第2話

 私鉄のY駅を見下ろす高台に、その少年の

家はあった。

 彼の祖父は、著名な企業の会長。

 実の父は社長である。

 幼い頃から決して生活にこまることはなか

ったが、衣食足りても、ということがある。

 ある私立の中学に入り、二年たった頃から

彼の様子が、以前とはすっかり変わってしま

った。

 それまでは親の言うことを素直に聞き、こ

つこつ勉強していた。

 成績は、平均よりもずっと上、トップレベ

ルを保っていた。

 そのくらい勉強ができれば、普通なら、親

にほめられるところだ。

 だが、彼の家系は天才肌の人をたくさん輩

出していた。

 すすむの心の乱れは、思春期特有のものだ

と、初め、両親はさほど心配しなかったが、彼

の素行がなかなか直らない。

 両親の一番の関心事は高校入試。

 そこが勝負どころと心得ていた。

 ふたつ年上の兄がトップレベルの高校に通

っていた。

 できるものなら、なんとかして、彼にも同

じ学校に行ってもらいたかった。

 だが、たとえきょうだいといえども、まっ

たく違う人間。

 彼はスポーツが得意で女生徒に人気があっ

たから、それなりに中学生活を楽しんでいた。

 兄のようになれ、とむりなことを言われれ

ば言われるほど、彼の気持ちは落ちこみ、い

らいらが増すばかりだった。

 その日、すすむは学校がひけても、すぐに

は帰宅する気にならず、いつも立ち寄る公園

のブランコに腰かけ、悶々としていた。

 時刻は午後五時をまわっている。

 この時刻になると、人はほとんどいなくな

るのだった。

 三月の末であり、冬に比べれば、ずいぶん

陽が長くなっている。

 あたりは、まだ明るい。

 「おにいちゃん、なんだか元気なさそうだ

ね。何かあったのかい。良かったら、おじさ

んに話してみないか」

 ふいに彼の後方で、男の声がした。

 酒でも飲んでいるのか、ところどころ、ろ

れつが回らない。

 他人に気安く声をかけられたことは、今ま

でになかった。

 学校や家庭で、不審者には注意し、決して

心を許してはいけないと言われている。

 彼は後ろをふり向かなかった。

 見えないだけに、ますます恐怖感がつのっ

てくる。

 彼はそれに耐え、素知らぬ顔をしてブラン

コをこぎつづけた。

 男の声はそれきりで、公園はまたもとの静

けさをとり戻した。

 ちゅんちゅんと隣に生えている樫の木が騒

がしくなった。

 あたりがうす暗くなりはじめたが、それで

も彼は家に帰ろうとはしなかった。

 夕方になるといつも、彼に、口やかましく

文句ばかり言う母親の顔が脳裏に浮かんでく

るのだった。

 日はとっぷり暮れた。

 「すすむ、何よ、こんなに遅くまで。塾に

も行かず、平気でぶらぶらしてるんだから」

 彼の帰りが遅いのを心配したのか、母のひ

ろ子が飼い犬を連れてやってきた。

 これ以上、我をとおすわけにはいかない。

 彼は立ち上がると、いっしょに帰ると見せ

かけて、急にかけ出した。

 公園の裏口にいそいだ。

 そこから、彼はそっと抜けだそうとした時、

 「ぼうや、いい所へ連れて行ってあげるか

らね」

 と声をかけられた。

 さっきと同じ声に違いない。

 そう思うと、彼は震えるほどに怖くなり、そ

の場にうずくまってしまった。

 しばらくしても、誰も近寄って来ない。

 彼が顔をあげ、辺りを見まわすと、わきに

あるバラのアーチの下で、見たこともない男

が立っていた。

 花冷えに弱いのか、その男は黒い毛糸の目

なし帽をすっぽりかぶり、ごわごわしたオー

バーコートで身を包んでいた。

 「いいです。ぼく、帰るところなんです」

 すすむは思い切って言った。

 「うそだろ。かあちゃんが迎えに来ても、知

らん顔だったじゃないの。見てたぞ、さっき」

 彼はやんわりしたしゃべり方でこう言うと、

きっとした視線をすすむに投げかけた。

 とたんに、すすむの身体が動かなくなった。

 逃げたいのだが、逃げられない。

 すすむは、なすすべがないまま、ホームレス

風の男に連れ去られてしまった。


 

 

 

 

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