第一章(4)

 放課後、僕と高瀬さんはクラスメイトの全員が教室を出るまで自習をした。もし誰か他に教室に残る人がいれば場所を変える必要があると思ったが、幸い他に教室に残って自習する人はいなかった。教室で二人きりになると、高瀬さんが津島さんの席まで来て、その椅子を百八十度回転させてそこに座った。そして僕は座ったまま彼女と向かい合う。


「周りには聞かれるわけにいかないことだから、こういう形で呼び出してごめんね」

「いいよ。僕としても好都合だし」

「今日は早速本題にいくね」


 昨日とは打って変わって、最初から真剣な面持ちだ。


「単刀直入に言うよ。信じられないかもしれないけど、決して笑ったりとか、馬鹿にしたりとかしないでね。冗談じゃなく、すごく真面目な話だから」


 高い声だからといって僕の緊張感は消えない。むしろ真面目な話になると、彼女の声は最短距離で鼓膜に届く鋭さを持っているように感じる。しかも、話の切り出し方が異様だ。信じられないかもしれないとは、どれだけ突拍子もないことを言われるのだろうか。まさか、僕が幽霊に取り憑かれているとでも言うのだろうか。


「堤君。君は霊――幽霊に取り憑かれてるの」

「はっ?」思わず声に出してしまった。確かに高瀬さんの言う通りだ。高瀬さんが今言ったことが信じられない。変わった人だとは思っていたが、まさか漫画みたいなことを真顔で言う人だとは思わなかった。最早人格が云々の話ではない。異常だ。

 いや、落ち着け自分。思考を停めるな。相手が異常者だと決めつけるな。今までの高瀬さんの意味深長な発言は何だ。どうして彼女は僕の意識がなかったことを察していた。それは、常人には理解できない現象を彼女が理解していたからではないのか。


「つまり、昨日僕が意識を失ったのはその幽霊の所為?」


 信じるか信じないかにかかわらず、昨日残された疑問点は解消しておこう。


「そうだよ。あの時君はトランス状態になって、意識が霊に乗っ取られていたの」

「だから、意識がないのが分かったということ?」

「そうだよ」昨日答えてもらえなかったことの内の一つは解決した。残りは一つだ。


「その幽霊を監視するために、僕のことも同様に監視していたの?」


 ここでなぜか、高瀬さんは頬を赤らめた。


「ちょっと監視って……そんな……別に君のこと四六時中見ているわけじゃないから」


 確かに語弊があった。昨日の質問は、どうして反復横跳びをしている僕を高瀬さんはずっと観察していたのか、であったはずだ。それが、いつも僕のこと監視していることに飛躍してしまった。ストーカー呼ばわりはあまりよくないだろう。


「言い方が悪かった。でも、僕の意識がなくなった時、たまたま僕のことを見ていました、とはもう言わないよね?」

「うん。反復横跳びの時、霊の様子が急におかしくなったから、目を離さなかったの」


 昨日の埋め合わせはこれで終了だ。これからが本番と言えるだろう。まずは高瀬さんの正体だ。高瀬さんがどう答えるは分かり切っているが、形式的でもいいから訊くべきだろう。


「そこまで言うからには、高瀬さんには霊が視えるの?」

「うん。視えるよ」

「君は、自分はいわゆる霊能力者だとでも言うの?」

「そうだよ。事実その通りだからね」


 高瀬さんは目を逸らさず答えた。揺るぎない事実を結んだ彼女の視線が一直線に奔り、僕の瞳孔の中心を射た。その軌道には臆面などという空気抵抗がなかった。

 次は僕に関する事柄だ。


「じゃあ、僕に憑いている幽霊は、どんな幽霊なの?」

「洋服を着た女性だよ。ただ顔にも身体にも、酷い損傷を受けてるからよく分かんないけど、多分あたし達と同じくらいの年代だと……思う……」


 高瀬さんは視線を少し落とした。どうやら根拠の乏しい事柄に関しては発言が弱くなるようだ。その分さっきのような、確信を持っている事柄に関する発言には圧倒的な強さがある。本人が意識してその強弱を使い分けているのかどうかは分からない。

 それにしても、霊視少女との邂逅か――。本当に漫画や小説みたいなシチュエーションになってしまった。


「そっか。ちょっと思ったんだけど、その幽霊って《幻の呪い姫》の犠牲者であるところの白川一魅だったりしない?」

「根拠は?」


 ものすごい不意打ちだった。まさか高瀬さんの方から幽霊のことで根拠を求められるとは思っていなかった。とはいえ何も考えずに発言したわけでもない。


「不幸な死を遂げて、ここの学校の生徒に取り憑いたから……」


 一応納得ができるような解答を用意したのだが、高瀬さんは首を捻った。


「うーん。まあ……そう考えるのが自然かもしれないけど……。根拠としては薄いかな。とにかく、霊が誰かについては今のところノーコメントだね」


 反対されてしまった。果たして幽霊に関する濃い根拠とはどんなものだろうか。それはともかく、高瀬さんの幽霊話を信じるかどうかという問題を忘れてはならない。根拠を示してほしいところだがおそらく不可能だろう。幽霊を見せてと言ったところで僕はそれを見ることはできない。僕が幽霊に憑かれたとしても自分でそれを確認することができない。しばらく考えていると、いい案が頭に浮かんだ。


「ところで、僕は幽霊について詳しく知らない。漫画や小説に出てくるみたいなイメージしか持ってないよ。だから、詳しく聞かせてくれないかな」


 幽霊が憑いていることを知り、かつその話を持ちかけるのならば、高瀬さんは幽霊について詳しいはずだ。もしここで高瀬さんが、僕みたいな一般人が持つ程度の漫画や小説で登場する幽霊のイメージしか語れないようなら、彼女の話を信じないことにしよう。


「うん。分かった」と言って、高瀬さんは首肯した。頬はいくらか緩められている。


「じゃあ、少しゲームをしよう」

「えっ?」説明は? と問う暇もなく、高瀬さんは続ける。


「あたしが何か名詞を言うから、堤君は【ある】もしくは【いる】のどちらかその名詞に相応しいものを答えて、その後に堤君が別の名詞を言って、あたしも同じように答えるわ。それを繰り返していきましょう」


 するからには、幽霊に関係があることなのだろう。大人しく首肯することにした。


「じゃあ始めるよ、リンゴ」

「【ある】、ゴリラ」

「【いる】、ラッパ」


 いつの間にかしりとりにもなっている。そのおかしさのあまり、僕はつい吹き出してしまった。高瀬さんも口を押さえて笑っていた。仕掛けたのは僕だが、高瀬さんがリンゴから始めたのも一因しているはずだ。もしかしたらこのゲームをしりとりと複合させたら面白いゲームになるかもしれないが、その提案は置いて再開しよう。


「【ある】、人」

「【いる】、幽霊」

「【いる】……」

「ストップ」


 高瀬さんは指をいっぱいに広げた右手を僕の目の前に差し出して僕を制止した。


「それが正解なんだけど、どうして幽霊が存在すること表す時に、【いる】と言ったの?」


 なるほどそのゲームにはそういう意図があったのか。幽霊は【ある】と表現した津島さんと反対だ。幽霊は【いる】という表現は何となく一般的に馴染んでいたものだ。しかし、それが当たり前だと思い、理由を考えたことなどなかった。とにかく少し考えて、中々妥当ではないかと思われる解答を思いついた。


「幽霊は、元は生きていた人間だったから、じゃないかな」


 植物という例外はあるが、生物の存在を【いる】と表現するのが普通だ。


「おっ、中々良い線ついてるね。けど、それじゃあ五十点くらいかな」


 高瀬さんは微笑んで、僕の解答を評価してくれた。


「じゃあ、百点の答えは何なの?」


 そう訊くと、高瀬さんは満面の笑みで答えた。


「幽霊は生きている。が百点満点の正解だよ」

「えっ?」高瀬さんは何を言っているのだ? 幽霊は死んでいるから幽霊なのであって、生きているわけではない。いや、高瀬さんなりの考えが潜んでいるのだろう。


「まあ、初めて聞くとおかしなことだと思えるかもしれないのは認めるよ。解答の解説をする前に幽霊について詳しく説明するね。その方が分かりやすいと思うから」


 高瀬さんがやりやすいようにやればいい。僕は黙って首肯した。


「じゃあまず、あたし達が生きてるこの世界なんだけど、そもそも、あたし達人間って存在してると思う? 人間だけじゃなくて他の生物、いや、物だってそう、机とか椅子とか鞄だって現実に存在してると思う?」


 わざわざそう訊くということは、答えは否定なのだろうか。しかし僕は否定しない。


「それは……見えるし、触れるから存在しているでしょ。何? 高瀬さんは見えるのも触れるのも全部幻覚かもしれないとでも言いたいの?」


 そう答えると、高瀬さんは拍手をして僕の答えを称えてくれた。


「堤君鋭いね。まあ、幻覚って言うと語弊があるかもしれないけど、存在していると確定できないっていう点では間違いないよ。この世界の全ては存在しているんじゃなくて、あたし達にとって存在しているに過ぎないだけかもしれない」

「でも、それって屁理屈じゃないかな?」


 その答えは納得できない。この世界の全てが幻のようなものだということなど到底信じられない。しかし高瀬さんは余裕そうに微笑む。


「違うよ。れっきとした理屈だよ」


 高瀬さんは右の人差し指を立てて、さも自分が博識であるかのように振る舞う。


「物が見えるか触れるかの基準があるの。あたしはそれを振動数と呼んでる。あたし達に物が見えるのは、その物の振動数が低いからなの。あたし達が見たり触れたりできる程度の振動数で成り立ってる世界を物質世界、その世界の構成物を物体と言うんだよ」


 振動数? 幽霊の話なのに、そんな言葉が出てくるのか。これは面白い。予想は良い意味で裏切られたようだ。てっきり幽霊と言えば怨念とか成仏とかそういうオカルティックな話ばかりされるものばかりだと思っていた。しかしこれではまるで――。


「なんか科学的な話だね……」


 そう呟くと、高瀬さんは大きな口を開けて、輝かしい笑顔を浮かべた。科学と言えば発見だ。歴史に残るような世紀の大発見をすれば、今の高瀬さんのように、周りの眼を気にせず笑みが飛び出してしまうだろう。


「分かる? 分かる? そうそうそうだよ。科学だよ科学。やっぱり堤君は話が分かる人だよ。日本にも君みたいな良識のある人っているんだね」


 僕はただ感想を述べただけなのだが――。というか「日本にも」っていうのはどういうことだ。高瀬さんが日本人ではないような言い方だ。


「そうそう。あたしって霊を専門とする研究者なの。まあ、まだ見習いなんだけどね。それで、あたしみたいに霊魂の存在を肯定してる人のことを心霊主義者と呼ぶの。勿論、研究者の中には懐疑派もいるんだけど、それはいいや……」


 いいのか――。まあ、高瀬さんがそう言うのなら、わざわざその先を訊くまい。


「話を戻すよ。その振動数が高いのは何と思う? 答えは君なら少し考えれば分かるよ」


 高瀬さんの言う通り、答えは予想できた。今までの話の流れからすればこれしかない。


「幽霊かな。その振動数とやらが高いから僕達には幽霊が見えない」

「大正解。すごいね。理解が早いというか、順応が早くて助かるよ」


 再び、高瀬さんは拍手をしてくれた。少し嬉しい気がする。


「さっきの、幽霊は生きているっていうのはそういうことなんだよ。あたし達は振動数が低い物質世界で生きてるけど、霊は霊で振動数が高い世界で生きてる」


 話をまとめるとこうだ。僕達生物は振動数の低い物質世界に生きており、その世界の振動数に適した物や生物しか見ることができない。一方幽霊は物質世界の生物や物よりも振動数が高いため、存在はしているものの僕達は見ることができず、存在しないように思える。しかし、幽霊は僕達と異なる世界で存在しており、生きているということだ。


「それで、あたし達のような霊能力を持ってる人のことを霊媒……」

「ちょっと待って。あたし達って、君の身近に同じような人がいるの?」


 それは聞き捨てならない。考えすぎかもしれないが、今の言い方ではそう解釈できなくもない。霊媒という得体の知れない人物が複数この学校ないし僕達のクラスに所属しているのか。実際にそうだったらしく、高瀬さんは首肯した。


「うん。君も霊媒だよ」

「待って。僕、そんなものになった覚えはないけど……」


 否定したいところだが、高瀬さんが右の掌を見せて僕を制止した。


「待って。それより説明を聞いて。その内、君が霊媒だということも説明するから」


 そう言われれば仕方がない。僕は黙って高瀬さんの話を聞くことにした。


「その霊媒なんだけど、霊媒というか霊媒が使う霊能力にはいろいろあるの。大まかに言えば、物を動かすとか、浮遊とかができる物理的な能力と、霊を見たり霊の声を聞いたり霊と話をする心理的な能力に分かれるよ。今回は、物理的な面は関係ないから説明を省くね。問題は心理的な面だね。あたしはその中の、霊を見る能力いわゆる霊視能力と、霊を自分の身体に乗り移らせる能力いわゆる霊言能力が使えるの」

「じゃあ訊くけど、君は霊と話ができるの?」

「まあ、あたしには霊の声を聞く能力がないから、普通の人と話すように霊と会話することはできないけど、手だけに霊を乗り移らせて文字を書かせる自動書記や、身体全体に霊を乗り移させて人格を霊のものに代えることはできるから、話ができるというより、霊と通信ができるといった方が正しいね」


 高瀬さんの能力に関しては把握できた。次は自分のことだ。


「じゃあ、僕には何ができるの? 言っておくけど霊は見えないよ」


 ましてや霊と話をしたりすることもできない。僕は真っ当な人間のはずだ。


「君には霊言能力があるよ。霊を乗り移らせて、人格を霊のものに代える方だね。そもそも霊媒じゃなかったら霊に取り憑かれたりはしないよ。相手がトランス状態つまり無意識の状態じゃなければ、霊は人間に乗り移れないから。あたしはいつでもどこでもトランス状態になれるけど、堤君はそうじゃなくて、何らかの条件で、トランス状態になってしまうんだね。その条件が今のところはっきりしないけど……」


 確かに何らかの条件としか言えないだろう、バスケットボールと反復横跳びは該当して、マラソンは該当しない特徴とは何だろうか。


「でも、堤君が霊媒としてあまり優秀じゃなくて良かった」


 何だろう。能力が劣っていると言われたにもかかわらず、全然悔しくない。


「優秀じゃないって、どういうこと?」

「霊能力を発揮するためにはエクトプラズムという半物質が必要なの。霊媒はそれを纏っていて、それを身体の外に放出することで、いろいろな霊現象を起こしたり、逆に霊現象に巻き込まれたりするの。霊言能力が発動したわけだから、君にもそのエクトプラズムというのがあるんだけど、あまり多くないみたいだね。だからあんな短時間しか霊は憑依しなかったんだよ」


 逆に言うとそのエクトプラズムとやらが多ければ、僕はもっと長い時間意識を失ったまま歩いていたということか。ならば高瀬さんの言うとおり、喜ばしいことなのだろう。


「そう……。ところで僕が霊媒だってことは分かったけど、僕にはその自覚はない。自覚がなくてもその霊媒になれるものなの?」

「自覚とは関係ないよ。あくまで単なる能力なんだから……。むしろ、霊視能力や霊聴能力がなければ、霊媒という自覚は芽生えにくいと思うけど……」


 言われてみればそうだ。例え霊に取り憑かれていたとしても、霊が見えないのであれば、原因が霊にあることを知ることができない。今までの自分のことではないか。


「一通りのことは説明したつもりだけど、堤君はあたしのこと信じてくれる?」


 高瀬さんは笑顔で訊く。やはり幽霊に関する事で絶対的な自信をその瞳に宿しているようだ。高瀬さんが話してくれたことはすごく興味が持てる。信じるか信じないかはさておき、すごく面白かった。そして、それは一般人が持つような漫画や小説で登場する幽霊のイメージなんかでは決してない。本気で幽霊に対して向き合っているような人の語りだと感じた。


「いいよ。信じることにする。今のところは、だけどね」


 高瀬さんの話に乗るのはいいだろう。高瀬さんのような人と今後付き合っていきたい。


「待ちなさいっ」


 突然、教室の外から女子の声がした。間もなく教室の扉が開かれ、声の主が姿を現した。津島さんだ。僕はそのまま津島さんの方へと視線を移し、高瀬さんは首だけを振り向かせて津島さんを見る。


「高瀬さん。あなた、何変なことを信じ込ませようとしているの。堤君だって、どうしてそのような変な話を信じるの。あなた、いつか詐欺に引っかかるわよ」


 僕が詐欺に引っかかるような騙されやすい人間だと思われたことが心外だったので文句を言ってやろうかと思ったが、その前に高瀬さんが立ち上がって津島さんの方へと歩み寄った。津島さんも高瀬さんの方へ歩み寄り、やがて二人は向かい合う。こうしてみると互いの身長差がはっきりと見て取れる。津島さんの身長は女子として低いわけではないが、高瀬さんが明らかに高い。完全に男子と女子の差だ。


「津島さん。どうしてここにいるの? 話を聞いてたの?」

「今まで図書室にいたんだけど、放課後に堤君があなたと昨日のことで話すのを聞いていたから、どうなったか様子を見に来たの」

「君には関係ないことだから、首を突っ込まないで」


 ここで、高瀬さんの声が鋭くなった。


「関係ないことはないわ。堤君は大事なクラスメイトだもの、あなたのような詐欺師から守ってあげないといけないわ」

「ふうん……」


 今、高瀬さんは僕から背を向けて、津島さんは高瀬さんの陰に隠れているので、両者の表情は窺えない。しかし、それらが険悪なものになっていることは分かる。わざわざ横から覗き込む気にもなれない。


「あの……二人とも落ち着いて……」

「堤君は黙ってて」「堤君は黙っていなさい」


 同時に二人から言われてしまった。周りに人がいないので、僕が止めない限りこの修羅場は収まらないだろうと思うが、肝心の僕も効果がないみたいだ。


「とにかく、高瀬さんあなた、堤君をどうしようとしていたの?」

「何も悪いことはしようとしてないよ。ただ堤君を助けようと……」

「信じられると思う? 幽霊なんていう【ある】わけがないもののことを」


 津島さんにとって幽霊は生きているわけではない。幽霊は超常現象、あり得ない架空の現象に過ぎない。【ある】という言葉が彼女の態度を明確に表している。


「くくっ、くく」


 不気味なほど乾いた笑い声がした。高瀬さんからだ。


「津島さん、君、ガチガチの唯物論者だね。堤君は唯物論って分かるかな?」


 唯物論? 何かの本で見たことはある。確か、唯心論というものもあって、それと対になっている理論だ。しかし正確な意味を覚えていないので、僕は「いいや」と答えた。


「世界に存在するものは全て実体を持っているという考え方だよ。さっき説明した振動数の考え方とは真逆だね。つまり、津島さんみたいな唯物論者っていうのは、自分が知っている世界しか見ようとしない哀しい人種のことだよ」


 くすくすと笑い声を漏らしながら高瀬さんは言った。


「あなたみたいな、妄想に耽っている可哀相な人間のことを唯心論者と呼ぶのかしらね」


 津島さんの一言で、高瀬さんの笑いが止んだ。代わりに舌打ちが発せられた。


「ねえ、津島さん。君って、人間の思考や感情は全部脳の機能によるものだから魂なんてものが介在する余地はない、だから幽霊なんていう存在も【いる】……いや、【ある】はずがない、とでも思ってるのかな?」

「そうよ。悪いかしら?」

「悪いよ。だいたい君、交霊会に行ったことないでしょ。そんな人に、幽霊なんていませんっていう資格はないよ。幽霊の存在を否定したかったら、外国に行って本格的な交霊会に百回くらい参加しなよ。でも、そうやって交霊会に参加した反対派の研究者はみんな賛成派に寝返っちゃうんだけどね」

「そのような妄言を信じろとでも言うのかしら?」

「だーかーらー、自分の眼で確かめて来いって言ってんのよ!」


 ついに高瀬さんが怒鳴った。反対派の研究者の件は誇張しているように思える。しかしそれを差し置いても、高瀬さんの方が論理的に主張をして、津島さんがそれを根拠もなく否定しているように思える。とはいえ僕がそう思えるのは幽霊にとり憑かれているという疑いがあるためであって、そのような事情がなければ津島さんの肩を持つことになるだろう。


「そうね。確かに、幽霊がないことを証明する術が私にはないわ。悪魔の証明になるものね。あなたの言い分、というより唯心論者の言い分なら分かっているつもりよ」


 津島さんが妥協した。いや、何か裏があるのだろう。


「なら、どうして……?」

「迷惑だからよ。あるかどうかはっきりしないものを、まるであるかのように吹聴されることがね。第一に生きている人間について考えないといけないのに、あなたのようなペテン師はまず幽霊の所為にしたがる。それが迷惑だって言っているのよ」

「全然的外れな反論だね。これだから唯物論者は……」

「何とでも言いなさい。あなたは幽霊が見えると言ったわね。ただの妄想だと思うけど、今はそう考えないであげるわ。それでもね、私達みたいな幽霊が見えない側の人間には、見えないものはないのと同じなの。それは分かるかしら?」

「シュレディンガーの猫、みたいなもの?」

「あら、その通りよ。分かっているのね。なら話が早いわ。見えないものは存在しないのと同じように、信じていないものもまた存在しないの。だから……」


 改めて、高瀬さんを真っ直ぐ見据えて、津島さんは言った。


「信じていることがその人にとっての全てになる。これだけは肝に銘じておきなさい」


 それはものすごく暴論ではないのか。そもそもその言い方だと、津島さんは幽霊の存在を肯定とまではいかないが、容認していると解釈できはしないだろうか。――いや、それは全く違う。津島さんはただ幽霊を否定することしかできないだけだろう。そう信じることしかできないから、その考えを大切にしているだけだろう。


「中々面白い考え方だね。けど、その認識は甘いよ。だからいいこと教えてあげる」


 高瀬さんは笑みを零しつつ、言った。


「真実は――人よりも高みにある。津島さんも、これ、覚えておいた方がいいよ」


 対する津島さんは鼻で笑った。


「そんなくだらない言葉で、幽霊だの《幻の呪い姫》だの、ありもしないことを堤君に吹き込んでいたのね」

「ちょっと待って」


 高瀬さんが言おうとしていることはすぐにわかった。津島さんは一つ大きな誤解をしているのだ。


「あたしは《幻の呪い姫》に関しては否定してるよ」

「あらそう。それは失礼したわ」


 そこで、高瀬さんの肩が少し下りたのが見えた。敵意が薄れたのだろうか。


「ねえ、津島さん。幽霊とか関係なしに、《幻の呪い姫》が何なのか気にならないかな?」

「それはどういうことかしら?」


 それから、津島さんの声も少し穏やかになったような気がした。高瀬さんが幽霊の話をしなくなったので、敵対する意味がなくなったのだろうか。


「件の白川一魅さんの事故は呪いなんかじゃない。あたしは立場上、呪いの存在を否定しないけど、去年の事故は呪いの所為じゃなく、偶然だと思ってるよ。けど、呪いとは別に、《幻の呪い姫》には何かあると思ってるの」

「そうね。それは私も考えていたわ。去年の文化祭には不可解なことが多いし……」

「でしょ。それじゃあ、《幻の呪い姫》って言われてる女の子は何者なのかな? 幽霊なんかじゃなくて、実体を持った人間なのは間違いないはずだけど……」


 もういいだろう。隠す必要はない。元々、場合によっては高瀬さんにはこの場で話してしまってもいいだろうと思っていた。

 二人とも興味深い人だ。

 高瀬さんは面白い人だ。低い世界にいる人間でありながら、幽霊という常人には理解し得ない者を見ることができ、真実という高みを目指している。

 津島さんは面白い人だ。低い世界にいる人間として、幽霊という不可知なものを否定して、真実という高みに抗っている。

 まだ話して間もないのにもかかわらず、ここまで面白いと思える人達だ。これから彼女達と関わっていけば、さらに面白い側面を見られるだろう。だから、もっと彼女達と関わっていきたい。そのために、僕の秘密を打ち明けよう。

 僕は立ち上がり、黙って考え事をしている二人の方へ歩み寄った。


「《幻の呪い姫》って、実は僕のことなんだ」

「えっ?」


 声を出したのは津島さんだけだ。高瀬さんは真剣な眼差しで僕を見つめるのみである。


「あなたが《幻の呪い姫》? 女装して去年の文化祭で踊ったってことかしら?」


 これも津島さんが言った。高瀬さんは依然口を開かない。


「うん、そう。姉さん、いや、白川一魅に頼まれてね」

「姉さん?」


 津島さんが不思議そうに訊く。誤解を生んでしまったがたいしたことではない。


「実の姉じゃないよ。従姉なんだ。何となく姉さんっていう呼び方が定着しただけ」


 次は高瀬さんが質問した。


「でもどうして堤君なの? 知り合いとはいえ学外の人間を選ぶなんて」


 高瀬さんの指摘は正論だ。当時は、姉さんと踊ることができるということに夢中になって、その謎を無視していた。


「さあ……。代役を頼まれただけで、他は何も聞かされていないから。本当は今の生徒会長、八尾静香さんにやってもらうはずだったらしいけど」


 今度は津島さんが反応した。


「ああ、だから会長のことは知っていたのね……」

「うん。一度だけ顔を合わせたし、会長のことは姉さんからいろいろ聞いている。会長が僕のことをよく知っているかどうかは分からないけど」

「そう……あなたが《幻の呪い姫》だったのね……」


 津島さんは一旦何かを深く考えるように顎を引き、それから顔を上げて僕を見た。


「白川さんとは親しかったの?」

「元々家は近くてよく会っていたけど、八年前に姉さんの家が引っ越して、それからは休みの日に何回か会うくらいだったかな。あっ、去年の文化祭前を除いてだけど。勿論あの時はよく会っていた。仲は結構良かったよ」

「なら、少し変な質問をするわね。あなたは誰よりも深く白川さんのことを理解しているという自信はあるかしら?」

「ある」


 僕は津島さんの顔をしっかりと見て、彼女の視線と自分の視線を堅く結ってから答えた。当たり前だ。僕が姉さんのことを理解できないのならば、誰が彼女のことを理解できていると言うのだろう。姉さんは誰よりも僕のことを頼ってくれていたに違いない。そうでなければ、僕は《幻の呪い姫》になどなっていないのだ。


「即答するのね。そういう意味でも良い答えだわ」


 津島さんは少し微笑んでから、真面目な顔つきになって告げた。


「あなたに折り入って頼みたいことがあるの」


 そう言ってから、津島さんは半眼で高瀬さんを睨む。


「とりあえず、そこの詐欺師は邪魔ね」


 そういえば、高瀬さんと津島さんの問題が解決されていなかった。二人は再び電流が走っていそうな視線をぶつけ合う。


「そっちから邪魔しておいて、邪魔って何よ。そっちにも大事な用があるかもしれないけど、堤君だって大変なんだから。早くどうにかしないと」


 幽霊をどうにかするとなると考えられる単語はこれだ。


「どうにかって、成仏するってこと?」


 答えてみたものの、高瀬さんの反応はよろしくない。


「成仏……っていうのはかなり違うかな。私は別に仏教徒じゃないんだから……」

「ちょっと待ちなさい。まだ幽霊がどうこう言うのね。堤君もそんな話に乗らないで。さあ高瀬さん、正直に言いなさい。堤君をどうするつもりなの?」

「言ったよね。津島さんには関係のない話だって」

「あの……二人とも落ち着いて……」

「堤君は黙ってて」「堤君は黙っていなさい」


 再び険悪な雰囲気になってしまった。同じ会話の流れが数分前にあったような気がするが、今度は諦めないでおこう。僕は二人の間、その少し手前に立った。


「黙らない。いい加減、二人が争うのを見ていて疲れたし。津島さん、僕は別に高瀬さんとお金とか大事なもののやり取りをしているわけじゃないから、仮に高瀬さんの幽霊の話が嘘っぱちで僕を騙していたとしてもいいでしょ。単なる暇つぶしになるだけ。高瀬さんも、僕は君の言うことに乗るけど、全てを信じたわけじゃないから、身体のことで津島さんに相談を持ちかけることもある。二人とも、それでいい?」


 二人は視線を下げて、僕を見ないようにして、呟いた。


「「堤君がそう言うのなら……」」


 二人とも聞きわけの良い子で助かった。どうやら今日のところは決着がついたようだ。

 津島さんは踵を返して、出入り口に向かう。そして振り向かずに告げた。


「今日のところは堤君に免じて大目に見てあげるわ。けど高瀬さん、あなたが堤君に害を及ぼすようなら、私はあなたを許さない。力づくでもあなたを堤君から遠ざけるわ」

「ふん。要らない心配だよ」

「そう」と呟いて、津島さんは教室から出て行った。すぐに高瀬さんは僕の方を見た。


「堤君。帰ろう。……って駄目か。今行くと津島さんに会うか。あの子も××駅方面だし……。じゃあ、ちょっとおしゃべりしてから帰ろうよ。幽霊についてはこれからじっくり考えるとして、今はただのおしゃべりだよ」

「ああ、いいよ」


 目の前にいるのは、幽霊が視えてなおかつ幽霊と交信することができる少女だ。

 もしかしたら、僕の願いが叶うかもしれない。

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