第一章(3)

 翌日の登校時、ふと肩を叩かれた。そして横に並んだのは制服を着た女子だ。見覚えがあるような気がするのでクラスメイトだと思うが、誰なのかは全く分からない。


「おはよう。堤君」

「えっと……誰でしょうか?」


 そう言うと、少女は溜息をついた。落胆させたのは悪いが、記憶にないものは仕方ない。


「確かに話したことはないけど、あなたの前の席にいる人間よ。ちょっと哀しくなるわね」


 そこで彼女が誰なのかが分かった。


「ごめん。委員長さん」


 ホームルームで学級委員を決める際、目の前に座る彼女が真っ先に挙手したことは覚えている。とはいえ僕は普段彼女の後ろの席にいるので、彼女の顔を見る機会が少なかった。


「津島祥(つしましょう)よ。委員長さんという呼び方はやめてくれると嬉しいわ」

「分かった。津島さん」


 津島さんの身長は僕と同じくらいだ。彼女の方が若干高いかもしれない。今日もその長い黒髪が綺麗だ。手入れは大変ではないだろうか。


「ところで何の用?」


 まさか自分のことを覚えてもらうためだけに話しかけてきたのではあるまい。登校時に見かけたからといって、今まで一度も会話したことのない男に声をかけたからには、それなりの理由があるはずだ。


「昨日のことで気になって……あれから体調はどう?」


 心当たりは全くないが、僕に大事な用事があるものだと思っていた。しかしそんな予想と違って、割とどうでもいい話題が来た。


「別に、今は普通だけど」

「そう……なら良かったわ」


 女の子にしては少し低めの声だが、それでいて冷たさを感じなかった。むしろ、僕の返事に対して本気で安心しているように聞こえる。


「もしかして心配してくれていたの?」

「勿論よ。あんなことが起こったら心配になるわ」


 確かにクラスメイトが反復横跳びの最中に急に立ち止まって、前へ歩きだしたら、その人のことが心配にはなるだろう。


「わざわざ訊く程?」


 しかしそれを差し引いても、今の津島さんの行動は異様に思える。急を要するわけでないのに、心配になったからといって交友関係のない男子にその後の経過を訊ねるものだろうか。


「そういう性分なの。本当は昨日の放課後に話そうと思っていたのだけど、高瀬さんとすぐに帰っちゃったから。それで朝見かけたから、丁度いいと思って」

「まさか僕に気があるわけじゃないよね」


 本気で訊いたわけではない。ただそういう解釈ができるということだ。津島さんもそれを察したのか、機嫌を損ねず穏やかに答えてくれた。


「面白い冗談ね。まあ、そう勘違いされたことがあるから馬鹿にはできないけど」


 僕のことを好きになってしまったわけではない。そんなことは関係なく、前日困った事態に陥った僕に接近した。つまり津島さんは、困っている人がいたら手を差し伸べずにはいられない性格のようだ。


「だとしたら損な生き方だよ、それ」

「ご忠告ありがとう。でもちゃんと分かっているわ」


 またもやあっさり返されてしまった。今度は少し嫌味を含んでいたが、津島さんはそれをものともしなかった。念のため訊いてみる。


「気に障らなかった?」

「ええ、むしろ少し楽しかったわ。こういう風に話してくれる人ってあまりいないから。でも、あなたは思ったことを口にしすぎではないかしら?」


 カウンターを受けてしまった。しかし僕の返答は決まっている。


「忠告ありがとう。でも分かっているから」


 言い返されてから理解した。おそらく津島さんは僕と同じだ。自分の性分を未来永劫変えるつもりがないのだろう。コンプレックスに思っているかもしれないが、それと同時に、その性分が自分を保つために必要なものだと思っている。


「そのようね。そろそろ本題に戻っていい?」

「どうぞ」先程のやり取りが楽しくて、本題が何か忘れてしまったが――。

「昨日の体育館で何があったのか、簡単でいいから聞かせて」


 僕は養護教諭にしたのとほぼ同じ説明をした。


「反復横跳びの時、急に意識を失った。それでしばらく意識もないのに歩いていた」

「同じ経験はどれくらいあるの?」

「二回だけ、バスケをした時に。他の球技は試していないけど、マラソンでは起こらなかった」


 津島さんは少しだけ間を空けてから言った。


「ナルコレプシーじゃないかしら?」


 聞いたことがある名称だ。しかし納得のいく答えではない。


「そう? あれって急に眠ってしまうっていう睡眠障害じゃなかった?」

「別に、私は専門に勉強しているわけではないから詳しくは知らないけど、ナルコレプシーにもいろいろあるらしいの。その中で自動症という、行動の記憶が失われる症状もあるわ。昨日のあなたの症状と似ているわね。けど……」


 詳しくは知らないと言う割には、すらすらと説明できたものだ。おそらく僕の症状に関連することだと思って、昨日調べたのだろう。


「急に行動が変わるのは変ね。しかも頻度は少ない。激しい運動が原因だと思ったら、マラソンのような長時間体力を使う運動では何も起こらない……」

「そう。健康体だと、医者に太鼓判を押された」


 つまり、お手上げ状態なのだ。医者でさえ解明することができなかったのだ。頑張っているところ悪いが、素人である津島さんにもこの謎を解くことはできないだろう。

 そこでふと、ある言葉が浮かんだ。


「真実は――人よりも高みにある」


 高瀬さんが伝えたかったのは、このことだったのだろうか。


「何? それは誰の言葉なの?」

「元ネタが何かは知らないけど、昨日高瀬さんが言っていた」


 人よりも高みにあるということは、つまり人の常識には当てはまらないということだろう。人類の科学力をもってしても、僕の問題を解決することができないとしたら――。


「まさか……呪いや幽霊なんてものが原因じゃ……」


 昨日高瀬さんは幽霊という言葉は一切出さなかった。それでも幽霊を連想してしまったのは呪いの話をしたからだろう。呪いと幽霊はワンセットであるイメージがある。


「止めなさい。笑えない冗談よ」


 全く覚えられていないことにも、お人好しな性格を指摘されたことにも、機嫌を損ねなかった彼女が、意外なところで不愉快な態度を露にした。その声は冷たいというより重い。その重さが僕を津島さんの方へ振り向かせたのかもしれない。


「あなたも《幻の呪い姫》なんていうくだらない噂を信じているではないでしょうね?」


 津島さんも知っているのだと呑気に思っている場合ではなかった。彼女の目から妥協などという生温いものは感じられない。とはいえ今はこの視線に対抗する理由はない。


「その噂は全然信じていない」


 そう答えると、津島さんの表情が少し優しくなったような気がした。安心したところで、僕は前へ向き直った。


「まさか高瀬さんが、堤君の症状はその呪い姫の所為だとでも言ったの?」

「彼女の名誉のために言うけど、高瀬さんもその噂はくだらないと言っていたよ」


 僕はまだ《幻の呪い姫》を本気で信じている人間に遭ったことがない。しかし《幻の呪い姫》の話をした相手が津島さんで二人目なので、世間がどう思っているのかは分からない。


「津島さんはどこからそれを聞いたの?」

「クラスメイトからよ。面白半分で話していたから、叱ってしまったことは反省しているわ。間違ったことはしていないと思うけど、やり過ぎたとは思う」


 その時の情景を容易に思い浮かべることができた。おそらく声を荒げることはなかったものの、かなり厳しい物言いをしたのだろう。


「一年生はあまり本気にしていないみたいだけど、実際に去年の文化祭を経験した人達は、特に白川一魅(しらかわひとみ)さんだったかしら……亡くなった人と同じ学年、今の三年生の中では信じてしまっている人もいるみたいよ」


 確かにあの事件はタイミングが悪過ぎる。正体不明の踊り子が現れて一週間も経たない内に、そいつと踊っていた生徒会長が死んだのだから、怖くなっても無理はないと思う。


「それにしてもくだらない噂がよくも流行ったものね。まったく、幽霊や呪いなんて【ある】はずがないのに……」


 僕はなぜか、その細かい言葉の用法が気になった。


「呪いは【ある】でいいと思うけど、幽霊は【いる】じゃない?」


 幽霊の存在は【いる】と表現する方が正しいはずだ。呪いと並べて言ったからつい【ある】を使ってしまったのだろうか。


「何を言っているの。現象が【いる】とは言わないでしょ」


 なるほど、とは思う。つまり津島さんは幽霊の存在を完全に否定しているのだ。何かの間違いと割り切っている。そういう考え方は個人的には好きだ。しかしこれ以上この話を続けても意味はなさそうなので本題に戻ることにした。


「それで……何の話だった?」

「あなたの症状の話よ。いきなり幽霊や呪いの所為かもしれないなんて言い出すから、話が脱線しちゃったじゃない……」

「それと津島さんが余計に反応した所為」

「悪かったわね……」と俯きながら呟く津島さんがすごく可愛らしかった。


 確かに幽霊や呪いという非科学的なものに原因を見出そうとしたのは気の迷いだ。とはいえ常識の範疇で考察するには無理があることに変わりはない。


「でも、常識的に考えられることは……そうだ」


 まだ、頼みの綱が一人いるではないか。


「高瀬さんは何か知っているかもしれない。あの時僕が気を失っていたことを見破っていたし、何も知らなかったらあんなことはしないと思う」


 津島さんもそのことに異論はないようで、小さく首肯した。


「確かに……あなたは知らないでしょうけど、昨日の高瀬さんはすごかったわよ。いつの間にか堤君の方へ走っていって、先生が堤君のところへ行こうとすると、『今の彼に近づかないでください』って叫んで。堤君が歩いている間、ずっとあなたに何か囁いていたみたいよ」


 高瀬さんはそこまですごいことをしていたのか。しかし先生の助力を拒んでまで、彼女が一人で事を収めようとしたのはなぜだろう。そこに特別な理由があるのだろうか。


「手際が良かった……というより手慣れている感じだったわ。どういう経験を積んだらああいう風になれるのか、是非教えてほしいものね」


 津島さんの言う通りだ。一介の高校生が、原因不明の現象に遭った人間を迅速かつ適切に助けるなんてことは考えられない。高瀬さんは、僕達が普通関わることないような経験をいくつも経てきたのだろうか。

 そうこう話している内に、校門を通り過ぎて昇降口までたどり着いた。下駄箱を開けるとそこには二つ折りにされた手紙らしきものが置いてあった。とりあえず、それを開いて中身に目を通す。

『放課後、教室に残っててね。お話しましょ(ハートの形が書かれていた) 涼』

 涼とは誰のことかと考えて、二秒後に高瀬さんのことだと思い出した。文面はふざけているが、大事な話があることは分かり切っていた。


「あらっ、今時古風なアプローチをする子がいるものね」

「そういうことじゃないと思うよ」


 この手紙は好きな異性に宛てられた告白のための手紙だと、津島さんは思ったのだろう。


「なら果たし状かしら?」


 津島さんが冗談を嗜むとは意外だ。クールな態度を取っているので、一見すると孤高の存在のように思えるが、実際は愛想の良い女の子なのだろう。


「高瀬さんからみたい」

「あなた……もう少しデリカシーというものを学ぶべきだと思うわ」


 と思っていたら、普通に説教されてしまった。ラブレターではないのだから、差出人を明かしたところでその人に対する被害はあまりないだろう。


「それで、高瀬さんからということは、昨日のことで話があるのでしょう」


「きっと」間違いなくそうだろう。昨日教えてくれなかったことを教えてくれるはずだ。


「何か詳しいことが分かったら、私にも教えて」

「分かった」僕達は上履きに履き替えて、廊下に出た。そしてしばらく歩いていると、正面から歩いてくる一人の女子生徒と目が合った。


「えっ?」彼女は立ち止った。眼を見開いて僕を凝視している。驚きを隠そうとする意思がまったく感じられない。


「どうしましたか?」


 僕も足を止めて、彼女に話しかけた。すると彼女は慌てて首を横に振り、「いいえ。何でもないわ」と言い残して、足早に去って行った。


「どうしたのかしら、あの人? 堤君をみて驚いたように見えたけど」


 当然隣にいた津島さんが疑問を投げかける。僕にとっても意外なことだった。彼女が僕を見て驚いたことにではない。彼女が僕の顔をしっかりと覚えていたことに、だ。


「僕もそう見えたよ」

「知り合いなの?」

「いいや」確か、彼女と言葉を交わしたことはないはずだ。会ったことなら過去に一度だけあるが、それでは知り合いとは言えないだろう。


「さっきの人、生徒会長の八尾静香さんだよね」

「ええ、入学式の時に挨拶していたのは覚えているわ」


 入学式で彼女が生徒会長になっていたことを知った時、僕は全然驚かなかった。むしろ他に適役がいるのかは疑わしかったくらいだ。


「クラスメイトの名前は覚えていないくせに、会長の名前はしっかり覚えているのね。スタイルがよくて美人だからかしら」

「そういうのじゃない。それを言うなら、君だって結構な美少女だと思うけど」

「嬉しいことを言ってくれるわね。だったら名前くらい覚えてほしかったものだけど」


 それはごもっともな意見だ。こうして津島さんと歓談しながら、教室に向かっていった。

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