優子 その二
「ありがとうございました。今後とも宜しくお願い致します」
深く頭を下げ、エレベーターが閉まるのを確認して、一度息を吐いた。エレベーターは音をたてて、私を一階に運ぶ。
自称コミュ障のくせに、私は通信教育の営業をしている。天職とは思っていないが、逃げるように地元を出て何とかこの会社に就職できたのだから、贅沢は言ってられない。
企業向けの商品なので個人の家に飛び込みをしなくて良いのが救いだ。企業もアポをとった上で訪ねるので、門前払いということもない。今回も相手先は興味を持ってくれたし、手応えはあったと思う。
「
ビルを出ると、同行していた先輩がねちっこい声で言う。
ああ。うざい。
「すみません。私の説明、おかしかったでしょうか」
「全然商品の良さを伝えられてない。熱意が足りない」
私はため息をグッとこらえる。就職して二年。もう上司からは一人で営業に回る許可を貰っているのだが、何故かこの先輩は何かと理由をつけて私についてくる。自分のノルマもちゃんとこなせてないクセにそんな暇あるんだろうか。
「どういうところが良くなかったでしょうか」
「そのくらい自分で考えろ。女は良いよな、愛想振り撒いていれば客とれんだから」
今時、なんて時代錯誤な男なのか。セクハラで訴えたらいつでも勝てると思う。
なんでこんなに突っかかってくるのか疑問ではあるが、心当たりならひとつある。上期の成績で私が先輩の成績をちょっと抜いてしまった事が気にくわないのだろう。
「すみませんでした。精進します」
波風を立てるのも面倒くさくて、私は俯いたまま謝った。
男というのは高圧的だ。
自社に戻り、パソコンを立ち上げながら考える。
父も、先日メッセージを送ってきた男も、先輩も。
でも結婚が決まった友人カップルは二人とも穏やかだ。この差はなんだろう。
そういえば、元カレは割と穏やかな人ではあった。時折不機嫌になると怖くはあったが。あの友人たちも喧嘩をすると怖くなるのだろうか。怒ったところは見たことが無いからわからない。
でも、それなら何故元カレのことをイヤになってしまったんだろう。
相手が高圧的だとかそういうことは関係なく私に何か重大な欠陥があるのだろうか。
頭痛がしてきた。今日は定時で帰ろう。私はそう決心しながらデスクに向かった。
定時で帰るというのはあっさり淡い願望に変わり、そして儚く散った。
時計は二十一時をまわった。あと三十分くらいで帰れそうだ。二十二時までいかずに退社できるのが救いだ。
自分のやるべきことは終わらせていたのだが、定時になりパソコンを落とそうとした矢先に、先輩が急ぎの仕事を投げてきた。先輩は投げっぱなしのまま、定時の一時間後くらいにはさっさと退社していった。
頭が痛い。
何も考えず作業に没頭して、先輩に作業完了のメールを叩きつける様に送って、私は荒い足取りで会社を出た。
「…あー、ヤバい」
帰り道。呟きながらフラフラと歩く。
念のため、とコンビニでいくつかの食料とポカリ、冷えピタを買って帰宅する。ポカリはヤケクソ気味に二リットルを買った。重たくて何度も挫けそうになった。
漸く家に着いて熱を測ると、案の定の発熱。
何とかシャワーを浴び、ポカリをガブガブと飲んで、ベッドに潜り込む。
明日の仕事は休んでも大丈夫だろうか。予定を思い出しながらぐるぐると考える。
うん、なんとかなりそうだ。アポもないはず。明日は休もう。朝一の電話で先輩が出ないことを願おう。
そうして、埋もれる様に夢の世界へ沈みこんだ。
朝、いつもより早く目が覚めた。幾分かは楽になった気がしたが、熱を測ると昨日よりも高かった。
朝御飯にインスタントの雑炊を食べ、始業時間の30分前くらいまで待ってから会社に電話をした。この時間には大体上司が居るはずだ。比較的理解のある人だからそんなに文句は言われないはず。
「課長は朝から外出だ」
上司に取り次ぎをお願いしたら、そう言って先輩が出た。最悪だ!心の中で叫ぶ。
「熱出した?あー、そう。休めば?俺は忙しいから引き継がないぞ」
「急ぎで引き継ぐことはありません。明日自分でやります」
「ふうん。俺は忙しくて困ってるんだけど。しょうがねえなー、今日は残業だなー」
知るか。お前の仕事のお守りをする義理はない。
腹の底で呟いて、すみません、と謝って電話を切った。
「死ね、役立たず」
スマホを置いて、毒づく。
乱暴にベッドに倒れて、八つ当たりするように蒲団をひっつかんで、現実から逃げるように眠りについた。
次に眼を開けると、時計は十四時を指していた。
少し寝たら病院に行こうと思っていたが、寝過ぎた上に、とてもスッキリしていた。熱を測ると、平熱まで戻っている。
頑丈な身体に感謝すると同時に、もう二、三日続けば良いのにとも思う。
病み上がりなので安静にするべきかと思ったが、何だか無性に外に出たくなり、私は私服を引っ張り出した。
メイクもしっかりとして、外に出る。平日の昼間に仕事以外で外を歩くことの、なんとも言えない高揚感。何て清々しいのだろう。
あまり気にしていなったが、小学生は夏休み中らしい。公園ではしゃぐ子ども達を見て、今が夏なことを漸く思い出す。
地元ではこの時期、欠かさず行っていた祭りがあったことも思い出した。
駅前で少し買い物をして、お気に入りのカフェに入って紅茶とチェリーパイを頼んだ。
久しぶりに本当に気分が良かった。空の青さがとても爽やかで気持ち良いし、普段なら少し煩いと思ってしまう、夕方の木々にとまる鳥の鳴き声も心地よい。
遠くに入道雲が見える。夕立が来るのだろうか。
何だか、素敵な夢を見た気がする。
どんな夢だっただろうか。思い出せそうで思い出せない。
まあ良いか。こんなに気分が良いんだ。良い夢を見たに違いない。そんなことは置いておいて、今は優雅なティータイムを楽しもう。
でも、注文したものが運ばれてきて、チェリーパイの中に所々広がるの赤色を見た途端に思い出した。
思い出した。
脳内に光景が鮮やかによみがえる。
それは先程までの爽やかな気持ちとは縁遠いもの。
先輩や、両親。私が憎いと思ったものすべて。それらが身動きをとれないままに転がっている。ある者は泣いている。ある者は怒鳴っている。だけど彼らは身動きがとれない。
それを私はナイフで滅多刺しにする。何度も、何度も。
すぐには殺さない。私の恨みが浄化されるまで。少しずつ少しずつ、削ぎとる様に身を刺して、笑っている。笑っている。
そして、皆が怯えて許しを乞う姿を見て、声をあげて笑う。
そうだ。
そんな光景を、ずっと繰り返していた。全員こと切れてしまえば、巻き戻してまた最初から。
何度も何度も。私の中の黒いものが全部吐き出されるまで。
ショックだった。
そんな夢を見ていたことを、ではない。
そんな夢を見て、かつそれを思い出した今でも、この清々しい気持ちが変わらないことだ。
自分が凄く恐ろしい人間に思えた。
背筋を冷たいものが走る。
それでも私は、笑っていた。
それでもとても気持ちが軽かった。
端から見たら、私は一人で目の前の美味しそうなスイーツに頬が緩むめでたい女に見えたに違いない。
本当はこんなに、狂気に溢れているのに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます