5

 殺される――。


 恐怖に彩られた思考のまま視界が狭まる。

 人は死に際に走馬灯などという、人生の総集を垣間見るとかよく言うけど、そんなもの俺の中には再生されなかった。

 頭の先から爪先、口、鼻、耳。全身の穴という穴まで。何もかもが絶望に満たされていた。


 意識が底知れぬ奈落の果てに落ちていく。

 俺は自身の生が尽きるのを感じた。


 その、――――直後。

 朦朧として消えようとする意識を、この緊迫した空気に笑いが出るほど似合わない平凡なチャイムが――繋ぎ止めた。


 自動ドアの作動音。

 誰か、……きたのか。

 足音はしない。


 だれ……。


 涙と酸欠でかすみのかかった視界。

 だが、俺は、確かに目にしたんだ。


 扉を潜って、カウンターを通り抜け、バックルームに近づく。

 白い靄(もや)のようなものを。


 ふわふわ漂いながら、それはバックルームに入ってきて、馬乗りにされている俺の側にやってきた。

 そして顔の横にしゃがみ込むみたいにじっとそこに留まると、眩い光を放ちながら、靄はゆっくり、人の形へと変化して。



『先輩――』



 暗闇に糸を垂らすような声で。

 涙が再び溢れ出て止まらなくなるくらい懐かしい声で。


『マサムネ先輩――』


 俺の名を呼んだ。

 闇を静かに照らす白い光を纏い、床に投げ出された腕を拾って、大嫌いな俺の下の名前を口にしたそいつは。


「日向……」

『はい』


 数年ぶりに見る、だけど生前とはどれ一つ変わらない、俺の高校時代の後輩だった。


 俺の言葉に傷つき、涙を流した。大雨の日に、あの屋上から飛び降りて、惨い最期を遂げた。


 奴が、そんな奴が、あの頃と同じ笑顔で……、今、俺の前に。


『先輩、おひさしブリーフです。随分見た目チャラくなりましたね』


 にっこりしながら首を傾げて、赤縁の眼鏡が僅かにずり落ちる。


「……お前本当に……」

『先輩のお名前は、袴田 マサムネ、三年二組、A型の、おうし座、野球部で、無敵のエース』


 好きな飲み物は、バナナオレ。


『ですよね』


 こんなことが……あるわけないって、そう思ったのに。伝わる手の温もりが、暖かくて、安心できて。


「お、まえ……っ」


 俺は、それ以上何も言えなくなって、大量に押し寄せる感情の粒を床に流した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る