第14話 沈む

1

 血塗れになって四肢を地面に投げ出した日向を見下ろしているところからいつも始まる。



 体中から出る尋常じゃない量の汗。呼吸はもうずいぶん前から浅くて苦しい。

 心臓をナイフで真っ二つにされたんじゃないかってぐらいの痛みさえ感じそうな衝撃。


 屋上の手すり越しから、俺は飛び降りた日向を見ている。

 潰れた蛙みたいな格好の日向は、コンクリートの上でひくひく動きながら大量の血のプールの中に浮かんで、それでも眼だけはぎょろりとして、俺の方を向いていた。



 今にも叫び声を上げて此処から逃げ出したいのに。

 俺の手は手すりを掴んで離れない。

 体は前のめりの状態のまま動けない。


 代わりに情けない呻きが口から出でてくるだけ。


 と。


 真横に立つ存在に気がつく。

 眼球だけを動かしてその存在を確かめる。



 日向だった――。


 飛び降りて自殺したはずの、日向。

 長い髪を風になびかせ、動けないままの俺に目もくれずに、奴は手すりに手をかけよじ登り、手すりの向こう側に降り立つ。


 そして。


 上履きを履いた足を、屋上の縁に乗せ。

 両手を広げてそのまま前に倒れ。


 俺の目の前で、再び飛び降りた。


 柔らかいものが落下して、無惨に潰れた音が続く。

 俺の視線はまた勝手に動いて、真下にいく。

 新鮮な血潮ちしおを流していく日向の死体と、目が合う。


 俺は呻き声を上げ。

 そしてまた、真横に日向が立ち。

 また同じ動作で。



 飛び降りる。


 繰り返し、繰り返し。

 延々と。


 日向は俺の前で飛び降りるのをやめない。

 真っ青な空に向かって、手を広げて。


 落下して。

 赤い海の中に沈む。


 99回目か、100回目か。

 とうとう俺は発狂する。


 もうやめろ。

 やめてくれ。


 たのむ。

 やめろ、やめろ。


 やめろ、いやだ。


 もう、見たくない。


 もう、もう――。


 嫌だ。


 そう思っても、視線は勝手に下がっていく。

 真っ赤に染まった日向の死体。



 いや――。

 ちがう――。


 あれは。

 あの時のっ……。


 見覚えのある女性の顔。

 真っ白で、口からごぼごぼ血を流して。

 恨めしそうな顔で俺を見て。



 最後にこう言う。



「いっしょに、き、て」




 気が遠くなるまで俺は絶叫した。






「あ゙ぁぁああああぁぁ゙ぁぁあああ!!やめろやめろやめろ!!やめろぉおおおおおおおお!――!!」



 突き抜けるような自分の叫びで目が醒めた。

 続けて下から上がってくる大家さんの怒号。目の前にあるのは見慣れ過ぎたオンボロアパートの汚い染みだらけの天井。


 ああ……。ああああ……。


 変な声を漏らしながら俺は両腕で顔面を覆う。

 はふはふと口から鼻の穴から熱い息を吐き出していく俺はようやく悪夢から抜け出せたことに安堵しながら体を派手に震わせていた。

 呼吸が整わなくて、まだ苦しい。もう何度も何度もあの夢を見ているっていうのに。


 夢の中では夢とさえ思えない。

 うなされて、目が醒めた時に初めて夢だと認識できるのだ。

 学習するかと思いきや、本当に毎回このパターン。

 だが夢だと思えないのも無理もないのかもしれない。

 何もかもリアル過ぎるのだ。

 悪夢の中に出てくる日向の死体……。流れて止まらない赤色……。


「っ、く……うぐ」


 思い出すと喉の奥から胃液が込み上げてきそうで。俺は布団から逃げるように這い出した。

 眠気じゃないどっしりとしただるさを背負って、壁に手をついて、洗面所に向かう。


 頭がくらくらして体中が熱い。

 夏だから暑いのは当たり前って……、そうじゃなくて。なんか体の中に熱が籠ってるっていうか。

 まあここ最近こんな調子だから、別に騒ぎもしない、もう慣れた。

 頭部を掻けば汗びっちょりで、体中がベタベタだった。


 ……あれ。

 俺……戻ってきた時着替えたっけか。

 ていうか、何時に帰ってきたっけ。

 なんか記憶があやふやだ……。


 鏡の前で血色の悪い顔を見ながら、蛇口を捻って水を出す。

 昨日は夜勤入ってたはずだけど、なんか、……はっきり思い出せない。


 あ――。


 両手に水道水を溜めて、その中に顔面を沈めようと思ったその時。

 ふわっと頭が軽くなったと感じたら、そのままよろけて、視界がぐるんぐるん回り始めた。


 遊園地の回転式絶叫マシーンに乗せられて、上がどこだか下がどこだか、左右?なんだそりゃ、って感じ。


 そんな感じの。

 容赦ない眩暈めまい――。


 あ、やばい――。これ、後ろにぶっ倒れる……。


 回る視界に加えて、頭部が真後ろに傾いて、そう確信した。

 ここの床薄くって、ぶっ倒れて音立てたらまた大家さん怒るだろうな。

 なんて呑気な考えしか出来ない俺は、きっと脳ミソまでとろけていた。


「っ、……と。大丈夫ですか」


 やばいとは思っていたけど気力が追いつかなくて受け身も取らずにそのまま重力に従って倒れようとしていたら。


「……袴田さん」


 焦りを含んだ声と共に、ナイスなタイミングで後ろから支えられた。


 熱でおぼろげになる意識の中、女の子だったら間違いなく聞き惚れそうなイケメンボイスのする方向に眼球を動かしたら。

 ここに居るはずの無い人物が、俺のことを心配そうな表情で見ていた。


 また夢かよ。と思い目を閉じた俺は二秒後にその顔をもう一度見直した。


 夢じゃなかった。本物だった。

 猛暑日真っ盛りの昼過ぎ。

 何故か俺の自宅の脱衣所に竹中さんがいて。


 びっくりし過ぎて軽く意識が飛びかけた俺は、もう完全に駄目だと思った。



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