ザッハトルテ

柚木山不動

ザッハトルテ

 クリスマスということで上司が珍しく気を利かせて定時上がりだったおかげで、ケーキの予約の時間に間に合った。あいつが指定した店に到着する。予約のオオサワ様ですね、承っております。すぐに立派なザッハトルテが出てきた。

 表面にしわ一つなくコーティングされたチョコレートがてらてらと光り、思わず口の中が唾でいっぱいになる。いやいや、子供じゃないんだ、帰るまで我慢我慢。ホールとは言え小ぶりなサイズなので、二人でも食べきれるだろうな。しかしこんな洒落た店知ってるのか、あいつ女子力高いなぁ。

 ケーキ箱を提げて寒空の下帰宅する。ただいま。あいつは骨付きの鶏もも肉を調理しながら「お帰りー、寒かったでしょ?お風呂沸いてるよ」12月の夕方、冷え切った体にこれは…ありがたい…。

 築20年の安アパートの風呂の戸を開けると、湯気が脱衣所にまで広がる。ほう、今日は柑橘系の入浴剤かと思うが、そうではない。直径3~4cmの黄色い物体が水面を覆いつくさんばかりにぷかぷかと浮かんでいた。なるほど、この香りの正体はこいつか。

 「へっへっへー、どう?びっくりした?」いつの間にかあいつが後ろからいたずらっぽく呼びかける。

 どうしたんだこれ。

 「うちの実家に生えてる庭木の中に、なんだかよくわからない柑橘類の木があったんだよ。使い道がないって言っててほったらかしだったから、もらってきちゃった。実の大きさからおそらく花柚じゃないかなーっと思うよ。」

 花柚というのは実よりも花の香りを楽しむものらしく、実の香りは普通の柚より劣るらしいというあいつの蘊蓄も、この圧倒的な物量作戦の前には右から左に抜けていく。

 これだけ浮かべると壮観だな。それに結構いい香りじゃないか。そう言うと嬉しそうにほほ笑む。この笑顔に惹かれたんだっけ。

 それはそうと、今日はクリスマスイブだぞ。柚湯は本来数日前の冬至にやるもんじゃないのか。

 「固いこと言いっこなしだって。別に1日2日ずれたっていいものはいいんだよ。ほら、一緒に入ろう?」チキンの準備はいいのか。「大丈夫、オーブンに入れたから。タイマーもセットしておいたよ。おう、あくしろよ」ははは、こやつめ。


 あー、生き返る。

 「なにそれ、おじさんみたいだよぉ」あいつが笑う。しかたない、職場ではおじさんに囲まれているんだから中身はおじさんみたいなものだ。温まって出てくる鳴き声のようなものだから勘弁してほしい。

 結論から言うと花柚湯は控えめに言って最高だった。湯気に含まれる香りは爽やかなのに体の芯から温まっていく。ような気がする。なるほど、こういうのは柑橘類ならなんでもいいのか。

 「昔、島原半島で泊まったホテルの大浴場にはねぇ、ザボンが浮いてたんだよぉ」なんだそれ。

 「柚のお化けみたいにでっかくて、あ、でもねぇ、晩白柚よりは小さいかな、とにかく赤ん坊の頭くらい大きいやつがぷーかぷーかと、あ、よいしょ」こんな小さな湯船に二人一緒に入るとお湯があふれそうだ。「うん、この胸くらいはあったかな」そういうことを言うな。あと顔近いぞ。「顔赤いよ。湯あたりした?」あんまりそういういじわるすると、ケーキもチキンもなしだぞ。「ひどい…褒めたのに…」泣き真似したって駄目だ。


 しばらく狭い風呂でお互いに背中を流した後、風呂から上がる。

 久しぶりの長風呂でのぼせそうだ。せっかくのクリスマスイブに湯あたりというのもつまらない。

 さあ、チキンをいただこう。骨付きの鶏もも肉にかぶりつくなんて久しぶりだ。子供のころのキャンプ以来じゃないのか。「「いただきます」」二人一緒に手を合わせて、二人一緒に黙々ともも肉をかじっていく。脂ののったもも肉は皮が表面カリカリ中はプリプリだ。カニじゃなくても静かになるものだな。うむ、指うめぇ。チキンだけでおなか一杯になりそうだ。

 「じゃあ、ケーキはいらない?」いります。別腹です。

 あいつはすぐにケーキを取り分けてくれた。昨日近所の喫茶店で焙煎してもらったコーヒーも、そろそろできたようだ。サイフォンがゴポゴポ言っている。アルコールランプの火を消すと下のフラスコに琥珀色の液体が落ちていく。この時間も楽しい。

 「ここのお店のザッハトルテはちょっとすごいよ。じゃーん!」コーヒーをカップに注いでいると、料理番組っぽくシズル感たっぷりの断面を見せてくる。

 チョコケーキの生地に挟まれたたっぷりのアンズジャムがとろりと垂れて、食欲をそそる。こうかはばつぐんだ!「ここのザッハトルテはジャムたっぷりなんだよ。お得でしょ?」それなりのお値段だったけどな。それも納得だ。

 表面にコーティングされたチョコと一緒にジャムのついたチョコ生地を一口。うむ。甘さ控えめのチョコに包まれた生地自体にもチョコが練りこまれて、そこにサンドされたアンズジャムの甘い香りがたまらない。

 キリマンジャロの香り立ち上るカップに口をつける。「悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い。でしょ?」なにそれ。「フランスの政治家、タレーランって人がコーヒーのことをそう言ったらしいよ。」実際香りと苦みがザッハトルテの甘さとマッチしててこりゃたまらん。もうなんだか幸せな気分になる。

 よし、明日君の実家に伺おう。で、花柚のお礼と一緒に、君をお婿さんに下さいと言おう。今決めた。「唐突だなぁ。」気に入らんか?「僕も君のそういう男前なところ好きだよ。」満面の笑顔で言うなよ。こちとらアラサーとはいえ、それって女子に言う褒め言葉じゃないよ、まったく…。

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ザッハトルテ 柚木山不動 @funnunofudou

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