはずだ。

 もしかしたら、「すっげえ、美人だな。お前が惚れこむのも分かるぜ」と言っていたローズマリーも、ヘレンと一緒にマリア王女の面倒を見ているのかもしれない。ローズマリーは、自身の武力を鍛えあげること以外はあまり深く考えないようであるし、本来は面倒見のいい女な気がする。

 仮にネイサンに頼んだとしたら、あいつは口では「はいはい」と言いながら、絶対に面倒など見ないだろう。あいつは自分にしか興味がない奴だ。

 フランシスには、土下座までして”応急措置”をとってもらってたという負い目があるし、第一、マリア王女がフランシスを怖がっている。

 オーガストにとって、ヘレンやローズマリーは、神人の船に乗る者の中では、まだ少しは信頼ができる人物であった。

 当のマリア王女は自分と2人だけの時には、彼女たちのことを「根暗娘」や「筋肉女」などと呼んではいたが。


「あの……サミュエルさん……もう一人の協力者は?」

 もう1人の待ち人――マリア王女の肉体を取り戻すことに力を貸してくれる協力者は、まだ現れない。

 祭りで通りに目をやるも、それらしき人物はまだ見当たらない。というよりも、オーガストはもう1人の待ち人の顔すら知らないのだ。よって、向こうも自分の顔を知らない。オーガストとその待ち人を結びつけることができるのは、自分の隣に立つサミュエルだけだ。


 事前にフランシスとサミュエルの双方より聞いた待ち人の名は、ティモシー・ロバート・ワイズ。年は20代前半の平民。

 彼は、約一年前までデメトラの町で家族とともに暮らしていたが、今、現在は独り身とのことであった。住み慣れたデメトラの町を離れ、この港町で働いていたが、彼も”一時的に”今回の計画に参加すると――

 なぜ、一度も会ったこともない男にこれほど詳しいかというとフランシスが聞いてもいないのに、ベラベラと喋ってくれたからである。

 ティモシー・ロバート・ワイズの外見は、”顔に3つの黒子が並んでいる”という特徴がある以外は、美しいわけでもなく、醜いわけでもなく、雑踏に紛れたらそう目立つわけでもなく、ごく普通の平凡な男であると。そして、平凡であったも幸せな人生のなかに”暮らしていた”夫であり、父親で”あった”のだと――

 そう。彼は魔導士などではない。訓練を受けた優れた騎士などでもなさそうである。

 「なぜだ?」という疑問が湧き上がってきたが、オーガストはあえて深くフランシスには尋ねないことにした。余計なことを言って、フランシスの機嫌を損ねるわけにはいかない。魂のひとかけらだけの状態にあるマリア王女のためにも……

 あの神人の船に乗る者たちにとっては、何の武力も魔力も持っていない自分とマリア王女は、いてもいなくてもどうでもいい存在なのだから。


 サミュエルがそんなオーガストの心をうちを見透かしたかのように、クスッと笑う。

「オーガスト……俺はついさっき、お前の愛しの王女がいる宿の前の道を通ってきたんだ。全員ではないようだったが英雄たちご一行にもすれ違った。すれ違う時に、うち1人のストールを飛ばすという悪さまでしてしまったが……実は俺は、先にワイズをその宿の敷地内へと潜り込ませてきたんだ」

「!!」

 互いに顔合わせもしていないのに、先にティモシー・ロバート・ワイズを向かわせるとは……


 これはもう完全に部外者であるような扱いをされたオーガストがムッとしたのがサミュエルにも分かったらしい。だが、彼は平然としたまま、言葉を続けた。

「屈強な門番もいたが、そんなの俺にとっちゃ何の意味もない。それに仮に俺があの宿へと最初に潜り込んだとしたら、他の魔導士たちはともかく、”あいつ”には気づかれるかもしれないからな」

 オーガストも、サミュエルとあの”希望の光を運ぶ者たち”の平均年齢を一人でグッと引き上げているじいさん(確かタウンゼントとか言ったか)が、昔馴染であることは理解している。そして、このサミュエルが認める力を持つ魔導士は、フランシスとそのタウンゼント、そしてサミュエル自身の3人だけであるということも……


「まあ、俺からワイズへ少しだけアドバイスをしておいた。今の獲物の周りには複数の男たちがいる。普通の人間が多勢に無勢では、返り討ちにあうだろう。だから、獲物が眠りの扉を叩き始める時まで、息を潜めておけってさ」


 その言葉を聞いたオーガストは考える。

 そのワイズとやらは、あいつら――ルークだとか、ディランだとかいう連中の寝首を、殺し屋のごとく掻き切るつもりなのか。だが、そうだとしたら、サミュエルさんはなぜ今、”獲物たち”ではなく、”獲物”という単数形の表現をしたのか。いや、それはまだいいとして、そのワイズがしでかすことにマリア王女が巻き添えにならないとも限らない。一刻も早く、マリア王女の肉体をお守りしなければ――


「サミュエルさん! お願いです! 俺もすぐにあの宿に連れていってください!」

 思わず大きな声を出してしまったオーガストに、通行人の何人かがびっくりした顔で振り返る。

「…………オーガスト、お前はあの王女を心底愛しているんだな」

 ああ、あの方を愛しているさ、この世の誰よりも、きっと自分自身よりも――と、オーガストはサミュエルに答えようともしたが、ただ黙ってコクリと頷いた。

「そうか……それなら、ちょうどワイズが行動を開始する頃合いにお前も連れていこう。お前とワイズ、どちらに”あの者”の運命は転ぶかな……」

「それはどういうことですか……? ”あの者”とは誰のことを……?」

「まあ、行ってからのお楽しみってことよ」

 そう言ったサミュエルは月を見上げた。その彼の紫色の瞳には、青き月が妖しく映っていた。



 青き月の光は、白亜の壁を思わせるこの宿を優艶に浮かび上がらせていた。そして、月は宿の中庭にあつらえれた見事な噴水の水面にまで、涼やかなその姿を見せていた。

 噴水の中心部にあるのは、200年前のアドリアナ国王ジョセフ・ガイの彫像だ。

 その彫像はトレヴァーなどよりも遥かに大きいため、ジョセフ・ガイの実寸大というわけではないはずだ。経年による劣化が全く見られないわけではなかったが、精巧であり、なお立派な佇まいのこの彫像は宿のグレードを上げるという成功の一端を担ったに違いなかった。

 レイナが元の世界の教科書や参考書などで見たことがある、ミロのヴィーナスやダビデ像を思わせる芸術作品であった。

 素晴らしい腕を持つ芸術家によってこの彫像が創られたのが、ジョセフ・ガイの治世中であったのか、それとも後世であったのかは分からない。

 だが、今、ここにある。こうして、時を越えて、かつての国王ジョセフ・ガイの雄姿が今という時に届いているのだ。


 レイナは、切なげに彫像を見上げるフレディの横顔が気になった。彼はきっと、この彫像も、そして海すら見ることなく命を絶たれた6人の仲間のことを思っているに違いなかった。

 レイナやフレディだけでなく、みな言葉少なに少しだけ遠くから届けられる波の音と、そして目の前の噴水が立てる涼やかな音を聞いていた。

「そろそろかな……」

 ディランの声に、全員が顔を見合わせ、宿の方へと向き直った。ミザリーから許可された30分の自由時間は、そろそろ終わりだろう。

 と、同時に宿の窓よりミザリーがパッと顔を出した。

 なんというタイミングだ。努力家の彼女は、テレパシーだけでなく、千里眼の力まで身に着けたのかもしれなかった。




 今宵、泊まる部屋の窓の鍵が閉まっていることをレイナはしっかりと確認した。その時、窓より自分の姿を外へと見せてしまったが、ただレイナの目に映ったのは眼下に広がる祭りの灯りと、道を行きかう人々の姿であった。

 今から眠る私の姿なんか誰も気にとめていないわよ、とレイナは自分の心によぎった不安を打ち消すために自分に言い聞かせた。

 振り返ったレイナは同じ部屋で眠るミザリーに頷き、ミザリーもまた頷き返した。

 厳重な戸締りの確認。

 だが、フランシスなどにはこんな戸締りなど、何の意味もないことなのだ。

 ジェニーやルークたちと出会ったデブラの町の宿においても襲撃され、砦のごとき警備が控えている首都シャノンの城の中にまですんなりと入り込んできた。

 そのうえ、あのフランシスはアポストルからの啓示の場面を覗き見もしていたようである。さらにそのうえ、フランシスはこのマリア王女の肉体を知っている。無論、マリア王女とは合意のうえでの性交であったのは明らかであるが、アンバーを犯そうとしていたこともあり、レイナにとってフランシスは底知れぬ恐ろしい力を持つ魔導士であると同時に、一種の変質者的気持ち悪さのある存在であった。


 レイナがベッドに腰かけると、シルクのようにやわらかな手触りのシーツが指の先に触れた。

 畳十畳ほどの部屋のなか、向かい側にはミザリーのベッドがあった。

 レイナとミザリー、そしてアダムとジェニーの組み合わせで、それぞれの部屋に泊まる。ルークたち、そしてすこぶる頼りなげな魔導士ピーターの7人は大部屋に泊まるとのことであった。

 

 ミザリーがベッドにその身を滑らせると、彼女の量の多い髪がバサリと黄色い扇のように広がった。

 レイナもベッドに身を滑らせた。やわらかな感触の枕がなめらかな頬をこする。

 アドリアナ王国で迎える最後の夜。この世界で初めて踏みしめた大地を明日の朝、離れる。

 アンバーやジョセフ王子が命を授かったこの大地を離れるのだ。


 そっと瞳を閉じたレイナは、アリスの城――ダニエルの実家で、アンバーが話した夢のことを思い返していた。

 それだけでない。

 今宵は、この世界においての全てのことが、脳裏にありありと蘇ってくるような気がして、レイナはすんなりと眠りの扉まで辿り着ける気がしなかった。

「レイナさん……眠れますか?」

 ミザリーの声に、レイナはハッと瞳をあけた。

 ミザリーに心をうちを読まれてしまったのか、いや違う、ミザリーもまた眠れないのだと、レイナは思った。


「あ……はい。正直に言うと、全く眠れそうにないです。それに……実は私、元の世界でも船に乗ったことが一度もなくて、船ってどんな感じなんだろうって……」

 レイナは横たわったまま、向かい合うベッドに眠るミザリーを見た。ミザリーもまた、横たわったまま、レイナを見ていた。


「…………船での旅ですが、何もトラブルがなければエマヌエーレ国にはおそらく20日程度で着くでしょう。船酔いする体質でなければ、初心者でもなんとか切り抜けられる日数かと。船を下りたら、まずエマヌエーレ国の魔導士団と合流いたします。アドリアナ王国と違い、エマヌエーレ国の魔導士団は、国家と独立した体制を取っております。レイナさんとジェニーさんは、そのエマヌエーレ国の魔導士団の保護下へと入り、私たちだけでユーフェミア国があった方向へと再び船を走らせることとなります」

 ミザリーはゆっくりと復習するようにレイナに述べ、レイナも”理解しています”と意志の表示をするように、彼女の瞳を見て、頷いた。

 自分とジェニーは、エマヌエーレ国に着いた後、その国の魔導士団の保護下に入ることが決まっていた。

 自分にも何かできることがあるのではと思い、”希望の光を運ぶ者たち”の旅に同行することを決めたレイナ、そしてジェニーであるが、到底戦力にならないのは誰が見ても明らかであるし、自分たちも理解していた。自分とジェニーは、このアドリアナ王国で待っていた方が良いのではという意見が、ともに旅立つ兵士たちからあがってもいたらしい。

 自分たちは、船のなかで、彼らの食事を作ったり、身の回りの世話をすることぐらいしかできないだろう。


「……本来ならエマヌエーレ国に到着するまでの日数はもっと短縮できるはずなのですが、途中に海賊に遭遇する危険もありますため、より安全と思われる航路で向かいます」

「海賊ですか……?」

 レイナは、”海賊”という言葉に、たった一つの財宝を目指すあの国民的人気漫画や、中学校の時の友達がはまっていた乙女ゲームなるものの海賊の姿を思い浮かべてしまった。でも、そんなはずはない。きっと現実は、荒くれ者ばかりが集まった極悪非道な集団に違いない――


「現在、アドリアナ王国がその存在を掴んでいる海賊団は30ほどです。規模は様々ですけど、今我が王国が第一に征伐しなければならないと睨んでるのは、ペイン海賊団なるものです」

 軽く息を吐いたミザリーは続ける。

「……海賊と一言でいっても、船を襲い、抵抗さえしなければ、めぼしい金品を強奪する”だけで済む”海賊もあります。まあ、その海賊たちもいくら貧困の中で喘いでいたとはいえ、海賊になることを選択する時点で碌な者ではないのですが……けれども、そのペイン海賊団においては、最初から強奪は殺戮と同義なのです。殺して奪え、奪って殺せと言った具合に……」

 レイナの頬がこわばっていくのをミザリーは見た。

 ミザリーはあえて言わなかった。そのペイン海賊団が奪いつくすのは金品だけではないということを。いや、言葉に出さなくとも、聡いレイナは察したのかもしれない。彼女はその美しくたおやかな自身の女体を抱きしめるように、ギュっと身をこわばらせたのだから。


「調査の結果……そのペイン海賊団の主な構成人物は、我がアドリアナ王国の出身者だとのことで……そして、どうやら彼らはの後ろに魔導士の存在も匂わせていると……」

「!!!」

 極悪非道な海賊の後ろに、魔導士がいるかもしれない。その魔導士とは、まさか……


 だが、レイナは違和感を感じた。

 仮にあのフランシスが海賊の後ろ盾をしていたとして、一体、何のメリットがあるというのだろうか。それにフランシスは、なんだか、野蛮な集団を好まなそうな雰囲気も発している。フランシスの全てを知っているわけではないし、別に知りたくもないけど。

 他の魔導士、目立ちたがりなことが見て取れる少年魔導士ネイサンは、海賊に手を貸すなどというよりも、自身が嵐を起こすことを好みそうだ。それに、あのヘレンという名の”少女”の魔導士も、うまく説明ができないが、なんだか違う気がする。

 そうなると、残るはまだ姿を見せないサミュエル・メイナード・ヘルキャットか……

 けれども、フランシス一味の目的は、海賊を好き勝手に海で振る舞わせ、治安を乱すことにあるとは思えない。そうなると、また他の魔導士なのか……

 今よりわずか数時間前に、この宿の正面の道ですれ違った魔導士だと思われる男性のように、この広い異世界に魔導士は多数いるに違いないのだから。


 そう考えると同時にレイナは、1つの疑問も湧き上がってきた。

 今の話を聞いた限り、ペイン海賊団の手にかかった船に乗っていた者は、まさに皆殺しという状態なのだ。なのに、なぜ、詳しい話……主な構成員がアドリアナ王国出身者ということまで分かったのか。

「あのぅ、その海賊団につかまって、逃げることができた人もいたということですよね?」

 レイナのその問いに、ミザリーは少し驚きの表情を見せた後、ゆっくりと首を振った。

「……今の話は、旅人からの聞き取り調査によるものです。海賊だちが時折、下船し、港の酒場で酒を飲んでいることもあるらしいですから……」

 どういう経緯でかは分からないが、下船した客たちに紛れて、海賊たちが陸地の酒場で酒を飲むことがある。きっとその海賊たちは自慢げにガハハと笑いながら、たらふく酒を飲んでいたのだろう。

 居合わせた旅人たちも、海賊たちを諌め、また立ち向かおうものなら、自身が真っ先に骸となるのは明らかなので、衛所にも走らずそのままにしておいたに違いない。それに、そもそもその酒場自体が海賊たちの息がかかった場所であったとも推測される。

 

「それと……ペイン海賊団に裏娼館へと売られた女性たちより聞いた情報でもあります。アドリアナ王国内の裏娼館に売られた女性たちの何人かは救うことができたようですから……」

「!!!」

 いくら平和であるらしいアドリアナ王国とはいえ、そういった犯罪組織はゼロではない。悪はどこにおいても、はこびるのだ。

 アドリアナ王国は、海賊団の被害女性たちの幾人かを救い出すことはできた。だが、彼女たちは肉体にもその心には深い傷を負い……

 それに今、ミザリーは娼館ではなく、”裏娼館”と言ったのだ。

 

 部屋のなかに重々しく、そして悲しい沈黙が満ちていった。

「明日より私たちが辿る航路も、絶対の安全が保障されているものではありません。ですが、本日、エマヌエーレ国からの船が、我がアドリアナ王国に無事に到着したのを見ました。ユーフェミア国を救うためにも、ここで尻込みしているわけにはいきません」

 ミザリーの言葉にレイナも思い出した。

 海の美しさに見惚れていた時、港に止まっている複数の船とは少しだけ毛色が違う一隻の船がこの港町に辿り着こうとしていた光景を――


「さて、そろそろ、本当に眠りましょう」とミザリーが枕元のランプに、手を伸ばしたその時――

 部屋の扉がコンコンと規則正しく2回ノックされたのだ。

 レイナとミザリーは、互いに顔を見合わせた。

「……どなたですか?」

 訝し気にミザリーが問う。

 彼女はベッドから起き上がり、その扉の向こうに立っているであろう者に厳しい視線を向けていた。

 明日から同じ船に乗る者たちが、この部屋の扉を叩いたとしたなら、絶対に自分の名を先に名乗るはずであるだから。

 レイナも扉の向こうにいる者に、明らかな不審さを感じずにはいられなかった。


 2,3秒の沈黙の後――

「夜分遅くに申し訳ございません。この宿の雑務係のワイズと申します。ひょっとしたらお寒いかと思いまして、薄い毛布をお持ちいたしました。もう春ではございますが、この夜はグンと冷え込むと思われますので……」

 聞こえてきたのは若い男の声であった。それは、はっきりとした明瞭な声であった。そして、レイナたちが聞いたことがない声であった。 


 レイナとミザリーは再び顔を見合わせた。

 確かに扉の向こうにいるワイズとやらの言葉を聞いた後、言われてみれば少しだけ肌寒さを感じざるを得なくなったような気がした。けれども、絶対に今宵にその毛布が必要というわけではない。


 不審者や変質者が、屈強そうな門番が寝ずの番をしているこの宿に、やすやすと入り込める可能性は低いだろう。それに仮に扉の向こうにいる者が悪しき魔導士であるとしたら、真っ先にミザリーがその魔導士の発する気を間違いなく感じ取るはずだ。

 

 扉の向こうに立っているのは、魔導士の力を持っていない普通の男性であるには間違いない。

 けれども……

「今のところ、私たちは不自由はしておりません。せっかくのお心遣いですが結構でございます」

 ミザリーがキッパリと声で彼に答えた。彼の親切心、いや職務をきちんと果たそうとしているのを無碍にしてしまうことにもなるが、今、この部屋に名前を言われて顔も浮かばぬ、誰とも知れぬ者を入れたくはなかった。

「……はい、かしこまりました」

 扉の向こうのワイズも納得したようであった。彼が部屋の前から立ち去ったと思われる足音がレイナにも聞こえてきた。


「さて……寝ましょうか」というミザリーの声にレイナは頷き、再びシーツへと身を滑らせた。

 シーツのひんやりとした冷たさとかすかに漂う肌寒さが、先ほどよりも強く感じられた。

 今度こそランプを消そうと手を伸ばしたミザリーであったが、何か考え込んでいるようであった。

「ミザリーさん……?」

「……考えすぎでしょうか。精神を張りつめているからか、何もかもが怪しく思えてくるんです。先ほど、この部屋の扉を叩いた男性は魔導士などではありませんでしたし、従業員が自分が働く宿で不埒な振る舞いをしようと考えるなど非常に頭の悪いことです。でも……」


 ミザリーはスッとベッドから出た。シーツが擦れ合う音までが、レイナの耳には大きく響いてきた。

 静かに、決して足音を立てないように、ミザリーは扉へと近づいていく。

 ベッドの上で上体を起こしたレイナも、ベッドからそっと出た。

 先ほどのワイズとやらが、立ち去ったと思われる足音は、確かに数回聞こえた。だが、ミザリーは外に異変がないか調べようとしているのだろう。

 何もなかったなら、それでいい。だが、この胸騒ぎは何なのだろうか。


 ミザリーの手が部屋の鍵をゆっくりと外した。

 カチャリという音が響く。

 ミザリーの手がそおっと扉にかかる。


 と、同時にミザリーの体は後ろへと飛んだ。いや、飛んだのではない。扉の外にいた者が片足をガッとこじ入れ、力任せに押し入ってきたのだ。

「!!!!!」

 侵入者は若い男だった。

 魔導士の力を持っているミザリーとはいえ、男の力でこられたら適うわけがなかった。先ほどワイズと名乗った男はおそらくこの部屋の扉の前より立ち去ったように見せかけ、すぐ近くで息を潜めていたのだろう。


「早く逃げ……」

 ドサッと床に倒れ込んだミザリーが、痛みと衝撃に顔をしかめながら起き上がり、レイナを守ろうとした。

 だが、侵入者はミザリーの鳩尾に素早くドスッと一撃をくらわせた!

「ぐっ……!」と呻いたミザリーは白目を剥き、再び床に仰向けにドサリと倒れ込んだ。


「ミザリーさん!!」

 突如、押し入ってきた侵入者。

 侵入者の黒髪は手入れもされずボサボサであった。その口回りの黒々とした髭は伸び放題であった。とてもこの高級な宿の従業員とは考えられない世を捨てたような風貌の若い男。

 侵入者のガサガサに荒れた肌のその左頬には、黒子が3つ、均等な三角形を描くように並んでいた。 


 鳥がグルリと首を回すような動きで、侵入者は”レイナ”へと視線を移した。

 いや、その黒い瞳で”レイナ”を射抜いたのだ。侵入者の瞳は、獲物を狙う猛禽類のように光っていた。その黒き光の奥には、炎が宿っていた。憎悪の炎だ。

 

「……ひっ!」

 真っ直ぐに発せられた憎悪に”レイナ”がすくみあがり、後ずさった瞬間、その侵入者は目にも止まらぬ速さで”レイナ”に飛びかかってきた!

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