Tranquil Ash
六十年で、壜の中身は半分になってしまった。
●
OBSVは世界中を旅している。
はるか昔に打ち捨てられた車や飛行機、船を使ってひたすら移動を続け、一定時間ごとに気温、湿度、気圧、紫外線、酸素・二酸化炭素・大気汚染物質濃度、PM10濃度、SPM濃度、放射線量を計測している。今もちょうどその作業中だ。
〔気温:11.7℃ / 湿度:59.3% / 気圧:1021.34hPa / CLE紫外線強度:0.72W/㎡ / 酸素濃度:20.71% / 二酸化炭素濃度:0.04% / 一酸化炭素濃度:10.1ppm / 二酸化硫黄濃度:0.21ppm / 二酸化窒素濃度:0.59ppm / PM10濃度:97㎍/㎥ / SPM濃度:129㎍/㎥ / 放射線量:1937.53m㏜/h // >>>EOF
《OBSV-470171 File_#324-4192 --- 821bytes N30.2;E119.7》〕
データベースに放り込むと同時に、Sバンド高出力
自分にできるのは、せいぜいあのデータが宇宙のどこかにいるであろう人類のもとに無事に届いてくれることを祈るくらいだ。
このあたりはいまだに汚染がひどい。ためしに、データベースに検索をかけてさらいだした緯度経度誤差共に三〇分以内のデータとの比較で、この地域で人間が長期生活可能になるまでにかかる時間をだしてみた。
笑えるような数字がでた。
六百八十三年と二百二十八日。
自分のこれまでの稼働時間の倍以上の数字だ。それまで壊れずにいられるだろうかと真剣に考える。
作業を終えたOBSVは、ここ二ヶ月ほど使っている原付バイクにまたがる。衛星に接続して、付近でこれまでの計測回数が少ない地域を表示する。そのついでに通信衛星経由で海上センサーポッドが集めたデータを解析し、同じようにデータベースに投げ込んだ。
エンジンをかけ、発進しようとしたところでふと思う。
自分が機能を停止した後のこの
それは、枯れ果てた世界だ。
そう思っていたけれど。
ひょっとしてそこは、静寂をのせてまわり続ける地球という名の墓場は、幸せな場所なのではなかろうか。そこはいつまでも侵されることのない、あまりに平穏な場所なのではなかろうか。
それでいいのかもしれない、と思う。
自分が機能を停止すれば、三百年前に宇宙へと旅立っていった人類は二度とここへは帰ってこない。それでいいのかもしれない。
振り払う。どうもだめだ。思考処理プロセスのどこかにバグがあるのかもしれない。もう八十年も修理をしていない。
ともあれ───
スロットルを開けると、ばかでかい排気音とともにバイクが発進する。
自分が死に絶えても、人類が二度とこの星に降り立つことがなくても、この地球はいつまでもここにあるのだろう。
●
昔話をしよう。
三百年前の話だ。
どこぞの馬鹿が、あるボタンを押すという人類史上あるいは地球生物史上最大の愚行をしでかして、世界戦争がおきた。
戦争は、一瞬で終わった。それはただのボタンの押し合いだった。
気まぐれな幸運で生き残ったわずか一億にも満たない人類にとって、地球で生きていくことが当分不可能であることは火を見るよりも明らかであり、彼らはすぐさま惑星外脱出計画を開始した。
そしてそのときにつくられたのがOBSVだった。
放射能、大気汚染、その他諸々の環境状態を観測するシステムを、星外脱出までの短い期間に世界中に設置するのは不可能だった。そこで、既存のロボットを改造し、世界中を計測してまわらせるのはどうかという案がでた。
汎用人型ロボット〈RP-2300╱D型〉を改造し、本来不要な放射線測定センサーや微小粒子測定装置、光電子増倍管などをむりやり機能拡張し、現存するスーパーコンピュータ、量子コンピュータ、あらゆる衛星の利用特権を与えて、なんとかかんとかプログラミングを終えるころにはもう別れのときだった。
言うまでもなく、完成させられたのは一体だけだった。
時間がほとんどなかったし、戦争のせいでそもそも資材が乏しい上に脱出用の宇宙船を建造しなければならなかったのだから、それも当然のことだったと言える。
大戦から三年後、地球からは人間がいなくなった。
そして、地球に残された一体のロボットは、彼らからOBSVという
ひとりぼっちで。
●
バイクが壊れたあと、一機の飛行機と三台のトラックを乗り継いで三つの大陸を渡った。2163回の計測のうち、人間が長期滞在可能と言える環境だったのはたったの91回だった。
トラックが大きくはねた。
直列四気筒2522ccディーゼルエンジン搭載、トランスミッションはマニュアル方式という冗談のようなしろものである。なんでこんなものが残っていたのかわからないし、さらに普通に動くというのがほとんど信じられない。九〇キロにも満たない最高時速で、べこべこのボディをべっこんばっこんいわせながら廃墟を疾走していく。いまにも分解しそうである。
墜落してツタが絡まりほとんど読むことすらかなわない家電量販店のネオンサインをかわし、ひっくり返った車に激突しそうになりながら林立するビルの廃墟の谷間を抜けて、ようやく少しひらけた場所にでた。
ゆっくりと減速し、トラックを止める。エンジンを切って降りる。
ひどくいい天気だ。
緯度から考えるにかつてはこの地域には四季があったはずだが、三百年前にそれも失われている。この場所は永遠の夏のなかにある。背丈の低い草原に容赦なく太陽が照りつけている。風はそよとも吹かない。廃墟と化したビル群にかこまれたエアポケットは、ひたすらに静かだった。
全センサーをアクティブにし、計測を開始した。
ところで、OBSVはもともと「汎用人型ロボット〈RP-2300╱D型〉」であり、その汎用の名に恥じず、実に多様な機能が搭載されている。それは例えば、それなりの医療技術やそれなりの会話処理能力、それから各種のセンサーなどである。
そして、彼ら汎用人型ロボットは、自らのおかれた状況や立場によって、またそこで得た知識や経験を元にして、一部の能力を選別し特化させていく機能を持っている。そしてもちろんその代償として、不要な機能に充てられるメモリは反比例するように減っていく。
そのため、OBSVはその生体反応を捉えることができ、そしてまた、その正確な位置を割り出すことも、その反応が人間のものであると断定することもできなかった。
まず最初に考えたのはエラーだった。ほら見ろ八十年も修理をしていないからだ──そう思った。
メインと、三つあるサブコンピュータをすべて使って自分を
左手小指の第二関節モーターの動作不良、言語処理プロセスの一部にバグ、左半身にナノセカンド単位のコマンド遅延、発話スピーカーに損傷の可能性。
それだけだった。
次に考えたのは野生動物の可能性だった。が、だったらそもそも驚かない。OBSVが驚いたのは、その反応が人間のものである可能性が高いという照合結果をメインコンピュータがだしていたからだ。だがOBSVの貧弱な生体反応センサーでは断定するには到らなかった。
すぐさま二機の偵察衛星を呼び出した。三角測量によってその生体反応の正確な位置を割り出し、観測した生体反応パターンとともにダイレクトでスーパーコンピュータに転送させる。ピコセカンドのタイムラグもなく、生体反応データベースとの照合結果が返ってきた。
ただちにOBSVは行動優先順位規則にしたがって現在進行中の計測プロセスを放棄、人命救助行動にうつる。三角測量によって割り出した座標をメモリに呼び出す。
南南西へ約六〇〇メートル、地下三〇〇メートル。
実を言えば、OBSVがスーパーコンピュータや衛星を使えていることからもわかるように、戦争によってすべての電子機器や発電設備が死に絶えたわけではない。
一部の水力、風力、原子力発電所は自動制御で稼働していて、インターネット回線もその三割近くがいまだに生きている。遮断されて孤立しているものも含めればもっと多いだろう。実際、OBSVの戦前以前の時代についての知識は、ほとんどがネットから得たものだ。
そのネット回線をさらってみると、そんな場所に地下空間など存在しないと口々に言われた。
けれどもちろん、はいそうですかというわけにもいかない。
付近の地下シェルターや地下リニアレールを表示した3Dマップには、三角測量で割り出した位置にぽっかりと空白があった。
まるで、実は何かがそこにあるかのように。
一般通路を使ってもたどり着けないことなどわかりきっている。おそらく、公にされていない地下通路やリニアシューターがあるはずだとOBSVは踏んだ。
音響定位センサーを機能拡張して位置を推定し、下水管の壁をC4でふっとばして軍用リニアレールに侵入した。いくつもの隔壁とこの期に及んでも作動していたセキュリティをこじあけた先に、軍事用対核爆撃シェルターがあった。
入口は十二桁の暗証番号と生体認証を要求してくるやっかいな電子ロックがかかった、耐爆性高気密構造隔壁によって閉ざされている。
強引にこじあけることに決めた。
量子コンピュータと衛星経由で接続し、隔壁自体ではなくロックを制御している中枢コンピュータに攻撃をかける。メインコンピュータと隔壁ロックを担うサブコンピュータをつなぐ回線を気づかれないようにカットし、メインコンピュータのほうには疑似正常稼働コマンドを流しておく。同時にサブコンピュータに対してウイルス攻撃をしかけ、メインコンピュータからのコマンドを装って対処を禁じ、システムそのものをマウントした。
これでひとまず隔壁は開く。が、面倒なのでメインコンピュータも乗っ取っておくことにする。先程カットした回線を復旧させ、マウントしたサブコンピュータから質問信号に偽装したウイルスパケットを送る。起爆と同時に衛星接続をねじ込み、量子コンピュータを使って攻撃を仕掛け、シェルターのシステムをすべて乗っ取った。
三秒とかからなかった。
隔壁を開ける。
ロックが外れ、重々しい音をたてて隔壁が開いていく。その先にのびる細い通路が暗闇の中にかろうじて確認できた。コンクリートの冷たい壁が両脇にせまっている。床も同じ材質で、劣化による罅がはいっていた。だが埃のたぐいはほとんどない。異常と言っていい密閉性だ。
光学センサーを光増暗視モードに切り替えて先に進む。反応はこの奥、さらに少し潜った場所にある。
三〇メートルほど進むとエレベーターがあった。幸い電源が生きていたのでそれを使って下に降りる。扉が開くと先程までと同じような通路が続いていて、その両脇にいくつもの隔壁があった。個室のようになっているらしい。
手前から七番目、向かって左側の隔壁の前で足を止める。シェルターのシステムをマウントしている量子コンピュータに隔壁のロック解除を指示した。いささかのタイムラグもなく解除される。
開けた。
部屋の中は薄暗い。完全な闇でなかったのは、三台あるコンピュータのうち一つが稼働していたためだ。面積としてはそう広くはなく、しかし物が少ないせいか妙にがらんとして見えた。真ん中に冷凍睡眠カプセルが三つ並べられていて、うち二つは空っぽで、残るひとつが稼働していた。
そのひとつにゆっくりと近づき、
ゆっくりと、カプセルの窓のなかをのぞきこんだ。
カプセルのなかにいたのは、女の子だった。
たぶん十歳にもなっていない。背中までのびた黒い髪、光って見えるほど白い肌、目は当然閉じられている。本当に死んでいるのではないかと疑いを抱くほどだが、カプセルから延びるケーブルがつながれたコンピュータは、いまも彼女が仮死状態にあり、睡眠解除のコマンドを受ければすぐにでも蘇生することを示している。
そのコンピュータとワイヤレス接続をして少女の情報を引き出そうとしたが、防壁に阻まれた。
どうやらコールドスリーブを制御するコンピュータはシェルターのシステムコンピュータから独立して稼働しているらしい。たぶんプライバシーがなんとかかんとか、とかそういうためだろう。まだ個人情報の漏洩に関して神経質だったころの話だ。
が、推定世界人口たった一人のいまの地球では、プライバシーなどクソ食らえである。
防壁を狙って指向性ロジックボムでふきとばす。自殺プログラムが作動しそうになったので、
ファイルを開けた。
〔ICAD-108sec/ WSDP_prot_#073/ c-247 552 624/ >>>EOF
《RootSoft ES2005 [ICAD-WSDPp/CSCC_#073] File_001 》〕
なんだこれ。
「ICAD」というのはわからないが、「108sec」はおそらく第108部署ということだろう。「WSDP」は、
WSDP。
──いや、まさか。
浮かんできた考えを振り払った。
ここでこうしてカプセルの中で眠っているということは、この少女は少なくとも三百年はコールドスリープに入っていることになる。
三百年というのは相当に長い。ほとんどの場合、これほどの長期間コールドスリーブに入っていると生命活動が完全に停止してしまうのだが、コンピュータは少女が今すぐにでも蘇生できることを示している。
そもそも、コンピュータが故障を免れていること自体奇跡と言ってもいいくらいで、その上ディスプレイに表示された情報を見る限り、睡眠解除時に昏睡状態に陥ってしまう可能性も低い。これはかなり運がいい。
OBSVがそう考えたのは、ロボットとして当然のことだった。
もう一度、カプセルの中をのぞきこむ。
まぶたの下の目も黒いんだろうなと、そんなことをOBSVは考える。
●
長期間コールドスリーブに入っていた人間は、多くの場合コールドスリーブ以前の記憶を失っている。
いわんや三百年である。
少女はコールドスリーブから目覚めたとき、自分が人間であることすらうまく認識できていないようだった。そのくせ、最初に少女が発した言葉は、
「ポシェットは?」
だった。
自分が誰かもわかっていないはずなのに、よっぽど大切なものなのか、そればかりを繰り返した。
幸い、すぐに見つかった。
部屋の隅にあったでかい金庫のなかに、靴や服といった日用品に埋もれて入っていた。少女はポシェットの中身をあらため、失くなっているものが一つもないことを確認して、ようやく周囲の状況を認識し始めた。
そして、OBSVに気づいてこうたずねた。
「あなただれ?」
ところで、最初の会話の成立にひどく時間がかかったのは、なにも少女のせいだけではない。
少し待ってくれと身振りで伝え、自己修復に取りかかった。
生き残っていた回線から言語処理プログラムのバグフィックス版をダウンロードし、壊れてしまったスピーカーのほうはいますぐにはどうしようもないので、サブのほうをあたってみる。幸いなことにこちらは単なるサスペンドに陥っているだけだった。多少安定性や出力に欠けるが背に腹は代えられない。コマンドを送ってサスペンドを解除する。
二十秒後、なんとか修復を終え、あいだに四種の翻訳ソフトをはさんでようやく名乗ることができた。
少女は、「汎用人型ロボット〈RP-2300╱D型〉;OBSV-471071」というのが名前だということに納得がいかないように、それが本当にあなたの名前なの、と何度もたずねた。まだ言語処理が不自由だったOBSVがうなずくことで肯定を示すと、次に少女はここはどこなのかと訊いてきた。
こればかりは身振り手振りでは伝えられないので、なんとかかんとか、つっかえながら、ここは軍事用対核爆撃シェルターのなかであること、少女が三百年以上の間コールドスリーブに入っていて、今目覚めたのだということを伝えた。
それを聞いても少女はうまく状況をのみこめていないようだった。当然といえば当然のことで、降りた沈黙を破るように、今度はOBSVのほうから名前をたずねてみた。
結論から言えば、このタイミングでその質問をするべきではなかったのだろう。少女はコールドスリープから目覚めたばかりで、ただでさえ混乱状態にあったのだから。しかしそれも仕方のないことだったと言うほかない。
問われた少女は、わずかな時間考え込んだ。
唐突にその顔がゆがむ。
必死に引き結んでいた唇はやがてすすり泣きに割れ、
うろうろと辺りを見回しながら、小さく小さくおとうさんおかあさんと何度も繰り返して、
息が大きく震え、
幼児のようにぐちゃぐちゃになって泣き始めた。
あー、
あー、
あー、
冷たく無骨なコンクリートの壁に泣き声が反響する。苦しげに息をつき、全身で少女は泣いた。
OBSVもOBSVでひどく慌てた。人間を傷つけてしまったのだと思った。
だから、つっかえつっかえ、それでも必死に、十年以上の長期冷凍睡眠の危険性と記憶障害発症の経年比例や逆向性健忘の発生率についてまくしたて、つまりは「誰でもなるから心配するな」と説得して少女をなんとか落ち着かせようとしたが、それはまったくの逆効果だった。
OBSVはいよいよ慌て、謝り、うろうろと意味もなく歩き回り、自分のスペックがいかに素晴らしいかを語って安心させようとして失敗し、さらに狼狽し、しまいには自分は君の名前を知っているからと嘘まで言っても泣きやまず、
OBSVはとうとう途方にくれて立ちつくしてしまった。
少女はまだ泣きじゃくっている。
地球上で、ひとりぼっちで泣きじゃくっている。
オービーはただ、その姿を見つめている。
突然、何かの天啓のように、あるひとつの考えがOBSVの頭に降ってきた。
ネット回線。
一も二もなくそうした。必死にあらゆる回線を駆けずりまわって、ようやく、ある方法を見つけた。
そのページには、こうあった。
子守唄
ここで断っておきたいのだが、先程も言ったように、そのときのOBSVの言語処理プロセスや発話スピーカーは完全な状態ではなかった。先刻の長広舌でいくらかはましになったものの、まあ所詮、「いくらかは」だったのである。
それが、歌をうたえばどうなるか。
わかりきったことである。
ものすげえ音痴だった。
突然のことに驚いた少女はしゃくりあげるのも忘れて、涙のたまった目で不思議そうに、なかば錯乱ぎみに歌うOBSVをぽかんと見上げた。
やけくそであった。
そして、人間というのは自分よりもパニックに陥っている他人を見ると落ち着く傾向がある。このときの少女もそれは例外ではなかった。
ぽかんと見開かれた目に次第に可笑しさが浮かび、少女はようやくゆっくりと、
笑った。
ひとまず落ち着いた一人と一体は、自己紹介をすることにした。
最初はOBSVからだった。
先程と同じように、OBSV-471071と名乗ると、少女はそんなの名前じゃないと言った。憶えにくいしよくわかんないから、というのがその理由である。
たがそれ以外に自分は自分の名前を知らないとOBSVが言うと、少女は、じゃあ新しくつければいい、と言った。
そういうことになった。
OBSVの提案した案はことごとく却下され、ジャンケンで勝利した少女がその命名権を獲得した。
十分後、少女は名前を発表した。
OBSVは、オービーになった。
まんまだね、とはオービーの談である。
言わぬが華であった。
その次は、もちろん、少女の名前を決めた。
先ほど少女の名前を知っていると出まかせを言ったことを忘れていたオービーは、少女が何かを期待するようにじっとこちらを窺っていることになかなか気づかなかった。とうとうしびれを切らした少女が、それで自分の名前はなんなのかときいたところでようやく思い当たり、まさか実は知らないから考えてなどとも言えず、オービーは回らない頭で必死に考えた。
このときばかりは内心が表に出にくいロボットであったことが幸いしたと言うべきだったのかも知れない。
が、本人はそんなことを考える余裕もなく、メモリのなかには意味のない文字の羅列が嵐のように吹き荒れ、プライバシーは量子コンピュータの子守唄にリニアシューターでWSDPの経年比例が六〇〇メートル第二関節を音響定位してそんな空間はないと口々に言うことがここは永遠の夏のなかに、
夏、
何かしらの奇跡が起こったと、大袈裟に言えばそう表現することもできる。
オービーのメモリのなかで、雑多な単語がめちゃくちゃに入り乱れた記憶と複雑怪奇な化学反応を起こした結果なのか、なにをどう結びつけてどこをどう通ってきた単語なのか、
夏希。
気がついたら口が勝手にそう動いていた。
はっとしたオービーは慌てて取り繕おうとしたが、少女は耳ざとくその呟きを聞きつけていた。
少女は、口のなかで何度も何度もその名前を呟き、おおげさすぎるほどの笑みを浮かべてはしゃぎまわった。
そして少女は、夏希になった。
それからオービーは、現在の地球について説明した。三百年前に戦争があったこと。そのせいでほとんどの人間が死に、生き残った人々も地球の外に逃げていったこと。たぶんいま、地球には人間が夏希ひとりしかいないこと。
また泣き出してしまうのではないかと思ったが、夏希はただ、「ふうん」と言ったきりだった。それどころか、「それって、いま地球はわたしとオービーだけのものってことだよね?」などと言いだす始末だった。オービーは拍子抜けし、安心した。
オービーはロボットで、おまけに人間とまともに話したのは初めだった。
だから、夏希のその反応がせいいっぱいの強がりであったことを見抜けなかったとしても、誰もオービーを責めることはできまい。
夏希が話せることは少なかった。コールドスリープ以前のことはぼんやりとしたイメージの断片としてしか憶えておらず、それらは言葉にするにはあまりに曖昧すぎた。
まずは家を探そう、ということになった。いつまでもこの地下シェルターの薄暗いなかにいては気が滅入ってしまう。ただ、汚染をまったくうけていない保存食糧が大量に備蓄されていたので、ありがたく使わせてもらうことにした。
まずは家探しの前に、周辺地域の詳細な汚染状況を確認しなければならない。
夏希は強硬に、自分も行くと言い張った。が、こればかりはオービーも譲れない。
外は放射線汚染がSMP値を1000シーベルトに一酸化炭素中毒をRBE100で、口と目と耳から血を吹き出してお腹が裂けて頭が破裂して死ぬ可能性がある。
夏希は、絶対に、絶対に行かないと言った。
嘘をついたことを、少しだけ、後ろめたく思った。
四時間かけて、シェルターを中心とした半径一・五キロの地域が安全であることを確かめた。ついでに、139箇所にセンサーポッドを敷設しておいた。これでオービーにはこの地域の状況が手に取るようにわかる。
地上に出た夏希は、ちょっといきすぎなくらいはしゃいでいた。
「ねえ、ねえ見て、見て見て! あれ、あそこ、ビルが崩れてる!」
「あっ、あれ! 飛行機だよね?」
だれもいない廃墟を白いワンピースを着た少女がくるくると横切っていく。その少し後ろを、保存食糧がつまったずだ袋をかついだ一体のロボットが歩いている。半壊したビルがこい影を落とし、ビルの群れの谷間をひとりと一体が歩いていく。がれきとひっくり返った車、ずり落ちてさびついた看板と青すぎる空、それらを背景にしてくるくると踊る白いワンピース。笑い声が、ビルの間にこだまして消えていく。
ここは、ふたりだけの楽園だった。
ひとまず一晩の仮の宿としてオービーが提案したのは、トラックの荷台だった。あの中には布団が一式そろっていたからである。
夏希はキャンプキャンプと言ってはしゃぎまわり、満場一致でそういうことになった。
オイルランプのやわらかい光が荷台のほろの中を照らしている。保存食糧を食べ終わった夏希は毛布にくるまってすやすやと眠っている。
その隣でオービーは思いをめぐらせている。
夏希は一体何のためにコールドスリープされたのか。
夏希のコールドスリープ制御コンピュータに残されていたファイルにあった、WSDPの文字が頭を離れない。あれはまさか───
いや、よそう。仮にそうだったとしてもどうにもならないし、どうでもいい話だ。
ランプが消される。
荷台の外には、信じがたいほどの星空。
●
合計三十時間に及ぶ計測の結果、オービーは街ひとつを安全区域としていた。ついでにその計測結果を視覚的に表した3Dマップも作成し、そのデータを入れた腕時計型多機能情報通信デバイスを夏希に持たせた。
そして、本格的に家探しが始まった。
一人と一体を乗せたオンボロトラックは廃墟の街を走り回り、オービーがここにしようと言っては夏希がなんくれとなく文句をつけてそれを却下するという手順が幾度となく繰り返された。
夏希は、トラックの助手席で、じっとしていられないようにぽんぽんはね回っていた。
のはさっきまでのことである。というのも、トラックがエンストしたからだ。
街の北側は南向きの坂になっていて、それを無理にのぼろうとしたのがいけなかった。一時間ほど前から格闘しているが、その努力もむなしくエンジンは機嫌を損ねたように黙りこくったままである。
夏希は十分程前まで道ばたの段差に腰かけて、五分おきに「ねーまだー? まだ直らない?」と言っていたが、ついさっきどこかへ行ってしまった。
けれど、オービーは夏希の位置を数十センチの誤差もなく捕捉している。夏希に持たせたあの端末には発信機がついていて、それを通信衛星が拾ってオービーに転送しているのである。ついでに夏希が端末を使って何かをすればそのデータもすべて転送されてくるので、オービーは夏希がときどきマップを開いていることもわかっていた。
おどかしすぎたかな、と思う。
そのとき、夏希の声が聞こえた。
「オービー、オービー、ちょっと来て!」
崖だった。
周囲を生い茂った木々にかこまれて、なかなかそこにあるとはわからないようになっていた。崖の上からは廃墟となった街が一望できる。目をこらせば彼方に海も見えた。
そして、ひらけた草地の真ん中に、乗り捨てられたのか、一台のバスがぽつんと置き去りにされていた。
夏希は得意そうな顔を隠そうともせず、勢いこんでまくしたてた。
「ね! すごいでしょ! ここにしようよ、二人ならそんなに広くなくていいし、ここをお家にしよう!」
オービーは反論しようとした。トラックはこの坂をのぼってこれないし、シェルターが遠くて食糧の調達に手間がかかる。そもそも、
夏希はそれを遮ってこう提案した。
それなら、ジャンケンをしよう、と。
結果は言うまでもない。
●
結局、トラックを改造した。新しいものを調達しようと思っていたのだが、夏希があのトラックがいいと言って聞かなかったのである。だから仕方なく、エンジンだけを取り替えた。
それから、バスの掃除にとりかかった。三百年の間にたまった汚れは相当なもので、そうたいして広くもないはずなのに三日もかかった。
一番近くにあったまだ生きている電線から電気を引いて、前もって取り替えておいた照明と空調のバッテリーにつなぎ、ほとんどが割れている窓をすべて取り替えて、しかも夏希の要望通り開け閉めできるようにするにはさらに七日がかかった。
座席をすべて取り外し、街で夏希が気に入ったベットと本棚といすとテーブルを運び終わるころにはさらに五日がたっていた。
最後に食糧と、服などの生活に必要なものを調達してきて、ようやく引っ越しは完了した。
掃除と洗濯の当番を、こればかりは平等に決めた。
そして今日は、オービーが洗濯当番の日だった。
ここのところ晴れが続いている。日に照らされたビル群が彼方に黒くくっきりと見えている。
夏希は散歩にいっている。少し前に、スクーターの乗り方を教えてやったのだ。
最初はおっかなびっくりだったが、今では夢中になって乗り回し、廃墟を駆け回っては一日に一つは何かしら新しいものを見つけてくる。
どこに行くにも持ち歩いているポシェットを街で見つけた戦利品でぱんぱんにし、入りきらないものはスクーターのカゴに積んで帰ってきて、それらを家で選別し、ひとつだけを選んでポシェットに戻している。
では他のものはどうするのかといえば、本棚に保管されるのだった。
おかげでどんどんものが増え、本棚には水道管の蛇口や扇風機の羽根や傷だらけのビー玉や自転車のサドルや何かの鍵と南京錠や変色した乾電池といったガラクタがあふれんばかりに堆積し、所々で雪崩が発生している。
洗濯物を干し終えるころ、オービーの聴覚センサーがスクーターのモーター音をとらえた。雑木林の向こうでとまり、
「オービー、オービー、オービー!」
という声とともに林をかきわけて夏希が現れる。
「ねえねえ、わたしすごいもの見つけちゃった! 聞きたい?」
ここで別になどと答えた日には百年目である。聞きたい聞きたいと答えると、
「ふふふー。オービー、ボウリングってやったことある?」
ボウリング?
すぐさま検索する。ヒット。
レーンの上にボールを転がして二〇メートル前方に並べられた十本のピンを倒し、その数によって勝敗を競う室内競技。
そもそも競技そのものを知らなかったので、正直に知らない知らないと首を振る。
「えーないのお、ダメなんだー。ボウリングっていうのはね、」
そこで言葉につまる。うまく説明できないのか。
「えっと、まず、つるつるのボールを投げるんだけど、そのボールに穴があいてて、指をそこにいれるの。あ、で、その投げる、えっと何て言うのかなあ? 道っていうかそういうのをレーンっていって、そこの向こうのはじっこに、白くてビールの瓶みたいな形のピンが十こ並んでるの。でね、それにボールを転がして当てて、あ、ピンの首のところに赤い横線があって、じゃなくて、そう、ボールを転がして当てて、ピンを倒すの。で、一回でぜんぶ倒れればストライクっていって、一回で倒れなくても二回まで投げれるから、二回で倒れたらスペア。とにかく、多く倒した方が勝ち」
どう、わかった?と目できいてくる。
オービーはロボットだが、それでもここは正直に答えてはいけない場面だとわかった。かといって嘘をつくのも嫌だったので、それでボウリングがどうしたのかときいた。
きくまでもない質問だった。
ボウリング場は街のはずれにあった。
電気系統はすでにこと切れていたが、それ以外はかなりいい状態だった。自前でピンを並べなければいけないことを除けば、ほとんど三百年前と変わらないだろう。
というわけで、真剣勝負である。
最初のうちは、夏希がリードしていた。コールドスリープ以前にやっていたのか、それなりの量のストライクやスペアをとり、なかなかのスコアをだしていた。
対してオービーはひどい有り様だった。
まずそのフォームからして痛々しい。ものの投げ方など知らないのでとにかくオーバースローでぶん投げるのである。しかも初心者の癖にやたらと重いボールを使っているので、反動でもんどりうって頭から転倒していた。
あまりの様子に見かねた夏希が、もっと軽いボールにしなよと言っても一向に聞かない。馬鹿の一つ覚えのようにぶんぶん投げては、思わず顔をしかめるような派手な音をたてて顔面を床に打ち付けている。なのに楽しそうなのが不気味である。
そして、そうやって放たれたボールは、だいたいが隣のレーンに突入していった。
夏希は、最初は度肝を抜かれ、次に大笑いし、真剣に心配してアドバイスを試み、最後にはふざけるのもいい加減にしろと怒り出した。
真剣にやらないなら今後一週間の洗濯と掃除当番はオービーだからね。
が、それも一ゲーム目までだった。一ゲーム目の間にインターネット上の動画の解析と自らのモーター動作のログから投球のコツをつかんだオービーは、その反則技とも言える演算能力をボールの軌道計算に使い始め、ストライクをばかばか量産し始めた。
調子に乗ったオービーは、スーパーコンピュータを持ち出して軌道計算をし、全センサーをアクティブにしてレーン上のわずかなホコリによる誤差も計算にいれ、わざと難しいピンの残し方をして、二投目でピンの倒し方まで計算してスペアをとった。
二ゲーム目が終わるころには夏希のリードはひっくり返され、点差は二倍以上にひらいていた。
おもしろくないのは夏希である。
真剣にやれとさんざんいっておきながら、とっくの昔にそんなことは忘れている。
そして、いよいよ調子に乗ったオービーが量子コンピュータを使おうとしたそのとき、ついに限界が来た。
オービーがホコリの誤差と空気の対流まで計算にいれて軌道計算をし、100パーセントストライクという角度と速度と回転でボールをリリースした瞬間である。
レーンを転がるオービーのボールの横腹に、夏希のボールが激突した。
二つのボールは仲良くガーターに落ち、間抜けな音をたてながら転がって、真っ黒な口の中にごとんと消える。
大ゲンカとなった。
いつものようにジャンケンでカタをつけようとする夏希と今回ばかりは絶対に譲らんと思っているオービーの二人は、結局、お互いに自分の一番のお気に入りのものを渡すということで和解を見た。
ケンカをしている間もどちらもが楽しそうだったのは、気のせいではあるまい。
夏希がオービーに渡したのは、ポシェットの中にいれていた青い壜だった。ビール瓶の三分の一ほどの高さで、胴もひとまわり細い。
海のような色をしていた。
オービーは、それを大切に本棚に飾った。
オービーは夏希にこう言った。
自分が見せたいものはちょっと危ない場所にあるし、いまから行くと間に合わないから、明日行こう。
夏希は、絶対の約束だと何度も念を押して、ようやく納得した。
●
翌日もよく晴れた。今日の洗濯当番は夏希である。
オービーはというと、探し物があると街へ行ったきり帰ってこない。
ひとりでもごはん食べちゃおっかな、と夏希が思い始めたころ、ようやくオンボロトラックが坂道をのぼってくるエンジン音が聞こえてきた。
雑木林を抜けてオービーが現れる。
「おそーい! もう、何やってたの?」
オービーは遅くなったことを詫び、探してたものは見つかったから昼ごはんを食べたら出発しようと夏希に言った。
「どこに?」
そう問うた夏希に、お気に入りの場所、とだけオービーは答え、手に持っていたものを夏希に見せる。
放射線防護服だった。
助手席で、ポシェットを首から下げた夏希がぽんぽんはねている。表情は防護服のせいで見えないが、笑っているのがまるわかりだった。
窓の外にはひたすら草原が広がっている。その真ん中を、オンボロトラックが突っ切っていく。車体が大きくはねて、夏希がきゃあきゃあ言って笑う。
ものすごくいい天気だ。
やがて、空気のなかに潮のかおりが混じり始める。防護服を着た夏希にはわからないだろうが、オービーのセンサーは敏感にその変化を捉えていた。
もうすぐ着くとオービーが伝えると、夏希はおそらく顔を輝かせ、
「ほんと? あとどのくらい?」
たぶん十分もかからないだろう。それを聞いた夏希は、待ちきれないようにシートの上ではね回り、足をじたばたとさせる。
オンボロトラックは海へと向かってはしる。
ビルが海面につきささっている。
凪いだ海面に、空と雲と黒々とした高層ビルのシルエットがくっきりとうつっている。
波の音も風の音もしない。ただひたすらに鏡のような水面が広がっている。
夏希は目の前の光景に言葉を失っていた。
一ミリでも動けばこの光景が消え去ってしまうような気がして、金縛りにあったようにその場を動けない。オービーに問う声も、聞き逃してしまいそうなほど小さなものだった。
「─────これ、ここ、なんで波、たたないの?」
オービーは、詳しいことはわからないけど、と断った上で、周囲の海岸線と海底の形状、それからビルがあるせいで波が入ってきにくいことと、かつての核爆発が気流をねじ曲げ、偶然このあたりの、少なくとも低高度では風があまり吹かなくなっているせいだと思うと説明した。
だがその説明を夏希は聞いていたのかどうか。もっとも、聞いたところで半分も理解できないだろうから、それでよかったのかもしれない。
そして、ようやく金縛りが解けた。
「す、」
す?
「すごい‼ すごいすごいすごい! ねえ、オービーこれすごいよ! わたしこんなの見たことない!」
ひたすらにすごいすごいと繰り返してはしゃぎ続けている。その顔にはいきすぎな笑顔が浮かんでいる。
そしてオービーは、その姿を見て、電撃を受けたように動けない。やがて夏希がオービーの様子がおかしいことに気づいた。
「オービー? どうしたの? どこかいたいの?」
訝しそうに顔をのぞきこんでくる。オービーは我にかえり、なんでもない大丈夫と言って、夏希の怪訝な視線を背中に感じながらいそいそと作業に戻る。
オービーは、うれしかったのだ。自分が思ったことを他人とわかち合えることがこれほどうれしいのだと、オービーはこれまで知らなかった。
いままで自分はひとりぼっちだったから。
たったひとりで生きてきたから。
だから、自分が気に入っているこの場所を、夏希が同じように気に入ってくれたことが、どうしようもないくらいにうれしかったのだ。
テントを張った。
持ってきたチェスとオセロと将棋をやった。オービーが容赦なく桁外れの演算能力を使うので、怒った夏希によって特別ルールが決められた。
スーパーコンピュータ、量子コンピュータを使うのは禁止。自分自身のコンピュータも使っていいのはメモリの三割まで。
とまあ、そこまでのハンデをつけても、一つの例外を除いてオービーは圧倒的に強かった。
その例外というのはオセロだった。
途中から考えるのをやめた夏希がカンだけでばしばし駒を置いていくと、どうしたことか、三回に一回くらいの割合で勝てるのである。ちなみに残りの二回は見るも無残な惨敗だった。
夏希は負けそうになるたびに盤をひっくり返し、オービーにむかってぶんぶん駒を投げつけた。
戦績は、五勝十八分だった。
そうこうしているうちに日が傾き、二人はテントを出て夕焼けを眺めた。広大すぎる夕焼けはやがて去り、
そして、夜がきた。
海を眺める二人の背後から忍び寄った夜は、着実にその範囲を広げていく。やがて星が見えはじめる。
夏希はオービーにテントの中で寝ているように言われた。オービーがそんなことを言う理由がわからなかったが、そうしないと自分の本当のお気に入りは見せてあげないと言われては仕方がなかった。
しかし自分で思っていたよりも疲れていたのかもしれない。テントに戻った夏希はすぐに眠りにおちた。
誰かに揺り動かされて目が覚める。
オービーだった。
オービーは寝ぼけている夏希に目を閉じるように言い、夏希の手をとって、自分がいいと言うまでは目を開けないようにと伝えた。ぎゅっと目をつぶり、夏希はこっくりとうなずく。
オービーに手を引かれるままに、おっかなびっくりテントの外に出る。少し歩くと立ち止まるように言われた。オービーに言われたとおりにそのままゆっくりと地面に座る。
真っ暗な視界のなか、オービーの声だけが聞こえてくる。
さん、にい、いちで、目を開けて。
さん、にい、いち、
目を開けた。
星空のなかに浮かんでいた。
夏希は言葉を忘れる。
頭上と足下に星空があった。真っ暗な宇宙を天の川が横切り、それと上下対称の白い瞬きが同じように真っ黒な海を横切っている。宙に浮いているような錯覚に陥り、思わずオービーの手を強く握る。そこでようやく呼吸を止めていたことを思い出して、ゆっくりと息を吐きだした。
ふたりの間に交わされる言葉はなかった。言葉は尽きていたし、ここではそんなものは不要だった。
しかし、やがて、夏希は言った。
「オービー、」
目の前には信じられないほどの星の海。
一呼吸ぶんのわずかな沈黙のあと、
「ありがとう」
●
はるか昔に海へ行った。
お母さんとお父さんと、車にありったけのおもちゃと浮き輪とテントととっておきの花火を積み込んで、首にはお気に入りのポシェットをさげて。
初めての海だった。
少女は七歳になったばかりだった。
ときおりがたりと揺れる後部座席のシートの上で待ちきれないようにぽんぽんとはね、五分おきにまだ着かないのかときいている。
唐突に視界が開けた。
せいいっぱい背も首ものばしてシートから身をのりだした少女は、青い海を見た。広大な海だった。
車の中で水着に着替えて浜辺に出た。
砂浜は照りつける太陽に炙られて立っていられないほど熱く、お父さんに抱きかかえられて波打ち際に向かった。お父さんがあんなに熱い砂の上を歩けるのが不思議でならなかった。大人ってすごいなあと思った。
湿った砂の上におろされ、その感触が足の裏にくすぐったく、こわごわと水に触れようと
大波が襲った。
実際には大した波ではなかったが、少女はひとたまりもなくひっくり返り、塩水が目にしみて思わず目をつぶり、水をしこたま飲みこんだ。
絶対に死ぬと思った。
泣きながら、先程までは熱くてとても歩けなかった砂の上を走って、パラソルの下で休んでいるお母さんのところまで逃げ帰った。
二度とあそこには行かないと心に決めた。
お父さんがけらけらと笑っていたので、悔しくて何度もたたいた。
そういうわけで仕方なく、少女は砂でお城をつくり、山にトンネルを開通させ、やがてそれにも飽きてしまった。
そこで少女はお母さんの隙をついて探検に行くことにした。お母さんが飲み物を買いにいっている間にこっそりと、ちゃんとポシェットも持って。
いろいろなところに行った。砂浜に残る犬の足跡を追いかけたり、テトラポッドの間にもぐり込んだり、引き潮で取り残された小さな池や、岩場で蟹の巣も見つけた。奇怪なねじくれかたをした巻き貝の貝殻と、波と砂に表面を磨かれて滑らかにまるまったサンゴの欠片が、紫陽花の押し花やすべすべして傷ひとつないどんぐりたちの仲間入りを果たし、
そして、半分ほど砂に埋もれた壜を見つけた。
海の色をしていた。
少女はたちまちそれを気に入って、ポシェットの中に入れた。
やがてお父さんとお母さんが迎えに来て、浜に備えつけられていたシャワーを浴びた。車の中で服に着替えてテントを張った。バーベキューをして花火をした。
夜眠る前、少女はテントの中で自分の探検のことを話し、二人に壜を見せた。海の瓶だよ、と説明した。
そこまでは憶えている。
そこで、少女の記憶は途切れている。
●
グーとチョキ。
ジャンケンである。なんのジャンケンかといえば、今日はどこに行くかを決めるジャンケンである。
夏希がグー、オービーがチョキ。
つまり、今日行くのは夏希が行きたいと言っている森の中の秘密の場所で、オービーが行きたいと言っている巨大な水道管に行くのは明日、ということになる。
ジャンケンに勝つのはいつも夏希だった。夏希はジャンケンの前に自分がどの手をだすかを宣言し、もしオービーがそれに勝つ手をだせば泣き喚くという非常に厄介な脅迫を繰り出していた。
一度だけ、ひたすらあいこにしつづけるということをしたことがある。しかし結局オービーは、夏希がこのまま死ぬまでジャンケンをつづけるのではないかという突拍子もない恐怖と、じっとこちらを見つめてくる黒い瞳に負けて、パーをだした。以来一度もやっていない。
あの日以来、夏希とオービーは毎日どこかへ出かけるようになっていた。オービーはこの星を三百年も旅してきたから、いろいろな場所を知っていた。それはこの街も例外ではなかったが、しかしことこの街に限った話をすれば、オービーよりも詳しいのは夏希だった。
夏希は毎日欠かさずスクーターで街中をはしり回り、次々とお気に入りの場所を見つけてきた。最近はもう憶えきれなくなってきたので表紙に「ひみつき地こうほ」と書かれたノートにメモしていて、そこに書きこまれた場所の数は日に日に増えていっている。
夏希はオービーから世界中の様々な街の話を聞くのも好きだった。
崩れかけた超高層ビルの隙間をがんじがらめにリニアチューブが横切っている大都市の廃墟。
海の底をはしる線路と海に浮かぶ廃駅。
地面に突きささった巨大な航空機の骸。
それらの話を聞くたびに、夏希は、いつかいっしょに世界中を旅して見に行こうと言って、絶対の約束だと何度も念を押した。
今日行くのは、森である。
夏希が実に安直に「森」と名付けたそこは、南向きの崖から西側に下ったところにある。もともとはマンションや家が立ち並ぶ住宅街だったようだが、いまでは木々にのみこまれ、こまごました建物の間の細い路地は水路になっていて、日の光もあまり届かず、鬱蒼と茂った密林といった風情になっている。
目的地は、そのほぼ真ん中にあった。
ツタとコケにおおわれたかつてのマンションのエントランスを抜け、四方をコンクリートの棟に囲まれたそこは、中庭のような場所だった。
壁という壁にはツタがはりつき、通路だったとおぼしき場所からは緑があふれだしている。足下には五センチほどの深さに水がたまっていて、上を見れば、ぽっかりと四角く切り取られた空を、夏の雲がゆっくりと横切っていく。そしてそこから差す光がマンションの壁面にあたって、薄暗い中庭の底をたよりなく照らしていた。
静かだった。
夏希は、ここを秘密基地にしようと提案した。
おうむ返しに秘密基地と呟いたオービーに、夏希は屈託なく笑って言う。
「そう、秘密基地。わたしとオービーだけの秘密基地」
満場一致でそういうことになった。
ごはんを食べて、かくれんぼをして───もちろん、センサー全開ステルスエフェクター全開のオービーが圧勝した───四角く切り取られた星空を見た。家に帰って少し遅めの晩ごはんを食べて、オービーの言っていた巨大な水道管を想像しながら夏希は眠った。
オービーは、明日のための計画を立てていた。実に綿密な計画である。暦から太陽の軌道と角度を割り出し、どの時間にとの方向から目的地にたどり着くのが一番かを計算している。
夜はふけていく。
ちなみに、このころにはもうオービーは発信機によって夏希の位置を常時捕捉することをやめていた。普段は衛星からの回線を閉じ、本当に困ったときだけ使うことにしていた。
ここで言っておこう。
誰も悪くはなかったのだ。
オービーは夏希がきちんと危険区域に入らないようにしているのを知っていたし、そもそも発信機を使うのは、夏希を騙して覗き見をしているような気がして後ろめたかった。夏希は、夏希が見つけた夏希だけの秘密の場所をオービーに特別に見せてくれているのに、夏希がいつどこにいたのかを自分が一方的に知っているのはなんだか卑怯な気がしたのだ。
だから、オービーが夏希の監視をやめたのはむしろ当然のことであり、喜ばしいことですらあったのだ。
そしてまた、あの瓶をかつて海で拾ったことを思い出した夏希が、もう一度あの場所に行こうとしたのも当然のことだった。
誰も、悪くはなかったのだ。
●
二週間がたった。
今日の洗濯当番はオービーだった。
夏希はいつものように朝から出かけている。どこに行っているのかはわからないが、昼までには帰ってくるだろう。
あれから、秘密基地は十三ヵ所に増えていた。
ほかの変化といえば、オービーはだいぶ洗濯物を干すのがうまくなっていた。洗濯物を干すのにうまいも下手もあるものかと思うかもしれないが、実はこれがあるのである。
初めのころのオービーは、同じ量を干すのに今の二倍の時間をかけ、なぜか毎回物干し竿の右にかたよって干し、ハンガーを使うべきワンピースに洗濯ばさみを使い、洗濯ばさみを使うべき靴下にハンガーを使っていた。
そのことを考えれば長足の進歩だ。世界物干し選手権でだって優勝間違いなしである。自分の見事な仕事の出来栄えの前で、オービーは満足げにふんぞりかえっている。
あれから、秘密基地は十三ヵ所に増えていた。
昨日はオービーの番だったので、今日は夏希の番ということになる。結果が知れているのだからやらなくてもいいはずなのに、夏希は絶対にジャンケンを欠かさなかった。
あれ。
そういえば、今日はまだジャンケンをしていない。いつもなら朝ごはんの後すぐにしているのに。
まあいいか。
そういう日もあるだろう。単に忘れているのかもしれないし、ひょっとしたら夏希はジャンケンに飽きたのかもしれない。だとしたら少し残念だった。オービーはオービーで、実は毎朝のジャンケンをちょっぴり楽しみにしていたのである。もちろん夏希には秘密だ。
まあどうせ昼ごろには夏希は帰ってくるだろうし、ジャンケンをするにしてもしないにしても、どこに行くかはそのときに決めればいい。
オービーはそう思っていた。
昼になっても、夏希は帰ってこなかった。
まあそういう日もあるかもしれない、とオービーは思った。
洗濯物が乾いても、夏希は帰ってこなかった。
夏希はどこかものすごい秘密の場所を見つけたのかもしれない、とオービーは思った。
だから衛星はまだ使わなかった。
日が傾きかけても、夏希は帰ってこなかった。
そこでようやくオービーは夏希を探し始めた。街中を駆け回った。
日が暮れても、夏希は帰ってこなかった。
とうとう衛星を使うことに決めた。
夏希は、信じられない場所にいた。
信じたくない場所だった。
●
走った。
もう手遅れであることはわかっていた。
それでも、走らずにはいられなかった。
オンボロトラックに体当たりするようにドアを開けようとし、なぜか開かず、押して開けるのではなく引いて開けるのだと気づくのに数秒かかった。吹き飛ぶような勢いでドアを叩き開け、エンジンをかける。かからない。死ぬかと思う。ハンドルに頭突きをくれながらもう一度。かからない。発狂しそうになりながらもう一度かける。かかった。アクセルを踏み込む。つんのめるようにトラックが走りだす。坂道を下るなどというのんきなことはしていられない。崖の高度と崖下の地形と速度と方向と角度を計算して、
崖に突っ込んだ。
一瞬の浮遊感、直後にすさまじい衝撃と轟音。着地の衝撃で右前タイヤのホイールがふっとんでいくのが見えた。よくもまあ車体ごとバラバラに壊れなかったものだと思う。
ネオンサインもひっくり返った車も蹴散らしてはしる。攻撃用軍事衛星を呼び出し、最短ルート上にあるガラクタの排除を命じる。直後正面方向に閃光、一拍遅れて震動、もう一発、閃光、震動。これでだいぶ走りやすくなったはずだ。
衛星からのミサイル攻撃を受けた廃墟を、オンボロトラックが信じがたいほどのスピードではしる。
オービーはやはり間に合わなかった。
夏希は、あの海辺にいた。傍らにはポシェットが転がっていた。
オービーが夏希のもとにたどり着いたとき、すでに呼吸が止まろうとしていた。なのに、どこにそんな力が残っているのか、夏希は言った。
ごめんね。行っちゃだめってわかってたのに、オービーに行っちゃだめって言われてたのに、ごめんね。わたし、あの壜を海で拾ったって思い出した。お母さんとお父さんと一緒に海に行って、水が怖くて泳げなくて、探検してたら見つけた。
だから、海に行けば、見つけられるのかなって思った。わたしがもういっこ壜を見つけたら、オービーとおそろいだもん。
オービーは、わたしとおそろいなのいや?
オービーには、その問いになんと答えたのかの記憶がない。
トラックの荷台に夏希を運び、積み込んである医療器具をひきずり出す。
長い夜が始まる。
●
三時間後、夏希は意識を回復した。
オービーの顔を見て、夏希はごめんねと言った。
いままで見たことのない表情だった。
夏希が意識を失い、一時は死にかけたのは大気中の一酸化炭素が原因だった。だがそれはいまや問題ではない。
このあたりは放射線防護服が必要なほど放射線量が高い。夏希が朝からここに来ていたのだとすれば、その放射線を十時間以上あびていたことになる。
医療コンピュータは冷静で冷酷だった。
冷静に冷酷に、夏希の余命が三週間だと宣告した。
●
どうすれば喜んでくれるかということばかり考えていた。
三時間考えて、オービーは壜を探しに行くことに決めた。何しろあんなにまでして探しに行ったのだから、見つけてきて夏希にあげれば喜ぶにちがいない。どうせなら夏希には秘密にしよう。こっそりと探してきて、渡したときの夏希の驚いた顔を見てやろう。
夏希は海にあると言っていた。だからオービーは海に行くことにした。ベッドの上で半身を起こしてどこへ行くのかとたずねた夏希には、ひみつとこたえた。夏希は少し笑った。
オービーはロボットだった。だから、オービーを責めることはできない。
一日目は見つからなかった。
次の日も、その次の日も見つからなかった。
夏希があると言っていたのだから、見つからないのは自分が悪い。オービーはそう考えた。もともとそんなものはここにはありはしないのだという可能性は、これっぽっちも考えなかった。
四日が過ぎた。
やはり今日も見つけられずに帰ってきたオービーは、夏希の様子が普段と違うことに気づいた。口数が少なく、うつむいてオービーと目を合わせようともしない。
オービーの体が強ばる。
──まさか、
まさか、症状が悪化したのか。
慌てて夏希に、体調が悪いのか、どこか痛いところはないかとたずねる。すると夏希は、やはりオービーと目を合わせようとせず、うつむいたまま首を振った。
だったら───、
手はシーツを握りしめ、布団の白を見つめて夏希は、
「あの、あのね、オービー」
なけなしの勇気を振り絞ったのだと思う。
「───どこにいってたの?」
オービーは、夏希が驚いて喜ぶ顔を見たかったのだ。オービーにはまったく悪意はなかった。ただ夏希に喜んでほしかっただけだったのだ。
そして、オービーはロボットだった。
こう言った。
──ひみつ。大丈夫、夏希は心配しなくていい。
夏希の顔がゆがんだ。
薄く開いた口から苦しげに震える息をつき、それはやがて嗚咽となって、そして、
夏希は泣きはじめた。
オービーは慌てた。最初に出会ったあのときよりも慌てた。これほど慌てたことはこれまで一度もなかった。
それでもかろうじてきいた。どうしたのか、と。どこか痛いのか、それとも何か自分が気に障ることを言ってしまったのか。そうきいて、何度もあやまった。
だが夏希の泣き声は、オービーがあやまるたびに大きくなった。
途方にくれたオービーは、ようやく、夏希が苦しげな息の下から、つっかえつっかえ何かを言おうとしていることに気がついた。
───オービー、わたしのこときらいになっちゃった?
意味がわからなかった。呆然としているオービーの返答を待たず、夏希は泣きながら言う。
「おー、びーにいっちゃ、だめっていわっ、いわれてたのに、わた、しひとりで、いっちゃ、たから、おっ、びーはおこって、わたしの、こときらっ、いになっちゃったのか、なって」
声も出せない、
「ごめ、んね、おーび、おこって、る? わたっ、わたしのこときら、っになっちやった? ごめんね、ごめっ、なさい、もっ、もういかない、から、いわ、れたことちゃんと、きくからおいてかないで、ひと、ひとり、っはさびしいよ、おーびーにそばに、いっ、いてっ、ほしい、ごめんなさ、ごめなさい、ごめ」
顔をゆがめ、苦しげに息をもらし、ひたすらごめんなさいごめんなさいと繰り返しながら、夏希は泣いた。
人は何に喜び何に悲しむのかということ。
そもそも悲しみとは何かということ。
心と
出会い、共に過ごし、眠り、隣を歩いた。星の海に包まれてささやかな言葉を交わし、手向けの儀式のように廃墟を共に巡り歩いた。秘密基地は二十三まで増えた。
それがなんだというのか。
夏希はさびしいと言った。ひとりはさびしいと。そして夏希は泣いた。
三百年の間、自分は一度でもさびしいと思っただろうか。
数光年の孤独に、自分の心は泣いただろうか。
やはりそうなのだ。
自分はロボットだから。
自分はロボットだから。
0と1は所詮0と1なのだ。いい気味だ、ざまをみろ。思い上がりもはなはだしい。思い知っただろう、身分不相応なことをしていたのだと。やはり自分にはひとりで荒野をさまよう以外に生き方などないのだ。いつまでもたったひとりでいればいい、
どうせ自分は、その痛みを理解することなどできはしないのだから。
だがオービーは自分のその声を無視した。
無視しなければならなかった。
なぜなら、いま、夏希が目の前で泣いているから。
目の前で、ぐちゃぐちゃに泣きながら、ひたすらにごめんなさいごめんなさいと繰り返す少女に言う。
───自分はこれっぽっちも夏希のことを嫌ってなんかいない。夏希のそれは誤解であって、自分は壜を探しに海へ行っていた。でも、夏希に喜んでほしくて探したけど見つけられなかった。夏希の驚いた顔を見たくて、どこに行ってるのかは秘密にしていた。寂しい思いをさせて申し訳なかった。自分は──自分は、ロボットだから、夏希が寂しがっていることに気づけなかった。でも、もう明日からは行かない。夏希が治るまでずっとそばにいる。だから大丈夫。
また自分は嘘をついている、とオービーは思う。あと二週間と少しで夏希は死ぬのだ。本当なら言うべきだ、あなたはあと三週間足らずで死にますと、ロボットとしてそう言うべきだ。
けれどオービーは言わなかった。それは夏希のためを思ってではない。もちろんその気持ちもあるけれど、本質ではない。夏希にそのことを言わないのは、自分がそれほど残酷なのだとこれ以上思いたくないからだ。
さっきあんなことを考えておきながら、この期に及んでも、自分はまだそう思いたくないのだ。
そして、夏希は迷子のような目でオービーを見つめていた。
喉の奥から弱々しく揺れる声、
「──ほんと? ほんとに、ほんとにおこってない? 大丈夫?」
オービーが、怒っていない大丈夫だと答えると、震える息をはき、夏希はぐしゃぐしゃの顔でようやく、
笑った。
オービーは、それが笑顔なのだと信じることにした。
●
パーとグー。
ジャンケンである。なんのジャンケンかといえば、どちらが話をするのかを決めるジャンケンである。
夏希がパー、オービーがグー。
つまり、今日は夏希の番ということになる。何について話すのかといえば、まだ相手に教えていない自分のお気に入りの場所についてである。
夏希は、ものすごくうれしそうに笑って、「ひみつき地こうほ」と表紙に書かれたボロっちいノートを開き、屋上がふき飛んでツタに外壁をおおわれた迷路のような小学校の校舎のことを話し始める。
秘密基地の数は、二十ヶ所に増えた。
夏希はもう、ベッドの上で体を起こすこともできなくなった。
オセロをした。夏希は負けても盤をひっくり返さなかった。勝っても負けても、楽しそうに笑っていた。
あれから一週間がたち、医療コンピュータは冷静に、あと一週間と言った。そして一週間と一日目に、夏希はジャンケンをする前にこう言った。
「あのねオービー、今日は、わたし何をだすか言わない。それで、わたしがジャンケンに勝ったら、わたしのお願いをひとつだけきいてほしいの」
いやに真剣な口調だった。
オービーはわかったと答え、視覚センサーの動体視力とコンピュータの視覚処理野に割くメモリを倍に増やし、左腕のぶんの反射神経処理を右腕にまわし、処理速度を倍にした。本気だった。
ジャンケンに勝ったのは、夏希だった。
夏希は、もう一度あの場所に連れていって欲しいと言った。
トラックの助手席に乗った夏希が、ずっとにこにこと笑っている。
これ以上ないくらいに幸せそうに、傾き始めた太陽が照らす見渡す限りの
オービーは息苦しいほどの違和感と動揺を押し殺しながら、海に向かってトラックをはしらせる。
●
昔話をしよう。
何百年も前の話だ。
その国には、ICAD──Inspection and Concil Agency for Defence──すなわち「国防監査審議局」なる組織があった。表向きには国防省の監査を務める独立第三者機関、ということになっていたが、しかしだというのなら、いくつもの裏ルートを使い、迂回に迂回を重ねて莫大な国家予算を与える必要も、そしてそれを厳重に秘匿する必要もあるまい。
かつてICADが進めていたプロジェクトに、一部でこう呼ばれていたものがある。
WSDP。
White Soldiers Development Project──「白兵開発計画」。
有史以来、人類がその威力をあげることを目的に行ってきた兵器開発は、大量破壊兵器の登場によって終焉を迎えた。つまりはあまりにも威力の上がりすぎた兵器は、実用性という面からその機能を失ったのだ。
そしてそれ以降の兵器開発は、「いかに被害を与える範囲を小さくし、かつ目標には決定的なダメージを与えるか」という点に焦点があてられた。
そこで注目されたのが
比較的高度な知能を持った動物がその研究対象とされ、水面下で国家間の熾烈な研究競争が行われた。
そしてもちろん、その「白兵」の名の表すとおり、人間もそれらの研究対象の例外ではなかった。
高額で人身売買が行われたとする記録もあるが、そのあたりのことは時間の闇と権力の壁に阻はばまれて、あまりはっきりとしない。
ただ、なかには自分の───
いや。よそう。いまさら何を語ってもどうにもならないし、すべては終わったことなのだから。
結局、それらの研究のかいもなく、あの三日間のうちにすべては灰にかえることになるのだから。
●
日が暮れる前に到着できた。
もはや防護服が必要ないことは、ふたりともわかっていた。
水際に並んで腰を下ろし、いろいろなことを話した。
ポシェットのこと。青い壜のこと。オンボロトラックとの馴れ初め。ボウリングをした。あれは楽しかったとオービーは言い、ぜんぜん楽しくなかったと夏希は言った。洗濯物を干すのがうまくなった。オセロはぜんぜん強くなれなかった。駒は投げつけられると案外痛かった。ジャンケンのこと。崖の上からの眺めのこと。足下にまで広がる星空を見た。ふたりだけの秘密基地は二十にまで増えた。
夏希は、いつかふたりで世界中を旅してまわろうと言った。絶対だと約束してくれるのなら、このポシェットをあげてもいいとまで言った。
オービーは約束すると答えた。
このトラックの荷台を改造して家みたいにして、ベッドもつけて、オセロももちろん持っていく。物干し竿もとりつけて、食糧をいっぱい積み込んで、それで世界中を旅しよう。きっといつかできる。そう言った。
指切りげんまんをした。
そして、言葉は尽きた。
目の前の、この世のものとは思えない光景を眺めるほかに、やることがなくなった。
言葉は、不要だった。
日が沈みきるころには夏希の鼓動は止まっていた。
空には、ひとつとして星は現れていなかった。
●
わかっていた。
あのとき、微弱な生体反応を捉えたあの瞬間から、いつかはこうなると自分はわかっていたはずだ。たとえいまこの時でなくとも、何十年後には結局こうなると知っていたはずだ。
なのに、いまのいままで、自分は彼女との時間の先があるなどと思ってもみなかった。いつまでもこの時が続くと信じていた。いつかはまたひとりぼっちになってしまうなどと、考えてもみなかった。
またひとりぼっちになってしまった。
少し前まで、自分がひとりであることも知らなかったのに。
またひとりぼっちになってしまった。
もう自分のとなりで笑ってくれる人はいない。もうトラックの助手席は必要ないし、どこに行くのかを決めるジャンケンもできないし、ボウリングで勝負することもできない。自分のお気に入りのものを自慢する相手もいなければ、オセロもできない。誰ともできない。二度とできない。
そのことがたまらなく悲しい。
またひとりぼっちになってしまった。
いつもそうだ。いつも自分は置いてきぼりをくらっている。三百年前もそうだったし、いまもそうだ。
自分には呪いがかかっているのかもしれないと思う。ひとりぼっちの呪いだ。いまとなっては未来永劫解けない呪いだ。
またひとりぼっちになってしまった。
あいつがいなくなってせいせいした、と思う。
あいつはすぐ怒るし、泣き虫だし、よく食べるし、わがままだったし、自分にきれいな壜をくれた。ボウリングを教えてくれたし、ケンカもしたし、自分のお気に入りの場所を気に入ってくれた。オセロもやった。勝つとものすごくうれしそうに笑って、負けると駒をぶんぶん投げつけてきた。自分に言葉を与えてくれた。自分を孤独から救ってくれた。一緒にいて楽しかった。あれほど楽しいことはなかった。
いなくなって本当にせいせいした、と思う。
またひとりぼっちになってしまった。
OBSVは泣かなかった。泣くことじゃないと思ったし、もともとその機能が備わっていなかった。だから淡々と作業をこなすことができた。
ネット回線で彼女の国の埋葬のしかたが火葬であることを調べたときも、かき集めた廃材で簡素というにも見窄らしい棺を作ったときも、駆けずり回って探した白い花で棺を埋めつくして燃やしたときも、残った灰を壜につめたときも、OBSVは泣かなかった。
どうしても泣けないことだけが、ほんの少しだけ悲しかった。
●
最後の昔話をしよう。
百年前の話だ。
計測の理由は、つまり自分の存在意義は、一二〇年前に失われた。
生き残りの人類との交信は、一二〇年前、自分が稼働してから二〇〇年たつころに途絶えていた。
それでも計測をやめなかったのは怖かったからだ。自分の存在意義だけでなく、存在そのものが消えてしまうのが怖くて自分は意味のない計測を続けていた。
もう二度と、この星を人間が歩くことはない。
彼女は、人類の最後の生き残りだったのだ。
●
せめて約束を守ろうと思った。
それを自分の存在意義にしよう。
秘密基地は、三百九十二まで増えた。
そのロボットは世界中を旅している。
壊れては直すことを六十年繰り返してきたオンボロトラックの荷台には、ベッドやスクーターやオセロや物干し竿や本棚やさまざまなガラクタが、そして助手席には、白いポシェットがのせられている。
ポシェットの中には、紫陽花の押し花とすべすべのどんぐりと奇妙にねじくれた貝殻とまるまったサンゴの欠片と、そして、灰が半分ほどまでいれられた、青い壜が入っている。
不意にトラックがとまった。
見渡す限りの水平線を大陸間高速道路が横切っている。吹き荒れる風の音だけが聞こえている。
広大な夕焼けだった。
エンジンを切って、ポシェットを首から下げてトラックをおり、その光景の前に立ちつくす。
背後から風が轟き、目の前には死にゆく日があった。
ポシェットから壜を取り出し、ひとつまみだけ、灰を手のひらに落とした。たちまちのうちに風に散らされていく。
弔いの行為だった。
人類が滅び、自分が機能を停止しても、いつまでも地球はここにある。この灰もまた地球のあらゆる場所をめぐり、旅して、いつまでも地球とともにあるだろう。
ただ、最後のひとつまみだけは壜の中に残しておくことに決めている。これは誰になんと言われても絶対にかえない。
やがて、吹き散らされた灰は高感度光学センサーにも捉えられなくなった。
壜をポシェットにしまって踵をかえす。
トラックに乗り込み、エンジンをかける。アクセルを踏み込むと、不機嫌そうなうなりをあげてオンボロトラックはゆっくりと発進する。少しずつスピードが上がっていく。
フロントガラスのむこうに果てしなくのびる道を見つめて、ひとりぼっちのロボットは、次はどこに行こうかと考えている。
その目には、助手席のシートの上でぽんぽんと跳ねまわるポシェットが、なぜだか少し、うれしそうに見えている。
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