3

 長く垂れ下がった黒髪。膝丈まであるスカート。

 間違いない。


「ひゅ、う、が……」


 そこにいる。すぐそこに。

 扉一枚隔てた先に、日向が。


 吐き気すらももよおす寒気。モニターに映った小柄な女は俯いたまま、扉とさして距離のない、真ん前に立っていた。

 べちゃっ、びちゃっ。と、水とは思えないものが落ちる音が、扉の向こうから聞こえてくる。


「せんぱい――」


 そう、今にも呼ばれるんじゃないかと俺は耳を塞いでその場に縮こまる。

 樹海の時と同じだ。意識が飛んでいってしまいそうな恐怖に、視界がぐらつく。日向が、ついに俺を迎えにきたんだ。俺を、殺しに来た。


 向き合わなければならない、あいつを成仏させるのは俺の役目。

 心の中で大見栄きったところで、結局いざと言うとき勝るのは――“恐怖”なのだと思い知ったのがこの時。


 怖い。いやだ。殺されたくない。いやだ。死にたくない。

 俺は――。

 日向に、このまま殺されたくない――。どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする、どうする――。


 追い詰められたら人間というのは、こういう場合、死に物狂いで生にしがみつこうとするらしい。俺は自分に引くぐらい、この事態をなんとかして回避することを考えていた。日向と接触して、どうにかこうにか、奴の怨みを受け止めて、奴を行くべき場所に行かせてやれれば……。そんな都合のいいシナリオを頭の中で思い浮かべていたが。そんな簡単に丸く収まるわけがない。俯いたまま無言で扉の前に立って、俺が外に出てくるのをじっと待つその姿から、醸し出す物々しさから全てを悟った。


 話なんか、通じるわけがない。


 きっと俺が出ていけば、日向は間違いなく俺に飛びかかり、俺を――。

 殺すはずだ。


 竹中さんが言ったように、やはり日向をなんとかするには、死ぬ覚悟が必要だったんだ。

 どうする。

 俺は今一人だ。

 どうする。

 けど、一人でも、この事態をどうにかできる人を知っている。

 どうする。

 このままここで、大人しくとり殺されれば日向は満足するのか。満足したとしても、それが成仏に繋がるのか。どうなるのか想像もできない。どうすればいいのかも。

 なら、だったら……。足掻いて、足掻いて。日向を救える術を知っている人に、助けを求めるしかない。

 あの人ならば、今の俺に確実な助言をくれるはず。もうなりふり構っていられない。死にたくない。だけど、日向も救いたい――。


 どこまでいっても身勝手な俺は一世一代の賭けに出た。

 外に出るには、この一枚の扉を突破する他に道はない。開けたら一目散に走れ。何を見ても、日向が襲いかかってきても。何もかもはね飛ばす覚悟で――。


 走れ――!!


 鍵を開け、ドアノブを勢い良く回したら、俺は目も瞑らずに扉を開け放った。壁に激突するぐらい強く開いた扉。つんのめった体。俺は息を飲んで目の前の状況を視界に入れた。


 いない――。

 日向が、いない……。えっ…………。


 確かにいた。モニターに映っていた、ここに、カウンター内にいた日向が、いない。


 店内を見回しても、日向は、セーラー服姿の小柄な女は見当たらない。

 天井にも視線を送る。

 い――。


 いない……。


 ……嘘だ、だって、さっき。

 み、見間違い、だったのか……。そんな、そんな、はずは……。

 走ることも忘れて俺は目を泳がせまくった。店内、天井、足元……。


 そして。もう一度。


 防犯カメラのモニターに、目をやった。無意識に。


 あ、ああ。あああ。あ――。


「ぁあぁああぁあ゙ッ――!!」


 ――いた。

 日向は。

 いた。

 モニターに映っていた。

 立っていた。

 俺の――。


 すぐ、真後ろに――。


 指を伸ばせば触れられる、それぐらいの距離に――。


 背後から捕まえられる――。瞬間的に感じた俺は、カウンターに体をぶつけ、転がるように店内を走り抜け、外に飛び出した。

 しっかりしない足腰で何度か転びながら、自分のバイクに勢いよく跨る。背後は振り返らない。振り返れるわけがない――!

 ゆっくり店の奥から出てきて、こっちに近づいてくるのが音で分かる――。

 声にならない叫びを上げながら俺は鍵穴にキーをぶち込んで、力いっぱい回した。


「っ、おい……!!」


 嘘だろ。こんな時に限って、エンジンが――クソっ!!

 嘘だ、ちょっと、待てよ、頼むよ……!クラッチレバーを握って、何度もスタートボタンを押しているのに……エンジンがかからない、かかってくれない!冗談じゃない――!こういう展開のお約束とでも言いたいのか!!タイミングが悪すぎる、ふざけんな、この野郎、かかれ!!


 焦るなんてものじゃない。体中の臓器が弾けてしまいそうだった。


 生々しくも不気味な音と、折れ曲がった足を引きずる音が、自動ドア付近までやってきた。

 頼む、頼む頼むよ!かかれ!かかってくれ!!


「かかれよォオ!!」


 汗に塗れた指は、性懲りもなく何度もボタンを押す。

 そんな俺を嘲笑うかのように、エンジン音は途切れて一向に繋がらない。

 かかれ!かかれ、かかれ!!頼む――、畜生――!!

 エンジン音がまた途切れた時、こめかみに一筋の汗が伝った。


 ああ、気配がもう、そこに。だめだ、もう。

 逃げられ――。


「うわぁあああああああああああッ!!」


 心の底から絶叫して、思いが通じたのか。

 エンジンが……かかった!

 ボボボボ、と繋がった音を聞いて、俺はもう思い切りアクセルをふかせて発進させた。ハンドルを力強く握って、真っ暗な車道を照らしながら、全速力で樹林をぬうように走った。……そして!


 スピーカーモードにセットしていた携帯、電話帳のた行欄の五番目。あの人の名前。強く祈りながら、震えが止まらない指先で通話ボタンを押し、ハンドル部分にストラップを引っ掛け、前を向いた。

 目の前に広がる暗闇と、馬鹿でかい呼び出し音が俺を更に焦らせていく。

 ……出てくれ、出てくれ、お願いだ……!!


 神にも縋る思い。

 頼みの綱はもうこの人しかいない。

 もしこれで繋がらなかったら……。そう思うとハンドルを握る両手から力が抜けそうになる。

 ループし続ける呼び出し音を何度聞いたか。



『――はい、俺です』



 長い長いコールが切れ。遂にその人の声が携帯から響いた。

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