Scene7   最強の大罪、その名は怠惰  sight of 咲夜











Scene7

  最強の大罪、その名は怠惰  sight of 咲夜











 《冬の一つ月トーワ》、19日


 わたしは咲夜。

 今日も、アヤサ独立自治領は平和です。

 

 わたしと境夜さんが、《アヤサ》を訪れて92日目になります。

 

 かつて《フローレンス》という存在だったわたしが、肉体を得てこの世界に降り立ち、咲夜さくやの名をいただいて、ちょうど100日目です。


 咲夜は、境夜さんの国の神話フィクションに出てくる《木花咲耶》という咲花の女神と、《フローレンス》の名のもとだった女性の姓である 夜鳴鶯ナイチンゲールを併せた名だと、そのときに境夜さんにうかがいました。


 フローレンス・ナイチンゲールというかたは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者であろうとしたかたで。 


 《木花咲耶》は《木花之佐久夜》とも記される女神で、限りある命の象徴なのだそうです。


 境夜さんと共に死を迎える肉体を得たわたしにと、境夜さんは、この新しい名前を送ってくれました。


 そのことは、心の温かくなるような喜びではない肉体からだを持つからこそのよろこびとは、 熱情とは何なのかを、わたしに感じさせてくれました。

 

 あの時の気持ちをどう表せばいいのか。

 わたしには解りません。


 肉体からだからあふれ出すような鮮烈な感情や刺激に触れたばかりのときだったからもあるでしょう。


 “ 老いる事も病む事も死ぬ事も苦しむ事もない完全に制御された擬似的な肉体 ”とは別の儚い命だからこそ得られる気持ちです。


 たぶん、人が創った言葉で完全に表すのは無理なのでしょう。


 境夜さんは、数学に例えるならば、“ 言葉が有理数だとしたら感情は無理数のようなもの ”と言いました。


 どちらも無限だけれど、無限に近づける事はできても、決して同じになることのないという意味の例えで、言葉をデジタルに感情をアナログに例えるよりは近いと。


 数学を学んだことのない人間や学んでいても理解していないものには、かえって解りにくい表現だろうと。


 境夜さんは、微笑わらっていました。


 言葉は《念話テレパシー》のように感情を含めて相手には伝えられない不完全な意志伝達の道具。


 けれど、《自動翻訳》のスキルのように、細かな意味を切り捨てるのは嫌だと、境夜さんは言うのです。


 不完全だからこそ、境夜さんは言葉というものを大切にあつかっているのかもしれません。


 それは、少しでも正しく自分の想いを誰かひとに伝えたいという願いなのでしょう。


 それを解ってはいても実感する事ができていなかったのだと、肉体からだを得て初めて認識する事ができました。


 人としての肉体からだを得て、初めてよろこびというものが何なのかを実感ししったからこそ、わたしは境夜さんに近づけました。


そして、境夜さんの生き方がとても面倒たいへんなものだという事も判ってしまいました。




 そう、困難や苦難とは違い、乗り越えたことでの達成感さえ得られない面倒たいへんな生き方です。


 境夜さんが続けている言葉や想いを大切にするということは、困難というよりは面倒でたいへんという言葉がふさわしいことでした。


 肉体からだを持つということは、肉体からだに縛られるということでもあります。


 頭脳労働という言葉があるように、人は、考えることにさえ栄養素というエネルギーを必要とするのです。


 そして、心の在り様や働きさえ、肉体からだを動かすための化学物質を介して行われます。


 肉体からだを働かせることで起こる負荷のへの警告ストレスや、達成感によって得られる肉体からだへの褒美も、その作用の一つです。


 多くの人は肉体からだを制御できずに、心を肉体からだに従属させて生きるしかありません。


 あるいは、その事にすら気づかずに、欲望の奴隷のように生きる事を、あたりまえのように考えて生きていきます。


 生きるための負担ストレスから逃げずに立ち向かう事は、面倒たいへんで、そうするためには達成感や幸福感からだへのほうびが必要だからです。


 本来は、肉体からだを酷使することへの安全装置として組み込まれた体調管理本能セーフティシステムなのですが、肉体的欲求それを制御できない人間は、怠惰さを求めるようになってしまいます。


 怠惰を原罪と呼んだ宗教があるけれど、その教義は“ 人を甘やかして操るための巧みな罠 ”だと境夜さんは言います。


 怠惰を戒める事はしても“ 人にはどうしようもない神の与えた原罪 ”であると、けれど神への奉仕でつぐなえば許されるとして、怠惰さを許容することを前提として作られた巧みな罠なのだと。


 怠惰それはどうしようもない罪ではなく、人が克服しなければならないごうで、それから目をそらしてしまえば、肉体的欲求それさえ制御できないとあきらめた人は、何かに依存しなければ生きていけなくなる。


 その何かの位置に、誰かへの愛情であったり、穏やかな生活であったり、その人が大切とする何かの代わりに‘神というフィクション’を置くための罠で。


  そうやって“ 人々の精神を制した宗教 ”と“ 暴力で生まれた権力 ” の二つが結びついた事で、権力者が“ 人がお互いに支えあい助け合うための富の支配システム ”を“ 他者を制圧する欲望に負けた人間によって狂わされた富の集配システム ”へと変えていったのが、境夜さんのいた世界なのだそうです。

 


 その“ 富の集配システムを権力の基盤みなもととする権力者達 ”が争いあい、物質文明が発達した影響で武家貴族から武家商人へとその主流が変わって、宗教権力が力を減じても、一度広まった“ 精神文明の発達を阻害じゃまする宗教的思想 ”は、境夜さんの世界にそのままだといいます。


 その事実は、“ 富の集配システムを権力の基盤みなもととする権力者達 ”が、民主主義という名の“ 人がお互いに支えあう助け合うための富の支配システム ”の裏で、“ 人を甘やかして操るための巧みな罠 ”で他者の心を操る事を止められないことを表しているのだと。


 だから彼らは、“ 民主主義などはただの夢物語で、理想など遠くにあって現実的ではないもので理想を求めるのは現実を受け入れられない甘えでしかなく、怠惰でいる事が現実的なのだ ”という、人を甘やかし続ける虚言でたらめを振りまくのだと。


 境夜さんは、そう言います。


 ですから、そういった肉体システムを、心で制御しながら生きる境夜さんの生き方は、“ 尊敬すべき人としての在り方 ”に近づき続けようとすることなのでしょう。


 けれど、達成感や幸福感からだからのほうびも得られないのに、あえて面倒たいへんな生き方をする人は、そう多数派ではおおくありません。


 そして欲望に溺れた人間は、自らの弱さを認められず、自らの弱さそれを誤魔化すために、他者を誹謗中傷ひぼうちゅうしょうする精神的暴力や実際の肉体的危害を加える物質的暴力を振るうことが、頻繁によくあります。


 わたしは、そのことに境夜さんの身を案じしんぱいをしてしまいますが。

 その危険さえも許容しうけいれた生き方。


“ 他者ではなく自分自身が創った自由意志のマニュアル ”と境夜さんが呼ぶ生き方とは、そういうものだったのです。




 わたしは、そのことを境夜さんに聞かされて知ってはいても、実際に肉体からだを得るまで、正しくは認識ししっていませんでした。


 面倒たいへんさが肉体からだを通じて心に与える苦痛も、達成感や幸福感からだへのほうびが、どんなに心を満たすものなのかも。


 それは実感して初めて判るもので、その二つの落差を実感ししって、それでも苦痛を厭わいやがらず、心を満たす悦楽ほうびを求めないでいられる強さもまた、そこで初めて解るものでした。



 生きることの本当の意味を実感ししらなかったわたしは、そうして生命というものを実感ししっていきました。


 それが、肉体からだを持つ人と言う生命ものなのだから当然だと境夜さんは言いました。


 だからこそ、生きるということは面白くて素晴らしいことだからと、わたしの誕生を祝い、咲夜さくやの名をいただきました。


 《フローレンス》という生命いのちを必要としない知生体そんざいではなく、新たな生命いのちとなったことのあかしとして授けられた咲夜の名は、そのときからわたしのものとなったのです。


 《フローレンス》として人の想いを知る存在へ分岐したとき以上の変化に、途惑うわたしに、境夜さんは長い時間をかけて感情の制御や肉体の制御を教えてくれました。


 この世界に降り立ってから《アヤサ》を訪れるまでの長い八日間で苦痛や快楽というものを実感ししりました。


 生きるための負担ストレスから逃げず、悦楽や陶酔感にくのよろこびに溺れず、達成感や幸福感からだへのほうびに依存しない術を体得するために、境夜さんへ教えを請いました。


 そして《アヤサ》に着いてからも、他人とも交流の中でその学習は今も続いています。


 けれど、人間が物心つくまえに覚える生理的な欲求の制御や幼少期までに覚える感情の暴発の制御と違い、人との触れ合いで学ぶことへの怖れからでしょうか。


 この肉体からだを創るときには組み込まなかった一つのスキルが、いつの間にか発生していました。


 《隠密》スキルでスキルレベルは最高に到達しています。


 これは、わたしが求めるスキルを得られるような肉体からだを創ったことが原因のようです。


 人との触れ合いで得られるものより、生きるための負担ストレスを怖れてしまう肉体からだを制御できなかったせいで、恥ずかしい話です。


 そのせいなのか、こうしてわたしが日記をつけているというのに、境夜さん以外の《アヤサ》の人達が、わたしに気づいていないかのように過ごしています。




「あー、やっぱりポテチにはコーラよねー」


 クリスは48型の大型液晶ディスプレイで再生される映画を見ながら、昼間からごろごろとしています。


「クリス、最近だらけすぎじゃないかい?」


 そうですね。境夜さんの言うとおりです。

 今日で彼女は十日もこんな生活を続けています。


「休暇よ、休暇。独立自治領の承認も得たし、16年も未開の異世界で頑張ったんだから、1ヶ月くらい骨休みしてもいいでしょ! ああ、文明サイコー」


 なのにクリスは、それに反論しています。

 これは、余暇を楽しむというより怠惰に陥りかけているのかもしれません。


(姉御が干物女になったんですけど-!?)


 フェーリスも、それは判ってるらしく、鳴きながらクリスのそばで行き来していますが、その意味を理解できるのは、《察知》のスキルを最高レベルで持っているわたしだけです。


「クリスちゃん、クリスちゃん! あのテレビの女の子、スゴイかっこだよ。恥ずかしくないのかな」


 マユスィーもクリスに影響されて、近頃はすっかり機械文明の娯楽に耽溺しひたっています。


(マユスィーがテレビっになってるんですけど!?)


 どうやら、行き過ぎた物質文明は人を堕落させるようです。




 境夜さんは、一言だけで部屋から出て行きましたが、こんな生活を彼女が続ければ、この土地を離れてしまうかもしれません。


 わたしが忠告できればいいのですが、《隠密》スキルを制御できないうちは、その資格もないし、話し合うことさえ自由にはできままなりません。


 アイオーンアレーテイアの分御霊としての意図で、この世界に降り立ってからは、《フローレンス》としての能力は使えないので、今更この肉体からだを作り換えることなどもできません。


 肉体からだに与えた《スキル発現確率》の極限以上の上昇が仇となったようです。


 そういう意味でも、わたしは咲夜という一人の人間になったのです。


 人は、無力を実感できるから強くなろうとできると境夜さんは言いました。

 ただ、怠惰というごうに負けなければとも。

 

 人が生まれ持つ原罪であり大罪という 誇大おおげさな言葉に甘えて、乗り越えられなくて当然なのだとあきらめなければならないことではなく、ホントウは誰にでもできる事なんだと。


 だから《フローレンス》であったことと決別して、わたしも人である事を学んでいくことにします。








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あとがきに代えた

次回予告


 




 え? わたしがもともと女性解放運動家だったのかって?

 そんなわけないでしょう。

 わたしを昭和の生まれだとでも思ってるの?


 じゃあ、なんでそんな大それたことを考えたか?


 あのねぇ、この世界アルディは、女達にやさしくないのよ。


 セクハラされたら、それは男を誘うような態度をとる女が悪い。

 女に仕事をさせては、社会の秩序が崩れる。

 女の一番の仕事は子供を産み育てる事で、それができない女には価値がない。


 そんな、不公平が常識として罷り通る世界なのよ?

 唯一の例外は、スキルを持った女だけど、子供の頃だとスキルを取り上げられて、そのほうが女の幸せを得られるなんて、皆が本気で信じてる。


 いい、咲夜。


 







次回

Scene8

  死んでも明日はやってくる  sight of クリス

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