千代 その二
次の日。遅めの朝食を食べていると、裕太は申し訳無さげに切り出した。
「今日さ、午後から会社行くことになってて…昨日言い出せなくてごめん」
「あ、そうなの?なんだ、言ってくれれば押し掛けなかったのに」
「いや、ほら、その…少しでも千代と一緒に居たいなって思って。言い出せなかった」
裕太は照れ臭そうに言う。私はその言葉に、照れるとか嬉しいとか感じる前に、まずは眼を見開いて驚く。
そんなに、私に何があるというのか。時々彼はこういうことを言ってくれるのだが、五年経っても理解はできなかった。
「もう、何言ってるの。これからはイヤでも一緒でしょ」
「うん、そうだよね」
とりあえず照れるように笑って彼に返してみせると、彼は満足そうに私の頭を撫でた。
裕太と一緒に家を出て、駅前まで見送った後、その辺をブラブラと歩き回る。適当に買い物をして、時間を潰した。
気づいたら夜になっていて、少し悩んでから自宅近くのバーに入った。一人でバーに入るのはハードルが高いと思われるかもしれないが、そうでもない。どうせ誰も私には注目していない。もはやそういった自意識はどこかへやってしまった。慣れてしまうと何でもないのである。
カウンターに座った私は、ゆっくりとカクテルを傾けて、良い気持ちになっていた。スマホを見たり、本を読んだり。一人の時間を過ごすことに飽きない自分の性分を素晴らしいと思う瞬間である。
そんな大事な時間を過ごしていた私に邪魔が入ったのは、突然のことだった。
「隣良いですか?」
「…え?あ、はい」
話し掛けられたのが自分だと気づくのに一瞬の間が開く。顔をあげると、男性が私を見下ろしていた。
背が高く、中肉中背。爽やかそうな短髪。カジュアルなジャケットにジーパンが似合う、一言で言うなら、好青年。もっとミーハーに言うなら、イケメン。驚いた。
「すみません。ちょっと独りで呑むのも寂しくなってきて。…あ、ナンパとかじゃないんで安心してください」
彼は座りながら言う。妙な馴れ馴れしさや軟派な雰囲気は、不思議と感じなかった。
ナンパなんて思わない。私のような平均以下の人間は調子に乗ったら敗けである。イケメンだなぁ、と感心はするが、そうそう簡単には靡いたり、期待したりしないようにできているのだ。
「…あ、それ、ジントニックですか?」
私が手を添えるグラスを指す。
「え、あ、はい」
「俺もそれ、好き」
彼はそういって微笑んだ。
小学生の時に国語の授業で聞いた、赤い実が弾けるという表現。詩的だし面白い例えだとは思っていたが、弾けるという感覚が私にはずっとわからなかった。私だって人並みに恋をしてきたが、どちらかといえばじわじわと好きになることが多かったし、今思えば無意識のうちに、この人ならば私を受け入れてくれるだろうかという品定めをしていたと思う。「だんだん好きになる」ことはあっても「恋に落ちる」ことは恐らく経験していない。
だけど今、私はあの表現の素晴らしさを知った。
今ならば、酷くしっくりくる。
彼の笑顔を見た瞬間、赤い実が、弾けた。
「美味しいですよね、これ。甘すぎないのが良いなって」
私は愛想よく答える。
冷静に、冷静に、冷静に。
何度心の中で繰り返しただろう。私はとても動揺していた。
不覚にも、婚約した人がいる身でありながら、初対面の男性に。
しかもイケメンに。簡単に靡かないと言った矢先に。なんという無様な姿か。
悟られない様必死に、私は彼と会話を続けた。
彼は仕事の都合で最近この辺りに越してきたらしい。
「そういえば、名前」
「名乗ってませんよね?俺」
「あ、そうですね。私は
フルネームを言うのがなんとなく憚られて、苗字だけを伝えた。すると彼は眼を大きく開いて、数秒止まった後に訪ねる。
「大変失礼ですが…下の名前は?」
「え?えと、千代です」
「たきざわ、ってどちらも難しい方の字を書くやつですか」
「そう、ですけど」
なんだろう、突然。私は不審がり、少し身を引いた。しかしそんなことは構わず、彼は身を乗り出して私を見つめる。
「…ちーちゃん?」
「……え!?」
呼ばれた名前に驚く。私は自分では勿論、他人にもそんな恥ずかしい名前で呼ばれない。よくある愛称ではあるから呼ばれることもあったが、仮に呼ばれたら恥ずかしいから千代で良い、と訂正してきた。裕太にすら。
今この場でこの人がノリで呼んだ可能性もよぎるが、それにしては呼び慣れるように、自然に呼ばれた。まるでずっと私をそう呼んでいたかのように。
その名前で私をずっと呼んでいたのは、只一人。
「俺だよ。
「嘘…」
声が掠れる。まさか、そんな。
「ほんとにちーちゃん?すごい、奇跡だ」
その衝撃的な出会いに、私は少しの間呆然と彼を見つめていた。
私は中学生の頃、文通をしていた。何となく「今更アナログ」な感じが格好良いと思い立ち、雑誌の文通相手募集コーナーから何人かに手紙を送り、三年ほど数人の相手とやり取りをしていた。その一人が、えいちゃんだった。同じ苗字だけど私は難しい方で、彼は優しい方。そこでまず、意気投合した。彼の名前はヒデハルだけど、最初にエイジだと勘違いして、書きやすいからえいちゃん、と呼ぶと書いたらじゃあ向こうも書きやすいからちーちゃんで、と書いてくれていた。
とても綺麗な大人っぽい字を書くなあと思っていたら、よくよく聞けば私より年齢が五つも上で、始めた当時私は十四才、彼は十九才だった。驚いたけど彼の手紙は面白くて、優しくて、手紙を書くのも貰うのもとても楽しんでいた。他の文通相手が子どもに見えるくらいに。
彼が新社会人になる頃、私も勉強と部活に忙しくなったし彼もきっと忙しくなるだろう、と段々やり取りをしなくなっていった。
メールアドレスを交換するでもなく、会うこともなく、写真も交換せず、只、お互いの近況や好きなものを共有しあって終わった。
「…思い出した?」
固まっている私に、えいちゃ…いや、滝沢さんは話し掛ける。
「お、覚えていますけど、驚いてしまって」
「俺も俺も。実はちーちゃんて今こんな感じかなって思いながら声かけたんだよね。すげぇな、俺。…っていっても信じない?」
人懐っこい笑顔を見せて、彼は言う。急に肩の力が抜けたように気安くなる彼とは反対に、私はまだ少し固まっている。半解凍くらい。
「…滝沢さんはジョークの多い人でしたから。ちょっと安易には信じられないです」
「滝沢さんなんて、他人行儀な。昔みたいにえいちゃん、で良いよ」
「でも、だって、年上の一応初対面の方にそんな」
ずっと文字にはしてきたが、声に出してその名を呼んだことなどない。
「ちーちゃんはちーちゃんだし、俺は俺。あんなに長く手紙のやり取りしてたじゃん。今更他人でもないだろ。…まぁ、中高生と思っていた子が大人になってるんだから、俺もちょっと戸惑うけど」
言われて気づく。彼にとって私はずっと中学生くらいのイメージだったのだろう。可愛い妹分くらいには思ってくれていたかもしれない。それが現実はどうだろう。虚しくバーで呑んだくれる可愛いくも綺麗でもないこんな地味女だったのだ。遠くへ旅に出ていた自意識が早足で戻ってくる。とてつもない恥ずかしさが襲う。
私は早くから身の丈を知り、舞い上がらず、堅実に生きてきた。可愛くはないけどしっかり者で安心できると周りに思われ、友人にも恵まれた。そう自負している。
だが彼は違う。私にだって可愛らしく振る舞いたい、夢を見るロマンチックな少女で居たいと思った時期がある。そしてその衝動の捌け口を文通に求めた。
詰まるところ、文通をする私の人格は極めてメルヘンなものであった。
「懐かしいな、ほら、昔みたいに呼んでよ。『ちーちゃん、頑張ったのよ。だからえいちゃんになでなでしてほしい!』とか」
「うわあぁぁぁ!やめてー!」
今まさに危惧していたことを見事にさらけ出される。そう。そんなノリでやっていた。これが黒歴史というやつだろうか。穴がなくても掘ってでも入りたい。
「呼んでくれないともっと言うぞ。当時密かに好きだった同じクラスの斎藤君との妄想デートの内容とか」
「呼びます。えいちゃん。お願いだからやめてえいちゃん」
私はまるで悪霊を退散させるために念仏を唱えているかのように呻いた。
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