No.5 亜弥乃
亜弥乃 その一
殺してやる。
今日こそ殺してやるんだ。
頭をまず、強く殴る。きっとあいつはよろめくだろう。
そうしたら引き倒して、脇腹を蹴る。あいつが嘔吐するまで蹴り続ける。
ぐったりしている隙に、灰皿を手にとって頭をガツンと殴るんだ。
それで終わるだろうか。
いや、終わらせるのも勿体ない。
十八年間の恨みはそんなものじゃはらせない。
どうにか縛り上げることはできないか。そして爪を一枚一枚剥がすんだ。あいつは泣き叫ぶだろうか。その悲鳴は何よりも心地いいだろう。
ぶつぶつと考えて、私は玄関のドアを開けた。
そして、身を竦めた。
「おかえり」
仁王立ちで母が立っていた。
口元を僅かに緩めて、歪んだ顔で笑っている。
喉がひきつり、声がでない。
「おかえりって言ってるだろ!」
母は突然私の髪の毛を鷲掴みにして、玄関に引きずり倒す。
「ただいまも言えないのかこの穀潰し!」
倒れた私に馬乗りになり、怒鳴りながら何度も私を殴る。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ただいまお母さん」
「うるさい黙れ!お前の陰気な声なんか聞きたくない!」
じゃあどうしろというのか。
いつものこととはいえ、私は途方にくれる。答えは知っている。単に当たりたいだけなのだ。だから耐えるしかない。
今日は特別機嫌が悪いらしい。帰るなり殴られるのは久し振りだ。
玄関を開ける前の殺意はあっという間に萎んでしまい、私はただこの時間が終わるのを身を縮めて待った。
「お母さんの人生はね、あんたのせいでメチャクチャだよ」
殴り疲れた母は、まだ明るいというのにお酒を片手に管を巻きながらダイニングテーブルに突っ伏した。
ごめんなさいと言おうとしたが、今は変に声をかけない方が良いと感じ、私は黙って鞄を置いた。
これが我が家の日常だ。
父はいない。私が幼い頃に亡くなったらしいが、記憶にない。
母は幼い私の面倒を見つつ、なんとか働いて私を育ててきた。
高校にはいけないと思ったが、安定した職について、良い男を見つけて結婚するために、大学まで出るように言われている。
あの頃はたまたま機嫌も良い時期だったのもあるだろう。このところしょっちゅう機嫌が悪いから、そのうちやっぱり大学なんかいかないで働けと言われる可能性もある。
私も少しでも家計を助けようと、バイトを始めたかったが、身体があまり丈夫ではなく、いくつかやってみたが続かなかった。
「なんだってこんな弱いのを産んだんだろ。大損だ」
病院に行く度に母はそう毒づく。
弱らせたのは母だと思うが。現に、自慢じゃないが体調を崩すのは精神的な不調が主で、睡眠薬と抗うつ剤は手放せない。でもそんなこと言おうものなら大噴火を招くだけなので黙っている。
女手ひとつで苦労したからとか、何だかんだで高校行かせてくれたんだしとか、そいうことは微塵にも思わない。
今の私の中には母への憎しみしかない。
早く死んでしまえ。
逃げたらいいと言う人もいるが、どこへ?どうやって?
お金もなにもなくて、頼れる人もいなくて、薬は手放せなくて、保険証やらなにやらは母が握っていて、身ひとつで飛び出せと?
上手い方法があるなら教えてほしい。
考えても解決方法は出てこないし、母の前では反射的に萎縮してしまうし、毎日私は絶望の中で暮らしていた。
私はどこにもぶつけられない憤りを、夜な夜な母が寝静まったあと、自分の太股にカッターを滑らせることで静めている。
一度手首に傷をつけたこともあったが、母にバレて凄く怒られた。そんなに死にたいなら殺してやると首を絞められた。本当に死ぬかと思って怖かった。
だからばれないように、ここに刻んでいる。
死にたいんじゃない。
ぶつけるところが無いから自分にぶつけているんだ。
その夜も、私は自分の太股を傷つけた。
最初はごく軽い引っ掻き傷のような、血もでないような傷だったが、最近は躊躇いなく血が滲むくらいの傷をつけるようになった。
だんだん感覚が麻痺しているのはわかっているが、止められない。
今日も自分の感情を自分の身体に吐き出しきって、私は眠りについた。
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