奈々 その三

「送るよ」

 そう促されるままに乗った車の中、あたしは考えていた。

 今までに出会ったことのないタイプの男性だとは感じていた。

 柔らかな物腰、地味な格好。

 今乗っている車は、お世辞にも格好いいとは言い難い軽自動車で、夕立が薄い装甲をカンカンと叩く音が響いている。

 その野暮ったさや、生活感が、ずっとさまよっていたあたしを夢の中から現実に戻していくようで、形容しがたい安心感に包まれる。

 何を話したのかは覚えていない。彼はあたしを何処かに連れ込むようなこともせず、本当にまっすぐ家に届けてくれた。

 親にもわざわざ事情を説明して、丁寧な挨拶をして帰っていった。


 大人の男性。

 そんな言葉が頭に浮かぶ。

 あたしが今まで会った大人は、ギラギラしてて、下品で、自分の欲しか考えてない。そんなのばっかりだったのに。


 頭の中が彼でいっぱい。


 その日からあたしは、よく知りもしない男達との下らない遊戯をすっぱり止めた。

 髪も黒に戻し、校則も守った。

 なんで急にこんなことしているのかと自分に問いかけてみたが、つまりは「彼に釣り合う大人の女性になりたい」という単純な気持ち。

 そして、ゴールは彼と結ばれること。

 それだけだった。


 暇さえあれば図書館に行き、彼と話をした。見た目を大きく変えたあたしを見て、彼は「誰かと思った」と笑いながらも、すぐにあたしとわかってくれた。

 大半の人が最初はあたしのこと、わからないのに。

「その方が可愛らしいよ」

 その一言であたしは舞い上がった。

「ヨシゾウさんは、ああいう格好はきらいだった?」

「んー…どうかな。推奨はしたくないけど、でもああいう楽しみ方ができるのは学生のうちだけだからね。したくなる気持ちもわかるし、今のうちに楽しんだら良いと思うよ」

「なんかオジサンくさい」

「酷いなぁ。そりゃ星さんから見たらオジサンと言えなくないかもしれないけど」

 ヨシゾウさんはとても優しいし、考えを押し付けない。それがとても心地よかった。

「それにさ、格好なんてその人を表す要素のひとつにしか過ぎないでしょ。僕、賢い子は好きだよ」

 ヨシゾウさんはにこりと微笑んでから続けた。

「星さんみたいにね」

 なんて人だろう。あたしの心臓を爆発させて殺す気なんじゃないかと思った。


 その時あたしは、間違いなく本当の青春の中にいた。


 だけど、ある日の休日。あたしは遭遇してしまった。

 ヨシゾウさんが、デートらしきことをしているところを。

 とても清楚で聡明そうな、言いたくない、言いたくないけど、とてもお似合いな女性と。

 おしゃれなカフェで微笑みあう二人は、眩しくて、あたしがヴァンパイアだったら溶けてしまうところだった。


 だがあたしだって頭の良い女子高生だ。早とちりはしない。だからある日、夕暮れの図書館で、ヨシゾウさんにカマをかけてみた。

「あたし見ちゃった」

「何を?」

「ヨシゾウさんがデートするところ」

「え!?」

 こんなに慌てるヨシゾウさんを、あたしは初めてみた。

「恥ずかしいなあ」

 あれ。これは。

 あたしの心はざわざわと大騒ぎだった。

 それでも堪えて、茶化すように言う。

「カノジョなんでしょ?」

「…そうなりたいな、って思っているところ」

 心のざわつきが少し色を変える。

「アタック中?いつから?どこまでいってるの?」

 ざわつきに急かされてつい、質問攻めにしてしまった。

「はは。そうなるかな。でもね、もう五年も片想いしているんだ。手だって触れたことないよ」

 心の中が、一瞬静まる。

 心臓が止まってしまったんじゃないかと思った。

 彼の照れる顔が、とても可愛かったから。

 彼の恋をしている顔が、すごく素敵だったから。

 夕陽に照らされた彼は、きらきらと輝いていた。


 あたしは家に帰るやいなや、布団に潜った。

 なんて。

 なんて純な顔をするんだろう。

 純愛ってああいうことをいうのかな。

 手にも触れられない程の恋心ってどんななのかな。

 彼の存在が本当に眩しくて眩しくて、影になった気分になる。

 いや、違う。あたしは影なんだ。

 だって、あたしはいままで、どんなことをしてきた?

 ちょっと前まで自分をダッチワイフと揶揄していたのは誰?

 自分の汚れを、あたしは初めて後悔した。

 片想いならチャンスあるかなとか、いざとなったら押し倒しちゃえばいけるんじゃないかなとか、ほんの一瞬でも思った自分が物凄く醜い人間に見えた。滑稽だと思った。

 こんなに汚れた身で浮かれながら彼と話していたことを、あたしは心の底から恥ずかしく思う。


 そこからは灰色の日々だった。

 ヨシゾウさんのところには通わなくなった。

 自分が嫌いで嫌いで、辛かった。


 もう遊び歩くことはしなくなったけど、何となく学校にいって何となく友達と笑って何となく帰る毎日。

 あたしは、また青春をすり減らす日々に戻っていった。

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