Mayim Mayim
今はもう、その由来を知っている者もいるまい。
●
UN-SC-079J.yamato-13には、雨が降らない。
ここでは真っ黒な宇宙を背景に、ふたつの太陽が防塵ガラスの向こうに現れる。
ひとつははるか遠くに輝く白い星で、もうひとつはおよそ五〇〇〇キロの距離にある、白い雲に覆われた赤い星だ。ふたつの太陽が現れなかった日は、二百年前から一度もない。
UN-SC-079J.yamato-13は、真っ黒な宇宙に浮かぶスペースコロニーのうちのひとつだ。巨大な円筒形をしていて、側面の半分が防塵ガラス、もう半分が人工陸地になっている。
ここに住む人々はUNの意味も、SCがスペースコロニーを示していることも、J.yamatoが何を意味しているのかも知らない。今はもう、その名前で呼ぶ者もおらず、もっぱら「テート」と呼ばれている。
かつては青かったと言われる眼下の星で暮らしていた自分たちの先祖の歴史も、このコロニーの天気を司るシステムも、遥か昔の戦争で失われた。今ではその存在を知っている者すら少ない。
ただ、子どもに聞かせるおとぎ話として、ここには「雨」の名前が残っている。
●
自分は基本的に迷信を信じていない。
だから、いま頭上に見えているこの赤い星が、かつては青かったということも信じていない。
なのにどうして、自分はいまここにいるのか。
親友である
亜風たちの住む、テートと呼ばれるこのコロニーには雨が降らない。他のコロニーもそうなのか、それともここだけなのかはわからない。他のコロニーとの交流は絶えて久しく、そもそも他のコロニーが存在するということすら、亜風は大人たちから教えられて知っているに過ぎない。
ひょっとしたら、とたまに亜風は思う。
本当は、他のコロニーなんて存在しないのではないか。それは、かつてこのコロニーに住んでいた何者かが寂しさのあまり生みだした幻想ではないのか。
あるいは、こうも思う。
実際に、他のコロニーはあるのかもしれない。こことは違って雨が降る、けれど誰も住んでいる人がいないような、無人の街に雨だけを降らせてぐるぐると回り続けているコロニーが、あるのかもしれない。
何しろ、何もわからないのだ。あらゆる文献は二百年前の戦争の時、敵国の
そしてそのとき同時に、テートの生命維持を司っていたシステムも失われた。
当時はまだこのコロニーのシステムを多少は理解する人たちがいて、破壊されたシステムの一部を復旧させることができたと聞く。けれど、時が過ぎると共にその技術も失われてしまった。そのとき復旧されたコンピュータによってテートはなんとかシステムを維持できてはいるものの、それを理解する人間も、それを記したデータも、もう残っていない。
そして天気のコントロールなどということは、生きるために必要不可欠というわけではない。だから、二百年前のときもテートの天気管制システムは復旧されず、今日まで二百年の間、ここでは一度も雨が降ったことがない。
雫は、雨を降らせたいんだと言った。
亜風には雨というものがよくわからない。雨がなんたるかは知識として知っている。けれどやっぱりよくわからない。
「大昔、あの赤い星が青かったころ、僕たちの先祖はそこに住んでいて、『紙』というものにデータを残してたんだ。『紙』に残されたデータはEMPではきえないんだ」
雫はそう言った。
やっぱり、よくわからなかった。
「だから、ひょっとしたら、それがテートのどこかに残っていて、そこには雨のことが書いてあるかも知れない」
そう雫は言った。
自分は基本的に、迷信を信じていないのに。
そんなものが残されているなどと、これっぽっちも信じてはいないのに。
なのにどうして自分が雫を手伝っているのかが、亜風にはわからない。
●
テートの行政を担っているのは「都議会」という集団だ。
その都議会が定めた条例に「立入禁止区域ニ侵入スルコトヲ禁ズ」というものがある。放射線や電磁パルスの影響が残っているから、というのが建前だ。
馬鹿じゃないのか、と思う。
何しろ二百年も前の話なのだ。二百年たってなおその影響が残るような兵器を使われたのなら、コロニーごと消し飛んでいるに決まっている。
つまり、都議会の本音は別のところにある。
少し調べればわかることだが、立入禁止区域はどこも博物館や資料館といった遺物が残されている場所と重なっている。
だから多分、と雫は言う。
「多分、都議会は僕たちに大昔の技術を知ってほしくないんだと思う」
「なんで」
「テートのシステムをかえないため」
なんだかよくわからない。
「いま、テートはかろうじてシステムを維持できている。でももし、失われたシステムを復旧させようとした誰かが、間違っていまは機能しているシステムも止めてしまったら? それに、そういう技術はまた戦争に悪用されないとも限らない。都議会はテートを平和に保つには、僕たちが無知でいることが必要だと思っているんじゃないかな」
ああなるほど、と思う。
そして同時にこうも思う。
こいつのやろうとしていることは、それだけ危険なことなのだ。
「いいのか」
そう問うた亜風に、雫は頷いて見せる。
「文献をあさるだけならなんの危険にもならない。本当にやるかどうかはその後決める。難しそうだったら諦めるよ」
そして今、亜風たちは甲―第二〇四区画の立入禁止区域にいる。
何が、文献をあさるだけならなんの危険にもならない、だ。
胸の内で亜風は毒づく。
白菊たちに見つかりそうになったのは一度や二度ではない。「白菊」というのは都議会の管轄下にある保安部隊で、その正式名称を「帝都公安維持委員会」という。
が、そんな名前で呼ぶ者は誰もいない。委員が胸につけている白い菊の紋章が、やつらが「白菊」と呼ばれる所以だ。やつらに見つかったときどうなってしまうのかなどということは考えたくもない。知っているのは、白い献花だけを残してテートの闇に消えていった者は数知れない、ということだけだ。
いいかげんうんざりしてきた亜風には一切構うことなく、雫はガラクタの山をひっくり返し、その下から現れた「本」を食い入るように読みふけっている。
もう何冊目になるかもわからない。
最初はよかった。おとぎ話のなかでしか聞いたことのない「本」が見つかるだけで大喜びで、二人で物珍しそうにしげしげと眺めていた。
一冊目では、見つからなかった。
ひどく落胆した雫を励ますようにガラクタをひっくり返した亜風は、そこに大量の「本」を見つけた。
そして、その中からも見つからなかった。
早くも飽き始めた亜風の気を紛らわすようにガラクタをひっくり返した雫は、再びそこに大量の「本」を見つけた。
こうなるともう何のありがたみもない。
完全にやる気をなくした亜風は、しかし帰る気にはなれなかった。この数時間の成果、本の山を見上げる。
実に様々な題名があった。そのほとんどは劣化のために読み取れず、辛うじて劣化を免れた部分も読めない文字が多かった。
亜風も最初のうちは少しだけ中を読んでみたが、すぐにやめた。
内容がわかりづらいのだ。読めない文字が多いのもそうだが、何だか表現がすべてまどろっこしい。もっと簡潔に書けないのかと思う。
題名を眺めるのにも飽きた亜風は、仕方なく雫の姿を見つめた。
雫は食い入るように本に顔を埋めている。
問い。
どうして自分はこいつを手伝っているのか。
友人同士の義理、というのももちろんある。けれどそれ以上に、自分は雫に憧れているのだと思う。
自分はこれまで生きてきて、特にこれといったことをした覚えはない。したいと思ったこともないし、これからもそうだろう。
けれど、こいつは雨を降らせたいんだと言った。
だから、こいつなら何かをなし得るのかもしれない。自分はそれを見てみたい。こんな場所でも、こんな自分たちでも、何かをなし得るのだと信じてみたい。
雫は一心不乱に本を読みふけっている。その姿は、傍らの山と積まれた本になかば埋もれかけている。
溜め息。
やはり無いのかもしれない、と思う。雫が探し求めているものは、ここには無いのかもしれない。
自分はその存在を信じてはいないが、あってほしいと亜風は思う。
そのとき、雫が短く声をあげた。
近寄っていってみると、ある本を開いたまま雫がかたまっていた。その本はこれまでのものに比べると妙に薄く、ページを覗き込めば、これもまた妙なことに横書きで、さらには多くの絵やイラストが挿入されていた。
ひょっとしたら、と亜風は思った。
ひょっとしたら、特別なものなのかも知れない。
表紙を見る。
こう書かれていた。
『たのしい理科』
●
およそ十年の月日がたった。
二人の男が巨大な
先程、テートの中枢システム管制塔へと侵入し、作業を終えて逃走している二人組である。
テート外殻を網目状にはしる空気供給管を走りにはしる。まったく迷いがない。完全に計画的犯行である。
二人組の片方が、背後に公安隊の気配がないことを確認して、しかしそれでも一応は小声でたずねた。
「うまくいったかな?」
もう片方が答える。
「俺が知るかよ」
間もなく、二人の前方には上方へとのびる梯子が見えてきた。駆け上がるようにのぼり、てっぺんについている金属製の格子をはずし、そっと頭だけを出してあたりの様子を窺う。
「菊の野郎は?」
「いない。大丈夫」
素早く地上へと這い上がり、格子を元通りにして再び走り出そうと
ふと、片方が足を止めた。
その視線が見つめる先に、得体の知れないものがあった。
白い。
彼らは、それが、かつて「雲」と呼ばれるものであったことを知っている。
止まっていた足が再び動き出す。
何かに憑かれたように走り出した男の後を、もう片方が慌てて追う。
ようやく追いついた亜風は、降りしきる雨のなか、笑いながら踊っている雫を見た。
そしてそれが、亜風の見た雫の最後の姿になった。
背後に忍び寄った公安隊に最後まで気づかず、亜風は気を失った。
その後、雫の姿を見たものはいない。
●
それからのことについて、少しだけ述べておく。
亜風は結局、それほど重い罪には問われなかった。厳重注意を受け、今回のことを決して口外しないと約束させられて、拍子抜けするくらいあっさりと釈放された。
亜風はそのとき、雫の行方について尋ねたが、その公安官は知らぬ存ぜぬの一点張りで結局何もわからなかった。仕方なく、亜風は自分で雫を探すことに決めた。
最初に向かったのは雫の家だった。結果から言えば、そこはもぬけの殻だった。考えてみれば当然だ、雫は白菊に追われる身なのだから。しかしだったら、雫はどこにいるのだろう。
考え考え、亜風はこう思った。
ひょっとしたら、あいつは何かまた新しいことを企んでいるのかもしれない。
それは実にありそうなことに思えた。だから亜風は立入禁止区域に向かった。
くたくたになるまで、いくつものいくつもの立入禁止区域をめぐって、それでもとうとう雫は見つからなかった。
当てもなく歩いていく。
雫はどこにいるのだろう。
どこかに身を潜ませているのだろうか。ほとぼりが冷めるのを待って、それから姿を現すつもりなのだろうか。だとしてもせめて、せめて自分には連絡を寄越してくれればいいのに。自分は無事だと、それだけでいいのに。
それとも、
不意に、亜風の足が止まった。
いつの間にか見覚えのある場所にたどり着いていた。
降りしきる雨の音があたりを押しつつんでいた、雫が笑いながら踊っていた、亜風が最後に雫を見た場所。
あのときは雫を追いかけるのに必死で、どこをどう走ったのか覚えていなかった。だから、
視線の先。
亜風は、その一点を見つめたまま身じろぎもしない。
道のわき、何のへんてつもない場所に、一輪の白い花があった。
結局のところ、自分はただ逃げ回っていただけだったのだと思う。
亜風は、悟った。
あいつはもう、ここにはいないのだ。
たぶんあいつはもう、どこにもいないのだ。
と。
●
そして、テートには雨が降るようになった。
いつしか雨ではなく「雫」と呼ばれるようになったその現象は今でも時々起こっていて、防塵ガラスの向こうの二つの太陽を覆い隠している。
テートの中に降りしきる雨を見つめて、あいつは雨になったのかもしれないと、亜風はたまにそう思っている。
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