水無月ことね編⑨ バッドトラブル&ラッキートラブルメーカー ~信頼と決意~
努力の先にある結果は誰にでも平等に降ってくるわけではない。それと同じように、不幸というものも時としてなんの前触れもなく、不平等に顔を出す。
俺が世の中を形成している不条理なシステムを嘆き、神の存在しない世界を恨んだのは、ある暑い夏の夜のことであった。
待ちに待っていたはずの文化祭の前々日だ。
その日、俺は明日の練習に備えて早めに眠ろうかと考え、まだ日の変わらぬうちにベッドに潜り込もうとした。
瞬間、枕元に置いてあった携帯端末が、身を震わせて魔界村のBGMを吐き出した。
間の悪いやつだ。
少しばかり腹を立てながら、液晶画面に触れる。果たしてことねからのメールであった。
件名
本文
風邪引いたっぽい。ごめん明日練習無理かも。
「まじかよ」
無慈悲な二文を前に、俺はそれ以上の言葉を口に出せなかった。
無限に思われる時間を放心し、ふと我に返ると一分しか立っていない。
慌てて電話をかけ、風邪の程度を確認しようとした。
『あー、メール見た? ごほごほ。ご、ごめんね。げふん。なんかだるっくてさ。げほげほ。でも本番までにはなんとかするから』
掠れた声で、いつになく弱弱しく喋る。
「だ、大丈夫なのか? 随分辛そうだけど?」
『よゆーよゆー。あんたの声聞いたらさ、少し元気出た。えへへ』
鼻をすする音が聞こえる。
とても余裕には聞こえない。
「……そうか。とにかく、今日はもう寝ろ。明日は学校休めよ。見舞い行くから」
『……ん。待ってる。おやすみ』
「ああ。おやすみ、ことね」
驚きの素直さだ。
それほど弱っているのだろう。
通話を終え、何も聞こえなくなった端末を布団に落とし、俺は天井を見上げた。
声を聞いただけでもわかる。相当辛そうだ。一日や二日でどうこうなる程度だとは思えない。
ライブは無理だろう。
この日のために頑張ってきた。俺だって悔しいのだ。ことねはそれ以上であろう。
「さらば青春の光」
呟いたのは洋画のタイトルであった。
どんな状況でも朝はやってくる。不平等なほど平等に、誰にでも同じタイミングで、異なる朝がやってくる。
翌日、俺は学校が終わるなりスーパーのビニール袋を引っさげ、ことねのマンションへと赴いた。
エントランスの前で呼び出すと、一分ほどの間を開けて『もしもし』という声が返ってくる。
「俺だよ。シンだ。見舞いにきたよ」
『ん……』
短い返答の後、オートロック式のドアがスライドする。
八階までエレベーターで上がると、ことねが外で待ってくれていた。
運動着の上にジャージを羽織り、額には冷却シートが貼られている。顔は随分と赤い。熱があまり下がっていないのだろう。
「入って……」
酔っ払いのような足取りで俺を案内する。
「飯、食べてるか?」
「……あんまり。食欲なくって」
俺は居間のソファに彼女を座らせてから、買ったばかりのカップアイスを取り出した。
「あとウィダーインゼリーとかポカリ買ってきたから」
「ありがと。明日までには治すから」
「無理はしないでいいよ」
「何言ってんのよ。ここまできてライブ中止だなんて出来るわけないでしょ! それにもう結構元気なんだから!」
ことねが立ち上がり、腕をまくった。
しかし、すぐにふらついて俺に抱きとめられる。
「ほら、やっぱり無理だ」
「無理じゃないわよ! 絶対に、絶対にライブはやるんだから……」
「ことね。ライブは学園祭じゃなくても、これからいっぱい出来る。学園祭だって来年もあるんだ」
「だけど、こんなに頑張って、あんただって……!」
「ライブは……やるよ……俺がやる。ことねに教わってきた全てを、俺がぶつけてみせる。悔しいのはわかるよ。けど、身体も大切だから。だから、今回だけは……俺に……俺に任せてくれないかな?」
「本当に……一人でやる気?」
「ああ」
「そう。わかったわ。ならあんたに託す」
とん、と俺の胸を拳で叩く。
「ありがとう」
「なんで礼を言うのよ」
「嬉しいからさ。俺を信じて任せてくれたってことだろ? だから、ありがとう」
「ばかね。でも、うん。任せたわよ。初めてのライブ、盛大にずっこけて、せめて存在感くらいはアピールしてきなさい」
「ああ!」
「……話は変わるんだけどさ」
「ん?」
ことねの顔の赤みが増している。
熱が上がったのかもしれない。
心配に思っていると、ことねが続ける。
「私さ、昨日からお風呂入ってないのよね。それで、身体がべたつくから、その、ふ、拭いてほしいんだけど」
「…………えっ!? い、いい、いいのか? 見ちゃって!」
「いいわけないでしょ。拭いてほしいのは背中よ背中。手が届かないから」
「あ、ああ、なるほどね。お前手短いもんな」
「うっさい。洗面器とタオルは浴室にあるから。廊下の角の部屋ね」
俺が水の張った洗面器と白いタオルを抱えて戻ると、ことねは上半身を裸にさせていた。胸を手で隠し、さらに背中を俺に向けている。大切な部分は見えないが、白くて小さな背中だけでも十分ドキドキしてしまう。それに、見えないほうがいろいろ想像してしまうものだ。
俺は前かがみになりながらソファまで移動し、濡らしたタオルを背中にあてた。
「なんか、不思議ね」
「不思議?」
必要以上に意識しまいと己に言い聞かせつつ、背中を拭く。
されど目は背中から離せない。まるで粘着テープだ。
俺の顔も負けず劣らず火照っていることだろう。
「ついこの間まであんたのことなんか知らなかったのに、いつの間にかこんなに心を許せちゃってる。麻衣ちゃんもあんたを信頼してるみたいだし」
「……嫉妬?」
「ち、違うわよっ! ただ、あんたってさ、人の心に踏み込むのがうまいのよね。あ、いい意味でよ?」
「そうなのかな。自覚ないけど」
タオルを水につけ、よく絞る。
「いつの間にか、あんたのことばっか考えて……」
「……えっ?」
今、なんと?
聞き間違いでなければことねは俺を――。
「な、なんでもないわよっ! もういいわっ! 用事済んだでしょ? 帰って帰って」
ことねが振り返り、俺の両肩を押した。
「ちょっ、押すなって――」
俺の目がことねの胸にいく。小ぶりで可愛らしいおっぱいへと。
数秒の硬直。揃って後ろを向く。気まずい沈黙。流れる冷や汗。
「……ご、ごめん」
「……ううん、私こそ」
怒ってはいないらしい。
俺は安堵し、腰を上げた。
これ以上ここにとどまると、俺は心に狼を宿しかねない。それは俺の望むところではない。
「じゃ、じゃあ俺、帰るから」
「う、うん」
部屋を出て行きかけたところで、
「あ、シン」
呼び止められる。
「ん?」
俺は後ろを見ないまま返事をした。
「私――――ううん、な、なんでもないっ」
「……そうか」
「明日、頑張ってね」
「ああ!」
ことねの真意は文化祭を無事終えてから確かめよう。
そう心に決め、彼女の家を後にした。
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