第7話

 黒い目なし帽をまぶかにかぶり、ごわごわ

したオーバーコートを着た男が、先ほどから

谷川岳の切り立った絶壁から下界を見下ろし、

何度もため息をついている。

 彼の目の前には、等身大の透明なガラスが

岩盤の表面にはめ込まれていた。

 「人の母親っていうのは、誰もかれもあん

なふうに自分の子どもの世話をするのだろう

か。すすむが帰って来るまで、寝ないで待っ

てる。しまいには、彼をひしと抱きしめ、涙

をこぼすんだものな。俺がその気になりゃ彼

女の身体なんて、一突きでただの肉体になる

のも知らないでさ」

 どうやら、すすむの母、ひろ子のことを言

っているらしい。 

 時折、ひゅうと吹いて来る風にコートがひ

るがえり、あやうく男は体勢をくずしそうに

なる。

 そのたびに、彼は必死に足を踏んばってこ

らえた。

 春が近づいたとはいえ、まだあちこちに雪

が残っている。

 時折ざざざっと音を立て、白い塊が切り立

った岩肌をすべり落ちていく。

 彼が立っている場所は、幅一メートルもな

い小道の上。 

 足をすべらせたら、まっさかさまに数百メ

ートルある谷底まで落ちて行ってしまう。

 とても古くて、硬い岩盤である。

 いつ誰がどうやって造ったのか、見当もつ

かない。

 とても人間わざとは思えなかった。

 「やれやれ、もうすぐ、本来の俺の住む場

所に帰れるわけだが、今回の任務、完全に失

敗だった。リーダーに怒られるだろうがかま

やしない。ひろ子に負けて本望だ。俺だって、

もとは人間さまだったんだ。ひとりくらいお

目こぼししてやってもバチが当たるまい」

 白い煙が、岩盤のすき間から噴出しはじめ

ると、彼はくるっとからだを入れ変えた。

 しっかりとガラスを抱いた。

 とたんに辺りが暗くなった。

 山の天気は変わりやすい。

 灰色の雲が頂上付近に、むくむくとわいて

きた。

 稲妻が走る。

 谷間に大音響がとどろく。

 ほんの一瞬のことだった。

 彼の姿は、もはや小道の上に見られない。

 あとは、ひゅうひゅう、風が音を立て、通

りすぎるばかりである。


 ここは異界。

 もとの洞窟の中である。

 水晶でできたガラスを通って出て来た彼は

驚きで目をみはった。

 あまりにも、自分の身体が変わっていたか

らである。

 まるで悪魔が洗礼を受けたかのようだ。

 彼の背中に一対の羽が生えている。

 身体の大きさも、人間の子どもくらいにな

っていた。

 彼はおずおずと羽を動かしたが、なんの不

自然も感じない。

 間もなく、空中を飛びまわりはじめた。

 スピードが増し、間もなく洞窟をでたが、外

はまぶしいくらいに明るい。

 どこまでも青空が広がり、ひとつの恒星が

海の向こうに輝いていた。

 異界がすっかり変わっていた。

 「ひろ子とかいう母親の涙のせいだろうか。

そんな力が、目からあふれ出る熱い水にすぎ

ないものに宿っているんだろうか」

 彼はそうつぶやいたつもりだった。

 しかし、彼の口から出た音は、そんな言葉

ではなかった。

 神をたたえる、清らかな歌声だった。

 (了)

 

 

 


 

 


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ヴィアラア 菜美史郎 @kmxyzco

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