亜弥乃 その三

「あれ、高月たかつきさん、まだいたんだ」

 放課後の、誰も居ない教室。

 今朝は母の機嫌がとても良くて、平和だった。それは良いことなのだが、こういう日は大抵夕方にその分荒れる。

 だから家に帰りたくなくて、考え事をしながら席に居座っていた。

 そこに突然教室のドアが開いて、声をかけられて、私は驚いた。

「…あ、うん」

 声の主は、星さんだった。

 私は顔を伏せ、頷く。

 元々人と面と向かって話すのは苦手だし、星さんのことを考えていたところだったから、彼女の顔をまともに見ることができない。

「珍しいね。なんかしてた?邪魔したかな」

「…別に」

 星さんは教室の中に足を進め、私の斜め前の席の机にもたれ掛かる。

「…」

 暫しの沈黙。

「なんか新鮮だな」

 星さんは不意に噴き出した。

 何か馬鹿にされたのかと思い、顔を上げて彼女を見る。

「高月さんとゆっくり話したことなかったよね、そういえば。だから二人きりで居るのが新鮮」

「そう」

 私は短く答える。

「ずっと話したかったんだよね」

「え…」

 どうして。というか、星さんが私の事を知っていることに驚く。

 息を潜める様にして独りで生きている私と、自由奔放に生きて周りに人が絶えない星さん。

 交わる事のない人生を生きている。

 それなのに、彼女が私の存在を認識していることに驚いた。

 もしかして、彼女から見た私は、私が感じたのと同じようなものを感じるのだろうか。

「なんかさぁ、おんなじニオイがするっていうか」

「え」

 星さんの言葉に、私はドキリとした。

「どんな…におい?」

「自分を傷つけたくてしょうがないってニオイ」

 想像していたのとは少し違った上に、秘密を暴くようなその言葉に、私の胸は更に心拍数を上げた。

「あたしはさ、自分の身体を人に好きなようにさせて、汚して、それで何かを保ってた」

 よく男子が噂をしていた、あの事だろう。

「そうだったんだなー、っていうのは最近気づいたんだけどさ。…ねえ、高月さんは?」

「え」

「どこをどう傷つけているの?」

 太股が疼く。

「一時期、高月さんの腕に傷が残っていた時あったよね。あれを見てさ」

 星さんは自分の手首を押さえて、笑った。

「試しにやってみたけど、危ないよねアレ」

 私は彼女の言葉に動揺し続けていた。

「クセになっちゃいそうで、ホント危ないから、一度でやめたよ」

 一度だけ作ったあの傷を見られていたことも驚いた。

 彼女も試したということにも驚いた。

 クセになるという気持ちも、とても共感できて、そんなことを彼女が言い出すことに驚いた。

「代わりに、更に自分の身体を大切にしなくなって、色々な人に差し出し続けたよ。…ねえ、高月さんは?『今は』どこを傷つけているの?見せてよ」

 彼女の言葉は呪いのように。そして何かの呪文のように。私の脳に響く。


「へえ、すごいね」

 夕陽で紅く染まる教室。

 私は机に座り、足を開いて星さんに太股を晒していた。

 誰かに見られたら、あらぬ誤解を受けそうだとドキドキする。

「段々傷が深くなってる。こっちとそっちで傷の酷さが違うね」

「…っ」

 太股をつつかれて、痛いようなくすぐったいよな奇妙な感覚に身を捩る。

「高月さん、亜弥乃あやのって呼んでもいい?」

 私の太股を覗きこんでいた星さんは、顔を上げて私のめくれたスカートを直しながら言う。

 私は無言で頷いた。

「ありがと亜弥乃。あたしも奈々でいいよ」

 母親以外に下の名前で呼ばれるなんて何年ぶりだろう。不思議な気持ちになった。

「亜弥乃さ、今日うちに泊まりにおいでよ」

「え、でも」

 母がなんて言うか。寧ろ母になんて言おうか。泊まりに行くこと自体は嫌な気持ちはしなかったけど、許しをもらえるかがわからない。

「だめ?」

「あ、あの、いや…その」


「ホント突然申し訳ありません!無理矢理誘っちゃって悪いなーと思ってるんですけどー、どうしても来てほしくて。亜弥乃ちゃんは責任もって預かりますんで」

 星さん、いや、奈々は私の横で明るく笑って電話をしている。

 相手は私の母だ。

 あの後、母になんて言ったらいいか自信がないと伝えたところ、奈々は直接母に電話で外泊の許可をお願いしていた。

「ありがとうございます!…あ、はい。では失礼します」

 奈々はスマホを私に差し出す。

「代わってだって」

 オッケーもらったよ、と小さく付け足して奈々は笑った。私はスマホを受け取り、少し緊張しながら耳に当てた。

 母は外面は良い。奈々には良い顔をしといて、私になにか恨み言かと身構える。

「もしもし」

『あなた、友達がいたのね。明るくて良い子じゃない』

「え…うん」

『折角だからゆっくり遊んできなさい。明日は土曜日だし、夜までに帰ってくればいいわよ。迷惑はかけないようにね』

「はい、あ、ありがとう」

 拍子抜けした。母はとても上機嫌だった。理由ははっきりわからないが、私に友達がいたと言うのがそんなに面白い事だったのだろうか。


 奈々の家はとても明るくて、楽しい家だった。

 奈々のお母さんは突然の来訪にも快く応じてくれて、歓迎してくれた。

 とても意外なことだが、奈々が家に友達を連れてきたのは初めてだという。だから嬉しいわ、と笑顔で迎えてくれた。


「どうして私を呼んだの?」

 食事も風呂も済ませて、奈々の部屋で布団を敷いてもらった後、私は布団に座りながら言った。

「興味があったから」

 奈々は笑う。それがどんな意味を含んでいるのか、私は掴みきれずにいた。

「私も、その、な、な、奈々…に、訊きたいことがある」

 人の名前を呼び捨てにするなんて、ほとんどしたことがない。なんだか妙に緊張してしまう。

「そうなの?何々」

「…」

 奈々は身を乗り出してくる。

「…どうしてそんなに、落ち込んでるのかな、って」

「え?」

「落ち込んで、傷ついて…何か諦めてるみたいだから。なにがあったのかなって」

 奈々は、驚いたような顔で私を見詰めた。

「亜弥乃ぉ」

 そして私に抱きついた。

 彼女が私に感じたにおいと、私が彼女の表情に感じたもの。多分、本質は、同じなのだと思う。

 抱きつく奈々は、お風呂上がりの良い香りがした。私も同じような匂いがしているのだろうけど、不思議と奈々の香りがよくわかった。


 私たちはそれから、お互いの色々な話をしあった。奈々の最初の体験の話や、初めての恋。私の家庭事情や、母への殺意。

 お互い、他人にこんなに詳しく話すのは初めてで。胸のうちにある隠しておきたい気持ちも全部、さらけ出しあった。

「誰に言われても、聞く耳持てなかったけど」

 奈々は私の太股を撫でて微笑む。

「なってみてから漸く実感するもんだね。だから亜弥乃にも言わせて。自分の身体を傷つけ続けると、いつか大切な人ができたとき後悔するよ」

 確かに他の人に言われてもきっと無視したと思う。

 だけど奈々のその言葉は重たくて、私の心にずんと響いた。


 一晩ですっかり打ち解けた私たちは、奈々発案でふたつの事を約束した。


 ひとつは、大学に入ったらルームシェアをして一緒に住もうということ。

 二人で都会の大学に行って、一緒に住む。そうしたら家賃も節約になるし、お互いの親も安心するし納得するだろう。


 もうひとつは――もしも。もしも、どちらかが本当に死にたくなったら一緒に死のうということ。

「月と星だもん、高いとこに帰るなら一緒がいい。あ、あと夜がいいね」

 奈々は私たちの名字の漢字をそう例えて、笑った。

「行く先は夜空じゃなくて地獄かも」

「言えてる」

 私の言葉に奈々が笑う。


「あたし、ヨシゾウさんにもう一回会う」

 奈々は決意した、と立ち上がった。

「それで素直な気持ちを伝えて、きっぱりフってもらうんだ」

 色恋沙汰は全然わからないけど、それでも思う。奈々の笑顔は、ちゃんと恋する乙女だった。

「私、大学行けるようにちゃんと勉強頑張る、お母さんに、ダメって言われないようにする」

 私たちは顔を見合わせて、笑った。


 問題は何一つ解決していないし、家に帰ればまた母の暴力が待っているかもしれない。

 母をいつか殺してやりたい気持ちも変わっていない。

 それでもなんだか不思議と心が軽い。


 私と奈々はたくさんの事を話し合って、そして手を繋いで、眠りについた。


 今夜はきっと、幸せな夢が見られる。

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