4

「っ、竹中さん――!!」


 涙の膜が瞳に張る。微かな希望を感じてハンドルにかけていた両手をもう一度握り直す。

 正気を失ってしまった俺は涙目になりながら相手の名を大声で呼んだ。

 それをただ事ではないと悟ってくれた竹中さんは、冷静さを纏った声で直ぐになにがあったのかと訊いてくれた。


「俺、い、いま!夜勤で、ひと、りで!!」


 声が言葉になる前に出てくる。

 なにを言えばいいのか、どこから話せばいいのか。焦りが焦りを連れてくる。


「そしたら!あいつ、が!!」


 話の筋が全くこれでは読めないだろうに。とは言え本当にそれどころではないのだ。振り向けば、あいつは俺の後ろにいるはず。一瞬で背後に移動したのだ。バイクでも振り切れないかもしれない。


『落ち着いてください』


 これが落ち着いていられるわけがない!


『袴田さんが落ち着かないと、俺もどうすることもできません』

「っ……!」

『まずは落ち着いて、ゆっくりでいいです、なにがありました、今はどこにいますか』


 炎上する焦りに水を被せるような優しい声。一言一言、はっきりと喋ってくれている。

 俺はそこで大きく息を吐き、吸って。深呼吸をした。腹に力を込めて、失いかけていた正気をなんとか手繰り寄せた。

 恐怖で加速する呼吸までは完全に抑えきれず、声をところどころ裏返らせながら俺は現状を精一杯伝える。


『日向さんが……、そして今はコンビニの外にいるんですね』

「今、トンネルを、っ、過ぎたあたりを!」

『トンネル……』


 どうすればいい。俺はなにをしたら。

 竹中さんの指示を待つ。


『……袴田さん、今すぐ、ブツッ――してください』


 えっ――。


『そのままだと大変、ブツッ、です、早く、――ブツッ、してください』

「竹中さん……、あのすみません、もっもう一度言ってください!」

『そのまま、ッ――、すると――プツ――、なので』


 な――。

 携帯の画面をさっき確認した時にはちゃんと三本立っていたはずなのに。声におかしなノイズが混じって肝心なところが聞こえない……!?

 竹中さんは俺になにかをしろと言っているのに、その部分が聞き取れない。マシになっていた焦りに再び火が着く。


「竹中さん!もしもし!?」

『もしも――ブツッ』

「なんかっ、携帯、おかしくて、うまく聞こえないんです!!」

『ブツッ――田さん、今、――ツッ』


 ノイズが……どんどん酷くなっていく。


『袴田――、さん、プツ――、俺はこれから――、さんに、ブツツッ――します、だから、――ツッ、さんは――して、ともかく――ブツ』

「た、竹中さん……!!」

『落ち――ツ、袴田さん、――、その人は恐らく――ブツッ、――――。あなた――ブツッツ――、のはず、だからまず――プッ――、してください、早くしないと――ブツッ、ブツッ』


 早くしないと――。

 まずいのはわかってる、でも、これ、ちょ。マジでどうすりゃ――、


『は、――か、――ださ、――はや、――、く』

「あッ、ちょっ、たけなかさ、っ!!」


 正面から風を受けながら、冷えていく汗を感じながら。ズザザザザッ――。と酷くなるノイズに負けないように、せめて、せめてこの声を少しでもと、俺は喉を潰す勢いで喚きまくる。

 竹中さん、竹中さん、どうすればあいつを、日向を、止められますか。俺は――。


「このまま何もできないで、死にたくないんです――!」


 俺の声は、どれくらい。

 向こう側の竹中さんに届いただろうか。


『袴、田さん、バ――、め、――ッ、ブッ、ブツン、……ツーツーツーツーツーツ――』


 ハンドルに引っ掛けられたストラップと共に情けなく揺れる携帯電話。今一番聞きたくない音が。温もりもない電子音が。耳元に延々とループする。


 きれ、た。

 きれた。


 切れた。


 切れて、しまった。


 唯一の命綱が、頭の中で音を立てて、千切れた。


 希望も救いも、全部、消え失せ暗闇の彼方へ飛んでいった。頭だけじゃない、全身が、真っ白に染まる。

 その時ブチンとストラップの紐が切れて、携帯がコンクリートの地面に叩きつけられた。俺はそれに止まりもせずに、風を受けて走り続ける。速度を上げていく。


 違う。


 止まれないのだ。

 止められないのだ。


 バイクを、止められない、速度も、落とすことが出来ない。体が。

 体が腕が、がっちり固定されたみたいに動かないのだ。

 そのはずだ。

 目線を手元に落とした時、体の自由が突然利かなくなった理由が、わかった。

 俺のハンドルを握る両の腕に、無数の白い腕が重なって。ハンドルを切る邪魔をしているのだから。痣ができるんじゃないかと思うぐらい、力強く掴まれて。血の流れが止まる感覚。

 腕、だけじゃない。

 ペダルを踏む足にも、悲鳴を上げようとする喉にも、同じ苦しさが……。

 俺は全身、白い腕に纏わりつかれながら、バイクを走らさせられていた。


 嘘だろ、嘘だろ、嘘だろ、嘘だろ、嘘だろ。

 嘘だ、嘘だ。

 嘘。


 目尻に溜まった涙が後方に飛ばされていく。

 そして――。


「せ、ん、ぱい」


 前方には白目を剥き出して、両手を広げ。俺を待つ日向。


 だめだ、避けきれない。

 突っ込む。


 次に耳にしたのは、日向の声でも、人を撥ねる生々しい音でもなかった。

 耳に入ってきたのは。

 鼓膜が破けるぐらいの、凄まじい音。とてつもなく硬くて強いなにかが、破壊された音。爆発音のようにも聞こえた。


 前方に投げ出される体。やってくる浮遊感。


 ジェットコースターの落ちる瞬間のあれと、まんま一緒だ。


 俺は、鉄板で補強された白いガードレールに、真っ直ぐに突っ込んだ。突っ込んだまま、補強諸共ガードレールを突き破り。その場に凄まじい音を響かせて。


 バイクごと、垂直に崖に投げ出された。

 それを全て把握した時には、もうなにもかもが遅かった。



『バイクを……!今直ぐ停めて下さい、袴田さん――!!』


 ああ、竹中さんは、あの時。

 俺にそう警告していたのか。


 聞こえるはずもない、竹中さんの悲痛な叫びが聞こえた気がしても。

 もう、遅い。


 暗闇に放り出され、吸い込まれるように堕ちていく俺が最後に見たものは。



「せんぱい……これで……、おそろいだね…………」


 ミラーに映った。俺の首元にしがみついて笑う日向の顔だった……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る