―7― ダニエルと名乗った青年

 雪解けの道を、レイナたち”6人”を乗せた荷馬車はガタゴトと音を立てながら走っていく――

 磨き抜かれたように艶々と黒光りしている6頭の黒い馬の手綱を握るのは、そう肉付きがいいわけではないのに、やけに頑強な背中をしている1人の中年男性であった。

 降り続いた雨により、数日間足止めされていたリネットの町から、アレクシスの町へと向かう。


 レイナは、自分の顔を覆い隠しているストール(この世界での正式名称は分からないが)をギュウッと手で握った。隣には、自分と同じく、ストールで顔を覆い隠したジェニーが座っていた。

 もうすぐ、アレクシスの町の入り口が見えてくるらしい。

 雪をまぶされ、白いペンキがはげかけているような屋根の家が幾つも見えてきた。

 まだ、アレクシスの町には足を踏み入れてはいないものの、リネットの町とは違い、その町全体からやや牧歌的な匂いが漂ってきているようにレイナには思えてきた。

「あの山の麓に、私の家があるの」

 ジェニーが小さな声でレイナに呟いた。

 ここより遠くに見える山の麓に、彼女の祖父であるアダム・ポール・タウンゼントは、”ここ数年”冬の間だけは1人で暮らしているのだ。

 レイナはジェニーに頷いた。

 だが、その直後、荷馬車がガタンと大きく揺れたため、ジェニーとともにビクンと飛びあがってしまった。あいつらがやってきたのでないか、と。


 動き始めた刺客たち。

 その刺客たちの一番後ろに控えているに違いないフランシスは、アンバーがアポストルとなったあの日以来、レイナたちの前に姿を見せることはなかった。

 けれども、今朝のように刺客を送り込んできたのだ。

 人形職人・オーガスト、そして彼が愛してやまないマリア王女の魂はまだ生きていた。そのうえ、魔導士の”少女”・ヘレンまで現れた。

 オーガストの”試験”という言葉、ヘレンが止めをささずに退却したことから考えると、フランシスは自分たちを本気で”今すぐに”殺そうとはしていないのだとは思う。いや、そう思わなければ、恐怖で一歩も動けなくなってしまう。


 レイナは思い出す。 

 確か、フランシスの仲間はまだいるはずであると――

 自分がジェニーたちと初めて出会ったデブラの町で、フランシスの口より別の魔導士らしき1人の者の名前を聞いたのだ。

――確か、サミュエルなんとかって、フランシスは言ってたわ。私、ちゃんとアンバーさんにいただいたノートに書き留めているもの……

 レイナは自分の膝の上に荷物を抱きしめた。衣類が入った荷物の中にある、重圧なノートの固い感触が伝わってきた。


 熱く脈打ち始めた心臓を落ち着かせようと、レイナは軽く息を吐き出した。そして、この荷馬車に自分と一緒に乗っている青年たちの顔をそっと盗み見た。

 ルーク、ディラン、トレヴァーの3人の青年たちは、すぐにそれぞれの腰より剣を抜けるように、剣の柄を固く握りしめていた。彼らの全身からは、一瞬たりとも気を抜けないというピリピリとした緊張感が発せられていた。

 実際に魔導士・ヘレンに大怪我、いや下手したら殺されていたかもしれないルークはもちろんのこと、ディランもトレヴァーもすぐに悪しき刺客たちに立ち向かっていけるようにと。

 この荷馬車は、自分を含め、全部で”6人”の人間が乗っているため、やや窮屈でもあった。だが、固まって行動していた方がいいというのは、全員一致の意見であった。

 その全員とは、レイナ、ジェニー、ルーク、ディラン、トレヴァー、そして――


 4人目の青年も、この荷馬車に同乗していた。

 レイナは、自分の正面に膝を抱え込むようにして俯いている青年の顔をチラリと見た。いや正確に言うと、見ようとしたが青年の顔は見ることができなかった。青年の顔上半分は、艶々としたウェーブがかった黒髪で隠されていたのだから。

 今朝の自分たちに対する攻撃に巻き込まれそうになった男性を、この青年が危機一髪救ったのだ。


 レイナは、あの後のことを思い出す。

 見てて可哀想になるほど、自信なさげで挙動不審過ぎるこの青年は、建物の影から顔を半分のぞかせたまま、「……わ、わ、私はダニエルと申します」と名乗った。

 そして、彼はこう言った。

「……わ、私も皆さまに、どっ、同行させていただけませんか??」と。

 彼の申し出に、一番最初に首を横に振ったのはルークであった。

「いや、あのさ……さっきはあんたに間一髪助けてもらったんだけど、俺たちはあの色ボケ野郎や魔導士のお嬢ちゃんよりも、もっとヤバい奴も知っているんだ。今は俺たちはこうして生きている。でも、ヤバい奴らに殺されてそうになったことは、さっきの時だけじゃない。命を落とす可能性がある旅に、無関係な人を巻き込むことなんてできねえよ」

 ルークの言う通りである。思わずレイナも頷いていた。

 だが、青年はルークの話を聞き、わずかに頬を(蘇ってきた恐怖のためだろう)ピクピクと動かしたが、決意したようにそのもともと血の気がないであろう唇をさらにギュっと結んだ。

「わ、わ、私は全くの無関係というわけではありません。み、皆さまの話を先の宿で偶然に聞いてしまったのですが、皆さんが探しているうちの1人は確か、ヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーという男性ですよね? ……わ、私は、か、彼と非常に関係が深い者です。私が皆さまと行動することになりましたら、きっと彼も皆さまと行動を共にすることを、ほっ、保証いたします」

「!?」

 このリネットの町で、最初に泊まった宿で話を盗み聞きされていたということ。だが、それ以上に驚いたのは、目の前にいるオドオドビクビクしているダニエルが、自信たっぷりで色気が過剰なほどに放出されていた、あのヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーと関係が深い者であるということ。ダニエルが自分たちの側につけば、ヴィンセントも自分たちと行動をともにすると――


 レイナだけでなく、ルークたちもダニエルとヴィンセントの関係について考えてしまった。

 兄弟か、もしくは近しい親族か。いや、それにしては髪の色といい、外見は全く似ていない。ダニエルの行動にヴィンセントが従うかもしれないというのなら、ダニエルの方が上の立場にいるのだろう。だが、レイナたちが見る限り、どう見てもヴィンセントの方が年上であると思われるし、このダニエルよりもあのヴィンセントの方が外見より威厳を放っていたのだから。まず、何よりも、このダニエルの言っていることは真実であるのかと。


 けれども、あの騒がしい一夜以来、ヴィンセントの姿を誰一人として見てはいない。

 彼は「後ほどアレクシスの町で会おう」などと言ってくれたものの、絶対と言える約束ではなかった。彼は自分を求める者の思いを感知できると言っていたが、行き違いとなる可能性だってある。

 

 ダニエルは敏感に、レイナたちの思いを感じ取ったらしい。

 その血の気のない唇をさらにブルブルと震わせて言った。

「……わ、私なんかお呼びでない、皆さまは私など必要としていないのは、理解しています。私はお兄さんの……あ、いやスクリムジョーの付録と考えていただいて結構です。で、で、でも、私は自分の心からの思いで、皆さまと行動をともにしたいのです……」

 ダニエルの口からは、”私なんか” ”私など”という言葉が、何度も発せられた。彼は非常に自分に自信がなく、自己評価がすこぶる低い人物なのだろう。

 

 どうするべきか、と、ルーク、ディラン、トレヴァーが顔を見合わせた時だった。

「話の途中にごめんよ……兄ちゃんたち、リネットの町に行きたいのかい? もし、良かったら、俺の知り合いで、すこぶる強い馬を持っている奴がいるから、紹介してやるよ。そして、あの黒髪の兄ちゃんの溶けた靴の代わりも俺が用意してやる。助けてくれた礼だ」

 先ほど、まさにダニエルが助けた中年男性からの申し出。

 そうだ。いつまでもこのリネットの町にとどまっているわけにはいかない。足場はまだ少し悪いが、雨は止んでいる。一刻も早く、アレクシスの町に行くべきなのだ。レイナやジェニーも、ルークたちと顔を見合わせ、頷いた。

「とにかく……先にアレクシスの町へと行くか。詳しい話はそれからだ」

 ルークがダニエルに、まっすぐにその右手を差し出した。



 やがて――

 アレクシスの町の中心部を通り抜け、この荷馬車はついに停まった。

 誰1人として言葉を発することなく、緊張感につつまれていたが、荷馬車がついに停まってしまったことで、緊張感はより鋭さを増した。

 レイナは辺りを見回した。

 アレクシスの町の控えめな賑わいのある中心部を通り抜け、今いるこの場所はまさに、町はずれと言える場所であるだろう。人気は少なく、辺りは静まり返り、行く先に白い雪をまぶされた木々が鬱蒼と茂っていているのが見える。ここはまるで、アンバーが最期を迎えた地を思わせた。

――怖いわ……こんなところで、もし、魔導士たちに襲われたとしたら……

 レイナが身を震わせたのは、この地に漂う哀しい肌寒さだけではなかった。新たに発生した恐怖。無事にアダム・ポール・タウンゼントの元にまで辿り着けるのかという――


「お客さんたち、馬を走らせることができるのはここまでだ。後は、歩いて目的地まで行ってくれ」

 馬主である中年男性――標準よりややガッシリとしたぐらいの体格ではあるが、やけにその眼光が鋭く、片方の耳が少し欠けている強面の男性が振り向いて言った。


「おっさん、金はいくら払えばいいんだ?」

 ルークの言葉に、男性はレイナとジェニーをチラリと見て言う。

「……まあ、別嬪が2人もいるんで、ただと言ってやりたいとこだが、仕事の対価はちゃんともらわなきゃな……これだけだ」

 男性が、金額を現わすジェスチャーを見せた。レイナが顔の大半を隠していても、この”マリア王女”が美しいということは、その佇まいから分かってしまうのだろう。

 荷物より金を取り出そうとする誰よりも先に、ダニエルが重たげな袋より金貨をサッと出した。

「おい……ダニエル!」

 全員分の金を多額のおつりが必要なほど差し出したダニエルに、ルークがつい大きな声を出してしまった。

「いいい……いいんです。私など、ただの金づると思っていただければ、どうせこれぐらいしか、皆さまのお役にしかたつことができないのですから……」

 ダニエルは、かなりの金を持っている。だが、彼の態度はあまりにも卑屈であり、自虐的でもあり、ルークたちは彼にどう答えていいのか分からなかった。


「ありがとよ。釣りはいいだろ?」

 ダニエルがコクンと頷く。ダニエルより差し出された金貨を、馬主の男性はそのまま受け取った。

 男性が腕を伸ばした時に、レイナは見てしまった。

 男性が分厚い上着の内側に、すぐ取り出せるようにいくつものナイフが常備されているのを。それと、男性の鎖骨の少し下あたりから覗いている、まるで刃物で切り付けられたような傷痕も。



「……あのおっさん、絶対に昔、荒くれ者だったんだろうな」

 小さくなっていく荷馬車の姿を見ながら、トレヴァーが言う。

「やっぱり、トレヴァーも気づいてたか。そうだよね、良く考えたら、あのリネットの町のおじさんだって、明らかにヤバい奴に狙われている俺らをこの町まで運ぶのに、ごく普通の一般人をよこすわけないし」

 今はごく普通の民として生計を立てているようだが、一時的にしろこの世界でいう裏社会にいたと思われる男性。レイナの元の世界風に表現するとしたなら、先ほどの中年男性は”元ヤ●ザ”と言えるのかもしれない。


「あのよ、ダニエル……お前、そんなにビクビク、ペコペコすることねえだろ。誰もお前に何かしたわけじゃないんだし……」

 ルークの言葉に、ダニエルが飛びあがらんばかりに驚き、またしても頭を下げた。

「すす、すいません。つい……なんだか、もう私の魂にまで、染み込んでしまっているようでして……以後、気をつけます!!」

「いや、別に気をつけなくていいからさ。俺らに対しては、もっとフランクでいこうぜ」

 そう言ったルーク、そして笑顔のディランとトレヴァーに、ダニエルはその青白い頬をパッと桜色に染めた。

「あ、あ、ありがとうございます。とってもうれしいです!」

「さ、今から、ジェニーのじいちゃんのとこまで歩いていくぞ」

 言ったそばから、敬語を使うダニエルに、ルークたちはは少しだけあきれた顔をした。だが、これから共に旅路を歩く彼を励ますようにルークがダニエルの背中をバシッと叩いた。

 


 アダム・ポール・タウンゼントへと続く道は、言葉通りの獣道であった。

 降り積もっていた雪がまだ完全に溶けてはいないため、足元はすこぶる悪く、足を滑らせる事態となったら、間違いなく打撲と流血の惨事となるだろう。それよりも、熊や狼などが出てくるのではないかとレイナは気が気でなかった。ある意味、今はあの悪しき者たちよりも獣たちの方が身近に感じられた。

 だが、前を歩くジェニーは、事もなげにサクサクと雪に軽快な足跡をつけていっている。

「皆さん、ここを越えれば、開けたところに出ますから」

 クルッと振り返ったジェニーが言った。そう言ったジェニーは心配そうに、レイナとあまり体を動かすことに慣れていなさそうなダニエルの様子を目の端で確認していた。


「ジェニー……失礼だけど、こんな辺鄙な場所に住んでいて、今まで危険なこととかなかったの?」

 ディランの問いに、ジェニーは「?」と不思議そうに首を横に振る。

「いいえ、全く。私が町から帰る時は、いつもおじいちゃんが迎えに来てくれてましたし……」

「おじいちゃんって、どんな人なんだ?」

 トレヴァーが聞く。

「えーと……絵に描いたような頑固者って感じですね。外見も中身も。魔導士の仕事を辞めてからは、野菜を作ったりして暮らしているので、かなり日焼けしていて……」


「……ジェニーは、おじいちゃんと2人暮らしなの?」

 君にも両親がいないのか、ということを、ストレートには聞かないディランの思いやりであった。

 ジェニーがコクンと頷いた。

「私がまだ赤ちゃんだったころに、両親も祖母も……一歳違いの姉も、母の弟である叔父も事故で死んでしまったので……私はおじいちゃん以外の家族の顔も知らないんです」

 ジェニーもまた、ルーク、ディラン、トレヴァーと同じく、両親の顔を知らず、また思い出すら持たずに生きてきたのだ。

 彼女たちの話を聞いていたレイナは思う。

 自分には両親――それも至って善良で常識的な親が2人とも揃っていた。そのうえ、兄までいた。レイナがこの世界で知っている兄妹といえば、今のところ、ジョセフ王子とマリア王女ぐらいしかいないが、自分と兄・政明は彼らのような関係ではなかった。

 「家庭環境」などという人それぞれ違っていて当たり前の事柄を、他人と比べるのは、やや間違っているかもしれない。だが、レイナは、自分がいかに恵まれて育ち、そして、その「家庭環境」を当然のことだと考えていたのだと思わずにはいられず、胸がギュウッと締めつけられた。


「おじいちゃんが一通りの読み書きを教えてくれたんだけど、私なかなか覚えられなくて、よく叱られてました。それに……私、8才ごろから、町のお店などの手伝いによく行かされていたんです。”人の間で生きていくことを学べ”、そして”自分にできることと、できないことを見極め、自分にできることを強みとして伸ばしていけ”って」

 そうだ。大抵の場合、年少の者より年長の者が先にこの世を去る。

 ジェニーの祖父であるアダム・ポール・タウンゼントは、孫娘がこれからの未来、1人となった時も生きていくのに困らぬようにと、彼女を厳しい愛情を持って、育てているのだろう。


「……素晴らしいお祖父様ですね……」

 先ほどから黙ったまま話を聞いていた例の青年・ダニエルがポツリと呟いた。思わず、全員の瞳がダニエルへと集まった。

「す、す、すいません。つい……羨ましくなって……」

 5人のそれぞれ色の違う瞳を一心に集めてしまったダニエルは、頬を朱くし、俯いた。


「なあ、ダニエル。俺たち、お前のことをよく知らないんだ。お前が嫌でなかったら、お前のことも話してくれよ」

 ルークが言う。 

「こうして一緒に旅をするんだし、俺も聞いてみたいな」

「名前もダニエルとしか聞いてないし、ミドルネームやラストネームは何て言うんだ?」

 ディランも、トレヴァーも、頑なに閉ざされているダニエルの心を開かせようとしているルークの助太刀をする。


 ダニエルの重たげな前髪の隙間から見える、髪と同じ色の漆黒の瞳は動揺していた。だが、彼はゴクリと唾を飲み込んだ後、決意したように口を開いた。

「……わ、私の名は、ダニエル・コーディ・ホワイトと申します」 

 この時のダニエルの脳裏には、彼らに名乗ったファーストネームのダニエルの他は、偽名を使うべきではという考えもよぎっていった。だが、ダニエルはすこぶる真面目であり、正直を美徳とし、また明らかに不審で足手まといにしかならない自分を受け入れてくれたルークたちに嘘はつきたくないと強く思った。よって彼は、自分の真実の名前を彼らに告げたのだ。


 ダニエル・コーディ・ホワイト。

 レイナは彼の名を心の中で、静かに反芻する。レイナはその名前に聞き覚えがあった。確かにこの手で、アンバーからもらったノートに刻みつけるように書いた名前の1つのような気がしていた。

 レイナの頭の中で、あの重圧なノートがパラパラと風にめくられていっていく――

 この世界に来てから出会った人たちの名とその身分や特徴を、覚えている限り書き留めていったあのノートのどこかに、その名を確かに書いたはずなのだから……


「あ、あの、もしかして……アリスの城の奥方様の息子さんじゃ……」

 今度はレイナが思わず、呟いていた。

 あの濡れた黒曜石のように艶のある髪と瞳、顔立ちも非常に美しいが、どこか冷たく威圧感のあるオーラを身にまとい、夫である領主やもう1人の息子よりも、際立ってレイナの印象に残っているアリスの城の奥方・エヴァ・ジャクリーン・ホワイト。彼女の長男・ダニエルは、貴族の身分を捨て、市井の者となっているという噂を書き留めていたこともしっかり思い出したのだ。


 レイナの言葉にダニエルがビクッとその身を震わせ、立ち止まった。

 彼のその様子を見る限り、同姓同名などでなく、どうやら彼は本当に”あのダニエル・コーディ・ホワイト”であるのは、明らかであった。

 そして、彼だけでなく全員がピタッと立ち止まってしまった。

――いけない! 何か、事情があったに違いないのに、私、何も考えずに口にして……!

 ハッとして口を押さえたレイナ。

 だが、既に自分やダニエルだけでなく、ルーク、ディラン、トレヴァー、ジェニーも、静まり返った空気の中で固まってしまった後であった。


 レイナは、彼らがジョセフ王子に対峙した時の様子を思い出す。この世界において、身分というものは魔力などとは別の意味で絶大な力を持っているのだ。このダニエルはジョセフ王子ほど、身分は高くはない。だが、貴族ではある。いや、貴族で”あった”というべきか。

 その彼を窮屈な荷馬車に押し込め、今は獣道を歩かせている。そのうえ、タメ口で話をし、ルークに至っては彼を励ますためとはいえ、バシッと背中を叩いてしまっていた。

 徐々に縮まっていきだしていた彼らの距離は、今のレイナの言葉により、地割れがしたような亀裂が生じてしまったのだ。


「ご、ごめんなさい……っ!」

 レイナはダニエルに、そしてルークたちにも頭を下げ、今の自分の失言を謝った。

 だが――

「い、いいえ、いいんです。きちんと、最初から本名を名乗らなかった私が悪いのですから……それに、私はもう貴族の身分は捨てております。み、皆さまと同じ平民です……」

「で、でも、そのような……」

 敬語を使いなれていないルークが、ダニエルに対し、精一杯敬語を使おうとしたが、彼の声は裏返っていた。

「あの皆さま……私に対しては今まで通りで構いません。私は確かにアリスの城の領主の長男として、この世に生を受けました。で、ですが……貴族だからといって、その身分にふさわしい器を持って生まれてくるとは限りません。私は生まれてくる場所を間違えてしまった人間です。正直、こうして……名も無き民の1人として時を重ねている方が、私には合っているのです」

 貴族の身分を自ら捨てるほどのことが彼の過去にあった。その影響であるのか、あまり人と喋り慣れていないと思われたダニエルの両肩は震えていた。けれども、彼が自分たちに必死に伝えようとしている思いは真摯に伝わってはきていた。


 再び、歩き始めたレイナたちであったが、先ほどまでとは明らかに違う空気が漂っていた。

 だが、それは露見してしまったダニエルの素性だけが原因であるとは考えられなかった。

 冷たい空気が風とともに自分たちの元へと流れて来る。そして、その冷気は徐々に濃く、重たくなってきているのだから――


 自分がこの世界に来てから、四季を一周はしていないレイナではあったが、冬のピークと思われる時期は過ぎたと考えていた。これから、徐々に柔らかく温かな春の空気へと変わっていくはずであると。

 けれども、アダム・ポール・タウンゼントへと続いているこの道は、季節を遡っていく道であるかのようであった。

 レイナの隣を歩くジェニーの顔にも、不安と心配がレイナ以上に浮かんでいた。

「ジェニー……お前のじいさん、一体、何やってんだ?! まさか、氷でも作ってんのか?」

 場を和ませようとしたルークの冗談であったが、「そ、そんなこと……」とジェニーを泣きそうな顔にさせただけであり、彼は「す、すまん」と大変に慌てていた。


 歩き続ける間に、風に乗って流れて来る冷気は各々の肌を、なおも鳥肌立たせた。まるで、毛穴がキュッと閉じ、その表面は死人のように冷たい肌へと。

 

 そして、ついに見えてきた。

 山の麓に木々と同じ色合いで森の中に隠れるようにして佇んでいる、白い雪がその屋根に降り積もっている、こじんまりとした小さな家が。近くに、冬の今は裸となっているだろう、畑らしき更地があった。

 だが、身を震わせる不気味な冷気が、あの小さな家から発しだされているのは、明らかであった。


 もしかしたら、決してあってはならない事態が既に起こってしまったのではないか。

 自分たちを狙っている魔導士たちが先回りをして、アダム・ポール・タウンゼントに奇襲をかけ――


「おじいちゃんっ!!」

 悲鳴に近い泣き声を発し、駆けだしたジェニーの腕をディランがガシッと掴んだ。

「ジェニー! 落ち着いて、俺たちが先に行くから!」

 ジェニーは涙をためた瞳で、ディランに頷いた。


「行くぞ!」

 ルークが先陣をきるために、剣を構えた。ルークに頷いたディランも彼と同じく、剣を構える。

 レイナとジェニーは互いに手を握り合った。そして、彼らと同じく剣を握ったトレヴァーは彼女たちを守るために、その大きく頑丈な肉体で彼女たちの側に立った。ダニエルは近くにあった太い木の枝を握りしめ、「わ、私も行きますっ!」とへっぴり腰でルークたちに続いた。ひょっとしたら、トレヴァーが守らなければならないのは、2人ではなく3人となったのかもしれない。


 ルークがそっと扉に手をかけた。

 年季を感じさせる色合いであるが、よく手入れされていると思われるその木の扉の鍵は、不用心にもかかっていなかった。

「!!!」

 ルークが思い切って扉を開けた同時に、より強い冷気はザアッと外へと流れてきた。やはり、身を震わせる冷気の発生源は、この家の中であるのは確実だ。

 物音はしない。声も聞こえない。

 ジェニーのより強くなった震えは、レイナの手に伝わってきた。自分も震えていることが分かるレイナは、ただ彼女の手を強く握りしめることしかできなかった。

「……入るぞ」

 家の中へと、レイナもルークたちに続き、恐る恐る入った。

 床がギシッと立てた音ですら、レイナの身を震わせた。家の中の薄暗さと冷たさにより、レイナはまるで巨大な冷凍庫にいるような錯覚にも陥った。

 窓も閉め切られている家の中は、非常に薄暗かった。だが、黴や埃の匂いはしない。かすかに美味しそうなスープの匂いも残っていた。

 それは、ここで生活している者がいる、いや”先ほどまで”生活していた者がいたとの証明であった。


 薄暗く、身を痺れさせる冷たさが漂う空間であったが、レイナたちの目が徐々に慣れてきたのと、退路を確保するため開けっ放しにしている扉から差し込んでくる太陽の光により、家の中の様子がゆっくりと分かり始めてきた。

 奥に他の部屋に通じる扉らしきものが2つ見える。椅子やテーブル、その他の家具が、なぜかこの部屋の隅の方に寄せられていた。


 そして――

「!!!!!」

 レイナだけでなく、誰もがビクッと飛びあがってしまった。

 自分たちが今いる、この部屋の中央のひらけた空間に白い布を胸までかけられて、横たわっている者がいたのだ。

 その者の顔は、はっきりとはまだ見えない。だが、その者が男であるのは明らかであった。両肩のかたい輪郭、短い髪と平らな胸板がそれを物語っていた。


 この横たわっている者が寝ているのだとしたら、寝息がかすかにでも聞こてくるはずであった。だが、何も聞こえないのだ。沈んだ静寂の中に、ただ仰向けに横たわっている。

 冷たい、冷たいこの空気のなか、白いシーツを胸までかぶせられ、そう、まるで死人のように……

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