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間違いない、受話器から耳に入ってきたのは――木下の声だった。
「木下……っ!木下なのか!!」
『マサ……ど、うして…………お前……今どこに、……』
「そんなのこっちが知りたい!なぁ木下聞いてくれ!嘘だと思うかもしれないけど聞いてくれよ!俺、今すげぇわけわかんねぇ場所にいるんだよ……!!」
不思議に思うより先に、これはもう、天から差し出された救いの糸に違いないと、俺は精一杯簡潔に今の状況を説明した。
「頼む助けてくれ!」
無茶苦茶なこと言っているのは重々承知だ。
「わけもわかんねぇ病院に閉じ込められてんだよッ……!わけわかんなすぎて、このままじゃ俺、狂っちまう……!!頼む、助けてくれ!助けてくれよ木下ッ!!」
「…………っ、……マサ……」
長い沈黙。
その後、木下は怪訝そうな声をこちらに返してきた。
何故いつも楽天的で、陽気な奴が、こんなにも沈んだ声で、ローテンションでいるのか。
『お前、…………ほんとうにマサ……なのか』
「っ、は!?な、なに言ってんだ……この声でわかんねぇのか!?」
『……………………うそだろ、……そんな…………』
「木下!!おい……!!」
『…………そん、な……そんなわけない……』
「な、なんだよ……」
『……おまえ……、……誰だ……』
「は、あ……ッ!?」
『やめろよ……そんなはずっ、そんなはずないんだよ……』
「なに言ってんだよ木下……俺だよ……!」
『違う…………、だって……だって……………………マサは、』
――――死んだはずなのに。
『バイクで…………崖に……っ、落ちて……っ!!』
――――死んだだろ。
最後にそう聞いて、プラスチック製の受話器が足元に落ちた。
近くの壁にもたれ掛かり、俺は全身の力を一気に抜いた。
信じられるはずがない。例えそうだとしても。受け入れられるわけがない。
『マサは死んだはずなのに――』
実感なんてわかねぇよ。死んだって感じなんてこれっぽっちもしないっていうのに。
さっきまで全力で抗っていた俺の心は、自分がもう既に肉体を失った死者なのだということを毒に侵されたみたいにゆっくりと受け入れ始めていた。
この息も詰まる重苦しい空気。時折聞こえてくる呻き声や嘆き声。出口さえもない閉鎖された空間。
これはどう見ても現実の世界じゃない。かと言って夢でもない。天国とも思えない。だったら、地獄……、それとも違う気がする。わかることは、あのイかれた医師と木下が言ったように俺はとっくに死んでいるということで。
此処は、あの樹海で命を落とした者達が辿り着く死後の世界なのだ。
前に竹中さんが話してくれた。樹海で死ねば、自ら成仏することはできず。強すぎる霊磁場に縛られ、そのまま一部として固定されてしまう。何年、何十年と進むこともできずに、その場に固定され続けた死者達の末路は……。
「俺も……同じになっちまうのかよ……」
あの場所で、次は別の誰かを引き込もうと、俺も今まで見てきた恐ろしい怨霊達と、同じに……。
そう思った時、右目の痛みが跳ね上がり、目の奥から泥のように黒い液体が溢れ出して。再び襲う激痛と止まらずにこぼれ落ちていく黒い液体に恐怖して俺は叫んだ。
痛過ぎて目を開けていられない。
半分になった視界でこの時悟った。
このままでは自分が自分でなくなる。既にこの世界は俺を取り込もうとしているのだ。
「日向……」
きっとこれが日向の望む結末なんだと思うも。俺はそれをこの期に及んでまだ真正面から受け止めきれない。
これは罰、人一人を死に追いやった、罰。否定はもうしない。けれど、……くやしい。あまりにもやるせなさすぎる。
このまま失意のうちに悪霊となり果て、なにもかも忘れ去るのが。自分が何者だったのかも思い出せず、別の人間を呪うためだけに存在する……。
それよりも。
なにより悔しいのは。日向とまともな言葉を交わせないまま、終わること。
せめて、一度だけ。
日向と話ができれば良かった。
あいつの恨み言を、ちゃんと自我のあるまま聞いてやりたかった。
「は……、それは……言い訳だよな、ばか……」
……そうだよ。都合のいい言い逃れだ。
俺は今まで何度も、あいつから逃げてきたじゃないか、恐怖に負けてあいつを直視することを避けて、向き合ってこなかった。チャンスはあったはずなのに。なにをしようとしても今更過ぎる。でも……、だとしても。このまま終わりたくはない。終わっちゃいけないだろ、このまま。過去と、日向と向き合う。これが最後のチャンスなんだ。
もう逃げはしない、拒みもしない。散々逃げ回って、目を反らしてきたんだ。最期ぐらい格好つけたって、誰も笑いはしないだろう。
俺は此処にいる。日向、来いよ。
俺にとどめを刺しに来い。全部受け止めてやる。心の中で呼びかけて、遠くから響いてくる日向の足音に耳を傾けながら俺は目を瞑って、日向を待った。
◆◆◆
「……ここ、は」
全ての覚悟を決めて、再び瞼を持ち上げれば、俺はナースステーションでも病室でもない。見慣れた個室の中にいた。
真っ暗な部屋、テレビのモニターだけが照らす、使い込んだ灰皿、ロッカーに、二つだけある丸椅子、小さいデスク。
バックルームだ、コンビニの。
ゆるりと首を持ち上げて、防犯カメラのモニターを見る。画面には、真っ暗なバックルームが映っていて。壁にもたれかかる俺と――。
出入り口に突っ立ったまま動かない、日向が映っていた。
「……来たのか」
血を床に流し、前髪の間から血走った目を見せる日向に、待っていたとばかりに声をかける。体は勿論震えていたが、視線だけは反らさない。しっかり見るんだ、見ろ、絶対に目を背けるな。
「久しぶりだな」
痛いぐらいの恐怖が体中を駆け巡っているにも関わらず、俺の口から出てくる言葉は怖いぐらい冷静なものだった。
俺をじっと見据える日向の姿を目に焼きつける。艶のあった髪はぼさぼさに乱れ、唇の皮は剥けて、肌は青白い、額から首にかけて何本もの紅い筋が伝っている。セーラー服は雨水と血液でぐっしょりと濡れて、指先の爪は割れていたり、爪と呼ぶものすらもついていないものもある。左右の脚は当たり前のように不自然な方向を向いて。硬いコンクリートに叩きつけられた皮膚や肉は、……。
……だめだ……これ以上は、言えない……。惨すぎて、言葉に言い表せない。
死んだら痛覚なんてものも忘れてしまうのか。見ているだけでも痛くてこちらがどうにかなってしまいそうな悲惨な姿をして、日向は苦しみ呻くことさえもせずに俺を見下ろす。
あの日から、これまでずっとお前は、そんな姿のままでいたっていうのか。
なあ。日向。俺がお前を記憶の隅に追いやってのうのうと生きている間も、一人で、成仏もできずにずっとずっと。
「日向」
この世界に留まってきたっていうのか。
「……いたい、よな……苦しいんだよな、……そうだよな……」
そんな格好で、苦しくないなんて、嘘だ。
「もう、いい……もういいよ、日向……そんな格好しなくていい」
あんなに明るくて、素直で、みんなの中心にいて、いつだって真っ直ぐで、正しくて。優しかったお前が。
そんな姿のまま何年も――。
お前はそんな顔じゃなくて、もっと馬鹿みたいな声上げながら、笑っているべき人間なのに……。その笑顔をあの日俺が奪って、泣いている日向をそのままにしたから。
俺がお前をそんな姿にしたんだよな。
「わるかった……、ほんと…………ほんとに、最低だったよなぁ……俺……っ……!あの時、お前の話、ちゃんと聞いてりゃ、こうはならなかったんだよな……っ」
言った瞬間、両目から溢れる涙を止められなくなった。
「最低野郎だよなぁ……っ!」
生前の面影すらない日向を改めて前にして、俺はその悲惨さと、自分がしでかしてしまった取り返しのつかないことへの後悔に、後はもう言葉を詰まらせて泣き言を並べることしかできなかった。
謝ったって許してくれるとは思わないし。許してくれなんて言わない。
なあ、日向。
「なんか、言ってくれよ……俺に言ってやりたいこと、沢山あるはずだろ……」
日向はなにも喋らない。
「それが済んだら殺せよ、どんな惨い殺し方だっていい……だってお前は屋上から飛び降りたんだもんな……それと同等の苦しみだって受けてやる。いいんだもう、遠慮すんなよ…………今度は逃げねぇし、怖がりもしねぇからさ」
日向はなにも喋らない。
「だからもう」
涙が次から次へと流れる。
「そんな姿でいるな……」
もう一度笑ってくれとは言わないから。
「俺を殺して……成仏してくれ」
なにも言わぬまま、日向はゆっくりとした足取りで俺の前まで来ると、細い腕を伸ばしてきた。
俺の首に――。
「っ、ぐぅ……!」
冷たすぎる指が絡まり、気道が締まる。凄い力で爪が食い込んで、次に日向は全体重を俺に委ねてきた。後頭部を壁に擦りつけ、されるがままに床に倒された。日向が俺に覆い被さり、長くて血生臭い髪が顔にかかる。歯がカチカチ勝手に鳴る。
「っ、ひゅう……が」
俺に跨って首を絞める日向の口から、泥みたいな血みたいな冷たくて黒い液体がどろりと零れて、それが半開きになった俺の口の中に流れて落ちる。思わず咳き込めばより強く締めつけられて苦しさが増した。
これまで生きてきた中で感じたこともない例えようもない最上級の苦しみ。
「っ、う――!!」
いつまで経っても俺の意識は霞むことはなく、苦しみは続くばかり。抵抗することを許さない腕は床に爪を立てて堪える。
…………そうだよな。簡単に殺したら、だめだよな。
お前は俺に、自分の苦しみをこれから味合わせるんだよな。この数年間積もりに積もった怨みも。
「ひゅう、が……わる、かった」
涙で滲む視界、さっきから頬には冷たい筋が伝いっぱなしだというのに。
「わるかった……わるかった、な……っ」
俺の口は性懲りもなく同じ言葉を吐き続けた。こんなに近くにいるのに、言葉も、気持ちも、日向の心には届かない。
あの時と、全く同じだ。日向、お前もこんな気持ちだったのか。自分の言葉が相手に届かないって……こんなにも辛くて、痛いことなんだな。
日向の怒りと悲しみとを身を持って理解した俺は、受けるべき罰を与えられた気持ちになって、汗と涙を流しながら口元を緩ませた。
いいさ。俺も嫌な思い、お前に沢山させたんだから。
「お、れ……っ、ほんとは、…………なんとなくっ、きがついて……たんだ」
泣きながら、首を絞められながら、笑みを作る。
「おまえがっ、……いつも……なにか…………おれに……言おうと、してた、こと……」
俺につき纏う日向が、いつもなにかを言おうと迷っていたこと、なんとなくだが知っていた。平気な顔して笑ってても、俺の後ろに来るとなんかそんなソワソワした雰囲気出して。俺、そこで振り向いて、なんだよ、なにか言いたいことあんの?って、聞いてやりゃ良かったんだよな……。
「おまえの……はなしっ、もと……ちゃんと、まじめに……きいてやりゃ……っ、よかっ、たな……ごめん、なあッ……、俺ほんとは……こころ、んなかで、っ、お、まえの、こと……」
いい奴だって認めてたのに。
これから先も、いられたら楽しいだろうって……思ってたのにさ。
それを口に出すのが、なんか自分じゃないみたいで。恥ずかしくて……。
お前を、遠ざけるようなことばっかり……。
「じぶん、かってで、……すまなかった……」
言えば言うだけ情けなくなる。この時でさえも俺は、日向の納得できるようなことすら言えず、かつての自分を悔やむだけ……。
「こんなこと……いったって……おまえの、きもち、……はれないよな…………」
生きている時も、死んだ今も、何一つしてやれない。泣き言ばかり口にして、俺はどうやら、最期まで身勝手な人間で終わるみたいだ。ようやく意識がぼうっとしてきた。流石にもう声も出せそうにない。
そろそろ…………か。
……。
…………。
………………。
あ、れ…………。
考えることをやめ。苦痛に全てを委ねようとした、まさにその時だ。
欠片ぐらいしかなかった、違和感とでも言えばいいのか。最期に、日向の顔を見ようと目を見開いたら、その違和感がじわじわ瞬く間に広がって。
確信というものに変わった。
俺はとんでもなく、今更な、そして信じられない事に、初めて気づく。
どうして、この時に。
俺は気付いてしまったことに、数瞬ばかり後悔を覚えた。
それを頭の中で一つの言葉にしてしまうことこそ恐ろしいことはなかった。
こいつ、日向じゃない――。
有り得ないことだと思った。
目の前で俺を追い詰めるこいつは、確かに見た目もなにもかも、日向……日向のはずなのに。
違う……違った。99%こいつは日向だが。残りの1%がそうではない。その残り1%の部分を俺の心臓が違うと否定した。
違う。
疑いという半端な気持ちなんてなくて、頭ははっきり断定していた。
覆い被さるこいつが、日向とは全く別の存在だということを――。
本物の日向だったなら、こんな気持ちにはなりはしないはずだ。
俺はゆっくり瞳に瞼を重ねて、死を受け入れたはずなんだ――。
誰だ。
誰だ、こいつは。
誰だこいつは。
日向じゃないなら……。
誰だって言うんだ――。
知らない。こんな奴俺は知らない。
指先に入れようとしても少しも力は入らない。
目の前の唇が、怪しく弧を描く。
誰だ、誰だよ。
誰だよ。こいつは、誰だ、なんなんだ。
俺は…………今まで、誰から逃げてきたんだ。
誰を恐れ、誰に謝罪し、誰に涙を流した。
誰に苦しめられていた――。
俺が今まで――、してきたことって――。
なんだったんだ――。
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